歪んだ鏡
それから数日間、非番の日には別の酒場に行っていた。アイリーンと会うのが気まずかったからだ。読書も通信講座も思うように進まなかった。心理学は納得できることも多いが、百閒は一見しかずの所があったし、自己啓発本は種類が多すぎる。
酒場に行くことは一種の楽しみであった。酒場に行けば、夢で殺した少女の事も、つまらない日常の事も忘れられた。
俺は姿を変え、また酒場に行く。今回は少し遠くの酒屋に来たので、変装はアイリーンと会った時と同じものだが、大丈夫だろう。いつものようにウィスキーを頼み、舌で弄びながら、飲んでいた。少し経つと茶髪の美女が現れ、俺の隣に座った。
「やぁこんばんは」俺は声をかけた。
「こんばんは」真黒の髪を揺らして、美女は微笑んだ。
「俺はレイモンド」
美女は少しだけ驚き、悪戯っぽく微笑む。「クロエよ」
クロエは大企業の令嬢だった。俺は肝を抜かれ、声をからした。大胆に開けられたブラウスからは魅惑的な谷間が覗いている。
クロエは角度で真黒にも見える髪を揺らし、「どうしたの?」
「い、いや」
クロエは綺麗な瞳で見つめてくる。吸い込まれそうだ。微かに忍ばせた香水の香りが俺を焦らせる。
「クロエ」ふと、男の声がして、声のする方を見ると、すらりとした男が立っている。眼鏡で金髪の伊達男だ。
「ああ、ジョン。ずいぶん早いわね」
眼鏡の男は笑い、「ごめんね、代わりに別の場所に行こう」こんなしけた場所じゃなくてさ、と言うのが顔に出ていた。確かに彼はエリートであった。
「彼は?」眼鏡の男は俺を見た。
「高校の同級生だよね、レイモンド」クロエは素早くウインクしてきた。
「久しぶりに会ったもんだから、クロエ……良い大学出たんだね。凄いな」俺は唖然としながら合わせる。クロエは男を見上げ、甘えるように腕を絡ませ、また俺に視線を戻し、「懐かしいね」クロエは白い歯を見せて微笑む。
「じゃあね」手をひらひらと振って出て行った。すぐに眼鏡男と手を組んだのを見た。
ふと強い視線を感じ、慎重に携帯端末を鏡に使ってその方向を見る。その先にはアイリーン。
俺は瞬時に記録を呼び出し、アイリーンの座っている席の向かいに女性がいたことを知る。その背中で見えなかったのだ。
素早く手首のナイフを使えるようにし、拳銃を確認。仲間に連絡。
アイリーンの周囲を見て、人が少ないのを確認。
〈レイ、お前を見ていたブロンドは武器も何もないし、経歴も真っ白だ。それに相当、酔っぱらっている。バーの前についたが、敵らしき影も見えない。少し、相手をつついてやれ〉
俺は酒を飲みほし、ゆっくりと振り返る。そして、アイリーンを偶然見かけたように振舞う。アイリーンはむっとした。
ナイフをいつでも抜けるようにして、アイリーンに近づく。
「やぁ」俺はテーブルに座る。
会いたくなかった、と視線が言っていた。
やれやれと俺は首を振る。振りながら、アイリーンをすぐに殺せるようにする。
「酒場で会う女全員に声をかけているの?」アイリーンは見るからに俺を軽蔑している。
〈四日前のバーであった女だな、偶然だろう。生体反応も強いアルコール反応と酔いしか検出されてない。広告表示もパスしてる〉
「ち、違うよ」
「じゃあ何、あの娘が令嬢だから?」アイリーンは指で机を叩く。
〈やはり周囲に敵らしき人物はなし、監視を続けるが、その女の脅威は低い。多分、ただの酔っ払いさ〉
アイリーンはこの前よりも早いペースで酒を口に運んでいた。顔が赤い。
「待ってくれ、そんなんじゃないよ」
「じゃあ何、あんたは人を経歴で判断する訳?」アイリーンはじっと俺を睨みつけていた。
「まってくれ、俺は君の経歴は見ていないし、見たとしても経歴で―」
「判断する。違う?」冷たく早い口調でアイリーンは俺の言葉を止める。
「違うんだアイリーン」
「呼ばないで、この変態」
心外だった。
〈レイ、あまり目立つな。痴話喧嘩がヒートアップするようなら、迎えに行く〉
俺はそれを拒否。今のアイリーンは新鮮だった。少し、興味があった。
「何があったかは知らん、だが、俺にストレスをぶつけないでくれ」俺はゴリラと呼ばれたことがショックで反論した。
「それに、俺は経歴表示なんて好きじゃない」
「あっそ、訊いてないけど。それにしても、互いに会わないように別の場所で飲んでいたのに、出くわしちゃうなんてね」アイリーンは語尾を強め、また酒をぐい、とやった。窮屈なのか脚に履いたハイヒールが半分脱がれ、宙で揺れていた。
「飲みすぎなんじゃ、アプリは警告してないのか?」
アイリーンはピンクに染まった頬を歪ませ、「うるさいわねぇ……とっとと別の酒場で女漁りでもして来たら」
俺はあまりの言い草にぽかんとし、「何か、あったのか?」
「ふぁ……」アイリーンはテーブルに突っ伏し、ふにゃふにゃとした。だらしのない仕草だった。
「大丈夫……?」俺はそっと肩を叩いてみる。
「うおぇ……」一気に顔面蒼白になって、涙目で俺を見た。
「だから飲みすぎだって言ったんだ」俺は彼女を抱え、トイレに飛び込んだ。外からでも豪快な吐きっぷりが音でわかった。
〈レイ、家族か友人を呼ぶんだ。お荷物を抱えているところを攻撃される訳にはいかない〉
「分かっています。でも、もう少し、様子を見ても良いですか?」
素早く水を買い、トイレに戻る。
〈規定通り、任せることにするよ。だが、これが試験であることを忘れるな〉
俺は腕時計で時間を確認。
「ごめん……」アイリーンは疲れ切った様子でトイレから出てくる。
ふらふらとする彼女に肩を貸し、俺は店を出た。アイリーンのメイクは崩れていた。吐いた後、泣いていたのだろうか。
「やめて……あたし、そんな……」
「誰が酒でべろべろの女と……携帯端末を貸してくれ」
アイリーンは涙目で首を振る。連絡先は教えないというわけだ。
俺はため息をつき、「家に一番近いスーパを教えてくれ、そこまで送るよ」
アイリーンはぼそぼそとを言い、俺はタクシーの運転手に金を渡した。
「酔っ払いは同伴が居なくちゃ」運転手は本当に迷惑そうだった。
俺は仕方なく、アイリーンの隣に乗り、上着を掛ける。
「あたし……実家だから」アイリーンは力なく俺を見る。。
「大丈夫だよ……」俺はため息をつく。
俺は持っていた袋を取り出し、ゲロ受けにし、水を飲ませてアイリーンの背中を撫でた。スーパにつくと、タクシーはすぐに消えた。
「さぁ自分で家族を呼ぶんだ」俺はコートをアイリーンに掛け、周囲を見る。明るい光が青い闇を照らしている静かな住宅街。
アイリーンはもう一度、吐き、涙を拭く。
「ごめん……家まで送って……友達ってことにして」アイリーンは涙目で俺を見る。
「今度からは飲みすぎるな。それと、飲みすぎたら友達を呼べ」俺は強く言う。
アイリーンは涙目で頷く。
俺はため息をつき、「住所、教えてくれ」
アイリーンが言った住所はもう何年も同じ家族が住んでいた。
〈その家族も後ろ暗い経歴はない〉
集合住宅地を進んでいると、「そこから三番目の……」アイリーンは全体重を俺に任せ、ふらふらと歩いた。
「ほんの数分だから、抱きかかえても良いかな」
アイリーンは否定とも肯定とも取れない返事をする。
俺は軽々と―本当に軽かったのだが―アイリーンを持ちあげた。
「や、やめて、は、は、吐きそう」そう言って、本当にアイリーンは俺にお姫様抱っこされながら吐いた。
「ごめん」泣きながらでアイリーンは言った。
俺は首を振り、水を飲ませてハンカチを貸す。
気が付くと、アイリーンは眠りに落ちていた。俺は仕方なく、アイリーンに言われたとおりに三番目の家のインターフォンを押した。拡張現実で怪しい物ではない、というように自分の情報を表示する。
〈ベイリーさんの家ならお向かいですよ〉ドアは開かれず、女性の声が聞こえた。
「ああ、そうですか。ありがとうございます」俺は歯噛みし、アイリーンを一瞥する。こんなになるまで飲みやがって。
礼を言い、向かいの家に行く。インターフォンを押す。
〈どちらさまでしょうか〉声がし、俺は事情を説明する。
「はい」真っ暗な中、温かい明かりが付き、また初老の女性が現れた。また彼女も違うのでは、と俺は思った。女性はくすんだ金髪の持ち主で、アイリーンと少し似ていた。
「娘を……ありがとうございます」儚げな美女が立っていた。
「いいえ、会社の友人ですので」
俺はほっとため息をつき、アイリーンを寝かせ、水を飲ませながら、「どうします?」
母親は目の皺を震わせながら、俺を何回か一瞥。
「どうしようかしら」俺を見極めるを必要としているようだった。拡張現実だけでは信頼できない、と言った表情だ。
母親は拡張現実を表示していない。俺は微かに歯噛みし、「何回か吐いたので、もうすぐ眠ると思います」
母親はやってきた蟲に携帯端末で指示をし、アイリーンに外部で張り付いた蟲がないか調べさせながら、健康判断を行った。
「相当飲んだみたいね……すぐには立てないみたい」
母親は悩んだ挙句、夫を呼んだ。母親はまた、ちらりと俺を見た。不安そうな顔だ。俺は何かがおかしいのではないか、と自分が恥ずかしくて仕方がなかった。
「君は?」厳しそうな父親が現れ、鋭い目つきで俺を見た。痩せた鷲のようだった。
「こういうのは困るんだよ」父親は突き放すような口調で言った。
「すいません」
「なーに」後ろから黄色い声が聞こえ、アイリーンと同じくらいの背の少女が現れた。
「え、お姉ちゃんの彼氏?」そばかすに三つ編みの幼い少女は俺を見て微笑んだ。アイリーンと五、六くらいはなれている。妹だろう。
「ねぇお姉ちゃんの彼氏なんでしょ」妹が悪戯っぽく微笑んだ。
「違うだろ」何故か父親が応える。
俺はアイリーンを三人に引き渡すと、逃げるように家から出た。アイリーンの父親は俺をじろじろと睥睨していた。
アイリーンは何が嫌だったのだろう。あの電話は何だったのだろうか。
〈迎えに行くよ〉ジョンソンから通信が入る。
すぐにジョンソンが車で迎えに来てくれた
。
「結局、酔っ払いを介抱しちまったわけか」
「何故、迎えに?」俺は試験に落ちたのでは、と考える。動悸が鳴る。
「バスもあったし、ここまで危険な地区じゃないが、アイリーンと接触した時点で不確定要素があったからな」ジョンソンがアパートに向かいながら言う。
「そうか……」
「ついてなかったのさ」
「ありがとう」俺はため息をつく。
親が居るのは―あんなに厳しそうでも―少し羨ましい。
読んで頂き、ありがとうございます。