第8話 今度はクレアが僕に魔術を教えて欲しい
普段感じたことのないような強烈な喉の渇きに襲われ、アトリは目を覚ます。昨晩テーブルに突っ伏したまま状態のまま眠っていたようだった。普段は飲まない酒を無理やり飲んだせいで頭が酷く重い。不自然な姿勢で凝り固まった身体を無理やり伸ばす。
大人たちがどうなったかと辺りを見渡せば、空き瓶や空きグラスと仲良くそこらに転がっているという表現が一番正しかった。柱時計を見ると時刻は午前四時。まあ、あと三時間もすれば、それぞれ起き出し、また普段通りの品の良い大人に戻ってくれることだろう。
クレアが部屋にいないことにアトリが気が付いた時、折よく庭からがさりと大きな物音がする。窓から外の様子を伺うとクレアが重そうな紙の束を両の手に抱えて運んでいく。テーブルに放置された水入れのぬるい水をグラスに注いで一気に飲み干し、アトリも庭へと向かう。
昨日の雷雨のせいか、早朝は妙に肌寒い。それでも空気にも湿り気が感じられないのはそもそもの気候が乾燥し始めたせいか。
「おはよう」
後れ毛がぴんと跳ねたポニーテールに声をかけると、クレアの華奢な背中が一瞬びくりと震える。昨晩と同じ白いブラウスの上にクリーム色のカーディガンを羽織っていてクレアも着替えてはいないようである。起き抜けでせっせと焚火の準備とは、いったい何の趣向だろう。
「おはよう。やだ、お酒臭いよ」
「まあ、それはお互いさま」
「私はそんなに飲んでいないもの」
「嘘をつけ。で、何してるの」
「いらない紙を燃やすついでに、焼き栗するの」
紙の束を指さした後に、クレアが丸々と太った栗が入った麻袋を嬉しそうに掲げる。良く見てみると準備が良いことに、鉄鍋に火ばさみ、厚手の布手袋まで用意している。
「何もこんな朝っぱらからやらなくとも」
「良いの。食べたいんだもの」
「焼き栗を食べるのが本命じゃないか。それにしても昨日の今日で、良くそんな重いものを食べられるな」
「もう、うるさいなあ」
クレアはブラウスの胸ポケットから小箱を取り出すと、芝居がかったしたり顔をアトリに見せつけてくる。
「見てよ」
「マッチがどうかした?」
「はじめてなの」
「ん?」
「実は、私の人生初のマッチ点火」
「ああ、そう」
「つれないやつめ」
クレアは火種を仕掛けた場所にしゃがみ込み、マッチ点火にとりかかる。魔術で処理できないことを冗談気味に嘆きつつ、マッチ棒を擦るが一本目を駄目にする。確かに物心付いた頃には簡単な属性魔術はクレアは使いこなしていたため、マッチなど不必要だったのか、とふと再認識する。クレアが二本目にて焚火の火種に火をつけることに成功すると、笑い顔を見せつけてくる。
昨日と今日、クレアの元気は明らかに不自然で空回り気味。二日酔いが原因か、頭と胃への不愉快な鈍痛も重く響き、表現し難い不快と苛立ち、混乱が交じり合って喉元を駆け上る。
「なんて顔してんだ」
遂に口に出してしまったことを若干後悔したが、もはや遅い。これはクレアと再会してからずっと感じていたことで、抑えることができなかった。
「私?」
「そう」
「生まれつきこの顔だし。それに良く見ると案外美人でしょう」
「ふざけるな。いつもと笑い方が違う」
クレアが黙りこくり、アトリの顔を静かに見つめてくる。口元の笑いの型が外れたクレアはほぼ無表情で、違和感の正体が目が笑っていないことだと気が付く。
クレアが燃え上がりつつある薪の炎へ視線を移し、そのままアトリに背を向ける。
「うーん、ここ最近は馴れない愛想笑いをし過ぎて、顔が固まったのかもねえ」
クレアが白い両頬を両手で揉むようにした後、今度は摘まむようにして引っ張る。クレアの頬は柔らかいらしく、存外に良く伸びる。
「そんなこと言ったって、どうしようもないじゃない。私にどうしろっていうの」
朝の日差しを逆光にして、クレアの黒い影が普段と同じ明るい口調の、だが渇いた声で言った。
そんなことはアトリにもわかっている。それでもクレアの状態が気に入らない。別にクレアを非難し、傷つけたいはずではない。自分でも何をはじめ、どう収束させたいのか訳がわからなくなっている。
「でも、愛想笑いしているだけ、私の方がまだましでしょう。私は周囲に不愉快を撒き散らしていないもの」
「何が言いたいんだ」
「君だけには言われたくないってこと。アトリはここ数年、ずっとつまらなそうな顔してるよね」
ぱちん、と火種から高熱を受けた薪が、鋭く弾けるような破裂音を返してくる。
「そうかな」
「怒った?」
「いや、クレアがそう言うのなら。まあ、そうなんだろうね」
「誤魔化すな」
「何が?」
「そういう言い回し。アトリは大分、かちんときてるでしょ」
思考をなだめつつ、全身の気を抜くことを強く強く意識する。アトリは、はあー、と大げさにため息をついた。
クレアの予想は正しく、柄にもなく衝動的に怒り出しそうになる気持ちを抑えている。昔からそうだが、何故かクレアの言葉は良くも悪くもアトリの踏み込まれたくない領域を的確に揺さぶってくる。
アトリは鉄鍋を置くための台となる手ごろな大きさの石を辺りを探して三つ見繕うと、焚火の中に火ばさみでさっさと配置する。薪の傍でしゃがみ込んでいる無言のクレアから生栗の入った鉄鍋を奪い取る。鍋を火にかけつつ、アトリはクレアの横にゆっくりと腰を下ろした。
「昔、私が魔術学院に一緒に入ろうって誘ったこと覚えてる?」
「うん。僕が行かないと決まったら、お前は泣き喚いて大変だった」
「そうだっけ」
「そうだよ」
クレアの表情を伺うつもりはなく、アトリは鉄鍋の状態に意識を集中させながら、時折火ばさみで焼き栗を底からかき混ぜる。クレアも焚火の方を見つめていて、お互い視線を合わせず、独り言を呟くように会話を紡ぐ。直前に口論染みた会話をした割に穏やかなのは、長年の付き合いのせいで、互いに悪意が更々ないことが分かりきっているからか。
「ねえ、アトリ」
「何?」
「私が送った手紙、読んでくれていた?」
「読んでた」
「面白かった?」
「良い勉強になったよ。暇つぶしにもってこいだった」
「それは良かった」
「うん」
「アトリは今でも魔術師にはなる気がないの?」
「まあ、ないね」
「そっか」
ぱんっ、とできそこないの薄い栗の実が鉄鍋の上で弾け、どこかへ飛んでいった。
「なあ、クレア」
「なあに」
「どうして、魔術師を目指そうと思ったんだ?」
「かっこ良いからね」
「ずいぶん単純な理由だな」
「はい。これね」
「はあ」
クレアが紙の束からすっと一枚取り出してアトリに見せる。紙にはどこか見覚えのある下手くそな字で
「かっこいい魔法使いになる」と書いてある。
「アトリが言ったんだよ、それ。私は影響されただけ」
「みたいだねえ」
「そう」
「……そうだっけ」
「そうだよ!」
「もう。アトリは全部忘れちゃったんだね。私が魔術と接するようになったきっかけは君だからね」
少し怒った風ではあるがクレアの表情には、既に陰鬱の影は感じられない。焚火の炎も安定しており、穏やかな暖かさのみを返してくる。アトリは鉄鍋のふたを閉め、栗を蒸し焼きにしてやる。
「私と初めて会った日のこと覚えてる?」
「シートン家に引き取られてすぐだったと思うけど。だいぶ小さかったし、もうあまり記憶がないかな」
「私も大して覚えてはないんだけどね。昔のアトリって、もっと、なんていうか、きちんとしていたよね」
「今はそうでなくて、悪かったな」
「今の方がずっと良いよ。昔は畏まった感じで、目つきもなんだか怖くて、睨め付けられるみたいな風だったし」
「ふーん」
「でも、魔術の話になると、小難しい魔術書片手に一体何が面白いんだか、嬉しそうにしてたよね。でも、やたらに熱心だったから、私も興味を持ってね。そしたらアトリが私に魔術を教えてくれて、それから一緒に魔術の練習をするようになって。楽しかったなあ」
「アトリは途中で辞めちゃったけどね」
「まあ、そうだね」
「私が続けていれば、アトリもそのうち興味を取り戻すかなと思って、待っていたんだけど。私も辞めることになるとはねえ」
――年の割には聡いようだから、一つ忠告しといてあげましょう。
辞めたくなかった。眼前のクレアが呟いたのか、かつて自分自身が呟いた記憶が思い起こされたのか。幼い頃の陰鬱な記憶の面影が断片的に蘇っては、薪が弾ける音に掻き消され、眼前の炎の揺らめきに溶けていく。
「なあ」
「ん?」
「これ、燃やすのか?」
なんとなくそんな気がしていたが、クレアが焼き栗の焚火で燃やそうとしている紙の束は、やはり魔術に関する書籍一式に、長年使い古したノート。取り組み始めてから長年書き留めていたであろう覚書の束らしかった。
「その中には昔アトリが魔術を辞める時に、私に渡してくれた魔術書も入ってる」
「けど、私にはもう必要ないからね。それに未練がましくとっておくと、ついつい魔術を使いたくなるかもしれないし」
既にこのやり取りが、クレアが大好きな魔術と決別するための儀式なのだと分かっていた。そして、クレアが魔術を手放した時点で、アトリ自身の魔術との細い繋がりが完全に切れることも。ただそれ以上に、子供の我儘に似た感情的なものだったが、アトリはクレアに魔術を手放して欲しくなかった。
「わかったよ」
「うん」
「これは、今度は、僕が引き取ることにする。だから燃やさなくていい」
「うん」
「それと」
――縁者でもない貴方がでしゃばるなんて、おこがましいのではなくて?
忌まわしい呪言が脳裏を繰り返し掠めるが、幼かった当時は当時として、もはやここ数年にいたってはアトリを縛る程の力はなく、境遇にいじけて時の流れに身を任せたのは結局アトリ自身の決めたこと。
一体自分は何がしたくて、何をすべきなのか。アトリはクレアの顔を真っすぐに見る。アトリを見返したクレアの瞳には大粒の涙が零れ、なだらかな頬を伝っては流れ落ちていく。思えば魔女の戯言にこの世をなんとなく悟った気になったあの日からはもう十年近くの年月が過ぎている。それに加えて、クレアまで泣かせなければ考えを決められなかった自分が心底腹立たしく、躊躇なく言葉を口にすることができた。
「今度はクレアが僕に魔術を教えて欲しい」
「本気なの?」
「ああ」
「嘘」
「嘘じゃない」
「気が変わったとか、後で忘れたなんて言わせないんだからね」
「うん」
正直良くも悪くも、昔の感情の仔細はもう思い出せないし、幼い頃の自分が言った「かっこいい魔法使い」の言葉の意味も最早捉えらえきれない。しかし、自分のためにも、クレアのためにも、魔術師を目指すことが正解だと確信が持てた、ような気がしている。
クレアの瞳が大きく開く。
「まだわかっていないようだけどさ。まあ、今日のところはこれ位にしといてやる」
涙を掌で拭いながら、クレアがアトリの胸のあたりを握りこぶしでこつんと小突いてくる。アトリがハンカチを取り出して涙を拭ってやろうとすると、流石に気恥ずかしいのか、クレアが上半身を反らして器用に避けてくる。それでも構わず、アトリは逃げようとするクレアを無理やりとっ捕まえると、クレアの顔を少々手荒に拭いてやる。もみくちゃになったクレアが、くしゃくしゃに笑った。
「じゃあさ、まず、魔術学院主催の魔術大会で新人賞ね」
「ん?」
「あと、年間最優秀生徒。まあ譲歩して、在学中に一回は取ってくれれば良いかなあ」
「んん?」
「ああそうだ。四大迷宮制覇」
「はあ」
「モーダー・コズ賞も」
「それは知らないし、見当もつかない」
「まったく。勉強不足だねえ。あとで教えるよ」
「ああ、これは、大変だ」
「そうだよ。私からの引き継ぎとはそういう事だからね」
「うん。承知してる」
「それにしても、これはどこから図っていた?」
「来てくれたら良いなと思っただけだよ。アトリが来なかったら、そのまま燃やしていたし」
「それでも、アトリはやっぱり来てくれるんだもんね。そういうところ、昔から本当に凄いよね」
「それはどうも。ほれ、これ食べ頃だよ」
穏やかなぱちぱちぱちという音と、香ばしい香りで存在を主張し始めたので、アトリはクレアに立派な大きさの焼き栗を選んで渡してやる。アトリもついでに手ごろなものを一つ選び取る。
隣に座る泣き笑いで焼き栗を頬張る少女に心からの敬意と感謝をしつつ、アトリはこれから先に起こるであろう厄介事どもに立ち向かう決意と、対応を真剣に考え始めていた。