おしいれのぼうけん:密着、読書部活動記録
「先輩、今日の題材はこれです」
部室で本を読んでいると、月森さんはそう言ってずいと絵本を差し出してきた。
彼女の整ったボブカットの髪が動きに合わせてさらりとなびく。
月森奏子。僕の一個下の後輩で、貴重な部のメンバーである。
清潔感のある髪型に、ぱっちりとした大きな目が印象的だ。
今日は何の本かと思って目を向ければ、表紙には二人の男の子が上下に分かれて手を繋いでいる絵が描いてあった。
『おしいれのぼうけん』。タイトルはそう書いてあった。
ああ、と懐かしさと共に声を上げる。見覚えのある絵本だ。確か、幼稚園の頃に母親に読んでもらったことがある。
「知ってる、チョロQで押し入れに潜む山姥を退治する絵本だよね」
「あの、先輩? うろ覚えの話を、さもはっきり覚えてるかのように得意気に語るのはやめてくれませんか」
「あれ?」
どうやら少し違ったらしい。でもま、大筋ではそんな感じだろう。
果たして何をする絵本だったか。読んでるうちに思い出すだろう。
高校生にもなる僕と月森さんが校内で絵本を広げているのには、もちろん訳がある。
僕と月森さんは読書部に所属している。
創作発表を行う文芸部などと違い、ひたすら読書を目的とした極めて内向的な部活動だ。当然部員も少なく、一人辞め二人辞め、今や部長の僕と月森さんの二人だけしか残っていない。
そりゃあそうだ、本が読みたいだけなら別に部でなくとも一人で自主的に図書室に行けばいいのだ。
ま、伝統ある部でもなし、僕の代で潰えることに特に罪悪感はない。
存続についてはいい。ただ、そうは言っても本を読んで終わりというのではあまりに地味だし部活としては個人主義に過ぎる。
読書感想でも投げ合うか? それも一つの手ではあるだろう。
ただ、僕らはもう少し別のことをやっていた。
『読んだ本に出てきた行動を模して活動する』。本を題材にしたちょっとしたレクレーションだ。
『ただし、題材は絵本や童話に限る』、という追加ルールもある。
理由はこの学校は児童書の類いが充実してること、僕も月森さんもそれらが好きなことなどあるが、一番は恐らくジャンル指定なしの初回で僕がノルウェーの森・上巻を提示して彼女に懇切丁寧に叱られたせいだろう。
一般図書だとやや行き過ぎた描写があり、抑えの効かない男子高校生たるこの僕がやんちゃな行為を指定する可能性があるために、対象は児童書に限定された。
もう少し段階を踏むべきだったと後悔はしている。
で、実際何をするのかについて例を挙げると、有名なところで『ぐりとぐら』なら実際にカステラを作ってみたり、そんなささやかなものだ。
作中の会話を引用してなりきってみたり、これがなかなか面白い。ぐりぐらぐりぐら。
題材と行為の選定は交互に出しあっており、一応拒否権はないルールだ。なので何か程よくセクシャルな行為の描写のある絵本がないかと漁っているが、あるわけもない。
そんなわけで今日は机の上に広げた『おしいれのぼうけん』を二人並んで読み進めていく。別に毎回全部確認しているわけではないが、絵本であれば分量としてはごく軽いものだ。
ざっと最後まで通して読んで、改めて思った。
「やっぱりチョロQで山姥を退治する話じゃないか」
「全然違いますー。チョロQじゃなくてミニカーとデゴイチ、山姥じゃなくてねずみばあさんですー」
「似たようなもんだよ」
お仕置きとして押し入れの中に閉じ込められたいたずらっ子・あきらとさとしが、壁の模様や恐怖感から現れた化け物、ねずみばあさんから逃げ回り、立ち向かう。そんな絵本だ。
舞台は現代の保育園で、終わり際にはいたずらっ子二人は夢うつつ。つまりは夢落ちであり、悪夢に近いイメージとの戦いなのだが、押し入れの上下で手を繋いだ二人がイメージを共有し合った上で挑んでおり、ある種テーブルトーク的な要素も感じる。
パラパラと簡単に読み返してふと気になったところを挙げる。
「水銀灯なんて表現が普通に出てくるんだね、子供には難しくないかな、これ」
曰く、『水銀灯は皆青い火のねずみでした』。
今読んで尚詩的にすら感じる一文だ。挿し絵では高速道路の脇にねずみばあさんの配下のねずみ達がずらりと並んで火を掲げ、道路照明灯のふりをして子供達を待ち受けている。なかなかに怖い。
すると月森さんはにゅっと顔を近づけて微笑んだ。
この子は割といちいち距離が近くて戸惑う。
「でも昔読んだときは疑問に思わなかったですよ。やっぱりこうして絵がついてると、そこからこの言葉はこういうものなんだって分かるものです」
「そういうもんかな」
「もんです」
むしろそうやって子供は言葉を身に付けていくのかもしれない。
さて。内容は分かったけど。
「それで、今回の再現部分は?」
短くてシンプルなお話だ。再現するにも限られている。
月森さんはフフンと何やらドヤ顔で断言した。
「そりゃあもちろん、主役のあきら君とさとし君の再現ですよ」
「つまり?」
「押し入れに入りましょう」
「どこに入ろうというのかな」
当然ながら部室棟にそんなものはない。月森さんも無論分かってはいたのだろう、間髪入れず次善の策を提言した。
「見てください先輩、こんなところにロッカーがあります」
「備品だからね」
壁際に背の高さほどの大きめのロッカーが計五つ。部室に備え付けのものだが、部員二名だし、活動上部室から両方いなくなることも稀ので、利用度は低いと言わざるを得ない。
そんなことより。
「ロッカーは人をしまうものじゃないよ、月森さん」
「押し入れだってそうですが作中でお仕置きに使われましたよ、先輩」
「僕が一体何の罪でお仕置きをされるというのか」
「いえ先輩一人じゃないですよ、再現なので」
ふむ?
「先輩、狭いです……」
「まるで試してから気づいたような口振りだけどそんなわけないよね!?」
そういった経緯で僕と月森さんは一つのロッカーの中に身を押し込んでいた。
大きいとはいえ、荷物用のロッカーは人間を二人も入れるように作られてはいない。なんとか収まりはしたが、まるで満員電車だ。
僕が奥、月森さんが手前。それこそ下手に触れて満員電車よろしく痴漢の嫌疑をかけられてはたまらない。背をぴったり壁につけて極力彼女にスペースを譲る。それでも僕より一回り小柄な彼女の前髪が僕の顎を撫でるのだから、その距離感は推して知るべし。
うわ、滅茶苦茶いい匂いがする。
この密着具合、割と嫁入り前の女子としてあり得べからざる状況のはずだが、月森さんは時折男子小学生じみた恥じらいのなさを発揮する。
大いに結構だと思います。
「それで、ここからどうする?」
「こうです。えい」
月森さんがロッカーの扉の内側の突起を引っ張る。カシャンと軽い音を立てて、扉が閉じた。格子状の小さい穴が空いているので真っ暗にはならないが、かなりの暗さと閉塞感だ。
例えば縛られてここに放り込まれたらすぐにでも不安になるだろう。しかし今は女の子と密着状態で手足も自由、僕がガチ草食系でよかったな月森さん。
「あの絵本においては、罰に使われる押し入れは不自由と恐怖の象徴でした。どうです先輩? 怖くなってきましたか?」
「僕は月森さんが時々怖いよ」
「あら」
何がって無防備さが。
もう体を掠める全てが柔らかい。女子制服の生地すら柔らかく感じる。
吐息の熱も感じるような距離感ではどう避けても体が接触する。
しかし月森さんは追撃の手を緩めない。こちらは痴漢冤罪を危惧しているのに、ペタペタと暗闇の中で僕の体を触ってくる。
「あ、これ先輩の手ですよね?」
「仮にこっそり露出してる股間だったら?」
「鼻で笑いますが」
それは嫌だなぁ。
月森さんに手を握られる。少しひんやりと、そしてすべすべした滑らかな感触が視界の不自由な中で殊更に強調されて伝わってくる。
「はい、これが今回の絵本再現ですね」
絵本の中の子供たちがしていたように、僕達は暗闇の中で手を繋いだ。
ポケットの中にミニカーはないし、ロッカーは上下段に分割されてはいないけれど、それでもさっき見た挿絵の状況が鮮明に頭に浮かぶ。
「壁の模様がねずみばあさんになるんでしたっけ」
「スチール製のロッカーに模様も何もあるもんじゃないよ」
「そこは残念なところです」
少しは光が入ってくるし、多少は暗闇にも慣れてきて、ぼんやりとした月森さんの姿だけがかろうじて見える。
お手軽に絵本のシチュエーションを再現でき、月森さんは大いに上機嫌らしい。その体はゆらゆらと嬉しそうに揺れている。
「あ、まだちょっと要素足りないですね。手が乾いてます」
「暑くないし乾燥気味だしね。でも何か問題あるかなそれ」
確かに、絵本の中の彼らは汗ばんだ手で握り合う描写があったけども。
月森さんは、恐らく眉をハの字に下げているのだろう、そんな感じの声で言った。
「問題ですよ。追い詰められたいたずらっ子達が、お互いが見えないままに汗ばんだ手を繋ぐことに、当時ほのかなエッチさを感じていたんですよ私」
「知らんよ」
腐ってると言うのだろうか、こういうの。
というかこの状況でエッチさを感じたいものなのか。命知らずめ。
ま、僕にとっては快か不快かで言えば限りなく快寄りの状況だ。汗ばむまで継続するならそれもいいだろう。ちょっと息苦しいけど。
手を繋いだまま、月森さんは身をよじって僕に背を向ける。どうやら扉の穴から外を眺めているようだ。
それもまぁ、絵本再現だ。絵本では彼らは押し入れの戸に空いていた指先大の穴を通して、お昼寝している他の友だちを見ていたのだ。
「むぅ。小さな穴から日常的光景を眺めることが楽しげに書かれてましたが、いざ見てみると意外とつまんないですね」
「そりゃ無人の部室なんて、何をどうやって見ても面白くはならないよ」
それより背を向けたことで僕の腿を掠めてる尻の方が気になる。
「穴を手とかガムテで塞ぐ保育園の先生もいませんしね。外部要因がなければそれ以上変化は起きない、なんとも哲学的な話ですね先輩」
「そうだね月森さん」
それより身を乗り出すことで僕の腿に押し付けられるケツの方が気になる。
あれよという間にこの状態になって頭が回っていなかったが、付き合ってもいない男女がロッカーにすし詰め。一体どういう状況だこれは。
冷静に考えてみた結果。
……うん、エロスより先に事件性を感じるな。
シチュエーション再現が行き詰まったところで彼女も満足してしまうかなと、そう思った時のことだ。外部要因はまさに部室の外からやって来た。
「カナちゃーん、おるー?」
女子の声だ。
読書部員ではない。というか読書部員は今全員がロッカーに詰め込まれている。
「あ、モカちゃんだ」
「友達かな?」
「はい、同じクラスの子です」
月森さんに何か用だろうか。
モカちゃんさんはもう一度部室の外から声をかけてきた。
「おーい、カナちゃーん」
「カナちゃん?」
「奏子で、カナちゃん」
「ああ」
納得した。シンプルで良いあだ名だと思う。
結論から言えば、この際納得はどうでもいいので僕達はロッカーから出てモカちゃんさんを迎えるべきだった。が、暗闇と閉塞感で頭が鈍っていたのか、何となくそのままでいた。更に言うなら僕は煩悩にもやられていたし。
「カナブーン、ありゃ、おらんね」
部室の扉がガラガラと開く音がして、声がクリアになった。どうやら返事がないと見て中に入ってきたようだ。それにしても二つ目のあだ名だろうか。
「カナブン?」
「あんにゃろ」
ご立腹だった。
僕に一切非はないので手に爪を立てないで欲しい。
月森さんは穴から外の様子を窺っている。が、この時点でもう手遅れだ。
部室の中にモカちゃんさんがいる状況に至って僕らは同時に気づいた。
「出られないね」
「出られませんよね」
いや、物理的には扉は押せば開くので余裕で出られる。
ただ、お友達が見ている前でロッカーから月森さんだけならまだしも、僕まで出てくれば、それは速やかに素敵なスキャンダルと化す。
「おじゃましまーす。んー、部室ば開いとるし鞄もある……トイレかねぇ?」
特徴的な訛りのある声でモカちゃんさんはのんびりとそう言った。
少なくとも月森さんがすぐ帰ってくると見たのだろう。どうやらここで待つことにしたらしい。やべぇ。
月森さんはちょこんとこっちを振り向くと、至近距離でごく小さな声で鋭く囁いた。
「まずいです、狭い場所で男女が密着って、どう見ても淫行ですよこれ!」
「それが分かっててなんで再現を試みたか聞きたい!」
「だってあきら君とさとし君が!」
「非実在児童のせいにしてんじゃないよ!」
相変わらず手は繋いだままだが、妙に力んで熱が篭り、手の平に汗がじわりと滲んできた。月森さんもそれは同じようで、握った手がしっとりとしてくる。
今のやり取りが聞こえたのか、モカちゃんさんの声がこちらに近づいてくる。
「カナブンー? あれ、なんか声ばしたけどどっかおる? 本棚の裏?」
まずいまずいまずい。
まさかロッカーの中に人がいるなどとは思いもしないだろうが、物音を立てたら不審に思って開くかもしれない。
僕と月森さんは身を固くしてギュッと手を握った。
彼女だって、部の先輩ってだけの男と変な噂は立てられたくないだろう。迷惑を掛けるのは僕としても本意ではない。
そう思っていると、彼女は喉を震わせてさらに小さな声で囁いた。
「もし見つかったら……先輩が私をこんなとこに無理やり連れ込んで襲ってたって噂になっちゃいます……!」
「……」
うん、心配の方向性は同じっちゃ同じだけど。
すげぇなこの後輩!
モカちゃんさんはさすがに他人のロッカーを開くような無法な真似はせず、月森さんがなかなか帰ってこないと見たのか、少ししてから部室を出た。
時間にしては三分にも満たないだろうが、随分とまぁ長く感じた。
「はぁ……」
「はぁ……」
同時に溜息をつく。
緊張をほぐす仕草だろうか。手がもにもにと揉まれてくすぐったい。
またモカちゃんさんが何かの拍子に戻ってきたら事だ。僕らは速やかにロッカーの外へと緊張した肉体を解き放ち、軽く伸びをした。
なるほど、短時間でも暗闇に隔離されてから解放されると、なんてことのない部屋がとても広く明るく感じる。絵本の子供の気持ちへの理解が深まった。
いや、単に無駄に致命的なシチュエーションで緊張しただけだな。うん。
「ふぅ。お疲れ様でした、先輩」
絵本再現が終わると、月森さんはあっさりと手を離した。
後には余韻だけが残る。彼女の体内から発する熱と、手指の柔らかさ、触れる肌の滑らかさが、まだ鮮明に手の中に残っている。少し顔も熱い。
それをごまかすように、僕はおどけて言った。
「どうだった? ご所望の汗ばんだ手つなぎは」
月森さんは苦笑して前髪をいじった。
「当事者になるとそれどころじゃないですね。なかなか得難い体験でした。今後この本を読んだときは今日のことを思い出してしまうでしょうね」
総じて今日の再現は満足ということだろう。彼女は繋いでいた手で絵本の表紙を撫でた。そこでは二人の子供が汗ばんだ手を固く握り合っていた。
それを見て、次いでモカちゃんさんの去った扉を見て、彼女は微笑んだ。
「手強いねずみばあさんでしたね、先輩」
「友人をねずみばあさん扱いとはまた」
モカちゃんさんが何をしたと言うのだ。
【出典】
・おしいれのぼうけん 作:古田足日・田畑精一 / 童心社刊
・ぐりとぐら 作:中川李枝子・山脇百合子 / 福音館書店刊