お義母さんの腸内熟成カリー 〜娘の代わり〜
『覚えてますよね』
水曜日の夜、高瀬直人は、食べかけのおにぎりを持ったままスマートフォンを見ていた。送信者は宮原澄江。妻だった美咲の母親である。
『私、言いましたよね』
次の吹き出しが現れた。
『必ずあなたに復讐しますから、って』
海苔が指に張りついた。その言葉なら覚えている。忘れた日はない。
『日曜日、うちへ来なさい』
そのあと、少し間があった。
『娘を守れなかったあなたには、娘の代わりに私がたっぷり食べさせてあげます』
食べさせる。何を。答えはすぐに届いた。
『お義母さん特製 腸内熟成カリー』
直人は眉を寄せた。続いて写真が一枚送られてくる。白い陶器、くすんだタイル。澄江の家の一階にある古い和式便所だった。美咲が何度も洋式に替えようと言い、そのたび澄江が「まだ使えるでしょう」と突っぱねていた、あの便所である。説明はない。十秒ほどして、もう一枚届いた。台所の大鍋だった。蓋がしてあって中身は見えない。その横にはカレー粉の缶が置かれている。
直人は二枚の写真を順番に見直した。
和式便所。大鍋。腸内。熟成。カリー。
「……なるほど」
誰もいない部屋で口にしてから、本当になるほどなのかと思った。
テーブルの上には、コンビニのおにぎりとインスタントの味噌汁が置いてある。三週間前にも、澄江から連絡は来ていた。
『今度、ご飯でも食べに来ますか』
直人はそのメッセージを十分ほど開いたままにしていた。行きたくなかったのではない。行きたかった。だから行けなかった。
澄江の家へ上がり、昔のように食卓へ座る。大きな皿にカレーをよそわれる。美咲が座っていた椅子だけが空いている。それでも澄江から「足りる?」などと聞かれる。そこまで想像すると、胸の奥に蓋をしていたものが動いた。
だから一時間後、
『ありがとうございます。でも大丈夫です。お気遣いなく』
と返した。
澄江からは、
『そう』
とだけ来た。
普通の食事なら断れた。
だが、復讐と言われると断れなかった。
*
八か月前、病院の廊下は夜なのに妙に明るかった。
直人は椅子に座り、事故の瞬間を繰り返し考えていた。青信号。交差点。右から迫ってきたヘッドライト。ブレーキ。衝撃。その三秒前なら何かできなかったか。五秒前なら。十分前なら。そもそも自分が運転しなければ。
警察官はあとで何度も説明した。相手の車が赤信号を無視して突っ込んできた。ドライブレコーダーにも残っている。避けようがなかった。直人に過失はない。
それでも運転席にいた三十四歳の直人は生き残り、助手席にいた三十二歳の美咲は死んだ。
廊下の向こうから澄江が走ってきた。直人が立ち上がって「お義母さん」と呼ぶと、澄江は胸元をつかんだ。
「あなたが運転してたんでしょう」
「……はい」
「どうして」
その先は、初め声にならなかった。澄江の指が直人のシャツを強くつまんだ。
「どうして美咲が死んで、あなたが生きてるの」
答えはなかった。
「すみません」
直人が言うと、澄江は手を離した。
「謝らないで。謝って済ませないで」
「……はい」
「絶対、許さない」
澄江の目は濡れていた。
「必ずあなたに復讐しますから」
直人は頷いた。
「はい」
澄江が復讐すると言ったことだけでなく、自分が「はい」と答えたことまで、八か月間忘れなかった。
*
直人は検索窓へ「腸内熟成カリー」と入力した。当然そんな料理は出てこない。「腸内熟成 カレー」と変えると腸活の記事が並んだ。「便 カレー 食べたら」まで打って、手を止める。検索欄だけを見れば、深夜に一人で何をしているのか分からない男だった。
ブラウザを閉じた。また開いた。別の言葉を入れようとしてやめた。
危険かどうか調べる意味はない。危険に決まっている。食べるものではない。
行かなければいい。
それだけだった。
冷蔵庫を開ける。ペットボトルの水、卵、使いかけのマヨネーズ。奥に賞味期限の切れたヨーグルト。扉を閉め、なぜかもう一度開ける。当然、何も増えてはいない。
五歳のころから、冷蔵庫とはそういうものだと思っていた。
直人が五歳のとき、両親は直人を育てることをやめた。その後は児童養護施設と親族の家をいくつか移った。食べるものはあった。寝る場所もあった。世話をしてくれる大人もいた。だから自分は不幸な子供ではなかった、と長いこと思っていた。
ただ、冷蔵庫を勝手に開けてもいい家を知らなかった。帰ってきたとき「おかえり」と言われることも、腹が減ったとき「何か食べる?」と聞かれることも知らなかった。
それで困ることはなかった。
自分には家族への憧れなどないのだと思っていた。
美咲と出会うまでは。
*
直人が二十九歳のころだった。
交際して半年ほど経った美咲に連れられ、初めて宮原家へ行った。澄江が作ったカレーを一皿食べ終えたところで、「食べなさいよ」と鍋の蓋を開けられた。
「十分いただきました」
「若い男がその程度で何言ってるの」
「二十九ですけど」
「私より若いでしょう」
「その判定方法だとかなり広いですね」
「遠慮してる?」
「胃袋が拒否しています」
「じゃあ肉だけ」
「なぜ増やすんですか」
隣で美咲が笑っていた。
「お母さん、人が食べてると嬉しいタイプなんだよ」
「意味が分からない」
「そのうち分かるよ」
結局、牛肉を二切れ追加された。帰り道、直人は「俺、嫌われてない?」と美咲に聞いた。
「なんで?」
「ずっと食わされてた」
「逆だよ」
「逆?」
「気に入られたんだよ」
直人には本気で意味が分からなかった。
三十歳で美咲と結婚してから、澄江の世話焼きはさらに遠慮がなくなった。冬に薄着で行けば「馬鹿なの?」と言われ、仕事が忙しいと知れば冷凍した惣菜を持たされた。風邪をひけば電話が来た。
「熱は」
「三十七度二分です」
「あるじゃない」
「微熱です」
「熱は熱でしょう」
「会社行きます」
「馬鹿なの?」
そう言われると、直人は妙に嬉しかった。嬉しい理由を考えるのは恥ずかしかったから、考えないようにした。
結婚二年目の正月、宮原家の玄関を開けたとき、直人はうっかり、
「ただいま」
と言った。
声に出してから間違いに気づいた。隣にいた美咲が直人を見た。訂正するより早く、台所から、
「おかえり。手洗ってきなさい」
と澄江の声が飛んできた。
美咲は何も言わず、ただ笑った。
洗面所へ向かう途中、直人は一度立ち止まった。胸のあたりに知らない痛みがあった。
痛いのに、嫌ではなかった。
*
三週間前、澄江から最初に来たのは、
『ちゃんと食べてますか』
だった。
直人はしばらく迷って、
『はい』
とだけ返した。
『何を』
『普通に食べています』
『普通って何』
そこまで来て、返信をやめた。
数日後に、
『今度、ご飯でも食べに来ますか』
と来た。
直人は断った。
そして今夜。
『必ずあなたに復讐しますから、って』
直人はその文をもう一度読んだ。
普通のカレーなら食べに行けない。
排泄物入りのカレーなら食べに行ける。
自分でもおかしな理屈だとは思った。
しかし、そうだった。
澄江の厚意を受け取る資格はない。
澄江の憎しみなら受け取る義務がある。
『分かりました。日曜日に伺います』
三十秒後、
『十二時』
と返ってきた。
*
日曜日、十一時五十八分。直人は澄江の家の前にいた。
ポケットには合鍵が入っている。結婚した年、澄江から渡されたものだった。
『美咲が忘れ物したとき、あんたが取りに来ればいいでしょう』
今日、返す。
カレーを食べる。澄江が望むだけ罰を受ける。それで終わりにする。
呼び鈴を押すと、「開いてるわよ」と懐かしい声が返ってきた。
玄関を開ける。口が勝手に動きかけた。
ただいま。
声になる前に止めた。
「……お邪魔します」
靴を脱いだところで、靴箱の下に青いスリッパを見つけた。八か月前まで直人が使っていたものだった。同じ場所にある。捨て忘れたのだろう。
履いてみると、足裏に自分の足の形のへこみが残っていた。
「来たの」
澄江が台所から顔を出した。直人を上から下まで見て、最初に言った。
「痩せたわね」
「そうですか」
「何キロ」
「量ってないです」
「ご飯食べてる?」
「はい」
「何を」
「普通に」
「普通って何」
「コンビニとか」
「それを食べてないって言うの」
三週間前と同じだった。
「そこ座ってて」
直人はダイニングへ入った。自分が昔座っていた椅子。食器棚の下段には、大きめの白いカレー皿がある。澄江が直人用に買ったものだった。
これもまだ捨てていない。
直人は椅子に座った。
台所から、玉ねぎの甘い匂いが漂っていた。
*
「それ、何ですか」
澄江がフライパンで褐色のものを混ぜている。
「玉ねぎ」
「ああ」
「何だと思ったの」
「別に」
「変な人」
澄江が鍋の蓋を開けた。湯気とともに、普通のカレーの匂いが広がった。牛肉と香辛料の匂い。直人が何度も嗅いだものだった。
それでも、安心はできなかった。
匂いくらい隠せるのかもしれない、と考えた。自分で考えて馬鹿だと思った。
「今日は全部食べてもらいますからね」
「……はい」
「残したら許さないから」
「分かっています」
澄江が振り返った。
「何、その返事」
「何がですか」
「死刑囚みたい」
「別に」
澄江は棚から黒っぽいものの入った瓶を出した。直人は視線を落とした。
見ないほうがいい。
知れば覚悟が鈍る。
今さら逃げる気はなかった。
「お義母さん」
呼んでしまってから、息が止まった。八か月ぶりだった。
澄江の木べらも一瞬止まった。
「何」
「……いえ」
「呼んだでしょう」
「あとでいいです」
「変なの」
また鍋を混ぜ始める。
直人はポケットの上から鍵に触れた。
*
十二時四十分。澄江が「もう少しね」と火を弱めたところで、直人は合鍵を取り出した。
テーブルに置く。
小さな金属音がした。
澄江が振り返った。
「何それ」
「鍵です」
「見れば分かる」
「返します」
澄江の手が止まった。
「なんで」
「もう必要ないので」
「誰が」
「僕が」
直人は鍵から手を離した。
「今日、全部食べます」
「……何を」
「お義母さんが出すものを」
「カレーでしょう」
「はい。それで、復讐は終わりにしてください」
澄江の顔から表情が消えた。
「何言ってるの」
「会社から福岡への転勤の話が出ています」
「聞いてないけど」
「今日言おうと思ってました」
「受けるの」
「たぶん」
「なんで」
「ちょうどいいので」
「何が」
直人は笑おうとした。自分でも分かるほど下手だった。
「もう、ここにいる理由もないですから。美咲もいないし、僕がここに来る理由もない。お義母さんだって、僕の顔を見るのは嫌でしょう」
澄江の指から木べらが落ちた。
乾いた音がした。
直人は立ち上がりかけた。
「すみません」
「座ってて」
「でも」
「いいから座って」
直人は座った。
「今日、復讐を全部受けます。それで最後にします」
澄江は何も言わなかった。
「美咲がいたから、僕はここに来られたんです。美咲がいたから、お義母さんにも……息子みたいに扱ってもらえた。でも、美咲を守れなかった」
「事故は」
「分かってます。僕に責任がないっていう話は、もう何度も聞きました」
「なら」
「でも僕が運転してた」
澄江の唇が動いた。
「もう、お義母さんって呼ぶのも、本当は変なんでしょう」
長い沈黙が落ちた。鍋の中で小さく泡が弾けた。
澄江は床の木べらを拾い、流しで洗った。水の音だけが続いた。
直人は返事を待った。
澄江は新しい木べらを取り出し、鍋を一度混ぜた。
「勝手なこと言わないで」
「え」
「カレー冷めるでしょう」
火を止めた。
*
澄江は食器棚を開け、直人用の大きな皿を迷わず取り出した。
捨て忘れていたのではない。
少なくとも、その皿がどれなのかは覚えている。
自分の皿と直人の皿を並べ、カレーをよそう。直人のほうへ牛肉が多く入った。気のせいかと思ったところで、澄江が鍋からもう一切れ拾い、直人の皿へ落とした。
冷蔵庫から赤黒い調味料の瓶を出す。
「辛いやつ」
直人の皿にだけ少し加えた。
「これ、まだあったんですか」
「なくなれば買うでしょう」
「……」
「これ入れないと物足りないって言ってたじゃない」
直人は皿を見る。
グリーンピースがない。
昔、澄江のカレーには必ず入っていた。直人がこっそり皿の端へ避けているのを美咲に見つかったことがある。
『三十過ぎる男がグリーンピースで遊んでる』
『遊んでない。避難させてる』
『どこへ』
『皿の端』
それ以来、澄江は直人の分だけ、よそう前にグリーンピースを避けていた。
今日もない。
「お義母さん」
「何」
「グリーンピース」
「嫌いでしょう」
「……はい」
「じゃあいいじゃない」
澄江は向かいに座った。
直人はカレーを見る。
復讐する相手の嫌いなものを、わざわざ取り除くだろうか。
だが病院で聞いた声も本物だった。
『必ずあなたに復讐しますから』
「食べなさい」
「はい」
スプーンを握る。米とルーをすくった。
手が震えた。
「直人君」
「大丈夫です」
「大丈夫に見えないけど」
「食べます」
口元へ運ぶ。
和式便所の白い陶器が浮かんだ。
身体が止まる。
それでも口を開いた。
これで澄江の気が済むなら。
今日で終われるなら。
食べた。
一度噛む。
二度。
直人の眉が動いた。
もう一口すくった。
玉ねぎの甘み。柔らかい牛肉。少し遅れて舌へ来る辛味。
知っている。
何十回もこの席で食べた。
「……普通のカレー」
澄江が怪訝そうに見る。
「当たり前でしょう」
「普通なんですか」
「何が」
「これ」
「カレーだけど」
「腸内熟成は」
澄江の顔が一瞬止まった。
「ああ」
立ち上がり、食器棚の下から古いノートを持ってきた。油染みのある表紙には『宮原家料理ノート』と書いてある。
「これ」
カレーのページを直人の前に広げた。
レシピの横に、青いボールペンの落書き。
『秘伝! お母さんの腸内熟成カリー』
下には、ひどく下手な和式便所の絵。
『じっくり熟成!!』
直人は黙ってそれを見る。
「美咲。中学生のころ」
その字は間違いなく美咲のものだった。大人になっても変わらなかった、妙に丸い「り」の形。
「くだらないでしょう」
「……くだらないですね」
「ほんとにね」
二人とも少し笑った。
笑いはすぐ消えた。
「じゃあ、便所の写真は」
「これの再現」
澄江が落書きを指す。
「似てるでしょう」
「似てるとかじゃなくて」
「何よ」
「いや、もういいです」
直人はまたカレーを口へ運んだ。
昔と同じ味だった。
*
半分ほど食べたところで、澄江が言った。
「ねえ。一口目、何であんな顔してたの」
「どんな顔ですか」
「死ぬ前みたいな」
「そんな顔してません」
「してた。何入ってると思ってたの」
「カレーです」
「普通のカレーだと思ってる人は、スプーン持ったまま固まらないでしょう」
直人は食べ続けた。
「直人君」
「聞かないほうがいいです」
「余計気になる」
「本当に」
「言いなさい」
直人は皿を見た。
「便所の写真」
「うん」
「腸内熟成」
「うん」
「復讐するって」
「言った」
澄江が待つ。
「……排泄物とか」
時間が止まった。
「何」
「だから、そういうものが入ってるのかと」
「……」
「だから言いたくなかったんです」
澄江は笑わなかった。
直人の皿を見る。もう半分なくなっている。
「じゃあ、あなた、それが入ってると思って……食べたの」
「はい」
「どうして」
直人はスプーンを置いた。
「復讐するって言ったから」
澄江の指がテーブルの上で止まった。
「お義母さんが、それを望んでるなら、食べるしかないと思いました」
澄江はしばらく直人を見ていた。それから立ち上がり、冷蔵庫から水を出した。コップへ注いで直人の前へ置く。
「飲みなさい」
「はい」
「ちゃんと」
直人が水を飲む間、澄江は窓際に立っていた。
「お義母さん」
「少し黙ってて」
直人は黙った。
窓の外から蝉の声が聞こえた。物干しには、美咲が買った黄色い洗濯ばさみが一つだけ混ざっている。
「私ね」
澄江は外を見たまま言った。
「本当にあんたが憎かったの」
直人は返事をしなかった。
「病院で言ったこと、嘘じゃないから」
「……はい」
「あなたが代わりに死ねばよかったって思った。しばらく、本当にそう思ってた。どうしたら苦しむかな、とか。美咲の代わりに、私がやらなきゃって」
澄江は椅子へ戻った。
「それが……二か月くらい前、駅前であんた見たのよ」
「僕を?」
「コンビニの袋持ってた。声はかけなかった」
「気づきませんでした」
「ずいぶん細くなってた」
澄江は自分の指を見た。
「それだけなんだけど。美咲が昔言ってたの思い出した。出張の前だったかな。『お母さん、直人来たら何か食べさせといて。放っとくと食べないから』って」
直人は冷めかけたカレーを見た。
「そのあと、何か馬鹿らしくなった」
「何がですか」
「知らない」
澄江は少し困ったように笑った。
「自分でも、うまく説明できない」
しばらくして続けた。
「それで一回、普通に呼んだでしょう」
「……はい」
「断ったでしょう」
「はい」
「『お気遣いなく』って」
「……はい」
「あれ、腹立ったわ」
「すみません」
「なんで謝るの」
澄江はテーブルを指先で二度叩いた。
「普通にご飯食べに来いって言っても来ない。じゃあ何て言えば来るのかと思ってたら、レシピ帳からこれが出てきた」
美咲の落書きを指した。
「それで病院で自分が言ったことを思い出した」
「……」
「復讐するって言えば、あなたなら来ると思った」
直人は何も言えなかった。
「ほんとに来た」
「はい」
「ご飯じゃ来ないのに」
「……」
「復讐なら来るのね」
責める声ではなかった。
直人はそちらを見られなかった。
「でも、まさか本当にそんなもの食べる気で来るとは思わなかった。便所の写真は……やりすぎたわね」
「かなり」
「ごめんなさい」
直人は顔を上げた。
澄江が謝るのを、ほとんど見たことがなかった。
「……はい」
「何、その返事。許すかどうかはそっちが決めなさい」
「考えます」
「そうしなさい」
澄江がほんの少し笑った。
直人も少し笑った。
「ただ」
澄江が続けた。
「美咲の代わりに何かするなら――」
そこで言葉を切った。
直人は待った。
澄江は直人の皿を見た。
「……冷めるわよ」
それ以上は言わなかった。
直人はスプーンを取った。
*
カレーを食べながら、直人は部屋の中を見た。
青いスリッパ。
大きな皿。
グリーンピースのないカレー。
自分の皿にだけ入った辛味。
テーブルの端にある合鍵。
合鍵を返せと言われたことはない。
福岡へ行けと言われたこともない。
三週間前には、むしろ食事へ呼ばれていた。
それを断ったのは自分だった。
直人は一口食べた。
五歳のころ、母親はいなくなった。父親もいなくなった。
自分が何か悪いことをしたからではないかと、子供のころは考えた。
大人になれば、それが子供の思い込みだったことくらい分かる。
直人は皿の上の牛肉を一つ食べた。
*
「福岡」
澄江が言った。
「はい」
「仕事として行きたいの」
「……分かりません」
「何それ」
「今までは、行ったほうがいいと思ってました」
「仕事として?」
「違うと思います」
澄江は何も言わなかった。
「少し考えます」
「そう」
行くな、とも、残れ、とも言わなかった。
直人は、そのことをありがたいと思った。
*
最後の牛肉を食べた。
皿には米粒一つ残らなかった。
向かいには空いた椅子がある。
美咲はいない。
以前の三人に戻れるわけではない。
それでも、カレーは昔と同じ味がした。
「全部食べたわね」
「食べろって言ったでしょう」
「そうだけど」
「復讐だから」
直人が言うと、澄江は嫌そうな顔をした。
「それ、もうやめて」
「はい」
直人は少し笑った。
澄江が二人分の皿を片づけようとした。その手が、テーブルの端にある鍵のそばで止まる。
合鍵。
澄江はそれを拾った。
直人は、返されると思った。
澄江は手の中で一度転がし、何も言わずに直人の前へ滑らせた。
金属音がした。
「これ」
「何」
「返したんですけど」
「知ってる」
「じゃあ」
「置いといたら邪魔」
澄江は皿を持って流しへ向かった。
直人は鍵を拾う。
手のひらに載せる。
「お義母さん」
「何」
澄江は背中を向けたまま皿を洗っている。
「これ、持ってていいんですか」
水音が続いた。
「好きにすれば」
「……」
「勝手に返してきたの、そっちでしょう」
「そうですね」
「そうよ」
水が止まった。
「次来るときは」
直人は顔を上げた。
「連絡くらいしなさい」
「……はい」
澄江がテーブルへ戻ってくる。
「皿」
「はい」
直人は空になった皿を渡しかけた。
途中で止まった。
「何」
澄江が言う。
直人は皿を見た。
鍋を見た。
手の中の鍵を見た。
澄江を見る。
欲しいものを頼むのは、昔から苦手だった。
ないと言われるより、最初から欲しくないことにしたほうが簡単だった。
「直人君?」
直人は空の皿を両手で持った。
「……おかわり、ありますか」
澄江の顔が止まった。
ほんの一瞬だった。
それから直人の手から皿を取る。
「あるに決まってるでしょう」
鍋の蓋が開いた。
残ったカレーから湯気が立つ。
澄江は大きめによそった。牛肉を一切れ入れ、少し考えて、もう一切れ落とした。
「多いです」
「食べなさい」
二杯目の皿が直人の前へ戻ってきた。
「息子なんだから、遠慮しないで食べなさい」




