Case2 気管挿管
スキル鑑定を受けるにあたって店の奥に連れていかれた。
スキル鑑定師と聞くと占い師のようなものを連想するが、目の前に居たのはバーテンダーでも似合いそうな髭面のナイスミドルだった。
サラが言うにはこの冒険者の店のマスターも兼ねているらしいので、当然かもしれない。
占い師はあくまで神秘的な雰囲気を醸し出すためにミステリアスな恰好をしているものだが、このように普通の恰好をしているのは逆にそのような雰囲気に頼る必要がないということかもしれない。
そう考えるとなんだか信憑性のある事のように感じてきた。
「君がケイト君だね。
では、そこの台に手を置いて、壁に書いてある赤い丸をじっとみつめて。」
不思議な力でパパっと結果が出るのかと思いきや、やっている内容は何かの検査みたいだった。
次々と訳の分からないリクエストをされるが、言われるがままにテストを受けていく。
小一時間程度そんなことが続いて、店の中に戻された。
戻ってからすぐに、マスターは紙に何かを書きつけていく。
その紙にはある程度のテンプレートが記載されており、パッと見た感じでは印刷したもののように見える。普及しているかどうかはわからないが、何らかの印刷術は存在しているらしい。
「種族は……やっぱり人間なんだ。
うわっ、攻撃力低っ!ちょっと訓練不足なんじゃない?
魔術師専門だってこんなに弱くないよ。」
俺はそもそも誰かを攻撃する訓練なんてしたことがないのだから仕方ない。
「知力はかなり高いな。知的な仕事の才能はやはりあるのだろう。ただ、魔力が低いから魔法を使うのはちょっと厳しいか……。特に精霊との相性は悪いみたいだな。これ、医者なんてできるのか?
スタミナはそこそこといったところだな。あくまで一般人のレベルとしてはだが。」
日本において個人情報保護法が成立したのは二十一世紀に入ってからのことだった。恐らく中世ヨーロッパレベルの文化圏であるこの世界において、個人情報の保護などという概念がないのは仕方のないことなのかもしれない。
書き連ねられる情報を覗き込まれながら、そんなことを考えていた。
「何?このスキル。初めて見た。」
言われてスキルの項目を見ると「薬物調達」と記載されている。
「まあ、レアスキルだな。稀にいるらしいが、俺も見るのは初めてだ。」
どうやらスキル鑑定師は鑑定結果の解説もしてくれるらしい。
「薬物調達は今まで使ったことのある薬物をいつでも調達できる能力さ。
ただし、薬物を調達するためにはその薬物の価値と同等の対価が要求される。」
「対価?」
「金銭はダメらしいな。大体の場合は貴金属が使用される。
どういう基準かはわからないが、加工してあるとその価値も加味されるらしい。」
俺はふとさらに召喚された小屋でのことを思い出していた。
強く意識をしたわけではないが、気が付いたら手の中にセボフルランがあった。恐らくあれが薬物調達という能力なのだろう。
ただ、対価と言われてもわからない。
セボフルランは確か一瓶一万円と聞いたことがある。それが十本分。単純に考えて十万円分の価値がないといけない。
貴金属?そんなものは……。
ふと思い出した。
左手の薬指に視線を落とす。
そこには確かに貴金属があった。俺と沙羅の絆の証。
その形は保たれているものの、輝きは明らかにくすんでいた。
この感情はどう表現したら良いのだろう。
泣きたいのか、叫びたいのか……いや、それすらも通り越して、俺は無感情になっていたように思う。頭が事実を感情的に認識することを拒否し、単に事実としてそれが刷り込まれた。
「まあ、確かにレアだが、スキルの中では外れの方だな。
薬のないところに住んでいるならともかく、ある程度都会に住んでいるなら調合師から買えばいい。スキルを使うためには結局貴金属を手に入れないといけないしな。
調達された薬物は本人から離れて一週間もすると消滅してしまうから、流通させることも難しい。」
「いや、薬物調達は便利だぞ。欲しい薬がある時に在庫がなくてもすぐ手に入るからな。」
そう口にしたのは店の入り口から入ってきた男だった。白髪と白髭。いかにも偏屈そうな外見だ。
「おや、こんにちはドクターハドソン。今日は何か御用ですか?」
「この店にというわけではないが、サラとネフィルに用があってな。」
険しい顔をしながらドクターハドソンと呼ばれた男――恐らく医師なのだろう――はこちらに歩いて来た。
「薬物調達は経験を積めば積むほど輝くスキルだ。
どうだ?俺の下で医者として修業する気はないか?」
「ケイトは医者だって言ってたよ?」
ハドソンはそう口にしたサラを訝し気な目で見つめる。
「冗談を言ってはいけないよ、サラ。この業界は狭いものだ。この近辺で俺の知らない医者などいない。」
そう口にした時、入り口のドアがバンッと開かれた。
力いっぱい開けたというよりは、もたれかかるように男が入ってきた。若く体格の良い男だ。
「ドクター……たすけてくれ……」
男の声はひどく掠れていた。
一目でわかる。酷い努力呼吸だ。
鎖骨の上の窪みが陥没するほど強く息を吸おうとしているが、吸気量はほんのわずかに過ぎない。
そして全身にやや赤みがあり、熱っぽい印象だ。そして口元からは涎がたれているのがはっきりとわかる。よく聞けば吸気時にヒューヒューと音が鳴っているのがわかる。
「ザクラス⁉」
「ザクラス?大丈夫なの?」
ネフィルは一瞬立ちすくみ、駆け寄ったサラが声を上げる。恐らく知り合いなのだろう。体格の良さや身に付けている革鎧から考えると、この店に所属する冒険者なのだろうか。
「まずいな。」
本来画像検査などが必要なのだろうが、そんなことを言っていられる状況ではないのは一目でわかる。
同じような症状で鑑別が必要な疾患はいくつもある。気道異物に喘息、クループ、進行した喉頭がんも入るだろうか。
しかし、今の状況では救急医にとって最も警戒すべきなのは……。
ハドソンは男に駆け寄り喉を押さえた。それと同時に悲鳴に近い声が上がる。
『急性喉頭蓋炎』
俺とハドソンの声が被った。
人間は食物を飲み込むときに気管に異物が入らないようにするため、蓋をする機構がある。その蓋が喉頭蓋だ。
急性喉頭蓋炎とは、その気管の蓋の部分に急速に強い炎症がおこる病気だ。酷くなると炎症によって急速に腫れ上がった喉頭蓋が気管を閉塞し、最悪の場合窒息死する。
そのスピードは恐ろしく早く、症状の軽い時に救急外来で風邪だと判断して帰宅させると、翌日死体になって見付かる場合もあるというレベルだ。医学部では散々講師に脅されるものだが、実際その猛威は現場に出るとわかる。
もはや一刻の猶予もないことは明らかだった。
ハドソンは俺を振り返る。
「診察はできるようだな。小僧、手伝え。
マスター、ナイフはあるか?できるだけ鋭い方がいい。」
この状況でナイフの要求。ハドソンの意図は明白だった。
「ちょっと!何をする気?」
「もうザクラスの呼吸はもたん。喉に穴をあけて呼吸を確保する。」
そう、気管切開術だ。
人間の首の正面前方には気管がある。
喉仏とも呼ばれるでっぱりの部分が甲状軟骨、その一個下の軟骨が輪状軟骨。
気管切開はその輪状軟骨のさらに下の部分の気管軟骨に穴をあけて気道を確保するのが一般的だ。最も確実な気道確保の方法として、現代日本でも珍しくない。
ただ、言うのは簡単だが、やるのは難しい。日本では耳鼻科医がやることが多いが、救急医も病院によってはやらないわけでもない。俺もアシスタントとしてなら経験がある。
ただ、それは一般的な外科セットや電気メスなどの止血設備が十分に整っている前提だ。
首は血流豊富な部位だ。ろくに止血もできない状態で迂闊に切ると、大出血を起こし、それが原因で死に至る可能性もある。また、少し下の方になると、甲状腺というホルモン分泌器官がある。これを傷つけてもアウトだ。
輪状甲状間膜穿刺という方法もある。これは気管切開のワンステップ前のものだ。輪状軟骨と甲状軟骨の間に太い針を穿刺し気道を確保する、比較的血流が少ない部分であり、甲状腺を傷つける心配もないが、一歩間違えると声門を傷つけてしまう可能性はある。
今回のケースならこちらの方が適しているだろうが、針はないので切開するしかないし、俺はこれをやったことがないので、リスクについても未知数だ。
「そんなことをして大丈夫なの?」
「……すまんが九割方助からん。仮に助かっても一生声が出なくなる可能性もある。
しかし、このまま放置するよりは良いだろう。」
そして案の定、ハドソンは一か八かのつもりで気管切開をするつもりらしい。
サラはネフィルを振り返る。ネフィルは口をわずかに開き、茫然と立ちすくんでいた。
俺は頭の中で自分のすべきことを考えてみる。今回の場合、気管切開の前にやることがある。
「マスター、フォークをください。
できれば長くて頑丈な方がいい。後は新品のストロー。人差し指くらいの太さで、曲がっているやつの方がいい。」
俺は左手の薬指を見て一瞬ためらった。
沙羅が死んだあの時に救急医としての俺もとっくに死んだと思っていた。しかし、俺は自分で思う以上に医者として生きているらしい。
日本の救急室でやってきたような設備はここにはない。しかし、だからと言って手をこまねいている気にはなれなかった。
「何をする気だ?小僧?」
「ここは少し俺に任せてください。
もし失敗した時のために気管切開の準備もしておいてください。」
ザクラスの呼吸は少しずつ弱くなってきている。もう時間はない。
(すまない、沙羅。)
俺は一つの薬を念じた。手の中に小さい小瓶が現れる。迷わず蓋を開け、近くに積んであったコップに適量を移す。ふと思いついてもう一つ薬を調達し、少量混ぜ合わせて今にも倒れそうなザクラスに手渡す。
「これを口に含んでくれ。恐らくピリピリと変な感じがすると思うが、そういうものだ。口全体広がったらゆっくりと飲み込んでほしい。」
まだザクラスの意識はある。
ためらう時間はないとわかっているのか、幸いすぐに口に含んでくれた。苦みと違和感に一瞬顔をしかめるが、恐らく言うとおりにしてくれるだろう。急性喉頭蓋炎では唾を飲み込むだけで激痛が走るが、表面麻酔のおかげでそこまでではないらしい。
その間にマスターが頼んだものを手渡してくれる。硬く長めのフォークと、少し曲がった硬いストロー。
「俺はこっちの準備をする。ネフィル、彼をテーブルの上に仰向けにしてくれ。」
言われてネフィルは空いている大き目の木のテーブルにザクラスを横たえる。
少しぼーっとしてきたような印象がある。どうやら効いてきたようだ。
その間に俺はフォークを慣れたサイズに湾曲する。正直あまり期待していなかったが、フォークはかなり頑丈で、曲げるのにも一苦労するレベルだった。
今回の目的にはおあつらえ向きに、先端は全くとがっていない。そしてストロー。できればもう少し曲げたいところだが、硬くてこれ以上は厳しそうだ。割れてはいけないので、それ以上は諦めた。
「……まさかとは思うが……」
ハドソンは俺が何をやろうとしているのか、何となく予想し始めたらしい。
ザクラスの目の焦点がずれはじめる。そろそろ良い塩梅だろう。
……ふと、心の中に恐怖心が芽生える。
当たり前だがこんな状況は経験したことがない。もし失敗したら、予期せぬトラブルが起きたら……。
いや、ここには俺しかいない。だったら俺が何とかするしかない。
「行くぞ!」
気合を入れ、ザクラスの口を両手で思い切り開いた。わずかに抵抗があったが、ザクラスは自ら思い切り口を開いた。ぼーっとはしているが、まだ起きてはいる。先程の薬に混ぜだ鎮静薬――ミダゾラムが効いてきたようだ。
そしてフォークを喉の奥に押し込み、舌の根元までもっていく。
先程口に含ませた薬の主成分は表面麻酔剤、キシロカインビスカスだ。
胃カメラなど、喉の奥に異物を突っ込む検査で使用されることが多い。表面の刺激についてはかなり抑えられ、恐らくは触れていることがわかる程度でしかないはずだ。
しかし、深部の感覚まで抑えられるわけではない。フォークで無理やり舌を持ち上げると、少しオエッとなったようだ。だが、ザクラスはそれに耐える。強い男だと思う。
そして、奥をのぞき込もうとするが……良く見えない。
そうだ、当たり前のことなのに失念していた。口の中には灯がない。ここから操作を進めようにも、視界が通らない。
「サラ!口の中に明かりを!」
「光よ!在れ!」
サラの判断は早かった。光魔法が発動し……見えた。
赤く充血してパンパンになった喉頭蓋が今にも気管の入り口――声門を封鎖しようとしている。ただし、腫れ上がった喉頭蓋に隠れて声門は見えない。
俺がやろうとしているのは気管挿管だ。ストローを声門の向こうに突っ込むことで気管と外界を接続し、呼吸を確保する。
だが、急性喉頭蓋炎における気管挿管は難しい。
その理由は現状の通りだ。腫れ上がった喉頭蓋にターゲットが隠されるため、そこから進めなくなるのだ。
「ドクターハドソン、喉仏を下に押してください!」
俺に任せてくれるつもりなのだろう。マスターからナイフを受け取り、自分の出番を待っていたドクターハドソンは持ち場を放棄し、俺の言うようにしてくれた。
声門は喉仏——甲状軟骨の内側にある。そこを押すことで声門が下に下がり、少し見やすくなる……かと思いきや全然見えない。一方でザクラスの顔は苦痛にゆがむ。
(……ダメだ。見えない。)
いつもならここで白河先生が助けてくれたものだ。あるいは、麻酔科や集中治療部の、気管挿管により熟練した医師を呼ぶこともできた。他にも、マックグラスやエアウェイスコープなど、先端にカメラが付いていて喉の奥を見やすくするデバイスを準備することもできた。
しかし、ここには誰もいない。何もない。
(沙羅……)
「ケイト!落ち着いて!大丈夫、できるよ。」
(沙羅?)
もし失敗したら後で慰めてあげる、だからチャレンジしてみなよ。
サラの言葉に誘発されて、ふと沙羅の声が聞こえた気がした。
(そうだ、まだ行ける!)
俺はフォークの先を動かし、腫れ上がった喉頭蓋を引っかけた。
麻酔は表面だけだ。炎症を起こした喉頭蓋を押さえられた激痛のためにザクラスが跳ね上がる。しかし、声門は……何とか見えた!しかし、苦痛のためか閉じていて、ストローは通りそうにない。
「ザクラス!息を吐いて!」
苦痛を我慢しつつ、俺の指示に従い、ザクラスは恐らく肺に残ったわずかな息を吐いた。その瞬間、声門が開く。
次の瞬間にはストローは声門を通過していた。
その刺激にザクラスの体は大きくビクンと跳ね上がる。さすがに声門を異物が通過した時に生じた咳嗽反射は我慢しきれないようだ。
ブオォっと大きな息の声がストローを通過する音が聞こえる。しかし、ザクラスの痙攣は止まらない。
俺はふとポケットに先ほど入れたセボフルランの瓶があることを思い出した。
「サラ、俺のポケットにある瓶を開けてくれ。」
「わかった。」
サラは瓶を開けようとするが、やり方がわからないらしい。現代日本ではペットボトルなどでも使用されている、一般的な蓋だが、この世界にはそのようなものはないのだろう。
「蓋を左に思い切りねじって!」
開いた!
左手でストローをキープしながら、右手の先を瓶に突っ込み、吸気に合わせてセボフルランの雫をストローの中に入れていく。
少しずつザクラスの動きが鈍くなり、やがて止まった。
呼吸まで止まらないか心配になったものの、幸いそこまでにはならなかったらしい。
ザクラスの口から取り出したフォークにはわずかながら血が付いていた。口腔内の粘膜損傷を起こしたのだろう。喉頭蓋にも傷が入っているかもしれない。喉頭蓋に引っかけて挿管するなど本来有り得ないことで、もし指導医が居たら叱られていたかもしれない。
しかし、そんなことは言っていられない状況だった。
「無茶をするなあ……」
一部始終を見ていたハドソンの感想はそんなところだった。やっていた俺もそう思うくらいだ。
気管挿管を成功させた後、ストローをバンドで固定した。現代日本の挿管チューブは塩化ビニルなどで作られており、非常に柔軟なため扱いやすいが、今回使用したストローは力を込めても曲がらないような剛体だ。
位置調整にも苦労をしたが、幸いうまく回転させれば右の口角に持っていくことができた。革のバンドでしっかりと固定し、抜けないようにする。
ただ、医療現場の常として、一つの手技が終わったからと言ってそれで終わりというわけではない。まして、今回はその場にあった間に合わせの道具でやっただけに、問題点も非常に多い。
今回の前提として、気管挿管はある程度喉頭蓋の状況が落ち着くまで続ける必要がある。あくまで自分の経験だが、恐らく最低でも一週間くらいはこの状態をキープしなければならない。
そのためには問題が山積みだった。
一つ目、ストローのサイズが合っていない。
通常大人に使用する挿管チューブは、チューブの先端近くにカフと呼ばれる風船のような構造が付いている。この風船に空気を入れて膨らませることによって気管にフィットさせているわけだが、ストローには当然そのような機構はない。
そのせいで、挿管チューブの脇からわずかながら空気の漏れが発生している。仮にザクラスが大きく息を吸えば。唾液が挿管チューブの脇を通って気管に流れ込むし、万一嘔吐をすれば、それが肺に流れ込み、肺炎の原因になる可能性もある。
日本の医療でも人工呼吸器関連肺炎という疾患名が付くくらい、気管挿管は肺炎を起こしやすい状態だ。とりあえず口の中に濡れた綿を入れて漏れが弱くなるようにした。ただし、これも段々と唾液で汚染されてきて、感染の原因になる可能性がある。
二つ目、ストローが細くて空気が通りにくい。
通常は外から空気を押し込んで呼吸量を担保するが、現状は自発呼吸に任せざるを得ない。胸腔内は強い陰圧になっているだろうし、最悪そのせいで肺の血管の水分が肺内に引き込まれ、陰圧性肺水腫を生じる可能性もある。
そうでなくてもいつ換気量の低下による低酸素血症を生じてもおかしくない状態だ。これはどうしようもないが、可能なら肺の圧力を高めるような機構がある方が望ましい。
三つ目、セボフルランの調整が難しい。
現在はセボフルランを適宜少しずつ綿に染み込ませて鎮静をかけているが、セボフルランは投与量がかなり繊細だ。少量だと鎮静が浅くなり暴れてしまうし、大量だと呼吸が浅くなり、最悪止まってしまう。なので、万一息が止まった時にレスキューするための道具が必要だ。
ストローに口をつけて息を押し込めば最悪呼吸ができないことはないが、それはそれで口腔内の雑菌を肺の奥に押し込むことになる可能性があるので、あまり推奨はできない。そもそも、吸入麻酔薬で長期間鎮静をかけたという話自体を聞いたことがない。
通常、集中治療室などで長期間鎮静をかける場合には、プロポフォールやミダゾラム、プレセデックスなどの静脈から投与を行う鎮静薬に頼る。自分は吸入麻酔の合併症というと吐き気くらいしか知らないが、何らかの未知な問題が出る可能性だってある。
四つ目、気管が乾く。
肺というのは元々鼻腔や口腔を通って湿った空気が流入する場所だ。こんなダイレクトに乾燥した空気を吸っていては、気管の繊毛の動きを阻害し、それも肺炎の原因となる可能性がある。そもそも現状だと空気中の粉塵や雑菌を吸い放題だ。できれば何らかの加湿と防護をしたいところだ。
五つ目、さらに大きな問題として、現状だと栄養や薬を与えることができない。
食物はともかく、水分に関しては摂取しなければ絶対にもたないだろう。そして、仮に栄養を投与できたとして、入れる物を入れたら出すものを出さなければならない。看護のスタッフも必要だった。
また、急性喉頭蓋炎の原因はインフルエンザ菌などの細菌だ。治療期間の短縮や、敗血症などの合併症を防ぐためにも、抗生物質は何らかの方法で投与したいところだ。
なお、蛇足だが、日本で毎年冬に流行するのは「インフルエンザウイルス」だ。このインフルエンザ菌は名前が似ているだけで全く関係がない。なので、タミフルやイナビルなどの抗ウイルス薬は当然効かない。
こうして列挙してみると、数えるのも嫌になるくらい問題が山積している。
とにかく、そもそもこの世界には何があって何がないのか、それがわからないと対処のしようがない。
いつまでも店の中で治療をしているわけにはいかない。慎重に店の奥の個室にあったベッドにザクラスを運んでもらった。
一応宿泊用のベッドらしく、自由に使っていいと言ってもらえた。色々と人や機材の出入りがある可能性があることを話したら、雑魚寝用の大部屋を貸し切りで使用できるように配慮してもらえたようだ。木造の壁の一角がややかびていて、衛生面では少し問題がありそうだが、広さはかなりのものだ。
皮鎧を脱がせて楽な恰好にしてから、異物の侵入の防止と、ほんのわずかな加湿を期待して、ストローの先端に綿を取り付けてある。
ストローの入り口に綿をつけることでセボフルランをしみこませることができ、加湿にもなるため、便利でもあるが、痰が肺から逆流するなどして綿に触れると一気に呼吸困難になる可能性もあるし、綿に痰が付いた状態で放置していると、綿自体に細菌が繁殖して感染源になる可能性もある。また、綿が気管に落ち込むと取り返しのつかないことになりかねず、これ自体問題は多いが、仕方がない部分もある。
自分一人では手に負えないと、付いてきたサラとネフィル、ハドソンにそれらの問題をできるだけわかりやすく語った。
立ちっぱなしもなんだと、全員椅子に座っている。
「……ごめん、ちょっと何言っているかわからない。」
そう口にしたのはサラだけだが、ネフィルもハドソンも渋い顔だ。
「……無茶な治療をすると思ったが、テキトーにやっているわけではないのはよくわかった。お前にはお前の経験があって、それに基づいて治療をしたのだろう。
……細かい話は抜きにして、とりあえず道具が足りないということだな?どんなものが必要だ?」
俺は必要なものをリストアップしていくことにした。
・液体を通せるような中空の、細長く柔軟なチューブ。最低六十センチ以上は欲しい。
・あるいは細長く中空で頑丈な針と、その針に接続する細長いチューブ
・大き目の袋と紐
・看護のスタッフ
「ゴム管とかがあれば話が早いんだけど……」
「ゴム?」
サラとネフィルは顔を見合わせた。
「ゴムなら確かエルフ族が作っていたような気がする。でも、あまり人と交流するような部族じゃないから人間の町ではなかなか手に入らないかも……」
反応はあまり芳しくない。ネフィルはやや苦々しい顔をして口を開いた。
「この前私達はエルフ族のステラリーナ姫の護衛をやっているし、その意味でコネが効かないこともない。
ただ、今からエルフの里に行って約束を取り付け、そのゴム管?とやらを作成していたらどう考えても半月以上はかかる。」
「……そうなると、ゴムの線はダメか。」
「どう使うかよくわからないが、中空で長いというならススキとかで良いのではないか?あれなら十分な長さがあるだろう。」
「ああ、ダメダメ。ススキは節と節の距離が短いからすぐに通らなくなるよ。試したことがあるからわかるもん。」
ハドソンの意見は俺にはない発想だったが、サラにあっさりと一蹴されたようだ。
そしてどうやら植生は俺の知っているものと似ているようだ。これは非常に助かる。
「それならイネならどうかな?あれならストローとしても使ってるし。」
「イネも節はあるぞ。一番長いところでも三十センチといったところだ。」
サラの意見が今度はネフィルに否定される。
「三十センチなら二つ繋げればいけないかなあ。」
「……どうなんだ?ケイト。」
どうなんだろう?
「接合したところの漏れが少なければ何とかなるのかなあ……」
今回のケースでは万一逆流するとそれが原因で誤嚥性肺炎を起こす可能性がある。できるだけリスクは取りたくなかった。
「二つの植物を漏れがないように繋ぐ……そんなことができるとは思えんな。」
「でもそうなると、やっぱり難しいよ……。そんな都合のいい長さの物なんてあるわけないし……もうイネを引っ張って伸ばしたらいいんじゃ……あっ!」
サラが唐突に大声を上げる。
「何か思いついたのか?」
「……もしかしたらいけるかも。ほら、サムスの店の……。」
「あっ!」
ネフィルも声を上げた。
「確かにそれなら長さも自由に調節できるし、今回の要望にも合うか……。」
「決まりだね!じゃあ、ネフィル、よろしく!」
「……私なのか?」
「だって、失敗できない交渉だもの。ネフィルが適任でしょ。」
普段クールそうに見えたネフィルが死ぬほどいやそうな顔で沙羅を見つめ返した。
しかし、俺が少しずつセボフルランを足して無理矢理寝かせているザクラスの方を見て、できるだけのことをしなければならないと感じたのか、目を閉じて首を横に振りつつ立ち上がった。
「……行ってくる。二時間ほどで帰ってくると思う。
六十センチと言わず二メートルくらいのを持って帰ってきてやる。」
半ば自棄になっていた。
「……問題の一つは解決しそうだな。看護用のスタッフはうちの病院から派遣しよう。寝たきりになっている患者もよく診ているから大丈夫だろう。
ザクラスの方を病院に搬送しても良いが、状況を見る限りあまり動かさない方が良さそうだしな。
袋と紐もマスターに用意させる。」
案外あっさりと、俺が要求した条件はクリアできそうだ。
「……さて、話が落ち着いたところでサラよ。一つ言わなければならないことがある。できればネフィルも一緒の方がよかったんだがな……。」
ハドソンは神妙な顔でサラを見た。
その顔に何かを感じたのだろう。緊張が走る。
(……あっ、あの顔は……)
何となくわかった。
あれはどうしても助けられない患者が居て、その身内に説明をするときの顔だ。
確かにハドソンはサラ達に用事が有って冒険者の店を訪ねてきたようだった。これがその用事なのだろう。
「……レティシアのことだが、怪我をしたところが酷く化膿している。
まだそこまで状態は悪くないが、現状では症状の進行を止めるのは難しい。
恐らく今後日を追うごとに悪くなっていく。儂の経験ではあと数日で重症化し、一週間もすれば命を落とす可能性も高くなってくる。」
「えっ?」
一瞬にしてサラの症状が消えた。
少し考えてレティシアという名前に思い当たった。
初めてネフィルに会った時に話に出た少女だった。確か仕事の最中にけがをしたとか。
「冗談きついよ、先生。だって……でも……。」
「レティシアが一番親しかったのはお前達だ。誰に伝えるのかはお前達に任せる。
あと、できる限り傍に居てやってくれ。」
ハドソンはあくまで表情を変えない。だからこそ真実味が伝わってくる。
「……先生にはどうにもできないの?」
「お前もわかっているだろう。冒険者には常に死のリスクが付きまとう。
こうして死んでいった仲間は何人も見たはずだ。
悲しむなとは言わない。ただ、受け入れるしかない。」
「……ねえ、ケイトにはどうにかできないのかな?
その不思議な瓶みたいにさ。魔法みたいな薬を出して、パパっとレティシアを助けてあげることとか、できないのかな?」
俺の方を振り返ったサラの目にはどこか諦めがある。今までもこうして仲間を看取ってきたのだろう。
医療には限界がある。いくら医療が進んだところで、助けられる患者と助けられない患者がいる。
医者の世界では「人間の死亡率は一〇〇パーセントだ。」と冗談にもならないセリフを口にする人もいる。人は必ず死ぬものだ。
「ハドソン先生、その人は元々健康な成人で、まだ薬を飲める状態ですか?」
「ああ。」
「妊娠の可能性は?」
サラははっきりと首を横に振った。
それを見て俺は一つの薬を念じた。
手の平の上に淡いオレンジがかかった、やや大振りの薬がむき出しのまま五個程度現れる。
「この薬を一日一回だけ飲ませてくれないか。様子を見て二週間程度は続けて飲ませたい。できるだけ小まめに報告をしてくれ。必要だったらまた追加する。」
「……それで助かるの?」
「わからない。でも試す価値はあるはずだよ。」
サラはガタン、と椅子を倒しながら立ち上がると、俺の手からパッと薬を取り、お礼も言わずに駆け出した。
その背中を見送ってハドソンは大きく息をついた。
「……ケイトと言ったか。
すまないな。儂はああいう言い方しかできなくてな。」
何となく彼の言いたいことはわかる。
身内の死を迎える相手に真実を伝えることは、伝える方にとっても辛いものだ。
医者だってできるならば健康にして帰したいに決まっている。死の宣告を行うということは、言うなれば医者としての敗北宣言だ。
医者は神ではない。助けられる患者もいれば、どうやっても助けられない患者もいる。
そして家族にとってそれは受け入れがたい現実だった。
「……今回の件が済んでも、できればサラやネフィルと仲良くしてやってほしい。
例えどうしようもないと言っても、最後までサラに希望を持たせる心遣いができるお前なら、きっと大丈夫だ。そしてあの子たちを支えてやってほしい。
……そしてもし望んでくれるなら、俺の病院で共に医学を追求しよう。そして一人でも多く患者を助けようじゃないか。」
ハドソンはそう口にして部屋を去った。恐らくは先ほど言った看護スタッフを派遣してくれるのだろう。
レティシアの病気は恐らく傷が原因となる感染症だ。その内容は会話からではわからないが、化膿と表現していたので、傷口からの感染に伴う敗血症に近い状態ではないかと思われる。
傷口から生じる感染症として怖いのは他に壊死性筋膜炎や破傷風などがあるが、いずれも聞いた話から症状が合わないと判断した。
ただ、敗血症になると血圧が低下し頭へ血流が届かないので、ふつうは意識状態が悪くなり、内服ができない。
恐らくは化膿が強く、高熱が生じている状態だろう。このまま治療ができないと、そのまま悪化し、本物の敗血症へと移行していく。そうなると現状の道具では手の施しようがない。
基本的には感染症なので、俺のできることというと、抗生剤を処方するくらいだ。
俺が今回要したのはニューキノロン系の抗生物質、クラビットだ。
クラビットというのは非常に使いやすい薬だ。経口投与にも拘らず、百%に近い割合で血液中に吸収される。さらに効かない菌種が非常に限られており、大抵の菌に有効だ。
副作用も少なく、内服も一日一回でいいから管理も簡単だ。敢えて言うなら、妊婦や子供に使えないとか、ロキソニンなどの解熱剤に反応して低確率でけいれんを起こす可能性があるという欠点もあるが。ただし、一般的に現場で「クラビットを使用しようと思います」と上司に言うと、大抵滅茶苦茶怒られる。というのも、あまりに便利なので、乱用され過ぎるからだ。研修医の中には「困ったときのクラビット頼み」と判断に困ったらすぐにクラビットを処方するような奴までいる。
そのせいでクラビットに耐性を持つ菌が増えており、本来効くはずの菌に使ったはずが全然効かなかった、などとなる場合もある始末。
なので、今回は厳密にはあまり良い判断と言えないのだろうが、原因となる菌種がわからない以上、広域である程度予想の範囲外であっても効くような薬を選ぶのがベターだろうと判断したためだ。乱用されるような環境ではないので、耐性菌のことは今回考えなくても良いだろうとの判断もある。
ハドソンは俺がサラに「もしかしたら言う通りにすれば大丈夫かも」と希望を持たせるために効きもしない薬を処方したと誤解したようだが、俺は少なくともある程度の有効性を信じていた。
もっとも、状態も見ていない状態で処方している以上、大丈夫と太鼓判を押せるわけなどない。そもそも化膿している状態で細菌が膿瘍を作っていると薬剤が到達しにくくなることもあり、十分な効果が出るかどうかもわからない。
だからと言って俺もこの場を離れるわけにはいかないし、仮に離れたとしても薬を出す以外の治療は難しいだろう。
とにかく俺にできることは機材のない中、この場の状況を少しずつ整えていくだけだ。
沙羅 「今回は気管挿管の話だね!」
啓人 「前回のセボフルランといい、沙羅の専門の話が続くね。ちなみに気管挿管は救急科もやるけど、専門は麻酔科です。麻酔科医は手術のたびに気管挿管をするので、何年かやっていれば平気で数百回や千件以上の挿管経験がある、ということになります。」
沙羅 「私も設定上五百件くらい挿管していることになるのかな?」
啓人 「救急科も挿管はしますが、予め挿管が難しいという情報があれば、麻酔科に連絡し、挿管を依頼することもあります。これは病院にもよるだろうけど。」
沙羅 「結構緊張するんだよね。たまに『5人がかりでやっても誰も成功できません』なんていうので呼ばれたりするし。今はマックグラスやエアウェイスコープなど、喉頭鏡の先にモニターが付いていて挿管の時に見ながらできる、なんていうのも多くの病院であるけど、無い施設もあるし。麻酔科医によっては自分用のマックグラスを買っていることもあるけど、患者要因で使えないこともある。」
啓人 「患者要因?」
沙羅 「サイズが合わないとかだよ。ほら、患者が新生児だとか。」
啓人 「あー。」
沙羅 「生まれた子に先天性の心疾患があって呼吸状態が悪い。一応サイズの合う喉頭鏡のブレードはあるけど、ビデオ喉頭鏡は使えない、なんてシチュエーションで呼ばれて、挿管しないといけない場合もあるんだよ。しかもブレードも慣れた形の奴じゃなかったりとか。」
啓人 「じゃあ、新生児用とかも含めて全部持ち歩いていたらいいんじゃない?」
沙羅 「……啓人はいつ心停止の患者に出会ってもいいようにAEDを背負って歩いたりしているのかな?」
啓人 「……だよね。」
沙羅 「でも、そういう時に難しそうな顔をしながら一瞬で挿管した時、周りから『スゲー』『一瞬かよ』みたいな声が上がると滅茶苦茶うれしい。」
啓人 「ああ、わかる。専門分野が生きると嬉しいよね。」
沙羅 「話を戻しまくって、気管挿管の話ね。気管挿管は挿管チューブと呼ばれる円柱状のチューブを声門の奥に通して気道を確保する手技です。一回挿管チューブを通すと人工呼吸器を介して呼吸を安定して確保できるので、『最も確実な気道確保の方法』と言われています。もちろん最強の気道確保は気管切開なんだけど……。」
啓人 「気管切開は気管を切らないといけないからね。気管を切ると聞くと、ナイフで一刺し、みたいに想像するかもしれないけど、実際に気管切開する時は皮膚を切って血管を探し、血管があったら糸で結紮して出血しないようにしてからカットする、微小出血は電気メスで焼いて止血しながら進める、という手順なので、結構時間がかかります。本当の緊急気管切開ならもっと早いと思うけど、やはりそれなりの手順は要ると思う。」
沙羅 「首回りは結構血管が多いからね。それに甲状腺もあるし。」
啓人 「甲状腺は甲状腺ホルモンというホルモンを分泌する組織だね。蝶々の形をしていて喉に張り付いている。バセドウ病とかで聞いたことはある人は少なくないかも。……というか高校の生物で習うか。」
沙羅 「フィードバック機構がわかりやすいから、その代表としてよく説明されているね。本文中では『甲状腺を切ってはいけない』というニュアンスで書いてあるけど、実際には中気管切開などで甲状腺を切ることもあるよ。基本的にそれでも問題がないと言われているみたい。……まあ、濃度に反応してフィードバックをしているんだから、甲状腺の機能さえ十分生きていたら正常に機能するよね。」
啓人 「切ることあるんだ?それは知らなかった。」
沙羅 「そもそも甲状腺癌とかでは甲状腺部分摘出をすることもあるしね。その辺は耳鼻科医の方が詳しいと思うけど。ただ、血流が豊富な臓器であることには変わりないので、仮に止血の準備もせずにカットすると、出血が止まらず死亡する可能性もあるから要注意だよ。」
啓人 「圧迫していたら止まるもんじゃないの?」
沙羅 「圧迫すると気管を押さえつけることになるからそもそも長時間は厳しいんじゃないかな?無理矢理閉創をすると首周りの出血が気管周りを圧迫して窒息する可能性もあるし。星状神経節ブロックとか、首周りに行う神経ブロックで動脈を刺したことに気付かず、皮下出血で気管が圧迫されて死亡、遺族に訴訟されるなんてことも稀にあるし。」
啓人 「怖っ!」
沙羅 「まあ、普通はその程度なら大丈夫なんだろうけど、心筋梗塞とか脳梗塞とか持っていて、血が止まりにくくなる薬を飲んでいるとね……。」
啓人 「まあ、そういう人も珍しくないかもね。」
沙羅 「さらに、今回のケースの場合、緊急気管切開になるので、悠長に圧迫止血をしている時間はないと思う。甲状腺を切るイコール助からないっていう認識は正しかったと思うよ。」
啓人 「つくづく気管切開にならなくてよかった……。」
沙羅 「ちなみに、気管切開の時に酸素を流して呼吸をしていた場合、電気メスを使用すると引火することがあるから要注意。呼吸状態が悪い人とか、酸素が必要な場合もあるので、麻酔科医と耳鼻科医で協議しながら場合によっては電気メスを避け、場合によっては空気で換気しながら呼吸を安定させるってやるかな。」
啓人 「そうかあ……ってまた脱線してる。気管挿管についてだね。今回のような急性喉頭蓋炎で呼吸が止まりかけている患者の場合、沙羅ならどうするかな?」
沙羅 「そうだねぇ。まずは挿管なんだろうけど、耳鼻科医に声をかけて緊急気管切開をいつでもできるようにするか、万一の時のためにPCPSを用意するかな。」
啓人 「PCPSは体外循環装置だね。静脈から抜いた血液を酸素化して動脈に帰すことで、心臓と肺の機能を代替できる装置。ただ、固まらないようにヘパリンとか、抗凝固薬を使わないといけないから、出血がひどくなる可能性もあるね。」
沙羅 「そのリスクは当然考えないといけないけど、有ったらやっぱり安心だよ。静脈から動脈に返すタイプは心臓にとって後負荷になるから、この場合は静脈から静脈に返すものでもいいかもしれない。循環の補助はできないけど今回は必要ないと思うし。」
啓人 「この辺は難しくなりそうだから省略しよう。で、緊急時の用意はできているとして、挿管自体はどうする?」
沙羅 「挿管自体は啓人と同じ判断かな。意識下挿管でミダゾラムを投与しつつ、キシロカインビスカスで口腔内の表面麻酔をする。ミダゾラムは健忘作用が強いので、少量投与するだけで後で記憶に残らなるしね。意識下挿管で結構苦しそうにしていたのに、後で聞くと全く覚えていないのは、最初は衝撃だったなぁ。そして挿管のデバイスは……マックグラスにするかな。気管支ファイバーでもいいと思うけど、先端柔らかくて操作が難しいんだよね。喉頭鏡は選択しないと思う。ましてや曲げたフォークなんかで絶対挿管できないと思う。」
啓人 「だよねー。」
沙羅 「本文で啓人が挿管に成功したのはかなり幸運が重なったとしか言いようがないね。私でもできたかどうかはわからない。あと、喉頭展開って結構圧力かかっているから、多分フォークがもたないんじゃないかな?」
啓人 「あれはフォークがかなり特殊な素材だったっていう設定みたいだよ。硬くて珍味なドラゴンステーキを食べるための食器だったっていう設定。なので、かなり強い圧力にも耐えられるように作られていた、らしい。」
沙羅 「なるほど……実際ドラゴンステーキなんて存在しないし、どれくらい硬いかなんて誰も議論できないだろうっていう作者の狡猾な精神が見て取れるね。」
啓人 「……言わないであげて。」
沙羅 「さて、本当は『挿管中にセボフルランを垂らして挿管できるか』とか議論するところはいっぱいあるかと思いますが、あまりやると本編より後書きの方がながくなってしまうので、ここら辺で終了にします。」
啓人 「……この作品を読んでいる人ってどの程度理解しているのかな?もはやチンプンカンプンとなっている人も少なくないかも。」
沙羅 「もしわからない場合は感想を通して質問してもらえれば、その辺りをちょっと詳しく説明するようにできるかもしれません。その時はよろしくお願いします。では、また次のお話をお楽しみください。」
啓人 「次もよろしくね!」