第4話 わたし、魔術がつかえないの
クレアが指す方をアトリが確認すると、伐採されて開けた土地の奥に広がる木々を背景に、不自然に大きな黒い影が浮かび上がっている。アンバランスに上半身だけが発達した異形の熊の魔物が大樹の幹のようにぴんと直立していた。一筋の風が吹き、緑と黄色が入り混じった木々の葉と魔物の赤黒い体毛が一緒にそよいでいる。あまりにも不自然な光景にアトリの思考が固まる。
熊の魔物の首が奇妙な柔軟さでぐるりと回り、アトリの視線と合う。魔物の瞳が一瞬赤く光ったように見え、直立から低い姿勢へ移行すると、強靭な両前足を主に使い、貧弱な後ろ脚を引き摺るようにしてじわりとじわりとアトリたちに向けて近付いてくる。
これはかなりまずいかもしれない、とアトリが思った瞬間、巨体をものともしない突風のような俊敏さで魔物が距離を一気に詰め、アトリたちの目の前に立ちふさがり、鋭い鉤爪を叩きつけるように振り下ろした。
アトリはクレアを抱えるようにして横に飛ぶ。鉤爪を攻撃が空を切る。魔物の攻撃があたり、薪拾い機が悲鳴のような鈍い金属音を立ててひしゃげた。
魔物は薪拾い機の発する音が気に障ったのか、執拗に薪拾い機を攻撃し続けている。可哀想な薪拾い機を囮にして、アトリとクレアは魔物から距離をとる。
「王都仕込みの魔術でここはひとつ仇を。あんな妙な機械でも工場の職人さんに頼んでわざわざ特注の車輪を作って貰ったり、動くまでに調整するのに結構時間かかったんだよね」
アトリはクレアの肩にぽんと手を置いた。クレアにかかれば、魔物など特に恐れるに足らずなはずで、実際、クレアが魔術学院に進学する前に森で今回と同じように熊型の魔物に襲われたことがあったが、クレアが魔術で難なく退治してしまったことがある。
「ごめん」
クレアは何故か渋い顔を返してくる。
「ん?」
「わたし、魔術がつかえないの」
「え?」
「だからさ、アトリ頼んだ! アレ、やっつけてよ」
アトリの手をするりと躱し、取り繕った笑顔のクレアがアトリの肩に代わりにぽんと手を置いた。
「なんだそれは」
「去年わたしが帰省した時に攻撃魔術教えてあげたでしょう。あれを使えば十分だと思うから」
「炎の矢だっけ?」
「そう」
クレアの視線から目をそらし、今度はアトリが苦い顔をする。
「ごめん、詠唱忘れた」
「なにぃー」
「だって、去年以来使っていないんだもの。ここらはいつもは平和なんだからさ。そんな物騒なものは暮らしに必要ないからね」
魔物は依然として薪拾い機の破壊に執心しており、今度は鉤爪を使って機械内部を抉っており、そろそろアトリも腹が立ってくる。攻撃を加えるのであれば、こちらにまだ関心がない今が好機だが、熱心に教えた魔術をすっかり忘れてしまったことへの意趣返しのつもりか。クレアは腕を組みアトリの顔をまっすぐに見つめているだけ。魔術を使う気など更々ないようだった。
「アトリ・シートン。あなたに任せたからね」
「わかったよ。ちょっとやってみるから。何が起こるか分からないから、クレアは離れて見てて」
久しぶりの魔術の行使で暴発するやもしれないため、アトリはひとまずクレアを自身の背後に下がらせる。赤黒い巨体の動きに注意深く睨みを利かせながら、アトリは去年の記憶を一生懸命に呼び起こしてみる。
だが、やはり詠唱を思い出すのは無理そうだった。呼び起こされるのはクレアが魔術を行使していた場面のみ。薄茶色の髪を揺らしつつ、黒いローブを翻し、しなやかな色素の薄い白い指から放たれる、すべてを切り裂くように赤く燃え上がる美しい炎の一閃だった。依然として、クレアの姿が思い浮かぶだけで一向に詠唱自体は思い出せない。
だが、そのときアトリの身体に奇妙な感覚が全身を駆け巡る。この感覚には覚えがあり、クレアに教えられて炎の矢を詠唱した感覚と似ていた。
「お、もしかしたら、いけるかもしれない」
「詠唱がやっと思い出せたの?」
「いや、思い出せてはいないんだけどさ」
きょとんとした表情のクレアを流目で確認した後、アトリは熊の魔物に意識を集中させる。
「失敗したら、援護の方、よろしく」
アトリの不審な動きに本能的に危険を感じ取ったのか、熊の化物は最早ぼろ瓦礫となり果てた薪拾い機を殴り飛ばすと、目を血走らせた憤怒の形相でアトリへ突進する。
「ええい、なんでもいいから炎よ炸裂しろ」
アトリは記憶中のクレアの幻影の動きをそのままに、異形の熊の化物へ向けて伸ばした人差し指を振り下ろす。
その瞬間、アトリの全身に滞留していた不思議な感覚が激流のように指先に収束していき、爆発的に解放される。放出された魔力が灼熱の一閃となり、飛び掛かってきた熊の化物に直撃する。
苦悶の呻きを漏らす時間すら与えなかった。圧倒的な火力の前に赤黒い巨躯が瞬時に炎上した。巻き起こった熱風の熱さに耐え切れずアトリは顔をそらす。
アトリがもう一度魔物の方へ顔を向けた時にはすべてが燃え尽きており、熊の魔物の力の源だったであろう魔石がひとつ転がっているだけだった。
「お見事」
形ばかりの拍手と、噴き出したようなクレアの笑い声が背後から聞こえてくる。
「あんなでたらめな詠唱で魔術を行使するとか凄すぎ。しかも教えたのと違うし。なんか威力も出鱈目に強いし。ちょっと、意味が全然分からない」
一時呆けていたアトリもクレアに釣られ、つい微笑んでしまう。
「正直自分でやって、自分が一番驚いていると思うよ」
アトリはその場にへたり込むように腰を下ろす。
「せっかく教えてもらった魔術を忘れたのはこっちが悪いけどさ。何もこんな実戦で復習させるかい、普通。お前、意地が悪いぞ」
「ごめん。ごめん」
大笑いしている顔を見られたくないのか、クレアが両掌で顔を覆ってはいるが、真っ赤になった耳を隠しきれていない。
「ここ数年で一番焦ったと思うよ」
「ごめんてば」
「何がわたし魔術がつかえないのだよ。人を試して面白がるのは良くない」
「ごめん、ごめん」
大笑いしている様子に反して、クレアの笑い声に不自然な影を感じたのはその時だった。心が妙にざわめき始め、アトリは急いでクレアの元に駆け寄った。
「わたしがもう魔術がつかえないのは、本当なの」と顔を伏し、表情を両手で隠したままのクレアが言った。
辛うじて生き残った青葉を吹き飛ばすように、伐採場の開けた土地に突如強烈な突風が吹き抜ける。生気を無くしたくすんだ色の葉が力なく吹き飛ばされ宙に舞う。快晴だった天候がいつの間にか陰っており、遠くの空から雷の唸りが聞こえ出す。豪雷雨の予感と共に雨がぽつりぽつりと降り始めた。