第7話 ああ、ともかくだ、まあ、そうなんだよ
アトリとクレアが居間に戻ると、アトリの大体の予想に反し、テーブル席の大人たちは秩序を取り戻しており、和やかに歓談しつつ酒を嗜んでいるのだった。唯一異様だったのは、一体何が起きてそうなったのか、エリオがつけていたタイをカトルが頭に巻いていたことで、それを誰も気にも留めてもいない。それでもまあ、また明日から世のため、領民のため、家族のために尽力してくれるのであれば、これ位の醜態なら神様だっていくらでも見逃してくれる。
「クレアちゃんは、これからどうするのかしら?」
クレアが席に着くなり、のんびりした口調でカレンが問いかける。正直訊きにくい話題だったが、普段は思慮深く、回りくどい言い回しの母でも、酔っぱらっているのであれば躊躇なく思い付きを口にする。
「うーん、今はまだ未定です」
「旅行なんかどうかしら。暖かい南方でバカンスだとか」
「今まで好きにさせてもらっていた訳ですし、そうはいきません」
これ頂きますと、クレアがグラスの琥珀色の酒を一気に煽り、あらまあ、とカレンが呑気な歓声を上げる。少し零れた口元の酒をハンカチで拭っているクレアの耳が真っ赤に染まったのを見て、よせば良いのにとアトリは息をつく。
「花嫁修業でもして、お家のために貢献することにしましょうか。お父様、嫁いでほしい候補とかいらっしゃる?」
父親に向け、冗談めいたような口調で流し目を送ると、クレアが右の拳を握りしめて立ち上がる。
「あほう、我がヘイルズ家の体制は既に盤石、小娘の小細工など当てにするかい」
カトルの顔も既に耳まで赤くなっている。カトルは普段は酒を飲まないようにしているのだが、その理由は飲むとすぐに記憶をなくしてしまうから。クレアもその性質を色濃く受け継いでいるが、この父娘は酒があまり強くないし、何故だか酔っぱらうと動きが芝居染みるし、やたらに大仰になる。
「あら。そうなのですか?」
勇ましい夫の言葉に妻のリリアが聞き返す。たらふく酒を飲んでいるはずなのだが、こちらは顔に変化なく至って冷静。何故だか毒を含んだ言い回しのようにも聞こえるのはリリアの小奇麗にまとまった顔立ちや落ち着いた所作のせいか。
「ああ、ともかくだ、まあ、そうなんだよ」
赤ら顔のカトルの様子をリリアがしばし眺め、ふふふっと微笑する。リリアがすっと席を立ちあがり、クレアを真っすぐにみる。
「クレア、結論を急ぐことはないの。あなたのお父様はね、これでもとても優秀なのよ。クレアを自由にさせるぐらいの余裕はいくらでもあるの。でも、恵まれた境遇にあることはきちんと理解していてね」
リリアがクレアの席まで向かい、立ちっぱなしのクレアの両肩に優しく手を乗せるようにして椅子に座らせる。固く握り締められていたクレアの右手を優しく開いてやる。
「……うん。ありがとう」
カトルが自分の頭に巻いたタイを取り去ると、ふんっと鼻息荒くソファ席へ放り投げる。苦笑しつつ、エリオがカトルのグラスに酒を注いでやると、すぐさまカトルは酒を一気に飲み干す。
「うーん。アトリ君はどうなんだ。ん、シートン家は君が継ぐのかね?」
ふと思いついたように、カトルが訊いてくる。まあ、この流れになるのは予想できていたが、この話題はアトリには具合があまり良くない。
「僕がシートン家を継ぐのは荷が重すぎる。勝手で申し訳ないけれど、そういうのはローグに任せようかと」
頭への血流が良いのは酒のお陰か。想像よりも淀みなく言葉が発せられている。
「それで、僕はそのうち、シートン家を出ようと思っているのです」
ヘイルズ夫妻が顔を見合わせる。それはそのはずで、この件について両親以外に話したのは今回が初めて。アトリは意図的に両親の顔を見ないようにしてグラスの酒を飲む。それでも、エリオの眉間に微かに皺が寄り、カレンの背筋が少し丸まったのには嫌でも気づく。
「アトリ、お前は本当にそれで良いんだな?」
「ローグが生まれた時から考えていたことだからね」
「王都の授爵規定を気にしているのであれば、それは問題ない。お前を引き取ると決めた時に既に取り計らい済みだ」
「前にも話したけれど、規定上がどうであれ、今となっては僕が爵位を継ぐのは道理が合わない。道理に合わないことはすべきじゃない」
「分かった。好きなようにしなさい」エリオが言った。
「うん、ありがとう」
「あてはあるのか?」
「カトルさんと王都に行っていた時にね。魔道具の取引関連でいくつか候補がある」
「でも、今すぐって訳ではないでしょう?」
カレンの不安げな感情を打ち消すことができるよう、アトリはきっぱりとした受け答えを意識する。
「うん。春には家を出る予定で考えてる」
それでも両親の表情を直視する程の勇気はなく、アトリはグラスに残っていた酒を一気に飲み干す。クレアの様子が気にかかったが、既に酔いつぶれるようにして既に机に突っ伏していたのは幸いだった。
「もう少し、お酒頂いても良いですか?」
「おう、アトリくん、もっと飲め」
カトルに注いで貰った謎の古酒をアトリは勢い良く喉へ流し込む。喉から鼻へ突き抜けるむせ返るような灼熱を無表情で耐えつつ、これが正解で万事問題なし、と誰にも聞こえないように心の中で独り言ちる。
「そうかあ。アトリ君は独立するのかあ。寂しくなるねえ」
カトルが几帳面に整えられた顎髭をさする。
「ふふん、そうか。ならばアトリ君」
「なんでしょう」
「シートン家を継がないのであれば、うちに婿にくれば良い」
「はあ」
「魔道具関連に興味があるのだろう。それならば別に、これまで通りで良いじゃないか。今後も俺と一緒にやろう」
「おいカトル、婿って……それは急すぎる」
「暇で、花嫁修業予定で、器量よしで、進路未定の私の娘が丁度そこにいるしね。それに貴族とは違って王都への柵は薄い。俺は俺の選定でヘイルズ家と商会の未来を決める」
「えっ、あら、まあ、でもクレアなんて、まだまだ何もできませんわ」
「いえ、いえ、アトリだって人様のお家に出せるかどうか。あの子気ままなところがあるから」
「アトリ君は商才があると思うんだよ。魔道具系の技術にも造詣があるし、外にくれてやるのはもったいないだろ」
「お前は……言い出すことが突拍子がないんだよ。物事には順序というものがあってだな」
大人たちが、いちいち噛み合っているのかいないのか分からない会話をとりとめもなく続けているが、酔いの影響か、話の内容を理解する気が既に失せている。
ぼんやりした頭でアトリはクレアの方をちらりと見る。クレアは先程の一気飲みが効いたのか、既に安心しきった幸せそうな顔で寝息を立てており、アトリはひとりで苦笑する。席を立ち、ソファ席にあったカーディガンを取ってくると、クレアにそっと掛けてやる。
なんだかんだで、毎年このような話題があったりなかったり。そして次の日にはどうせ皆すべて忘れてしまっている。そんな暗黙の了解の内だからこそ、普段体面を繕いがちな僕らでも、心の内を言葉に出すことができている。
クレアを寝室まで担いでいくべきかと思案しているうちに思考すら面倒になり、クレアに習って顔をテーブルに伏してみる。一休みのつもりだったが、テーブルから伝わる冷たさ存外に心地よく、身体の気怠さが思考へ移っていき、そのまま意識が遠のいていった。