チョコレート工場の秘密:糖分を巡る駆け引き
「あら」
二月に入り寒さも極まったある日のこと。部室に積んでいた本を目にした月森さんの反応は、殊更に嬉しげなものだった。
僕が積んでいたのは装丁も分厚くしっかりした本で、表紙にはカートゥーン的な戯画や、古風な雰囲気のイラストが描かれている。
『父さんギツネバンザイ』『オ・ヤサシ巨人BFG』等々……種々並んでいるが、どれもある一人の童話作家による作品だ。
ロアルド・ダール。イギリスの童話作家で、著作は日本を含む世界中で読まれている。
月森さんは一冊を手に取ってパラパラと流し読みを始めた。
「いいですよねダールの本。程よくメルヘンで程よくシビアで、子供にはワクワクするし私達ぐらいでもしっかり読める、幅広い年代で楽しめる児童文学だと思います」
「文字主体の本はエルマーあたりからステップアップしてダールに入った感じだったかな、夢があるよね」
本来の対象年齢は小学校の中~高学年ほどだろうか。一方で映画化された作品も多数あることから分かる通り、大人でも楽しめるファンタジー中編が多い。
話の中身は大分ひねってあるけど、最終的には主人公にとってめでたしめでたしなハッピーエンドがほとんどなので、そのあたりも安心だ。
「ダールと言えば食欲をそそる食べ物のシーンですけど、作品を支えるもう一つ大きな柱がありますよね」
「というと?」
「悪役が生粋のクズ」
「まぁそこだよね」
モンスターを通り越したペアレントやら、主人公側を最短で殺しにかかる醜悪なおじさんやら。とにかく舞台装置として悪の権化なので、容赦や同情の余地というものが全く無い。
月森さんが手に取った代表作の一つ、『マチルダは小さな大天才』の悪役であるミス・トランチブル校長なんかは小学校の校長でありながら子供を心の底から嫌い、アイアンメイデンじみた拷問棚に閉じ込めたり、生徒を上の階の窓から放り捨てるのが趣味の暴君だ。死ぬぜ。
「でもそんな巨悪が知恵と勇気で破滅させられるのが痛快ですし、子供達に僕らでもやれるんだと希望を与えてくれますね」
「たまに巨悪自滅してない?」
「悪の栄えた試しなしですよ、先輩」
知恵と勇気どこ行った。
ともあれ、今日の読書部のテーマは彼の著作というわけだ。
実のところ、ある綿密な計画のもとに僕はこれらの本を図書室から抱えてきた。月森さんが強く興味を持つことは予測済みで、だからこそ目眩ましとして機能してくれる。はずだ。
「どれでも大丈夫そうだね。じゃあ今日は適当に……これで行こう」
山と積まれた本の中から、僕はさも無作為に選んだようにある一冊を抜き出した。金髪の少年とシルクハットの紳士のイラスト、それに踊り狂う小人や球体状の少女といった個性的なイラストが並ぶ。
『チョコレート工場の秘密』。
恐らくダール作品としては日本でも一番有名な一冊だろう。月森さんもふむと納得したように頷く。
「代表作が出ましたね。ハリウッド映画にもなりましたし知名度はダントツでしょうか」
「リスのとシーンとか調教した本物らしいけどすごい可愛かったね」
「でもダール作品にしてはクズ度が比較的控えめですよね」
「クズ度を第一の指標にするのやめない?」
確かに殺害数がカウントされてるような他の作品の悪役に比べると、せいぜいが言うことを聞かない子レベルの悪行ではあるけど。
内容としては貧乏な少年チャーリーがひょんなことから世界一のチートなチョコレート工場を見学する権利を得て、そこで世にも不思議な体験していく話だ。
とにかく尺の大半を占める工場のスケールと非現実性が半端ではなく、よくそのまま映像化できたものだと感心した。
「映画も良かったんですけど、ワンカさんの出生が掘り下げられたのは逆に残念だったと思うんです」
ワンカさんというのは件のチョコレート工場、略してチート工場の主だ。チャーリーが真っ当な視点としての主役である一方、ワンカさんは彼を主軸として諸々のファンタジーな部分が描かれるメインキャラであり、そこが掘り下げられるのは至って自然なことなように思える。設定からして元々世界最強のチョコレート屋だったのが更なる力を手に入れて蘇った的な人だし。
が、月森さんはゆるりと首を横に振る。
「非現実の象徴で、お菓子に関連付けさえすれば空間転送でも生命創造でもなんでもできる超越者ですよ。センチメンタルな理由とか抜きに生まれながらの絶対強者であってほしいです」
「そういうもんかな」
お菓子主題の童話にあるまじきワードがポンポン飛び出てくるが、本当にそういうキャラである。
タイトルにもなっているとおり、彼が生涯かけて作り上げた魔法のような工場を見学して回るパートがこの童話のメインだ。しかし。
「僕、後半の工場見学ももちろん好きなんだけど、前半の拾ったお金でチョコ買って食べるとこが好きなんだよね」
それはまさにチョコレート工場を見学する資格となる金のチケットを手に入れる場面であり、作品が飢えと寒さを執拗に描写する前半から奇跡と風刺とメルヘンの後半に移り変わる転換期だ。
かつてないほどの飢えに襲われ骨と皮だけになったチャーリーは、雪の下に埋もれ凍りついた硬貨を見つけ、大好きなチョコレートを買う。
家族思いで、お釣りは家計に回そうとしていたチャーリーだが、一枚丸ごと食べたときの多幸感に負けてもう一枚買ってしまう。そのもう一枚が結局彼に奇跡を運んだわけだが……
とにかくその描写がまた美味しそうなのだ。親切なお菓子屋の店主もいい味を出しており、名場面の一つと言える。
「あ、私も好きです。あれを読んでからだと何てことのない板チョコにかぶり付くだけで幸せな気分になるんですよね」
「うん。だからチョコ買ってきて月森さん」
「えー」
月森さんはあからさまに嫌そうな顔をした。完全無欠の名シーンの一体何が不満だと言うのか。
彼女は表紙に描かれたブルーベリーっぽい少女を指差して呻く。
「先輩……夢と希望のスーパーチョコレート工場ですよ。せっかく再現するならもう少し何かいい箇所があるのでは?」
「リスにゴミ穴へ放り捨てられたり、ワープ失敗して肉体縮小なんて再現できるもんならやってみなよ」
チョコレートの滝もチョコレートの城も準備は無理だ。
悩ましそうに額を押さえ、月森さんは呻く。
「うーん、確かに他が飢餓とメルヘンしかないですね。ガムを耳の裏に貼るとかよりマシか。分かりました」
承諾を得た。
ならばと僕は小銭入れから五百円玉を取り出し、部室の床にそっと設置する。雪まで用意できない再現度の低さは許して欲しい。
月森さんも慣れたもので、嫌々ながらその硬貨を拾い上げる。
「何か『ほれ、これでもくれてやるからとっとと失せろ』的なシチュエーションみたいですねこれ……」
這いつくばってる月森さんもちょっと可愛い。などと考えるのもいささか軽蔑されそうなので、ああ目の前で這いつくばっているなぁとだけ思うに留める。それもどうだろう。
「じゃあちょっとコンビニででも買ってきますけど」
「お釣りは返してね」
「ケチ」
なんとでも言うがいい。
現代日本でチョコを買うのは簡単なことだ。
というか作中でもチャーリー一家が壮絶に貧困なだけで、買うのは本来簡単なはずだ。扶養家族が多すぎるとはいえ、お父さんは歯みがき粉工場に何か騙されてはいまいか。
ともかく月森さんは、十分とかからずミッションをやり遂げ帰ってきた。
「ただいまでーす。……何か再現というか普通にパシリなんですが。はい先輩、貪るようにどうぞ」
そう言って月森さんは一枚の板チョコを手渡してくれた。同時に、自分自身の分も。ちゃっかりしてるけどそれぐらいはさすがに許す方向で行かないとあまりにケチ臭い。
「ありがと。それとお釣りも」
「ケチ」
なんとでも言うがいい。
買ったチョコは当然食べる。コンビニ販売の何の変哲もない板チョコで、金のチケットも当然入ってはいないけれど、校内という環境で食べるお菓子は妙に美味しく感じる。
飢餓状態でのチャーリー少年の気持ちを思い描きながら、僕らは部室で並んで板チョコをかじった。
「ん、美味し。でもなんか昔より小さくなった?」
「原価の高騰はワンカさんでもないとどうにもならないですしね」
多少の世知辛さと共に部活動中に噛み締める板チョコは、ほのかに苦い。
さて、至って地味で滑った感のある今日の活動。だが僕とて無為無策に提案したわけではない。それどころか、目的は既に達成されている。食べ終えたチョコの包装を畳みながら僕はほくそ笑んだ。
折しも今日は2月14日、聖バレンタインデー。
例年母親からしか貰えないという危機的状況を打開するために、一計を案じたのがこのチョコレート工場作戦だ。目論見通り、月森さんは僕に板チョコを手渡した。
義理か義理未満かはこの際問題ではない。こんな手で貰うというのも極めてあれだけど、僕は確かに女の子からチョコを貰うことに成功したのだ。
工場見学に参加したら間違いなく加工される所業である。
そしてその後、本を読むだけの活動が終了し、下校時間になって。
「今日もお疲れ様でした。ところで先輩」
「ん?」
「はいこれ」
そう言って素っ気なく月森さんが手渡してきたのは、ラッピングされた小さな紙箱だった。小物入れぐらいの、お菓子でも入れるのにちょうどよさそうな。
あれ。
月森さんは心底呆れた風なジト目でこちらを見ていた。
彼女はふぅと溜息をつき、手渡した箱をつつく。
「あんなセコい手でカウントしなくてもあげますよ、チョコ」
バレてら。
【出典】
・チョコレート工場の秘密
作:ロアルド・ダール 訳:田村隆一 / 評論社刊
・父さんギツネバンザイ
作:ロアルド・ダール 訳:田村隆一 / 評論社刊
・オ・ヤサシ巨人BFG
作:ロアルド・ダール 訳:中村妙子 / 評論社刊
・マチルダはちいさな大天才
作:ロアルド・ダール 訳:宮下嶺夫 / 評論社刊