Case3 できること、できないこと
冒険者の店の店主から革袋と紐を受け取る。気を利かせてくれたのか、五個ずつくらい用意してくれた。容量は指定していなかったが、大体三リットルといったところだろうか?
これはいざという時のための装備だ。
仮に呼吸が止まってしまった場合、何らかの方法で呼吸を持たせなければならない。
気管の奥まで通っているストローに口をつけて吹き込めば一応呼吸を確保できなくはないが、口腔内の雑菌を押し込むことになって感染を誘発しかねないし、そもそも呼気中の酸素濃度が空気より低いのであまり推奨できない。
(ん?酸素濃度?)
そういえば俺のスキルは薬物を調達できるという話だったが、そもそも薬物の定義とは何なのだろう?酸素は当然ながら低酸素血症の治療のために使用される。これは薬物扱いと考えてよいのだろうか?
試しに革袋の中に酸素が発生するように念じてみた。
すると少しずつ革袋が膨らんでいき、やがてパンパンになった。入り口を閉じてみるが、少し圧力が高くなると、それ以上は発生しなくなる。高い圧力をかけることはできないようだが、スキルで酸素を生成できるというのはかなりの朗報だ。
一旦酸素を止めて、同じように空気を生成するように念じてみるが、これはうまくいかない。日本において人工呼吸器を使用する際には酸素と空気を混ぜて酸素の濃度を調整することが多い。その意味で空気も同じように薬品扱いになるかと思ったのだが、どうやらそうはいかないらしい。
調達できる薬物は「使ったことがある」ことが条件だったはずだが、これもどの程度含まれるのだろうか?
今まで生成した薬物はセボフルラン、ミダゾラム、キシロカインビスカス、クラビット、酸素だ。キシロカインビスカスは医学部のポリクリ時代の実習で希望者のみ胃カメラの検査を受けられるというのがあったので、その時に自分が使われたこともある。クラビットも風邪の時に処方されて飲んだことがあるように思う。
しかし、自分にセボフルランやミダゾラムを使ったことはない。今回の「使ったことがある」というのは「患者に使ったことがある」ということが含まれているはずだ。それでは「患者に使ったことがある」というのはどの程度の範囲なのだろう?
セボフルランは気化器を使って直接患者に投与したことがあるし、ミダゾラムも静脈投与したことがある。
それでは聞いたことがあるだけの薬はどうなのだろう?
試しに袋の中に水素が発生するように念じてみる。
水素というと一時期水素水という詐欺製品が流行していた。水素は水に溶けないのであの商品自体は詐欺だが、人工呼吸装置使用下で、吸気に低濃度の水素を混合する研究はある程度の成果を上げている。
これは細胞障害を誘発する活性酸素に水素ガスを与えることで活性酸素の効果を弱め、細胞の障害を防ぐ目的で行われるものだ。低濃度なら爆発しないので安全に使用することができる。
活性酸素を減らし細胞の障害を減らす薬物としては脳梗塞後に使用するエダラボンなどもあるし、医療現場でも一般化してきているといっても良いだろう。ただ、水素自体は研究段階で一般化しているとはいえず、少なくとも俺は使用したことがない。
何も起こらない。やはり使用したことがない薬物はダメなようだ。
次に笑気が発生するように念じてみた。
笑気は正式名称を亜酸化窒素(一酸化二窒素)という。使用すると口角がたるみ笑っているように見えることからその名前が名付けられた、強烈な鎮痛作用を持つ吸入麻酔だ。
単独で麻酔をかけることは難しいため、点滴を取らずに少しでも鎮痛をかけたい場合や、全身麻酔における鎮静補助薬としてセボフルランなどと併用されることが多い。
初めて臨床使用されたのは十九世紀だが、その当時はマサチューセッツ総合病院における公開実験が失敗し、翌年に公開されたエーテル麻酔に注目が集まったため、そのまま麻酔の歴史上から姿を消している。しかし、欠点が少なく、その強烈な鎮痛作用の使い勝手の良さから二十一世紀になっても生き残っている薬物でもある。
……もっとも全身麻酔の世界では、より鎮痛調節性の高いレミフェンタニルにシェアを奪われ始めているため、徐々に使用される設備も減少しているとかなんとか。
そのせいで最近では使う機会も少なくなってきたが、麻酔科研修医の時にたまたま笑気が大好きな指導医がついたことがあり、一回だけ使用したことがある。
袋はゆっくりと膨らんだ。どうやらたったそれだけの経験でも大丈夫らしい。
次に念じたのはペプタメンAFだ。
ペプタメンAFは経腸栄養材の一種だ。消化態栄養剤と言われるタイプのもので、たんぱく質成分が分解されて低分子ペプチドやアミノ酸になっているため消化管への負担が少なく、特に急性期の集中治療管理では使用しやすい薬だ。
栄養剤というと大袈裟だが、つまり洗練された流動食のようなものだと考えればいい。分類も「医薬品」ではなく「食品」だったはずだ。そして、食事箋から処方をしたことはあるが、自分で患者に直接投与したことはない。
さすがに無理だろうと思っていたが、気が付いたら手の中に「ペプタメンAF」と書かれた紙パックがあった。そもそもこんな紙パックだとは知らなかったのだが、それでも薬物調達は有効であったらしい。
それではと、病院に出てくる食事やスポーツドリンク、栄養ドリンクなどを念じてみるも、それらはダメらしい。昔どこかで食べたことのある薬膳料理も念じてみたが、それも無効だった。
一方で蒸留水や五十%ブドウ糖液は薬物扱いらしく、調達可能だった。
科学的な線引きが今一つわからないが、とりあえず、直接投与した薬物や処方した薬物は大体可能らしいことはわかった。
とりあえず検証はこれくらいでいいだろう。
本来革袋はいざという時の換気用にするつもりだった。
すなわち、何らかの加減で呼吸が止まった時に、革袋の中に空気を入れて、ストローの入り口に取り付け、密閉したまま握ってやると空気を肺の中に送り込むことができる。救急で使用されているバッグバルーンマスクの代用としての扱いだ。
しかし、酸素を使用できるというのなら話は変わってくる。もう少しはまともな管理ができるかもしれない。
俺はザクラスの顔の横に革袋を置き、革袋の口がザクラスの方を向くようにして酸素を発生させた。吹き流しという方法で、酸素マスクほどの投与効率はないが、ないよりはマシだろう。
……と、考えていると入り口の方からガヤガヤと声が聞こえてきた。
そしてノックの音とともにやや高めで落ち着きのある女性の声が聞こえてくる。
「失礼致します。ハドソン診療所の者です。
看護のスタッフが必要ということで応援に参りました。」
ドアを開けると、そこには女性ばかり五人程度が居た。いずれも白を基調とした服装で、医療スタッフだとすぐにわかる。
ノックをしたのは恐らく先頭の女性だろうか。やや小柄だが、いかにも育ちの良さそうな、どこか落ち着きのある印象だ。長い金髪を邪魔にならないように後ろで括っている。
「ケイト先生でお間違いないでしょうか?
私はフィリア・ハドソンと申します。未熟者ですがハドソン診療所で見習いの医師をやっております。
後ろに居るのが……」
「ナディア・シドニー。看護師です。」
「メイフィ・アントラ、大した経験はありませんが、看護師をしております。」
「ティア・リソル。直接的な医療行為はできませんが、周辺のサポートをさせていただきます。」
「マーナ・セルジオ。同じく医療行為はできませんが、サポートをさせていただきます。」
ナディアは恐らく俺よりも幾分か歳上なのだろう。恐らくベテランの看護師として送られてきたと予想できる。一方メイフィは少女といった方が良いくらい若い看護師だ。どの程度経験があるのかは未知数だが、ハドソンがわざわざ選んでくれた以上は足手まといになるということはあるまい。
ティアとマーナも恐らく二十歳前後の女性だ。
医療現場は医師と看護師が居れば回るものだと思われがちだが、それは大きな間違いだ。この世界で事務仕事がどれくらいあるかはわからないが、周辺の清掃や物品の整理、必要なものの調達など、非医療職でもできる仕事はいくらでもある。
一人の患者に対して人五人のスタッフというとかなり多いように感じるかもしれないが、これから一週間以上の間、二十四時間体制をとることを考えると、絶妙な人員と言っても良いだろう。欲を言えばもう少し欲しいが、さすがにそれはわがままだろう。
そして恐らく代表で来たフィリアだが……。
「あなたはもしかしてハドソン先生の……」
「はい、娘に当たります。お父様よりケイト先生の下で色々と学んでくるように言われました。」
言われてみればその目にはハドソンに似た意志の強さが感じられる。
この世界での医師の社会構造についてはよくわからないが、ほぼ間違いなくフィリアはハドソン診療所の次世代を担う人材なのだろう。世襲で診療所を継ぐのかもしれない。そんな人物をわざわざ派遣してくる辺り、今回のケースに対するハドソンの関心の高さがうかがえる。
「ではフィリアさん。」
「フィリアで結構です。私は今回の件を聞き、是非先生に指導をしていただきたくてこちらにこさせていただきました。敬語も必要ありません。」
「では、フィリア。」
どうやら彼女は今回の件を聞いて、自らここに来ることを決めたらしい。
「今回の件について、ハドソン先生からどこまで聞いているのかな?」
俺はフィリアに話しかけている風を装っているが、後ろの四人にも緊張が走っているのを感じていた。当然だろう。俺も含めてこの場に居る全員にとって、全く未知なる環境だ。ちょっとした勘違いが原因で患者を死なせてしまうかもしれない。
まあ、もしかしたら俺と初対面で緊張しているだけなのかもしれないが。
「急性喉頭蓋炎の患者で気管切開をしようとしたら、ケイト先生がザクラスさんの口からストローを突っ込んで呼吸を確保した、というところまでです。」
俺は頷き、説明をしようとして、ふと気が付いた。
「っと、その前に全員分椅子を揃えてくれないかな?
一応全員に情報共有をしたい。」
部屋には先程までいたメンバーの分、合計四つの椅子しかない。
ここからは長期戦だ。できる限り耐力を温存したいところだ。
フィリア 「皆様失礼します。後書きの進行担当のフィリアです。」
ケイト 「あれ?今回からフィリアが後書きの進行をするんだ?」
フィリア 「あれ?聞いていなかったですか?一応登場キャラクターに後書き振興をさせたいけど、ケイト先生と沙羅さんの場合、内輪ネタみたいになって、一般の人は入り込みづらいんじゃないか、という話になりまして。片方はそれなりに医学がわかるけど、質問役になれる人の方が良いだろうということで、私になりました。」
ケイト 「確かに脱線しまくってたもんなあ。しかも沙羅の専門だったから、進行担当とうより、インタビューみたいになってたし。」
フィリア 「というわけで、基本的に私が質問役、ケイト先生が講義をする、という方向になります。」
ケイト 「それはそれで緊張するな。」
フィリア 「ちなみに、私は本編ではまだ沙羅さんのことは知りませんし、例によって後書きなのでメタな会話となります。」
ケイト 「それは仕方ないね。まあ、夢みたいなものと考えよう。」
フィリア 「さて今回の本編ですが……薬物調達のスキルの有効範囲と、私達の登場についての内容しかありませんね。」
ケイト 「薬物名は複数出ているけど、敢えて詳細な説明はしていないね。」
フィリア 「敢えて説明するとしたら酸素とかでしょうか?先生、そもそも酸素というのは何なんでしょうか?」
ケイト 「基本的だけど難しい質問だね。酸素というのは一般的に好気呼吸に必要な気体、としてとらえていた方がいいと思う。」
フィリア 「好気呼吸というのは何でしょう?」
ケイト 「細胞は炭水化物などの栄養からエネルギーを取り出さないといけないけど、それには化学反応を起こさないといけない。大雑把に言うと、その化学反応に酸素を使うのが好気呼吸、かな。酸素を使わない嫌気呼吸というのもあるけど、同じ炭水化物を使っても20分の1くらいしかエネルギーを作れない。人間の体も嫌気呼吸をできる臓器はあるけれど、いざという時のバックアップ装置、程度の扱いだね。」
フィリア 「細胞?化学反応?炭水化物?」
ケイト 「それについてはまた今度説明するよ。要するに酸素は全身が栄養を作るために必要な物だということ。そして鎮静がかかっていると呼吸が浅くなるので、酸素が不足しやすい。」
フィリア 「だから今回袋の中に酸素を調達してザクラスさんに与えているわけですね。」
ケイト 「そうそう。ただ、酸素というのはあまり高濃度でもよくないという噂はある。」
フィリア 「噂……ですか?」
ケイト 「まあ、実際高濃度酸素を吸い続けると酸素中毒になるっていうのは間違いないんだけどね。通常では純酸素を吸い続けてもほとんど起こらない。」
フィリア 「つまり、それが起こるのは普通じゃない状況ってことですか?」
ケイト 「そういうこと。例えば通常の2倍近い気圧の純酸素を与えるとかしたら酸素中毒を起こし、脳とかが障害をおこし、場合によっては死亡すると言われている。」
フィリア 「そんな状況有るんですか?」
ケイト 「ダイバーとかだね。海に潜ると気体が圧縮されるので、当然酸素濃度も高濃度でないといけなくなる。」
フィリア 「……?」
ケイト 「なので、一般的にダイバーが背負っている『酸素ボンベ』には実際には普通の空気しか入っていなかったりする。実際に純粋な酸素を入れていたら、簡単に酸素中毒になってしまうからね」
フィリア 「へぇー。」
ケイト 「まあ、そうでなくても、一般的には酸素から体内で作られる、活性酸素という物質が害を与えるとされているので、長期間投与するとそれらが増えてきて、肺を痛めるかもしれない、とは言われているね。なので、集中治療室とかで長期間酸素を投与するときは四〇%以下にしていることが多い。まあ、酸素濃度を下げるのは他の理由もあるんだけど……。」
フィリア 「他の理由、ですか?」
ケイト 「一般に酸素は血液中のヘモグロビンと結合することで全身の組織に届けられる。しかし、逆に言うならヘモグロビンに結合している以上の酸素を投与しても、ほとんど無駄になる。」
フィリア 「ほとんど、ですか?」
ケイト 「実際には、高校化学で習うヘンリーの法則に依って、酸素の圧力に比例して血液中に溶け込む分があるから、全くゼロではないんだけどね。ただ、よほどの緊急時を除いて、ほとんど誤差みたいな程度と考えていい。そしてヘモグロビンへの酸素結合率は、酸素分圧21%の空気中であってもほぼ100%だ。」
フィリア 「つまり、全てのヘモグロビンが酸素と結合している状態で、それ以上に酸素濃度を高めてもほとんど意味がない、ということですね。」
ケイト 「そうそう。そして現代社会でモニターされているSpO2(酸素飽和度モニター)はヘモグロビンにどれくらいの割合で酸素が結合しているかを測定している。つまり、SpO2が100%になっているのに、それ以上酸素濃度を上げても仕方がない、ということになる。」
フィリア 「通常は酸素濃度20%くらいで大丈夫なんですね。」
ケイト 「そして例えば酸素濃度を高めていると、何かトラブルがあって段々と状況が悪くなっているのに、SpO2は100%になっているから気付かない、なんてことも起こり得るわけだ。もし40%で投与していて、段々とSpO2が下がっていても、まだ酸素濃度を高められるから時間にゆとりが持てる。しかし、例えば最初から100%酸素を投与していると、気付いた時には後がなくなる。」
フィリア 「初めから酸素濃度を下げていると、いざという時に『酸素濃度を上げる』という切り札が使えるから有利、ということですね。」
ケイト 「また、酸素は肺に吸収されるので、純酸素を投与していると、肺の中に入っている酸素が吸収されるせいで肺が空っぽになり、潰れやすくなってしまう可能性もある。これを吸収性無気肺という。」
フィリア 「つまり、純酸素を投与し続けることは酸素中毒以外でもデメリットが多いというわけですね?では、普段必要がなければ純酸素の投与はしないのでしょうか?」
ケイト 「そうとも言い切れない。例えば、気管挿管の前には純酸素を投与することが多い。人間は通常五分くらい呼吸が止まったら死ぬけど、純酸素を投与し続けた後なら八分くらい呼吸を止められるんだよね。この三分が生死を分ける状況というのも有り得るので、『これから長時間無呼吸があるとわかっている場合』には純酸素で投与する場合もある。もっとも、さっき言ったような吸収性無気肺を嫌って八〇%くらいに抑えるって人もいるけど。」
フィリア 「なるほど……。」
ケイト 「まあ、大雑把になったけど、酸素についての説明はこんなもんかな。」
フィリア 「この説明で大雑把、ですか。」
ケイト 「本当は酸素濃度の調整の仕方とか、呼吸器の設定とかPEEPの理論とか、酸素が絡むと話すことはいっぱいあるんだよ。」
フィリア 「……確かにもういっぱいいっぱいという気はしますね。」
ケイト 「そうだろう?なので、今回はここまで。それでは、また次話でお会いしましょう。」
フィリア 「また次話も見てくださいね!」