=7.5= -(1)
※=7.5=:全体的に濡れ場回と云って良い感があります※
夕飯を済ませてから、ルーディの「行ってきます」に「行ってらっしゃい」を云って、しばらく「経理」の作業をやってからシャワーを浴びて、シールは家を出た。
待ち合わせは、ここから歩いて10分ほどの場所。
ブラン・カテ・ビルを出て、ゆっくり歩いて10分後。
待ち合わせの場所は、このいかがわしい町の一角、ノア・カテがある通りの隣の通り。その150番地北の交差点。
ビルの壁に背中をつけて、首からぶら下げた時計を覗く。
あと5分。
こういう5分は、長い。…大体、待ち合わせの時刻を、相手が必ず守るという保証も無いから…。
ぼんやり、天を見上げる。
高くそびえるビルに、ちかちかと、無数の灯りが貼り付いている。
いかがわしい町の割に、乾いている、と思う。
生臭さが無い。
どうして、「いかがわしい町には生臭さがあるもの」という感覚が、あるのかは自分でもよく分からないが。
清潔感があることは、いいことだろうに。
だが、…少なくとも、ヴァーチャル・リアリティ・セックス・ショップが軒を連ねている以上、今頃、かなりの精液がこの町の中では放出されていることだろうに、なのに、生臭くなく乾いている、印象を持つことの方が、異常に思えて仕方ない。
どろどろしたものが、溢れていて正解なのだろうに。
くす、とシールが笑う。
…多分、生身を相手にしている俺だから思うんだ、などと考える。
この通りに軒を連ねた風俗店の者は、未だに生身を相手にしているような街娼を、蔑んでいる。
本当は、シールがおおっぴらにこの街角に立っていることの方が、傍からは異常だ。
ぷるっと首を振って、シールは、「何も考えないようにしよう」と考えた。
そうして、頭の中を空っぽにして、ぼーっとしていたら、ふと、鼻歌が漏れた。
lu---la---lala---lula----la---lalalala---lala
…それが、自分の耳に聞こえて、口を噤む。
思い出したくないことを思い出す歌だ。それを自分で歌っていれば世話がない。
時計を眺める。
遅れている。2分ほど。
そして、キョロキョロと頭を動かす。
…と、交差点の向こう側に、女が立っていて、こちらに手を振っていた。
walk ok と、交差点に歩道が出来、女が近づいてくる。
小さかった女の姿が、段々大きくなってきて、…少し、申し訳なさそうな顔をしているのが分かった。
目の前に立った女は、「ごめんなさい」とまず云った。
「ちょっと、遅れてしまったわ」
「別に」
軽く首を振る。
「…今日一晩、俺を自由にしていいんだから」
ここにずっと立たせていたって、金呉れるんなら別にあんたの好きだ、と続けた。
女は、微かに眉を顰めて、「それはそうでしょうけど」と呟く。
「……恋人みたいに、してって、云ったじゃない。そういうこと、云わないで?」
「ベッドの中じゃなくても?」
「そう……」
「……。分かった」
頷いてから、つ、と手を出して、女の腕と自分のそれを絡ませるようにしてから、手を繋いだ。
「これでいい?」
「…うん」
女は微かに笑う。
腕も、細い。
きゅ、と握り返してきた手と指も、柔らかくて、細い。
多分、自分が、思い切り力を入れたら、ぱきぱきと音を立てて砕けるだろうと、そんなことを思う。
「どうするんだ? これから。外で待ち合わせたんだ。このままホテルに行くのは嫌なんだろう?」
「うん…。あなた、ご飯は食べたの?」
「ああ」
「そうなの…」
「あんたはまだなのか? 別に付き合ってもいいよ」
「あのね。……あっ」
「何つっ立ってんだ、あばずれ」
後ろから歩いてきた男が、女にぶつかり、そんなことを吐き捨てて去っていった。
女が前のめりによろけ、シールは反射的に支えようと手を伸ばす。何とか、女は自分の足でふんばった。
女は俯いて、シールは、女の肩を掴んで引き寄せ、その男の背中を睨みつける。
「何だ、あいつ? あばずれ? …いきなり、あんなこと云うか、普通」
「……」
女は特に何も云わず、シールを見上げて、「酔ってるんじゃないの?」と苦笑した。
「こんな街に居る女だから、全部そう見えるんじゃない?」
こんな街で遊んでいる自分は棚に上げてな、とシールは相変わらず、段々小さくなるその後ろ姿を睨んでいた。
「……歩くか」
手を繋いで、どっちへ、ということもなく歩を進める。
女が、「そっちじゃない」とは云わないので、この方向で構わないのだろうと、シールは判断した。
「何云いかけたの、今」
「うん、あのね…。お酒、飲みに行かない? 食事も出来るとこ…」
「……」
「行きたいお店があるのよ。あのね、少し歩くけど、この裏の通り…、すごく寂しいところなんだけど」
シールは、微かに眉を寄せる。
「地下にある酒場なの。…今時、どこにもないような、古ぼけた雰囲気で、でも…」
「やめようよ」
やっぱりか、とシールは、女の言葉を遮って云った。
…少し、険しい声色だったから、女が「え?」と表情を曇らせる。
ちら、と女を見下ろして、やめよう、ともう一度云った。
「ノア・カテって店じゃないか?」
「知ってたの?」
「……俺、行きたくない」
ぷるっと首を振り、また前を見て歩いた。
女は、やっぱり表情を曇らせたまま、「どうして?」とシールを見上げる。
「……」
「ねえ?」
「あそこに行くんなら、俺、帰る」
シールは、問いかけには答えずにそう云って、女の手を離した。
「金は要らない」
「……え…」
シールは、そのまま立ち止まり、まだ足を止めるつもりなど無かった女は、1歩前に出て振り返る。
「え、え…っ」
「……」
くるり、とシールは踵を返して、「じゃあな」と1歩踏み出した。
「ま、待って?」
焦った声で女は呼び止める。
「分かった、分かったわ…。待って、帰らないで」
「……」
足を止めて、肩越しに振り返ると、女が、何となく泣きそうな顔をしていた。
駆け寄ってきて、そっと、二の腕に手を触れた。
「あなたが、そう云うんなら…、もういいわ。やめる」
溜息混じりの声で云って、どこか不安げな目をシールに向ける。
ふう、と息を吐いて、シールは再び、女の手を取った。
「……あんたさ」
「何?」
「あんたが、そんな顔、しなくたっていいじゃん」
首を傾げた後、女を見下ろす。
向きを変えて、また歩き始めた。
「俺が金持って逃げたってんなら分かるけど。ああそう、って放っておけばいいじゃないか、あんたの方が、俺の機嫌窺っててどうすんだ」
「だから、そんなこと云わないで」
「……」
女の声が、少しきつくなって、シールは云われたとおり口を噤んだ。
「そりゃ、あなたにしてみれば、私はただの客だろうけど。…私は、あなたを恋人みたいに思って、過ごしたいんだから…」
シールはつないでいた手を離し、その代わり、女の肩を抱いて引き寄せた。
「分かった。…ごめん」
それを聞いた女も、離された手を、シールの背中に回した。
「…どこ行く? …ノア・カテは勘弁して」
シールが、ちょっと申し訳なさそうな声になって云うと、女は苦笑した。
「もう、ホテルに行きましょ。…ルーム・サービスでいい」
「そう?」
「うん…」
女が相手だから、シールは、少々値は張るけども、部屋が広くて洒落ているホテルへ向かった。女客は、男客と違って、行為だけを目的にはしない。それだけで良ければ、シャワーとベッドしか無いような部屋で良いのだが、女はそうはいかない。
このホテルのフロントには、人が居ない。
文字の横にボタンがある、パネルが据えてある。
シールが、「ダブル」のボタンを押そうとしたが、女がそれに先だって、「スイート」を押した。
「……」
カードキーがパネルの下から「ビー」という音と共に出てきて、女がそれを取った。
エレベータに入ってから、シールは女を見下ろし、女はシールを見上げて、微かに笑った。
「払うの、あんただよ」
「分かってるわ」
「……」
やっぱり、金には困らない女らしい、と思って、シールは顔を上げ、かく、と首を傾げた。
扉が開いて、部屋の中に入ると、それは相当に広い部屋だった。
最初に入った部屋には、ベッドが無い。「リビング」ということになるだろうか、部屋の真ん中にはソファとテーブルがあった。
何だここは、とシールはぐるっと見渡して、壁にドアがあるのを知った。
それを開けてみると、そこがベッドルームだった。
ダブルベッドが二つもある。理屈では、4人が泊まれる。
無駄に広い、とシールは呆れた溜息をついて、ひとまずその扉は閉めた。
「素敵な部屋ね」
女は、やけに寒々しい声でそう云った。
シールは特に何も返さず、--今までホテルの部屋で見たことなどない--ソファに腰を下ろす。
女は、壁際にある端末機器に近寄って、
「あなたは?」
とシールに声を掛けた。
「え?」
「何か飲まない?」
端末機器の近くに、小さな扉があって、恐らくそれが「ルームサービス」の品のやってくる場所だ。端末は、インタフォンやキーロックと、メニューを兼ねている。
「…アイスコーヒー」
シールは、それだけ云う。
女が、くす、と笑って首を傾げた。
「お酒じゃないの?」
「…あんまり強くないんだ」
シールはそう云った後、少しおどけて云った。
「後で使い物にならなくなるかもしれない」
女は、苦笑混じりに首を傾げ、ぴぴ、とボタンを押した。
「じゃ、私もお酒は止めておく」
「付き合わなくたっていいじゃないか。飲みに行こうって云ったのはあんただ」
「私もそんなに好きじゃないの」
肩を竦め、女が云う。
今度は、シールが苦笑した。
女は、そのまま壁際で、部屋やホテル内部の案内を端末で眺めながら、到着を待った。
5分も待てば、すぐに「チン」という音とともに、扉が開いた。
蓋がされた皿は、もうトレイに載っていて、女が、そのトレイごとテーブルに運ぶ。
差し出されたアイスコーヒーのグラスを、シールは受け取り、こく、と一口飲み込んだ。
女が、向かいのソファに座ろうとしていたので、首を傾げて、「おい」と声を掛ける。
「何でそっちに座るんだよ」
「え?」
「こっちに何で座らないの」
一人がけのソファじゃない。
シールは、自分の隣に、あと3人は座れそうな長いすを叩いて、そう云った。
女は、ほ、と息を吐きながら微笑して、「そうね」と頷く。
テーブルに置いたトレイには、シチューの皿と琥珀色の液体が入ったグラスがあった。
「それは何?」
とシールがグラスを指す。
「アイスティよ」
「……健全だな」
くす、と笑って、シールは自分のコーヒーを啜った。
そうね、と云いながら、女はスプーンを取り、シチューを口に運ぶ。
「美味い?」
「さあ…。……美味しいとか不味いとか考えながら、食事したことがあんまり無いわ」
「…俺もだ」
以前は。
女は、ちら、とシールの方に顔を向けて、小さな声で云いにくそうに云う。
「ねえ、怒らないで。…どうして、ノア・カテに行きたくないの?」
「……」
グラスを傾けようとしていた手が一瞬止まり、次には無言のまま一口飲み込む。




