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善意の正当性

 浮遊感が全身を包んでいた。


 聞いたところによると俺の年齢は二十二歳。誤差はプラスマイナス二歳だと思う。


 名前はレイモンド・デッカードと名乗れと言われた。多分、偽名だろう。


 米軍の対テロ要員は身元の調査と徹底的な検査を通り抜けなければならず、それには専門的な蟲の走査を突破しなければならない。


 俺は元々米軍にいて何らかのプログラムに参加したか、自分の知らぬところで洗脳されたかのどちらかだ。


 国家のインフラになっている蟲の監視を避ける技術と言う事は、洗練された技術であるはずだ。戦場での監視は非常に厳しいため、付け焼刃の洗脳では必ずボロが出るはずだ。


 俺の記憶には国家の後ろ暗い所が関わっている。


「レイ!」


 俺はハッとし、目を焼く日光に顔を伏せる。


「レイ、突入する。列に戻れ」


 俺は声のする方を見る。赤茶けた街に日差しが照り付けている。そこに米軍の兵士が数名、突撃銃を抱えている。


 俺は中東の戦災国家のある街に居た。茶色い風景がずっと続いている。そこらかしこに弾痕と乾いた血。そして、死骸。


 現実のように見えるこれは巨大な拡張現実で構成された仮想現実だ。


 俺は再訓練を命令され、古巣―米軍の特設キャンプ―に戻っていた。


 兵士の今際。


 走る少女。


 顔に貼り付けられた光学迷彩。


 それらの記憶は鮮明に思い出せる。しかし、過去の記憶は全く思い出せない。


 俺はどうなるのだろう。目の前を警戒しながら考える。


 何故、健忘症のような症状に悩まされているのだろうか。銃を構えながらもずっと自分の過去を考えずにはいられない。


 ジョンソンと共に戦場に出る前、俺はこの訓練キャンプで生活していた。


 ここは米軍の特設キャンプで戦場から精神的に帰還できなくなった兵士を日常に戻すための訓練を行っていた。そこで「人間化訓練」とやらをやらされる羽目になった。何の意味があるのかはわからない。


 俺にはキャンプに入る前の記憶が完全に抜け落ちていた。0I機関なる存在の目的すらわからない。ただ事実として分かるのは彼らが米情報軍の一部隊で自分が所属していたこと。


 だが0I機関所属時に自分が何を考えていたか、誰と友達だったかは全く覚えていなかった。自分自身がどんな人物であったかさえ分からない。どこで生まれたかもわからない。だが、殺人の記憶だけは鮮明だった。


 俺を含め、三十人位が同時に人間化訓練に参加した。人間化訓練、と言うくらいだから人間的ではなかったのだろうか。蟲の生体走査を誤魔化せるということはそう言うことなのだろうか。


 記憶にある限り、俺は一年間、人間化訓練を受けた。人間化訓練の内容はカウンセリングや一般常識の授業やそれの実践だった。それが何のために行われるかは不明だったが、ただ傍らにはいつも白衣を着た者達がいた。


 人間化訓練の目的は人間の社会に普通に戻れるようになることだ、と教師は口をそろえて言っていた。


 俺は授業を受け、採点基準すらわからない試験に合格し、最後の試験だと言われていた戦場での試験に参加した。


 戦地での経過観察だと言うそれは監視官―選ばれた普通の人間―ジョンソンと共に行われることとなった。そして、ミスってここに舞い戻ってきてしまったというわけだ。


 今いる疑似戦場で適切な行動がとれると社会復帰のための日常化訓練を受けることが出来る。日常化訓練で問題行動を起こさなければ社会復帰できる。この訳の分からない状態から抜ける唯一の道だった。


「エメス!」俺は暗号名で呼ばれ、我に返る。


 銃を構えて周囲を見渡すと街は見るも無残にあれていた。街は死体が転がる焼け野原とスラムが広がり、死体は炎天下と砂漠からの乾燥した風でミイラと化して、街の至るところに転がって、凄まじい悪臭が漂っている。


 突撃銃を構えると、周囲に残弾表示やセミ・フルの切り替え表示が拡張現実に現れる。


 視界には大きな円状の表示が出ており、蟲が周囲の情報を走査し、監視して情報を逐一反映している。円状は背後の敵や音、攻撃を察知すると色や表示が変わる。


 走って列に戻る際、足元は蟲に走査され円状で区切られた範囲は全てオレンジでふちどりされ、見やすくなる。


 左上にはタスクや指令の表示、左下にルートと広域地図、医療ステータスと装備ステータスが表示されている。


「突入するぞ」


 仲間の一人が一つの家に前で囁く。俺はすぐに突入の姿勢を作り、皆と目配せした。一人がハンマーで扉を叩き割り、中に突入。


 仲間はオレンジで縁取りされ、瞬時に判断が可能になっているため、同士討ちは少ない。


 俺も突入し、内にいた者に突撃銃を向ける。情動走査と武器走査が行われ、瞬時に脅威ではないと判断した。


 骨と皮ばかりの痩せた少年たちが吹き飛ぶ。俺たちが撃ったわけではなく、驚いて四散に散ったのだ。しかし、中には衰弱で動けない者たちもいた。


「テロリストなんかいないじゃないか。くそ、これで何件目だよ」一人が家を探索し、ぼやいた。


 部屋に座った少年は衰弱し、虚ろな瞳で俺を見つめていた。彼は多分戦災孤児だ。誰も養える人がいず、スラムのごみ漁り集団にも入れなかった子供たちだ。


「同じだな」俺は静かに呟いた。


 現状を把握できないのだろう少年は震えていた。彼は孤独だろうか。


「さ、姿勢を変えるんだ」そう言い、俺は自覚する前に腕を動かしていた。


 体勢を変えたところではっと我に戻る。簡易爆弾が彼のような子供につけられていることは少なくない。しかし、今回も爆弾はなかったようだ。


 少年は戸惑ったように俺を見た。少年の腹には殴られたような傷があり、それで胎児のような姿勢を取っていたのだとわかった。


 俺は簡易医療パッチを彼に使い、自分の水筒から少年の干からびた口に水を与えた。


「また貴様か、レイ」一人の兵士が辛辣に言い放つ。俺はチョコバーをしまい、少年を放置するふりをして、少年の口に砕いたチョコバーを入れてあげる。


 この訓練でも俺は少年を助けそこない、それで被害を出していた。それからずっと孤独だった。皆が離れて行った。


 少年は少しだけ安らかな表情をしていた。


「あんた……」始めて聴く声がした。


 俺はため息をつく。


 自分の食糧くらい好きなように使ったって良いじゃないか。そう思いながらも、俺は何もしていないふりをする準備をし、振り返った。すると、さっきから孤児に食料を与えたりするのをねめつけるように睥睨していた男が俺を見ていた。彼だけが俺の隠れた行動を見抜いていた。そのバラクラバとヘルメットで隠れているため男の表情は見えない。


「何も……していない」俺は歯噛みし、そっぽを向く。


 男はそう言う俺をぼんやり眺めていた。


 悲壮、それが俺の感じた第一印象だった。隙間から覗く眼は殺し屋の物だ。生気を失い喪失感を漂わせている。


「どうしたって言うん……」俺がため息交じりに言おうとするのを男は遮った。


「頼みがある」低く、かすれているようにも感じる透明感のある声。


「これもあげてくれないか」男は自分の食料であるチョコバーを俺に渡した。ぶっきらぼうな言い方―しかし、その声は落ち着きを放ちながらも温かみがあった。


 俺は男を見上げ、彼が優しい瞳をしていることに気が付いた。温かく、悲しい瞳。


「ありがとう」俺はチョコバーを受け取った。


「え、ああ……」男は微かに唸っただけだ。


 俺はチョコバーを折り、少年の口に入れた。少年はもそもそと食べた。


「バカどもが、巻き込まないでほしいね」仲間がそう呟き、俺の手が止まる。


「気にするな」チョコバーをくれた男が俺に言った。


〈状況終了!〉いきなり天から電子的な声が響く。兵士たちはいっせいに姿勢を崩した。


 悪臭を放っていた街は火花が弾ける音と共に、一瞬にして広いドームに切り替わった。俺は太陽とは違う、白い光に目を細めた。


 チョコバーをくれた男はヘルメットを脱ぎ捨てた。その瞬間、ドームは証明を切り替えたのか、辺りは闇に包まれた。


「熱いな」光と共に中性的で痩せた顔が現れた。ほどかれた金髪は肩まであった。金髪は色素が薄く、光にさらされて輝いているようにさえ見えた。それは砂漠迷彩の中では一際、目を引いた。男はウェーブのかかった金髪を揺らした。


「おつかれ」そう言う男の顔は泥で汚れ、頬の肉は落ち、眼窩からは鋭い殺し屋の眼が覗いていた。しかし、表情には温かみがあった。


 中性的で十分美形なはずのその男の印象は―儚い、幸が薄い、灰色、細い。


「あ、ああ……」


〈状況終了、次のグループは位置につけ!〉ラフな格好の男が叫び、皆は無骨なコンクリートと砂で出来た街から抜け出す。


 俺はさっきまで少年だった遠隔操作義体を地面に置き、そこから去る。


 拡張現実訓練の装備を脱ぎながら、考えていた。彼は孤独から逃れられただろうか、救われただろうか。


「偽善者め」


 ロッカーの奥から声がして、声のした方を覗く。すると、そこにはさっき俺をバカよばわりした男がいた。喧嘩上等とでも言いたげに、口角を吊り上げていた。


 偽善者と呼ばれるのは慣れていたし、激昂して相手をする勇気もなかった。何より一人になりたくなかった。


 彼から視線を離し、自分のロッカーに目を向けた。鏡に顔が映る。筋骨逞しい白人。短く切りそろえられた金髪、浅く焼けた肌。ごつごつとした四角い顔に青く垂れた瞳。ふっと視線を下す。まだ、これが自分だと思えなかった。


「気にしない方が良い」声がして、ふと横を見るとさっきチョコバーをくれた男がいた。


 汚れをふき取った男の顔は兵士であることを忘れさせるように細く繊細であった。しかし、その身体は狼を思わせた。贅肉も装飾の筋肉もない、兵士の中では痩せた印象を思わせる肉体。直感で同族だと察した。この身体は特殊部隊の精鋭の肉体だ。


「良ければ呑みにいかないか?」男は控えめな言い方で俺を誘った。透明な風のような声の綺麗なイントネーション。


「え、いいけど……」俺はぼんやりと応える。もう夕方になっていた。酒を飲んでみるのも良い時間だ。

キャンプのはずれにあるバーにつくまで俺たちは一言も言葉を交わそうとはしなかった。


「あんたも0I機関……?」酒を頼んですぐ、男は俺の耳の近くで囁いた。バーに流れるうるさい音楽の中で、その言葉は冷たいナイフのように心に滑り込んだ。男との間にピリピリとした緊張が走る。


「何故、わかった」俺は男の顔を見つめて、低い声で訊く。


「簡易爆弾の怖さを知る者の多くは戦場に戻れなくなる。だから、ここには来ない」男は運ばれてきたウィスキーをちびりとやり、言う。


 ここの訓練施設では認められた訓練兵にのみ、薄められたアルコールを支給している。しかし、バーの入り口には三人の武装した監視兵が居たし、入る時も身分証を提示しなければならなかった。


 セーフティ・オブ・ホープ社と言う民間軍議企業(PMC)と米軍が連携して行っている外傷性脳損傷(TBI)や心的外傷後ストレス障害(PTSD)の次世代治療施設、それがここだ。


 男の声は低く、俺の心に突き立った。男の繊細な指が揺らすグラスからは冷たい氷の音がした。


「それにマッチョなベテランはこういう状況になれ過ぎて、少年を助けない。一概には言えないがな……だからさ」と男は口の端を歪めた。


「ベテランだって助けるかもしれんだろう」俺は酒を煽り、男を見た。男は微かに微笑んでいるように見えた。


「何がおかしい」


 男はふと、目じりを触り、「いいや、おかしいなと思ってさ」


 涙を拭いているのだと、気づいたのは男の指が机の上に戻ってからだった。


「殺している数が多い俺たちは贖罪の念から彼らを見捨てられない。マッチョになれなかったどうしようもない孤独な0I機関の奴らだけさ。それも戦場から蹴り飛ばされたな。俺はグレイ、よろしく」男は手を差し出した。


俺は自然と男の手に自分の手の平を重ねていた。


「俺はエメス。よろしく」俺は男がコードネームを名乗ったので、同じくコードネームを名乗る。


「あんたは何故ここに来たんだ?」俺は自分を抑えることが出来ず、訊いてしまう。


 グレイは一瞬、眉をひそめ、目を細めた。


「俺は数日前までカウンターテロ作戦に参加していた。そこで現場の指揮を巡って対立した。よそ者だからと言う理由や、人間化訓練の途中と言う理由でここに飛ばされた」


「何故、対立を?」俺は眼の前の男に親近感を覚えていることに気が付いた。理由はわからなかったが、彼に惹かれていた。


「人間爆弾を救うために危険を伴う作戦を計画し、勧めた。それだけさ」


 俺ははっとした。孤独が少し和らいだ気がした。俺は一人じゃないんだ。そう思えた。


「お前は?」グレイは俺を睨んだ。


「俺は……強襲作戦で少年兵を撃ち損ねた。似たようなもんだ」


「そうか、辛いことを訊いたな……」


グレイは静かに、だがはっきりと「だが、俺は、自分は正しい行いをしたと信じている」その声には真っ直ぐな響きがあった。だが少し震えている。


「そうか……」俺は窪んだグレイの眼を見つめた。そこには確かに輝きがあったように感じた。


「だから、お前とは気が合いそうだ」グレイはそう言って笑い、俺のグラスに酒を注いだ。俺は摂取量を確認し、手でそれを制す。


「おいおい、何、暗い話してるんだぁ」


 むわっと酒の臭いが鼻をつく。臭いの方に目をやると、そこに真っ赤な顔をした男が座っていた。男は腕をまくり上げ、太い腕を見せつけるようにしていた。


「お前は……」

 俺が訊こうとすると、


 男は猿のような笑い方をし、「俺は歩兵だ」


 赤い顔と相まって本当に猿のような男は名乗るのも忘れて、酒をあおった。


「相当飲んでいる」グレイが男を見て、顔をしかめた。


 多分、こいつはこの施設を卒業する者で、嬉しさのあまりはめを外しすぎてしまったのだろう。


「なぁあんたたちよぉ、あんたたちは死ぬ準備はできてんのかぁ?」男は大声を張り上げた。


 俺とグレイは顔を見合わせる。


「俺はできていない……」俺は、応えないと男が何回も訊いてきそうなので応える。


「これだからよ、俺たちはいつ死んでもおかしくない」歩兵を名乗る男は酒をあおった。


 死ぬ準備、そんな物が出来ているわけがない。俺は歩兵を睨む。


「だからよぉ、そんな暗い話してないで、もっと刹那を楽しもうや」


 俺には、今の自分にその考えがとても当てはまる様な気がした。


「確かに、俺もそう思う」俺はふと呟いた。えっ、と言うグレイの声は聞こえないふりをする。


「だよなぁ、流石ぁ」男は豪快に笑い、酒臭い息を吐き散らした。孤独が和らいだような不思議な昂揚感に包まれた。


「まぁ飲めや」男は俺のグラスに酒をたんまりと入れた。


「おい、大丈夫か。こいつ」グレイが後ろから声をかけた時には、俺は酒を口に運んでいた。こんなにも簡単に孤独が癒えるなんて、思いもしなかった。


「グレイ、お前も飲めよ」俺は振り返ってグレイを見た。しかし、グレイは首を振った。何故だろう、と思った頃に相当に酔っぱらっていた。


 酒を飲むたびに、テストの結果や将来の事や、自分の今後への不安が消えて行く。


「おい、エメス。飲みすぎだ」グレイの忠告も聞かず、俺は飲んだ。そのたびに、歩兵の男は笑った。少しずつ世界と一体となっているような幸福感に包まれていく。


 俺は意味もなく笑った。久しぶりだった。視界が揺れた。自分が何者かなんてどうでも良い気がする。


「なぁエメスよぉ」真っ赤になった歩兵が俺の耳に口をつける。


「なんだよ」俺は自分でもわかる様な酒臭い息を吐いて応える。やめとけって、と言うグレイの声が遠くで聞こえた気がした。


「女、漁りにいかないか?」


 歩兵の提案はとても素晴らしい物に感じられた。


「いいね」俺はハイテンションになって呟く。やりたいことをやらないなんて、と思った。


「いこうぜ、お二人さん」歩兵は俺とグレイを連れて、バーを出た。自然と足がふらついて、歩きづらかった。基地の明かりがネオンのように見えた。


「おっいたいた」歩兵の男は歩いている女性兵士に声をかけて、口説き始めた。


「うるせぇ酔っ払いが! 消えな」女は短髪を揺らして、ファックサイン。


「なぁ待てよ」歩兵は女の手を掴んだが、女はそれを乱暴に引きはがした。


「よそいきな!」女は鋭い視線を俺たちに向ける。膨れた唇をセクシーだった。唇が何度も頭の中で弾け、消える。


 早足に歩いていく女を見送り、歩兵と名乗る男は道路に唾を吐いた。


「誰がお前なんかと寝るか、このアバズレ!」男は声を張り上げ、その場で激しく吐いた。凄まじい悪臭がしたが、昨日まで居た拡張現実の戦場よりはましだった。


 何もかもが輝いて見え、全てが恍惚だった。


「おいおい……こんな所で」グレイが背をさすろうとするのを振りのけ、


 男は、「やめろ! 涼しい顔しやがって、次は外さねぇ」


 男はふらふらと歩きだし、俺もそれについて行った。


「おい、止めないのか」グレイの忠告を聞き流す。グレイは怒りと言うより、不安な顔をしていた。その声は震えていた。


 それから何人か口説いたが、すべて断られてしまった。罵られても、俺は笑っていた。


「次行こうぜ」歩兵は何度か吐いたが、平気だというふりをして、また女の元に走る。


 ぼんやりとした頭で、俺は歩兵の口説く女を眺めていたが、俺はふと違和感を覚える。


「なん……ですか」感情のこもっていない声で女は言う。


「やらせろよ!」大人しそうだと見たのか、男は女に急接近し、腕を乱暴に掴んだ。


「やめて、ください」女は微かな悲鳴を上げ、その瞬間、歩兵は空高く舞った。気が付いた頃には男を地面にたたき伏せられている。俺はこの女が特殊部隊の者だとすぐに察しが付いた。


「お……てめぇ」男は激昂し、立ち上がって女に顔を近づけた。酔いで麻痺しているのかもしれない。男は女の顔を見、驚いたように笑い、「こいつ、噂の不感症女じゃねえの?」男は下品に笑い、俺を見た。その猿のような顔に対し、どす黒い感情が沸くのを感じた。全身が炎を当てられたように熱い。


「お前だろ、感情のない人形ってのはよ」男は女の華奢な顎を掴み、顔を近づけた。不感症野郎が、そう言って、男は女の唇を奪おうとした。


「いい加減にしろ」そう言ったのは、さっきまで感情をあまり表に出さなかったグレイだった。しかし、やはり声は震えている。まるで自分の行いに責任はとれないと言っているかのように。


「なんだぁてめぇ。こいつの肩持つのかよ」

 グレイを睨みつけると同時に男は眠りについた。グレイが耳の近くに鋭い突きを入れたからだ。


 グレイは倒れた男を見て、激しく息を吐いていた。それはまるで初めて狩りを経験した少年のようだった。


 女はぼんやりとグレイを見つめていた。その瞳は激しく動揺している。レイプされかけたことではなく、男が倒れたことに驚いているようだ。


「どうせ覚えていないさ」グレイは吐き捨てるよう言い、「大丈夫か」その指は震えていた。「連れの行為、代わりに謝らせてくれ」


「いいえ、いいんです」女は抑揚のない声で言うと、すぐに去って行った。


 グレイはすぐに警備員に連絡し、男を回収してもらった。警備員は俺たちに早く部屋に戻れと催促した。


「おい!」俺は警備員が去ると思わず叫んだ。


「なんだ」グレイは俺を睨みつけた。しかし、瞳は震えていた。親に叱られる子供の眼だ。


「どうしてくれるんだ。やっとわかりあえる友達が出来たと思ったのに」


「あの女は多分0I機関隊員だ。俺たちと同じだよ、そっちの方が同胞だと思わないのか!」


「どうするんだ。元0Iは何もしなくても孤立しているって言うのに。自分から孤立してどうする。それに今だって監視され、点数が付けられているかもしれないってのに!」


 グレイは俺を睨みつけた。しかし、その焦点は定まらない。


「俺は……正しくありたかっただけだ。それにあいつなんて、お前の事を覚えちゃいない!」グレイは初めて大声をあげた。


「正しくありたかっただと……」俺は呻く。過去も未来もないのに、何故、そんなことを考えなければいけないのだ。


 俺は震えた。確かに正しくありたい。だが―


「そんな……でも、社会復帰に支障が出るかもしれない……お前のせいだ!」


 怖くなり、グレイに対し声を荒げていた。


 グレイは悲しそうな顔をして、うつむいていた。


「俺は……わからない」グレイは歯を食いしばり、震えた。


 グレイの言葉に俺は動揺した。


 ふと、グレイの目を見た。そこには俺の姿があった。記憶を無くし、戦場で孤独を生き、何が正しくて何が正しくないか分からないレイモンドの姿が。


 孤独が戻ってくる。自分は何者か、それが分からなくなっていく。だが、それはこれから分かるような気がする。


 重い沈黙の中、俺は何故かグレイを理解していた。


「すまん」俺は歯噛みし、こらえていた涙を流す。


「そんなことない」グレイも涙を流していた。


 多分、グレイも俺を理解していた。元0I機関隊員であり、孤独を生き、自分と他者の間の溝を常に感じていた。俺たちは一緒だ。


 泣いた後、二人で少しだけ笑った。


 俺は孤独ではない、ふっとそう思った。


「そう言えば、何故、チョコバーを?」


「初対面なのに、おこがましいが―」グレイは恥ずかしそうに笑う。

「―ほっとけなかったんだ」


 息が詰まるのを感じる。嫌ではない記憶が刻まれていく。

 

 俺の中に感情が溢れていく。


 こいつが間違っていたら、言ってあげたい。そうして、議論をしたい。こいつを信じられるなら付いて行きたい。それは友人としての純粋な感情。


 支えたい。共に戦いたい。何故かは、わからない。でも、今の自分にはそれが正しい気がした。

幸せだった


「もうすぐ、朝だな」俺はふっと笑う。


 朝の光が俺たちを包み込んでいく。爽やかだった。


「寒いな……」


「シールズの訓練はこんなもんじゃなかった」俺は偽履歴を思い出し、笑った。


「お前、シールズじゃないだろ」


 朝日が眩しかった。ふと、グレイが俺を見ている気がして、振り返るとやはりグレイが俺を見つめていた。


「どうした?」


 いいや、とグレイは首を振り、「お前が居なくなっているんじゃないか、なんて考えてしまってな」


「バカ言え、俺はレイモンド。レイとは呼ばないでくれ。好きじゃない」


 だって日本語でレイとはゼロの事を指すらしいから。俺がないという意味に聞こえるから。


 グレイは俺の名を口ずさみ、「俺はシモンだ。でも、グレイって呼んでくれ」

 

 俺たちは歩き出した。


「嫌だね、シモン」


「素直じゃないぜ、レイ」シモンはふっと微笑んだ。





 俺は仮想現実訓練の結果を待っていた。動悸で頭痛がする。喉がからからだった。検査と面談があるなんて知らなかった。どうしよう結果が悪かったら。


 俺は頭を抱え、ため息をつく。


 人間化、つまり社会復帰の条件は生体走査から測られる人間らしさのような物を基準値に戻すこと。

つまり人間社会で問題行動を起こさないことだという。ならば、訓練を受ける前の俺は何だったのか。記憶は何も答えなかった。


「レイ、どうしたんだ」低く透き通った声。見上げると、そこにシモンが居た。


「汚い部屋だな、少しは通信販売の箱を片づけたらどうだ」


 俺は、それは同伴の者のやつだ、と弁解し、箱を思い切り潰す。


「シモン……お前は心配じゃないのか?」俺は昨日の事や、それが検査に引っかかるのではないか、と言うことをシモンにぶつけた。


「ふむ、まぁ俺にもわからん」シモンは開き直った様子で、「が、たぶん大丈夫だろう」


「何故?」俺は自信ありげなシモンを見て、咄嗟に立ち上がった。俺は藁にもすがりたい気分だった。


「検査の結果が来れば、わかるさ」シモンはそう言って、俺の部屋から去って行った。


「本当かよ……」俺は汚い地面を眺めながら、ぼんやりと呟いた。


 検査の結果は医師から、直接言われる。


 俺は呼ばれた時間帯に病錬に向かい、真っ白なテントに入った。検査室に近づくにつれ、鼓動が早まる。息が詰まり、ぬるい汗が出る。


「やぁレイ君。調子はどうかな」準備をしている男が爽やかに話しかけてきた。


「まぁ普通ですよ」俺は愛想笑いを浮かべる。


「準備はもう終わる。さぁ来てくれ」


 男は俺を奥の部屋に招いた。部屋に入ると、すぐに寝かされ、何だかよく分からない機械に目に光を当てられ、頭にコードをたくさんつけられた。


 息を吐いて正常心を保とうとするが、全く効果がない。

 

 もうダメだ。そう思った時、誰かの強烈な視線を感じた。しかし、検査中なので、そちらを見ることはできなかった。強烈な視線だけが、そこにあった。


 俺の検査が終わると、次の兵士が病室を埋め尽くし始めていた。


「さぁレイ君、こちらへ」白衣を着た男に導かれ、カウンセリング部屋のような場所に呼ばれた。そこには頬がげっそりと落ちた、目の窪んだ男が居た。さっきの視線はこいつの物だと気が付いた。始めて見る顔だった。


「こちらはヴィクター博士だ」ずっとヴィクターは俺を睨みつけていた。しわが刻まれた顔からは鋭い感情が感じられる。


「さて、検査の結果だが、良好だ。君は軽度PTSDで、外傷性脳損傷だが、気にする事はない。治療次第で、回復に向かうだろう」


「外傷性脳損傷とは?」俺は咄嗟に訊く。


「君は対テロ作戦中、簡易爆弾による衝撃を喰らっているね」ヴィクターが口を開く。


「ですが、ヘルメットを被っていましたし、傷跡は……」


「確かに君は爆風を浴びただけだ。だが、簡易爆弾による衝撃波は脳そのものに損傷を与える。その損傷によって引き起こされる症状を外傷性脳損傷と言う」


「症状は?」


「長期に続く頭痛、逆行性健忘、つまり物忘れだな。また集中や決断が難しい。コミュニケーション障害、読書が遅くなる。道に迷うことが多くなり、錯乱しやすくなる―」言葉を止め、メモするかね、とヴィクターは訊いてくる。


 俺は頷き、紙とペンをもらう。


「疲れやすく、元気ややる気が出ない。睡眠のパターンが変わる。頭がくらくらして、めまいやバランスを失ったりする。光や音に過敏になり注意散漫になる。目がかすむ、疲れやすい。耳鳴りがする。以上のような症状がある」


「ありがとうございました」俺はメモをポケットに突っ込む。


 白衣の男は爽やかに笑い、「だが、博士が言ったことは薬とナノマシンやアプリで直せる。君には日常での訓練を終え、それから普通の人間へと戻ってもらう。日常での人間化走査、とでも言う物に参加してもらうってわけだ。失敗したら、まぁ少し人間社会に出るのは遅くなるだろう。でも君はまだ二十二だろう、まだ人生は長い」白衣の男は笑った。


「本当ですか?」


「本当だよ」白衣の男は笑い、頷く。


 俺は震え、息を吐いた。不安と期待が全身を駆けまわる。自分が何処から来たのかを知り、自由に生きられる。


「兵士としての訓練は君次第だろう。君がスパイや軍人以外にも適性を持つかもしれんからね。そう、例えば……イラストレータとか、売れないかもだけれど」白衣の男が笑うと俺もつられて笑った。


 俺は微かに安心した。兵士以外にも自由に生き方が選べるのだ。


 それから雑談をして、検診は終わった。


 食堂で飯を食べていると、シモンが入ってきたのが見えた。俺はシモンの表情を見て、話しかけるか、かけまいか、迷った。


「お、レイ」迷っている間にシモンが俺を見つけ、声をかけてきた。


「どうだった?」


「普通だったよ」


「普通って?」俺は咄嗟に訊いた。


「日常訓練だってさ」


 俺はそれを聞いて、息を吐いた。


「お前は?」シモンは食事を始めながら訊いてくる。


「俺もさ、やったな」自然と笑みがこぼれた。


「良かった、心配したぜ」シモンも本当に嬉しそうだ。俺はシモンと手を合わせた。


「これで俺たちは死ななくて済む……」


 シモンは俺の言葉に顔を曇らせ、「そんなの噂じゃないか」


 俺は噂を真っ向から否定できない。試験に失敗した0I機関隊員は何処に行くのか。非人間でも人間でもない失敗作。多分、機密情報の塊。そんな者が処分されないはずがない。


「大丈夫さ。俺たちは人間社会に出てうまくやる。人間社会は楽園さ」シモンはふっと表情を和らげた。

戦場でもこの治療施設でもない所に行ける。俺もそれだけで嬉しかった。


「そうだな」


「お前、なんか何故か自信があっただろ。なんでだ?」


 シモンは俺の問いに微笑んで見せ、「ああ、あれか。あれは勘だよ。女と寝たいという欲望に従うのも、自分の正しいという行動をすることも元を正せば似たような行動だし、似たような脳内分泌を促すだろうと思ってさ」


「お前は女と寝たくないのか?」俺は訊いてから、はっとする。聞かなければ良かった。


「そりゃ興味がないわけじゃないさ。だが、昨日の自称歩兵みたいに、自分の欲望を暴走させることは正しくないと思ったんだ」


 俺はシモンに惹かれていた。


 シモンはふっと笑い、「逆に訊くが何故、少年にチョコバーをあげたんだ?」


 俺はうつむき、「俺は人間化訓練で失敗したくなかった。それだけだ。だから、少年に優しくした」


 シモンはこつこつと机を叩き、「人間の社会性なんてそんな物さ。助けられたいから助ける。裏切られたくないから、裏切らない。殺されたくないから、殺さない」


 言い終え、シモンは微笑む。お前は間違っていない、とでも言うように。


 俺はシモンの話に釘つけになる。その声は喧騒で包まれていた食堂で、何故かひときわ大きく耳に響いた。


「チョコバーの件やレイプの件での俺の行動がが本当に正しいかどうかは分からない。だが、俺は自分が正しいと信じたことをしたい。間違っていれば、誰かが止めてくれる。そんな確証が生まれたからな」シモンは照れて笑った。


「良かったな」俺は言いながら、自分が孤独を感じていないことに気が付いた。自分は何故、ここに居るのか。その答えも出た気がした。こいつのために戦おう。そして、自分の生きる意味を見つけてやる。


「よろしく頼むぜ、相棒」俺はシモンに拳を差し出した。


「改まってやることか?」シモンは笑い、俺の拳に拳をぶつける。


 それから、自分の行ってきた作戦のことや今まであった人、読んだ本、見た映画等を話した。シモンは楽しそうに会話をする男だった。


 話を聴くとシモンも俺と同じく、強襲作戦や暗殺に関わってきた一人だった。


「俺にもここに来る前の記憶はないよ」シモンは目を伏せて応えた。


「そうか……」俺は深いため息をつく。


「俺たちは何処から来たんだろうか」俺はふっと呟いた。


「俺はそれを知り、これからどこに行くのかを見極めたい。そのためにも日常訓練で合格し、外部の情報を手に入れよう」


「人間であるはずの俺たちが何故、人間化訓練なんてものを受けなければならんのかと言う事も分かると思う」俺は明確な目標が得られ、微かに震えた。


 シモンは頷き、「もしかしたら外の世界に出れば何かが分かるのかもしれない。風景を見て、何か思い出すかもしれないしな。本でしか読んだことがないが、俺たちは多分外の世界で生まれたんじゃないだろうか」


「かもな……どうしてそこを追われたのかは分からんが」


 シモンの顔にふっと影が覆う。「正しくなかったから、からなのだろうか……」


 シモンはチョコバーの事を言っているのだと俺は気が付いた。


「取りあえず日常訓練で上手くやって、早く合格するんだ」


 シモンは微笑み、ああ、と言った。


 自分は何者か。それを知るために外の世界に出る。俺は拳を無意識に握りしめていた。


読んで頂き、ありがとうございます。

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