其の一
暗闇の中、焚火の炎が揺らいでいた。
レオンは新たな薪を火の中へ投じ、音を立てて割れていく木片をぼんやりと見つめていた。
幕舎は立てていない。部下たちは具足を纏ったまま地面に直接横になり、体を休めていた。少し離れたところでは、レオンたちが乗ってきた馬たちが静かに草を食んでいる。
戦場となるモーリス平原から十里(五キロ)ほど南に離れているとはいえ、ここも立派な戦場なのだ。警戒を怠るわけにはいかない。
絶えず斥候は放っているが、今のところ敵の斥候と出くわしたという報告は受けていない。
そろそろ見張りの交代の時間だった。レオンの向かいに座っていた男が立ち上がり、闇の中へと消えていく。入れ替わり戻ってきたのは、具足を纏った若い女性だ。
「リアラか。何かあったか?」
「いえ、静かなものですね。本当にここが戦場だなんて信じられないぐらいです」
リアラは兜を外すと、小さな嘆息と共に首を振った。
リアラ・サルジャノーン。レオンの隊で副官を務めており、また唯一の女性将校でもある。歳はレオンと同じく今年で二十四になるはずだ。彼女の勝気な気性を表すかのように、鮮やかなクリムゾンレッドの髪は肩口で切り揃えられている。少し幼さを感じさせる大きな瞳の色もまた赤。感情的になりやすいという欠点を持ってはいるが、指揮能力は高く、武術の腕に関しても彼女に剣で勝てる者はそうそういない。
リアラはレオンの向かいに腰を下ろすと、東の方へと視線を向ける。
レオンもまた同じ方へ視線を向けるが、そこには闇が広がっているだけだ。
「あいつらは今頃酒宴の最中ですか。いい気なものですね」
リアラの言葉には明らかな怒気が孕まれていた。
「お前の気持ちは分かる。だが、これも任務だ」
「それは、分かっていますが……」
リアラは唇を尖らせると、不貞腐れたように足元へと視線を落とした。こういうところは、まだまだ少女らしいなとレオンは微笑ましい気持ちで彼女を見つめた。
「しかし、このような下らない任務に就くことになるなんて思いもしませんでしたよ」
リアラの口調から皮肉は感じられない。本気でそう思っているのだろう。
そしてそれにはレオンも同じ思いだった。
レオンたちはある任務を受けている。その任務とは、ルーデルスという男の護衛だった。
ルーデルス・フォンデウス。彼もまたレオンと同じく、自分の部隊を持つ将校だ。だが彼はレオンやリアラのように厳しい選抜を潜り抜けて兵になったわけではない。軍部へ賄賂を贈り、手を回すことで上級将校の地位を手に入れていた。軍には利権が多い。何も敵と戦うだけが軍の仕事というわけではない。軍服の支給や食料の管理など、戦闘とは程遠い部署も存在するのだ。そしてそういうところでは、贈賄などの行為が頻繁に繰り返される。大金が手に入るのだ。
そういった美味い汁だけを啜ろうと、軍に入ってくる者がここ最近で急激に増え続けていた。そしてそういう者たちは一度か二度の小さな戦闘を経験すると、生死とは程遠い事務職などに就いて行く。見えないところで賄賂を贈っているのだろう。
ルーデルスもまたそんな利益を啜ろうとする男の一人だった。彼の就いた任務は、モーリス平原から南に十里離れたところにあるキルト丘陵の巡回任務。主戦場からは遠く、補給基地ウォリス砦が近くにある。それ故に危険度は低く、初任務として当たるには妥当なものだと思われる。そして不測の事態に対応できるように護衛としてつくことになったのが、レオンたちだ。さすがに部隊の全てを連れてくるわけにはいかず、供回り二十騎のみを率いてきた。
そしてキルト丘陵へとやって来たルーデルスだが、巡回など一切行わず、ただウォレス砦に駐在しては毎夜のごとく酒宴を繰り広げているという始末。どうやらウォレス砦の中の兵たちもそれに加わっているようだ。元々彼らは真面目に任務に就くつもりなどなかったのだろう。
レオンたちは彼らと共にいることに嫌気が差し、こうして外に出てきていた。名目上は敵の捜索を兼ねて調練をすると言ってある。
「明日一日でこの任務も終わりだ。だからそうむくれるな」
「べ、別にむくれてなんていません。ただ、このまま軍が腐敗していくのを、黙って見ているのが辛くて……」
リアラの気持ちはレオンにも痛いほど分かった。
軍の腐敗は国の腐敗に繋がる。数ばかりが膨れ上がった帝都アーレンブルグ軍総勢五万の内、まともな戦力として機能するのはどれほどなのか。ましてや今は戦時中である。このままでいいのか、そんな焦りのような感情はレオンの中にも強く存在していた。
「隊長のお父上は、軍の腐敗をどう思われているのですか?」
リアラが窺うように上目でこちらを見つめてくる。
「父上、か……」
レオンの父。アレクセイ。帝都アーレンブルグ禁軍(近衛兵)を取りまとめる総帥。
父との思い出はほとんどない。家に帰ってくることもなく、言葉を交わした記憶も数えるほどしかなかった。
しかしそれでも父の存在はレオンに取って崇敬の対象だった。レオンが軍に入ったのも、父の背中に追いつきたいという思いがあったからだ。
だが軍に入って思い知る。父とのその距離を。あまりにも大きすぎる背中を。
誰もが父のような立派な将軍になれと言った。レオンもそうなれるよう必死に修練を積んできた。だがいつからか気おくれのようなものを感じるようになっていた。戦場に出て、多くの敵と戦った。いくつもの武勲を重ねた。だが、それでも父の背中に追いつくどころか、その影さえ踏めていない。父が遠すぎる。自分では父のようにはなれない。
「あ、その、ごめんなさい」
レオンの心境を汲み取ったか、リアラは目を伏せた。
「いや、気を遣わせてしまったな。こちらこそ、すまない。だが父とはここ数年顔を会わしていないんだ」
「そうなんですか。お忙しいのですね」
会話はそこで終わった。リアラは横になり、やがて静かな寝息を立てはじめた。
レオンは新たな薪を炎の中へ投じる。パキリと小気味いい音を立てて、薪が割れた。
翌朝、騎乗したルーデルスの部隊がレオンのところへとやって来た。
黒く長い髪を首の後ろで一つに束ねている。歳はまだ若い。町にいるゴロツキのような風貌のルーデルスは、馬上から蔑みを込めた視線でレオンを見下ろしていた。
「ここから南西に進んだところに、魔人どもの小さな村があるそうだ。帝都へ戻る手土産に、そこの住民を皆殺しにしていこうと思う。お前たちも同行するのだ」
「正気ですか!?」
レオンは思わず声を荒げてしまう。
この男は今何と言った。村を襲うと言った。皆殺し、と。つまり老若男女問わず、民を殺すと言ったのだ。
「我らの任務は丘陵の巡回だったはず。そのような行為は命令にはありません」
「そうだな、これは命令されたことではない。だが、考えてもみろ。このまま放っておけば、その村から兵に志願する者が出てくるかもしれないではないか。我々は前もって、敵の戦力の増強に繋がる可能性を摘んでおこうというのだよ」
「ですが、それはただの虐殺行為です。敵兵を斬れと言われれば、喜び勇んで敵を屠りましょう。しかし武器も持たぬ民草を斬るなど、私には出来ません」
「虐殺? おかしなことを言う。相手はあの魔人だぞ。魔人は女子供であろうと、一片の容赦もなく殺すのが帝都の法ではないか。むしろこれは称賛されるべき、正しき行い、正義なのだよ。なぁ、諸君?」
ルーデルスはそう言って、自分を取り囲む部下たちを見回す。彼らはさも当然というように頷き、これからの行為への期待に下卑た笑みを浮かべている。
「我々の行為に意見するということは、帝都に異を唱えると同意であるぞ。君はかの反逆の徒であるアベルのようになりたいというのか」
「っ!」
反逆の徒、アベル。二年前、魔人と内通していたとされ、処断された男の名前だった。
魔人と内通していた。人々はその事実に最大限の憎悪と嫌悪を込めて、アベルを反逆の徒と呼ぶ。
「さて、これ以上、まだ何か言いたいことでも?」
勝ち誇ったルーデルスの言葉に、レオンは俯き、唇を噛みしめた。
「隊長……」
後ろではリアラは不安そうな声を漏らしている。
どうするべきか。レオンにはいくら敵であるとはいえ、民草を斬ることなど出来ない。だが、このままルーデルスを行かせてしまってよいのか。
「ふん、腰抜けが。貴様のその態度は帝都に戻り次第、軍部に報告させてもらうぞ」
ルーデルスは騎手を返し、進路を南東へと向け、進み始める。
「騎乗! リアラは五騎でルーデルス隊長の前へ展開! 残りは僕と共に後方へ展開!」
決断するしかなかった。自分の任務はルーデルスの護衛なのだ。ここで護衛対象を見放すわけにはいかない。そして説得の機会があれば、このような馬鹿げたことを止めるよう説得する。
内心の鬱屈を吹き飛ばすように、大声で指示を飛ばした。リアラが復唱し、部下たちが駈けていく。
「……何事もなければいいが」
レオンは不安を振り払うように、自分の馬へと飛び乗った。