【零 弐】
食事を終え、それじゃあ小説の件よろしくお願いしますね、と意地悪な笑顔を浮かべた後輩と別れた僕は、少し外を歩くことにした。
右手には熊の手ステーキの入ったタッパー。
結局、僕は熊の手ステーキを食べなかった。というか、熊の手ステーキだけでなく他の料理も食べていない。
僕は朝食を抜く派の人間ではないので、本来ならレストランで何か口にしているところなのだが、今朝はとある事情で既にお腹いっぱいご飯を食べていたために何も食べなかったのだ。
というか僕はこれをどうすればいいんだ……。
一度取ってしまった手前(と言っても僕が取ったわけではないけれど)元の場所に戻すわけにもいかないし、捨てるわけにもいかないため、レストランの従業員さんにタッパーを貰ってそれに詰めて持ってきたこのステーキ。
こういうゲテモノ料理は、僕だけでなく誰だってそう簡単に食べれるものではないだろう。
しかし空腹は最高のスパイスという言葉もある。
故に今から自分の部屋に戻り、自室にある冷蔵庫の中に入れ、超空腹になったときに食べるという手を考えた。のだが、ここから自室に戻るのが面倒だったので却下。
僕の部屋、ホテルの最上階。
エレベーターは、故障中。
まあいいか。まだこの時間帯なら人は出歩いていないだろうし、ステーキを持った不審者がーなどと言われる心配もないだろう。
そう考え、僕は森の方へ向かって歩みを進めた。
この島は、絶海の孤島である。
そう聞くと、もしかしたらミステリー小説のファンはテンションが上がるかもしれないが、残念なことにこの島にあるのは不気味で如何にも殺人事件が起こりそうな館ではなく、高層マンション程の高さの四つのホテルだけである。
それ以外は、完全に自然のままだ。
ゴミが流れ着いていてあまり綺麗ではない浜辺や、野生動物が弱肉強食を繰り広げている深い森、少し歩けば登山に適しているなめらかな斜面の山などがある。
結論から言うと、僕達はこの島に閉じ込められている。
そう聞くと、やはりミステリー小説のファンはテンションが上がってしまうかもしれない。
だけど、案外僕らはこの暮らしを気に入っている。
何故なら、生活する上で必要最低限な物が殆ど揃っているのだ。
お腹が空いたなら四つのホテルにそれぞれあるレストランで食事をすれば良いし、寝る場所は言わずもがなホテルがあるため、割り振られた自室で就寝すれば良い。
自室に完備されているものはシャワーやトイレといったものからエアコンや掃除機といった家電製品(因みにテレビはない)、レストランが存在するのに何故かあるキッチンや冷蔵庫など、普通の家にある物と全く変わらない。
更には、それ以外に必要な物がある場合は、ホテルの従業員に頼むことで一人一ヶ月に一回島の外から頼んだ物を持ってきてくれる。
服が何着か欲しいと言えば月末にそれが自室に送られてくるのだ。ただ、大きすぎる物や多すぎる物は駄目らしい。
しかしそれ以外ならなんでも良いのである。この島で暮らす人の中には、従業員に猫を頼んだ人もいる。
自室の中だけでちゃんと飼えるならば、それも許されるのだ。
また、ミステリー小説ファンには非常に申し訳ないのだが、殺人事件とかそういった物騒なことも、今のところはない。
多分、これからもないだろう。
さて、では何故僕たちはこの島に閉じ込められているのか。
それは……
「うわっ!びっくりした……」
と、
まさにこれからぐだくだ世界観説明タイムだ、というところで僕は森から出てくる人に出くわした。
ワックスかなんかで髪の毛をツンツンに塗り固めている男で、年齢は僕とそう変わらないくらいだろうか。
目つきが鋭く、普通に不良にしか見えない。
というか不良だった。
「不良じゃねーよ」
森から出てきたということは今まで森の中で何かをしていたということだろうけれど、一体何を……。
もしかしたら死体を埋めるとかなんとか、ミステリーファンの喜ぶようなことをしていたのかもしれない。
「そんなことするわけないだろ……」
いやもしかしたら森の中の動物に優しくして、不良が動物を可愛がっているという、ありきたりなギャップ萌えを狙っていたのかもしれない。
だとしたら残念なことに時間帯を間違えたな。
この時間、森に行く奴は少ない。
行くとしても僕のような奴くらいなものなので、残念ながら彼の計画は失敗に終わってしまった。
さっきから肩を小刻みに震わしているし、僕の睨んだ通りである様子。
「違うっつーの!俺はただ寝れなくて散歩してただけなんだよ!」
そう言って、彼は嘆息した。
本当に眠れていないのだろう。顔色が悪く、少し辛そうだ。
「散歩したら疲れて眠くなるとも思ったんだ。だけど一向に眠たくならない。んで、そろそろ腹も減ったし何か食べようってことで帰ってきたんだ」
なるほど。しかし残念なことに不眠症の人にできるようなアドバイスを僕は持ち合わせていない。
まあ現在の僕も不眠症に似たようなことになっているけれど、しかし彼のそれとは全くの別物だろうし。
それでも何かできることはないだろうか……、そう考えていた僕はふと良いことを思いついた。
このステーキをあげれば、眠くなるかは分からないけれど、お腹は満たされるのでは。
なにより邪魔な物がなくなって僕としても大助かりである。
後輩に味の感想を求められたら、適当に答えてやればいい。
そう考え、僕は彼にステーキを手渡した。
普通にいらないと言われた。
僕もいらない。
どうするんだこれ。
「俺は食べないけど、自分の部屋の冷蔵庫に入れたいっていうんなら、手伝うことができると思うぜ」
そう言い、僕の部屋番号を尋ねてくる男。
自らパシリになってくれるというのだろうか。
「違う違う。俺の《能力》を使うのさ」
彼はステーキの入ったタッパーに左手の平を当て目を閉じた。
すると、何ということだろうか。僕の右手にあったタッパーがなくなっているではないか。
「俺の能力はテレポート、つっても小さい物しかテレポートさせられないんだけどな。でも案外役に立つだろ?」
そう言って彼は力なく笑った。