【零 參】
あの後、名も知らぬ男に礼を述べ僕はそのまま森へ足を踏み入れた。
森特有のひんやりと涼しい風が、僕の髪を撫でる。
既に春が終わり夏が近づくこの季節には、もってこいの涼しさだ。
なんというか、自然の涼しさってクーラーにはない温かみがあると思う。
涼しいのに温かいとはどういうことだって話だけれどさ。
僕はそのまま、道無き道を進んでいく。
響き渡る鳥の鳴き声と虫の音、そして風で身体を揺らす草花と木々の叙情的な声は、丁度良く合わさってまるで一つの合唱のように感じられた。
木々の葉の隙間から漏れる木漏れ日はスポットライトのようにも見える。
とすると、さしずめこの森は巨大なコンサート会場と言ったところだろうか。
それにしても、全く音楽に興味がない僕でも心から美しいと思える旋律だ。
今度誰か誘って一緒に来ようか。
そんな感じで僕は自然の合唱を楽しみながら、一方でさっきの男を思い出していた。
彼の能力、テレポートとか言っていたな。
僕のと交換してくれないだろうか。
能力。
この島に住む人間なら誰でも持ち合わせている力。
僕たちはこの力を持っているが故に、この島に隔離されている。
昔は能力者も普通の人も一緒に暮らしていたらしいが、五十年くらい前に能力者が日本で起こした大量殺人事件の一件から、全世界の能力者はどこか社会から離れた場所に隔離されることになってしまった。
迷惑な話である。
研究とかされたらどうするんだ。
まあ、実は研究はもう終わっているんだけどさ。
研究者の出した結論は、『能力者の能力は人間が進化したことによる産物だ』とのこと。
つまり僕達は普通の人間より、ワンステップ進化した存在なんだとか。
生物の進化にしたら少し早過ぎる気もするけれど、しかし能力者の殆どが虐めを経験していたり劣悪な家庭環境だったりといったことを鑑みれば、なんとなく頷ける結論ではある。
「あれ、先輩じゃないですか」
そんな由無し事を考えながら狭い道無き道を歩き、ようやく開けた場所に出たなと思ったら。
そこには先程別れたばかりの静樹後輩がこちらを向いて立ち尽くしていた。
何やってんの。
日光浴だろうか。
「小説の設定を考えていたんです。ここは静かで考え事が捗りますから、よく来るんです」
そう言って、彼女は少し照れたような顔になる。
ちょっと可愛いと思った。
「そういう先輩こそ何してるんですか」
言いながら、視線を僕から空へと移す静樹後輩。
なかなか絵になっていた。
負けてはいられないと、僕も空を仰ぐ。
多分、あまり絵にはなっていないだろう。
「まあ先輩のことですから散歩でもしてたんでしょう。先輩、すぐにふらふらどこかへ行っちゃいますからね」
空から視線を外さず、彼女はそう言った。
まあ、当たってる。
少し前までの僕なら、この時間に起きたら朝食を摂りそのまま二度寝するところではあるのだけれど、今の僕はそれができない。
できないっていうか、やりたくない。
流石に一日に何度も冒険したくはないからね。
「そうだ先輩、何か良いアイディアでも浮かびました?ほらさっき話したじゃないですか。小説の設定を考えてくださいって。忘れてたんですか?」
再びこちらを向いて尋ねてくる後輩。
忘れてはいなかった。
ただあまり本を読まない僕が小説の設定を考えるというのは、少し無茶がある話だ。
最後に読んだ小説なんて、ここに来る前に学校の授業でやった夏目漱石の『こころ』くらいのものだし。
僕がそう答えると静樹後輩は薄く微笑んだ。
「私は『こころ』が嫌いです」
…………。
何故?
何故突然そんなことを!?
この場に漱石さんがいたら泣かれちゃうよ?
「そもそも私、恋愛ものってあまり好きじゃないんですよね。ベタベタで甘ったるくて、まるで道路に吐き捨てられたガムのよう」
……いやそうかもしれないけどさ。
『こころ』は確かベタベタじゃないような……。
小説は読まなくても漫画は読む僕も、漫画雑誌とかで恋愛ものは飛ばしちゃう派ではあるから、まあ気持ちは分かるけど……。
「『こころ』もそうですよ。確か主人公とその友人の男の人の純愛ものでしたよね?やおいでもない私には正直理解できない物語でした」
あれ、そんな話だったっけ。
『こころ』ってそんな話だったっけ!
やおいとか言う単語が出てきちゃうような話だったっけ!
いや絶対違うと思う。
多分、『こころ』を題材にした二次創作か何かと間違えているのでは。
「ああ、なるほど。だから執筆者の名前が夏目漱石じゃなくて夏目漱右だったんですね。何か違うような気がしてましたが、それなら納得です」
いや気付けよ。
それくらい気付けよ。
それにしても、今日はよく外で人に会うなあ。
いつもはこの時間、出歩いてる人なんていないんだけど。
……って。
ちょっと待てよ?
さっきのテレポートの男は森の中から出てきた。
後輩は森の中にいた。
だとしたら二人は会ってるんじゃ……ってそうじゃない。
そこで僕は気付く。
夏目漱石と夏目漱右の違いに気付けというのなら、このことを僕はもっと早く気付くべきだった。
なんだ?後輩のハグさせてくれるという言葉に多少なりとも動揺していたとでもいうのか?
そんなことは……ない、はず。
「どうしたんですか先輩。珍しく真剣な顔しちゃって。残念ですけどそれくらいじゃあ、私はときめきませんよ」
僕はレストランから真っ直ぐこの森に来たはず。
なのに、ここに来た時には既に後輩が立っていた。
「お前は」
誰かが冷たい声で、‘‘そいつ”に向かって言った。
「お前は誰だ」
それはもしかしたら僕の声だったのかもしれない。
既に、木々も虫も鳥達も演奏するのを止めていた。