天使の報告
夕方のカフェ・アベルトゥラでは、ちょうど最後の客が店を出たところだった。
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
客を表まで見送ったエステルは、店内に戻り、黒猫のルナに声を掛けた。
「さて、じゃああたしは時間に干渉したことの報告に行ってくるから、しばらく留守番お願いね」
「はいはいっと」
ルナの気のなさげな返事に微笑みながらうなずき、エステルは手で大きく円を描いた。
突如、何もない空間に扉が現れる。
そして、エステルが扉をくぐると、店内からエステルの姿は消え、同時に扉そのものも空気に溶けるようになくなった。
扉をくぐり抜けたエステルは、何もない空間にいた。上もなく下もなく、光さえもない闇の空間。
ただ、暖かく心地よい力だけが満ちた空間。
エステル自身、そこにおいては肉体を持たず、ただ一つの精神体として自我を保っているに過ぎない。
やがて、エステルの意識に直接呼びかける穏やかで低い声があった。
『エステル、エステルよ』
「はい神様。あたしはここにおります。エステルは時間に干渉した件の報告に参りました」
心の中で呼びかけに答えれば、すぐに返事が返ってくる。
『私は聴いている。話すがいい我が子よ』
「はい。一人の男性が事故で亡くした愛する女性を救うために自分の人生から24年分を代償としてメビウスの扉を通りました。
彼は、事故を止めることにより、自分の愛する者だけでなく、その事故の犠牲者となるはずだった大勢の人を結果的に救うことになりました」
『大勢の人の子らの命の灯火が消えた時、私は確かに痛みを感じた。
愛する者を亡くした者たちの悲しみの声に私は確かに同情を覚えた。
ゆえに、それらの死が取り消された時、私の心は歓んだ。……エステルよ、私はそのことを是認する』
エステルはほっと胸をなでおろした。
「ありがとうございます」
『人の子らの寿命は短い。その中から、24年分を犠牲として多くの命を救った、その者の自己犠牲を私は高く評価する。
全ての肉なる者の命の与え主である私は、その者の寿命にさらに24年を加えよう。私はその者の行為を是認した』
「神様、彼はきっと喜ぶことと思います」
『私に報告すべきことは以上か? エステルよ』
「はい。これだけでございます」
『ではエステルよ、行くがいい。汝はこれからも人の子らと共にあって彼らの歩みを見守り続けよ。私はこれからも汝と共にある』
「はい」
エステルの意識から、神の意識が離れていき、エステルは神の活動する力に満たされた、暖かく心地よい空間に一人残された。
ここは、俗に人が“天”とか“神界”と呼ぶ、物質界と一線を画す神の住む世界。
エステルにとってかつての住み慣れた世界。
エステルは、人間たちの営みを見守るよう物質界に遣わされた天使の一人だった。
多くの天使にとっては、愛する神と快適な天の住まいを離れて不自由な人間の肉体で物質界で暮らすことは辛い任務であったが、エステルはこの境遇に満足していた。
エステルは人を愛していた。
人が愛する者のために多くの犠牲を払う時、その場に共にいて歓びを分かち合い、時に力を分け与えて歓びに貢献すること。そのことから、エステルは天にいた時とは別種の充実感と満足感を味わっていた。
エステルにとって、アベルトゥラこそがいるべき場所だった。
「さて、ではあたしも戻りましょうか」
独り言とともに何もない空間に扉を出現させる。