夫が公衆の面前で離婚書にサインし、愛人をかばった。その次の瞬間、私は彼の向かいに座り、彼の会社を買収した
私は、入社したばかりの新人を相手にする必要などないと思っていた。
だから水原美羽から何度挑発されても、本気で取り合うつもりはなかった。
けれど、月例の全社ミーティングで彼女がまた一線を越えた時、私は退職届と取締役辞任届、そして記入済みの離婚届を、夫である一ノ瀬怜司の前へ並べた。
「美羽さんに、どちらを選ぶのか伝えて」
次の瞬間、結婚して十年、かつては私を何よりも大切にしていた男が、迷うことなくペンを取った。
そして離婚届の夫の署名欄に、自分の名前を書いた。
「美羽は社会に出たばかりで、まだ不安を抱えているんだ。こんな時まで、君のわがままに付き合うつもりはない」
絶対に私が選ばれると信じていた。その自信に満ちた笑みが、顔の上で凍りついた。
私はずっと、距離感を理解していない新人が一方的に怜司へ近づいているのだと思っていた。
だが、この瞬間にようやく分かった。
思い上がっていたのは、私の方だった。
1
広いミーティングスペースは、息苦しいほど静まり返っていた。
私は周囲にいる見慣れた社員たちの顔を見られなかった。驚き、詮索、そして哀れみを含んだ視線が背中へ突き刺さり、呼吸をすることさえ苦しくなる。
平静を装って、テーブルの上に置かれた離婚届へ手を伸ばした。
けれど、指先の震えを止めることができなかった。
十年だ。
怜司と結婚して、もう十年になる。
星環テクノロジーズが数人だけの小さなオフィスから、上場企業へ成長するまで、古くからの社員たちは、怜司がどれほど私を愛していたかを知っている。
深夜のオフィスへ届けてくれた温かいスープ。
取締役会で私のために正面から反論してくれた姿。
私を見るたび、喜びに輝いていた瞳。
その記憶が今、無数の針へ変わり、心臓を深く刺していた。
私は無理に顔を上げ、怜司を見た。
「怜司、こんな冗談はやめて」
「みんなが見ているのよ」
怜司の表情は、少しも揺れなかった。
「晴香、冗談じゃない」
「俺たちは終わりだ」
喉が締めつけられ、かすれた声しか出なかった。
「どうして?」
怜司はすぐには答えなかった。
わずかに身体の向きを変え、私の向こう側にいる水原美羽へ視線を向けた。
そこに浮かんでいたのは、私が一度も見たことのない表情だった。
甘やかすような優しさと、守ってやりたいという気持ち。
そして、傷ついた彼女を心から案じているような痛ましさ。
怜司は私へ視線を戻し、冷淡な声で告げた。
「何度も言っただろう。美羽は大学を卒業したばかりで、入社してまだ一か月も経っていない」
「経験も自信もない彼女を、君はたった一度のファイル送信ミスで業務から外し、社内調査を受けさせようとした」
「晴香、君が気にしているのは、自分の面子と勝ち負けと規則だけだ。相手がどう感じるかを考えたことはあるのか?」
耳を疑った。
水原美羽は許可もなく、未公開のプロジェクト資料を個人契約のクラウドストレージへアップロードした。
私はコンプライアンス部門に、彼女のシステム権限を一時停止し、事実関係を調べるよう指示しただけだ。
企業として当然の危機管理だった。
それなのに怜司の目には、美羽は守ってやるべき若い女性としか映っていない。
そして会社を共に育て、十年間同じ家で暮らした妻の私は、権限を振りかざして新人を追い詰める、思いやりのない上司になっていた。
あまりにも馬鹿げていた。
怒りと、全社員の前で敗北したような屈辱が一気にこみ上げ、最後に残っていた理性まで焼き尽くした。
私は怜司が署名した離婚届をつかみ、その場で引き裂いた。
「こんな新人一人のために、全社員の前で私を辱めるの?」
細かく破れた紙片が、雪のように床へ落ちていく。
怜司は感情を爆発させる私を黙って眺め、しばらくしてから静かに口を開いた。
「用紙なら、もう一度用意すればいい」
「離婚協議書は弁護士に作らせる。晴香、俺たちは終わったんだ」
今日、彼からこの言葉を聞くのは二度目だった。
まだ何かを尋ねようとしたが、怜司はもう私を見ていなかった。
まっすぐ水原美羽のもとへ歩いていく。
怜司が近づくと、美羽は反射的に背筋を伸ばした。
潤んだ目は不安げで、傷ついた新人そのものに見える。
けれど怜司から見えない角度で、その瞳には勝者の得意げな光が浮かんでいた。
怜司は彼女の前で立ち止まり、頬にかかった髪を優しく整えた。
「もう大丈夫だ」
「怖がらなくていい」
私には一度も向けられたことのない、柔らかな声だった。
その瞬間、顔から最後の血の気が引いた。
周囲の音が急に遠ざかり、耳の奥で低い耳鳴りだけが続いている。
何が起きても必ず私を選ぶと信じていた男は、全社員が見守る中、あまりにも自然に別の女性のもとへ歩いていった。
距離感を理解していなかったのは、美羽ではない。
私だった。
私は、完全に負けた。
2
水原美羽を慰め終えると、怜司は周囲の社員たちへ向き直った。
その表情は落ち着き、自分こそ公平な経営者だと信じ切っているように見えた。
たった今、妻との離婚届へ署名し、個人的に肩入れしている新人を公然とかばった人物とは思えない。
「星環テクノロジーズでは、年齢や社歴、個人的な関係によって社員を差別することはない」
「ここにいる全員が、同じ目標へ向かって働く仲間だ」
怜司は一度言葉を切り、私へ警告するような視線を向けた。
「役職を利用して若い社員を追い詰める行為は、誰であっても許さない」
力強く、もっともらしい言葉だった。
その一語一語が私の尊厳を踏みつけ、かすかに残っていた幻想まで砕いていく。
彼の言葉の中で、私は新人をいじめる悪質な上司となった。
夫婦関係を利用して会社の公平性を壊そうとした、愚かな女でもある。
周囲の視線も、少しずつ変わり始めた。
先ほどまで私に驚きや同情を向けていた社員たちは、私情を捨てて新人を守った社長を称賛し始めている。
一方で私は、立場をわきまえず、自分から恥をかいた人物として見られていた。
小さく抑えられた会話が聞こえてくる。
「一ノ瀬副社長、今日はさすがにやりすぎじゃない?」
「離婚を持ち出して社長へ選択を迫るなんて。社長が応じないとは思わなかったけど」
「普段から強気だったものね。今回は相手が引かなかっただけでしょう」
頬が熱くなった。
見えない手で、何度も平手打ちされているようだった。
怜司はもっとも体裁のよい方法で、会社の公正さを守った。
同時にもっとも残酷な方法で、私が結婚生活と会社の両方から排除されたことを宣言した。
きれいな建前を言い終えると、ようやく私へ視線を向けた。
その目にあるのは、警告と苛立ちだけだった。
怜司はすべてを支配することに慣れている。
社員から敬意と称賛を向けられることにも慣れていた。
そして、どんな場面でも私が社長である彼の立場を守り、自分から譲歩することにも慣れ切っていた。
それが、私たちの暗黙の了解になっていた。
けれど怜司の後ろから、挑発的な視線を向けてくる美羽を見た瞬間、もう協力する気が失せた。
私はゆっくりとうなずいた。
「分かったわ」
怜司は、私がようやく折れたと思ったらしい。
硬かった表情が少し緩んだ。
「分かればいい」
「今日の君には本当に失望した。だが、自分の間違いを認めるなら、まだ取り返せないわけじゃない」
怜司は背後の美羽を示した。
「今ここで美羽に土下座して謝れ。もう役職を使って彼女を追い詰めないと約束すれば、今回のことは終わりにする」
その言葉が終わる前に、ミーティングスペースで驚きの声が上がった。
私は近くのテーブルに置かれていた水の入ったグラスを手に取り、迷わず怜司へ浴びせた。
水が彼の髪から顎へ流れ、床へ滴り落ちる。
水原美羽が大げさな悲鳴を上げた。
「晴香副社長、怜司さんに何をするんですか?」
私は冷たい目で彼女を見た。
「夫婦の問題に、あなたが口を挟む権利があるの?」
周囲のあちこちから、息をのむ音が聞こえた。
怜司でさえ、信じられないという顔で私を見ている。
長い間、私は彼に従ってきた。
全社員の前で自分へこんな恥をかかせるとは、想像したこともなかったのだろう。
私は水に濡れた怜司を見つめ、静かに尋ねた。
「少しは目が覚めた?」
怜司の返事を待たず、改めて水原美羽へ向き直った。
「『怜司さん』だなんて、随分と親しい呼び方ね」
「勤務中は姓か役職名で呼ぶのが、星環の社内規程だったはずよ。代表取締役も例外ではないわ」
「それとも、試用期間中のあなたにだけは、別の規則が適用されるの?」
私は人事部長へ目を向けた。
「もっとも、問題は呼び方だけではありません」
「試用期間中の社員が、未公開のプロジェクト資料を個人のクラウドストレージへ無断でアップロードした。通常ならシステム権限を停止し、コンプライアンス調査を行う案件ですね?」
空気が凍りついた。
怜司は水に濡れたまま、権威を傷つけられた怒りを目に浮かべている。
人事部長は私と怜司を交互に見た。
唇を動かしてはいるが、一言も声にならなかった。
「一ノ瀬晴香!」
怜司が、ついに怒鳴った。
「正気を失ったのか?」
私は口元をわずかにゆがめた。
「一ノ瀬社長、私は会社の規則について話しているだけです」
意図的に「一ノ瀬社長」という呼び方を強調しながら、美羽を見据えた。
「明文化された規則は、飾りではないでしょう?」
「それとも、一部の特別な社員だけは例外ですか?」
美羽の顔に、初めて焦りが浮かんだ。
助けを求めるように怜司を見つめ、目に涙をためる。
「一ノ瀬社長、わざとではありません」
「焦っていただけなんです。それに、私は社長のことが心配で……」
私は彼女の言葉を遮った。
「私の夫を、あなたが心配するの?」
「先ほど一ノ瀬社長は、個人的な関係に左右されず、すべての社員を公平に扱うとおっしゃいました」
私は再び怜司を見た。
「では、基本的な社内規則を守らず、未公開資料の流出事故まで起こしかけた試用期間中の社員を、どのように処分なさいますか?」
怜司が持ち出した公平性を、そのまま彼へ突き返した。
規則を語りたいのなら、語ればいい。
全社員の前で、公正な経営者を演じたいのなら、最後まで演じてもらおう。
怜司の胸が大きく上下した。
長い沈黙の後、彼は怒りを押し殺せず、社員たちへ声を張り上げた。
「もういい!」
「全員、今すぐ仕事へ戻れ」
「晴香、君は俺のオフィスへ来い」
私は慌てて怜司の顔を拭いている美羽を一度見た。
「必要ありません」
「社内では私生活の話をしない。それは一ノ瀬社長が、先ほどご自分で強調した原則でしょう?」
私はテーブルの上から、退職届と取締役辞任届を取り上げた。
「あなたが選んだ結果を、私は受け入れます」
「星環テクノロジーズを退職し、取締役副社長および事業戦略本部長の職も辞任します」
怜司は眉を寄せた。
「夜、家で話そう」
私は答えなかった。
全社員の前で結婚を終わらせた男と、夜になって何を話せというのだろう。
3
私は夜まで待たなかった。
自分のオフィスへ戻ると、直ちに法務部と人事部へ連絡し、退職届と取締役辞任届を提出した。
会社のパソコン、入館カード、機密資料もすべて返却した。
情報システム部の担当者を呼び、その場で管理権限も停止してもらった。
星環の資料を一つも持ち出していないことを、記録として残すためだ。
今日の騒ぎがあまりにも大きかったため、誰も私と怜司の問題へ関わろうとはしなかった。
人事部は退職の届け出を受け付け、取締役辞任の手続きは法務部が引き継いだ。
私物を片づけていると、先月の大型案件をまとめた後に、朝凪ホールディングスから届いていた招聘メールが目に入った。
朝凪は以前から、何度も私を誘っていた。
だが、星環は怜司と私が共に立ち上げた会社だ。
そのため、真剣に検討したことは一度もなかった。
今回は、短い返事を送った。
「朝凪ホールディングスへの入社をお受けします」
一分も経たないうちに、朝凪ホールディングス代表取締役社長の桐生征臣から電話がかかってきた。
「よかった。ようやく決心してくれたんだね」
「明日、朝凪は星環との戦略提携について、継続協議を行う予定だ。先方の条件には不満が残っていたが、君が責任者になるなら、事業全体を再評価する価値がある」
桐生の声には、隠し切れない喜びがにじんでいた。
「君の役員登用については、以前から社内で検討していた。今夜、臨時取締役会を開き、専務執行役員兼事業戦略本部長への就任を正式に承認してもらう」
「明日の交渉には、その立場で出席してほしい」
星環については私が知っている。
朝凪側の条件も、一晩あれば十分に把握できる。
桐生は、離職の送別会と入社の歓迎会をまとめて行おうと笑った後、私が考え直すことを恐れるように、早々に通話を終えた。
朝凪への入社を機に、仕事上では旧姓の「早川」を使うことにした。
法的にはまだ一ノ瀬晴香だが、もうあの会社でも、次の職場でも、怜司の姓に守られる必要はない。
直後、見知らぬLINEアカウントからメッセージが届いた。
送信者は水原美羽だった。
添付された写真は少しぼやけており、背景は会員制のバーのようだった。
酔っている怜司が美羽の腰へ腕を回し、二人は唇を重ねている。
写真の下には、短い一文だけが添えられていた。
【これは、あなたが知らない怜司さんです】
私は長い間、その写真を眺めた。
叫び声を上げることも、すぐに涙を流すこともなかった。
本当の絶望とは、泣き崩れることではないらしい。
すべての疑問に、ようやく答えが与えられたと感じることだった。
画面を閉じようとした時、怜司から電話がかかってきた。
私は切った。
もう一度、着信があった。
再び切った。
三度目を拒否すると、それ以上電話が鳴ることはなかった。
怜司が私に向ける忍耐は、いつも三回にも満たなかった。
けれど水原美羽が入社した初日、彼はシステムへのログイン方法を、十回以上も根気よく説明していた。
あの日、私は仕事の相談で怜司のオフィスへ向かっていた。
ガラス張りの壁越しに、彼が美羽のデスクのそばへ立ち、少し身をかがめながら、パソコンの画面を指している姿が見えた。
私が打ち合わせを終えて出てきても、怜司はまだそこにいた。
「ログインIDは社員番号だ。初期パスワードは、入社時に渡された書類に書いてある」
「入力したら大文字と小文字を確認して、二段階認証を完了させる」
美羽は困り果てたようにうつむいた。
「すみません、一ノ瀬社長。私、本当に覚えが悪くて……」
「何度も教えていただいたのに、まだ分かりません」
怜司は苛立つどころか、さらに彼女へ近づいた。
「大丈夫だ。焦らなくていい」
「もう一度、最初から説明する」
その時、胸の奥に小さな違和感が生まれた。
けれど、すぐに自分を納得させた。
大学を卒業したばかりの新人を、社長として少し丁寧に指導しているだけだ。
私はこんなことで気にする自分の方がおかしいのだと、心の中で笑った。
今、その光景が凍りつくような冷たさを伴い、鮮明によみがえった。
基本的なシステムにさえログインできない新人のために、怜司は長い時間を使い、同じ説明を何度も繰り返した。
では、私はどうだったのだろう。
結婚したばかりの頃、会社で初めて業務システムを入れ替えた。
承認手続きの途中で分からない箇所があり、私は何気なく怜司へ尋ねた。
彼は重要な契約書を読んでおり、顔さえ上げなかった。
「操作マニュアルを読めば分かるだろう」
「そんな小さなことで、いちいち俺に聞かないでくれ」
小さなこと。
怜司の仕事に比べれば、私が困っていることは、ほとんどすべてが小さな問題だった。
やがて会社が大きくなり、それぞれ違う部門を担当するようになった。
私は仕事について、彼へ助けを求めなくなった。
何でもできたからではない。
彼の前では、常に強く、冷静で、一人ですべて解決できる人間でいることに慣れてしまったのだ。
それが共同経営者として、夫婦として築き上げた信頼関係だと思っていた。
怜司がもともと忍耐のない人間だったわけではない。
彼の忍耐と優しさ、何度でも付き合う余裕は、私に与えられなかっただけだ。
美羽の不器用さと依存は、彼の庇護欲を満たした。
私の強さと自立は、私を無視し、無限に我慢させても構わない理由へ変えられていた。
スマートフォンが再び光った。
今度は怜司からのLINEだった。
「晴香、もう騒ぐのはやめてくれ。少し大人になれないのか?」
「美羽は先に帰らせた。俺も後で家へ戻るから、きちんと話そう」
この状況でも、怜司にとって問題を起こしているのは私だった。
私が感情的で、成熟していないのだと考えている。
十年の結婚生活も、私が信じていた理解と絆も、私一人が作り上げた幻想にすぎなかった。
怜司はとっくに別の方向へ歩き始めていた。
私だけが、かつての場所に立ち尽くしていた。
最後の返信を送った。
「話す必要はありません」
「明日の午前九時、星凪市役所の戸籍窓口で待っています」
4
翌朝九時。
私は星凪市役所で怜司を待っていたが、彼は現れなかった。
電話をかけると、冷え切った声が返ってきた。
「晴香、もう一度言う。君の騒ぎに付き合っている時間はない」
「今日は朝凪ホールディングスとの交渉がある。星環にとって、今年もっとも重要な案件だ」
「俺たちが一緒に作った会社を少しでも大切に思うなら、すぐ戻ってこい。取締役副社長として、最後の責任を果たせ」
「仕事が終わってから、私生活の問題を処理する」
桐生が話していた交渉が今日だったことを思い出した。
私はもともと朝凪側の代表として出席する予定だ。
怜司へ説明する必要はない。
「分かりました」
電話を切り、仕事用のスーツへ着替えて星環テクノロジーズへ向かった。
会社へ入ると、会議室の前で水原美羽と鉢合わせた。
美羽は入社当初に着ていた地味なリクルートスーツではなく、今の立場には不釣り合いな高級ブランドのスーツをまとっていた。
胸元の社員証には、「社長付特別補佐兼新規事業プロジェクト責任者」と記されている。
私を見ると、彼女は隠そうともせず笑った。
「一ノ瀬副社長ではありませんか」
「あ、失礼しました。もう退職されたから、副社長ではありませんでしたね」
美羽は得意そうに顎を上げた。
「あなたが担当していた朝凪とのプロジェクトは、今日から私が責任者です」
「一ノ瀬社長の特別補佐にもなりました。あなたが十年かけて手に入れた立場を、私は十日もかからずに手に入れたんです」
美羽は手にしたファイルを振った。
「見えますか?」
「朝凪ホールディングスとの契約書です」
「あなたが半年かけても受け入れてもらえなかった条件を、私が担当した途端、全部受けてもらえたんです」
「今ではみんな、私を星環の幸運の女神と呼んでいます。会社へ問題しか持ち込まない人とは違いますよね」
会議室の前には、すでに多くの社員が集まっていた。
美羽を持ち上げる者もいれば、私が来ると聞いて見物に来た者もいる。
私は彼女へ返事をせず、朝凪の交渉チームを捜した。
そこへ怜司が早足でやってきた。
私へ向けた目には、はっきりとした苛立ちがある。
「まだ君の知識が必要だと思って、会社へ戻るように言った」
「だが朝凪は、すでにこちらの条件を全面的に受け入れるつもりらしい」
怜司は美羽を見て、評価するようにうなずいた。
「せっかく来たんだ。会議には出席しろ。このプロジェクトを一番よく理解しているのは君だから、美羽を補助すればいい」
怜司は私の腕をつかみ、星環側の会議室へ連れていこうとした。
「余計なことは言うな」
「退職や離婚の話も、取引先の前では絶対に口にするな」
「君の感情でこの提携が壊れたら、今度こそ許さない」
私は星環のために来たのではないと伝えようとした。
けれど口を開く前に、廊下から揃った足音が聞こえてきた。
朝凪ホールディングスの交渉チームが到着したのだ。
怜司はすぐに私の腕を放し、美羽へ声を落として言った。
「今日は必ず、桐生社長によい印象を与えろ」
「急にプロジェクト責任者へなったことで、社内には納得していない人間もいるだろう」
「だが今年最大の提携をまとめれば、もう誰にも文句は言わせない。逆らう者は俺が会社から外す」
美羽は自信に満ちた顔でうなずいた。
「安心してください、怜司さん」
「必ず期待に応えてみせます」
桐生征臣を先頭に、朝凪のチームが会議室へ入った。
怜司はもう一度、私を星環側の席へ座らせようとした。
私はその手を振り払い、反対側へ歩いた。
朝凪ホールディングスの主席の前で足を止め、会議室の全員へ向き直った。
「改めて自己紹介いたします」
「朝凪ホールディングス専務執行役員兼事業戦略本部長、早川晴香です」
「今回の星環テクノロジーズとの提携交渉について、全権を委任されています」
怜司と水原美羽の表情が、同時に凍りついた。
5
広い会議室は、針が落ちる音さえ聞こえそうなほど静かになった。
怜司の顔から、すべてを見通しているような余裕が消えた。
瞳を大きく見開き、初めて私という人間を目にしたかのように凝視している。
美羽の顔も真っ白だった。
つい先ほどまでの得意げな態度は跡形もなく、ファイルを持つ手が小さく震えていた。
「晴香……君は……」
怜司の声はかすれ、信じられないという響きを帯びていた。
「どういうことだ?」
私は彼を見ず、朝凪側の席へ静かに腰を下ろした。
「聞いたとおりです」
「本日付で朝凪ホールディングスへ入社し、事業戦略とM&Aを担当します」
「今後、星環と朝凪の提携については、私が朝凪を代表して判断いたします」
怜司が勢いよく立ち上がった。
椅子の脚が床をこすり、不快な音を立てる。
「なぜ朝凪へ行くんだ?」
「いつ決めた?」
そこまで言って、怜司は昨日の出来事を思い出したらしい。
顔色がさらに悪くなった。
私の退職は、彼を屈服させるための脅しだと思っていたのだろう。
本当に星環を去り、翌日には交渉相手の席へ座るとは、考えもしなかったはずだ。
私は資料を開いた。
「企業間の提携は、双方の判断によって成立するものです」
「一ノ瀬社長、私的な話ではなく、業務の話を始めましょう」
「星環から提出された提携案について、朝凪は市場調査とリスク評価を改めて行いました」
「その結果、一部の条件は再協議が必要だと判断しています」
ゆっくりと話しながら、顔を失った美羽へ目を向けた。
「特に、事業開始後の利益配分、技術インターフェースの開放範囲、そしてリスク負担についてです」
「星環が現在提供できる技術力と将来性を考えると、当初提示された比率は適切ではありません」
美羽が慌てて声を上げた。
「何が適切ではないんですか?」
「あの提案は、一ノ瀬社長が自ら確認したものです!」
彼女は危うく、契約案を実際に作ったのが私であることを口にするところだった。
私はわずかに眉を上げ、朝凪の法務部と投資部が作成した評価報告書をテーブルへ置いた。
「公開された市場情報、業界調査、そして朝凪が適法に行ったデューデリジェンスによれば、星環が宣伝しているコア技術の参入障壁は、想定ほど強固ではありません」
「また、最近では中核となる研究開発人材の離職が増えています。この傾向は求人情報や業界内の公開情報にも表れています」
「この状況で、朝凪だけが高いコストを負担し、さらに利益まで多く譲ることは、合理的とは言えません」
私が一つ説明するたびに、怜司の顔が険しくなっていった。
星環の成長を支えていた頃、私はあらゆる問題を表面化する前に処理していた。
制度の穴も、チームの不安定さも、事業上のリスクも、すべて私が埋めていた。
私がいなくなった今、それらが次々と表へ現れ、朝凪の交渉材料になっている。
怜司が怒りを抑えながら私の名を叫んだ。
「早川晴香!」
「これは機会に乗じた報復だろう」
「星環は、君にとっても大切な会社だったはずだ!」
私はようやく彼を正面から見た。
「一ノ瀬社長」
「あなたが、社内規則さえ覚えていない新人のために、全社員の前で離婚届へ署名した時、星環は私にとって家ではなくなりました」
「今の星環は、交渉テーブルの向こう側にいる一企業です」
怜司は奥歯をかみ締めた。
水原美羽の面子を守る余裕など、もうないのだろう。
今の彼にとって重要なのは、提携と利益だけだった。
「だが、この契約案は君自身が作ったものだ」
「以前は妥当だったのに、なぜ今は認められない?」
「朝凪だって、いくつかの細部を調整すれば、この条件で契約すると言っていたはずだ」
怜司は落ち着いて座っている桐生へ一度目を向け、「私怨を仕事へ持ち込んでいる」という言葉を飲み込んだ。
「今さら条件を変えるのは、適切ではないだろう」
「以前の私は、星環を代表していました。だから星環の利益を最大化する案を作りました」
「今の私は朝凪の代表です。朝凪の利益を守るのが、私の責任です」
怜司の身体がわずかに揺れた。
テーブルへ手をつき、指が白くなるほど強く力を込めている。
私がいつか、これほど徹底して公私を分け、冷たい態度で彼と向き合うとは思わなかったのだろう。
長い沈黙の後、怜司は歯を食いしばりながら尋ねた。
「では、早川専務は、どのような条件が妥当だと考えているんですか?」
その「早川専務」という呼び方は、彼にとってひどく言いづらいものだったらしい。
私は新しい契約案を開き、怜司の前へ差し出した。
「朝凪が作成した修正案です。ご確認ください」
怜司は契約書をつかみ、急いでページをめくった。
読み進めるほど、顔色が暗くなっていく。
美羽も横から書類をのぞき込み、思わず声を上げた。
「星環の利益配分が十五パーセントも下がっているじゃないですか!」
「技術インターフェースまで全面的に開放するなんて、不平等な契約です!」
私は冷たい視線を向けた。
「水原プロジェクト責任者。企業提携では、双方の実力と負担するリスクが釣り合っている必要があります」
「星環が受け入れられないのであれば、朝凪はその判断を尊重します」
「朝凪との提携を望んでいる企業は、星環だけではありませんから」
はったりではなかった。
業界における朝凪の規模と立場は、星環よりも上だ。
星環の技術と販路には価値があるが、代わりが存在しないわけではない。
一方、星環は朝凪の資金と提携を失い、さらに中核経営者だった私が離れ、研究開発部門も不安定になれば、急速に苦しい立場へ追い込まれる。
これは感情的な復讐ではない。
公開された情報と交渉力の差を利用した、正面からの商取引だった。
怜司は契約書を強く握り、肩で息をしている。
彼は誇りの高い男だった。
他人に交渉の主導権を握られる屈辱など、ほとんど経験したことがない。
しかも、その屈辱を与えているのは、昨日まで彼が簡単に捨てられると思っていた妻だった。
会議室の空気は張りつめていた。
星環の社員たちは息を潜め、立場が一夜で逆転した光景を見守っている。
昨日の私は、社長から全社員の前で捨てられた取締役副社長だった。
今日は、星環最大の事業の行方を決める立場にいる。
怜司が低い声で言った。
「検討する時間が必要です」
「構いません」
私はペンを片づけ、穏やかにうなずいた。
「ただし、時間には限りがあります」
「本日午後三時までに、星環としての正式な回答をお願いします」
「回答がない場合、朝凪は代替提携先との協議を開始します」
立ち上がり、スーツの裾を整えた。
「よいお返事をお待ちしています」
怜司と美羽を振り返らず、朝凪のチームと共に会議室を出た。
扉を越えた瞬間、背中に突き刺さるような二人の視線を感じた。
けれど、胸に爽快感はなかった。
あるのは、冷え切った静けさだけだった。
怜司が離婚届へ署名した瞬間から、私と彼と星環は、別々の道を歩き始めていた。
6
朝凪の交渉チーム用に用意された控室へ戻り、席へ着いて間もなく内線電話が鳴った。
秘書によると、怜司が私と二人だけで話したいと言っているらしい。
行動だけは早い。
「お通ししてください」
しばらくして、怜司が一人で部屋へ入ってきた。
髪や服装は整え直したようだが、目の奥の疲れと焦りまでは隠せていない。
扉を閉めた彼は、会議室で必死に社長の威厳を保っていた人物ではなくなっていた。
複雑な表情で私を見ている。
「晴香、俺たちは本当に、ここまでしなければならないのか?」
「夫婦の間に問題が起きたとしても、星環は俺たちが一緒に作った会社だ」
「君は、本当に星環が追い詰められても構わないのか?」
「構わないわ」
私は迷わず答えた。
「一ノ瀬怜司。あなたが若い女性の自尊心を守るために、十年の結婚生活と私の尊厳を迷わず踏みつけた時、覚悟しておくべきだった」
「私は、何をされても怒らない人形ではないの」
怜司は急いで弁解した。
「あの時は、君に腹を立てていたんだ」
「全社員の前で選択を迫られた。俺にどうしろと言うんだ?」
「それに、俺は美羽を守りたかっただけだ。彼女は大学を出たばかりで経験がない。昔の君と同じだ」
「それなのに君は、少しミスをしただけで権限を止め、調査を受けさせようとした」
私は冷笑した。
「未公開の資料を個人のクラウドへアップロードすることが、少しのミスなの?」
「調査もしないまま、あなたは彼女へ私のプロジェクトを与え、自分の特別補佐にした」
「会社のシステムへログインする方法さえ十回以上教えなければならない人を、それでも将来性があると信じているのね」
「でたらめを言うな!」
怜司は、認めたくない部分を突かれたように声を荒らげた。
「美羽は努力している。ただ、機会が足りなかっただけだ」
「君とは違う。君はいつも上から人を見て、誰も自分には及ばないと思っている」
怜司の声が次第に大きくなった。
「晴香、君と一緒にいると、息が詰まりそうになる時があるんだ」
ついに本音が出た。
私の能力と冷静さ、そして強さは、彼にとって共に歩いてきた証明ではなかった。
自分を圧迫する存在だったのだ。
もっとも身近だった男を見ながら、私は急に哀れさを感じた。
十年間の協力と支え合いが、彼の中では「妻から受けた圧力」に変わっていた。
「だから水原美羽の尊敬と依存は、あなたを楽にさせるのね」
「彼女に必要とされれば、自分が重要な人間だと感じられる。そうでしょう?」
怜司の表情が何度も変わった。
肯定はしなかった。
しかし否定もしなかった。
「よく分かったわ」
私はうなずいた。
「それなら、私たちの間に話し合うことは、もうありません」
「仕事の話だけにしましょう。一ノ瀬社長」
新しい契約書を持ち上げた。
「署名するか、断るか」
私の決意を見た怜司の目に、初めて焦りが浮かんだ。
彼は私を支配することにも、私が最後には譲ることにも慣れていた。
私が従わなくなって、ようやく元には戻れないと理解し始めたのだ。
「晴香、離婚届へ署名したのは、売り言葉に買い言葉だった」
「十年間の夫婦関係は、一枚の契約書よりも軽いものなのか?」
声が弱まり、懇願するような響きを帯びた。
「一度、家へ戻って話そう」
「美羽を会社から外してもいい。俺たちは、もう一度やり直せる」
「遅いわ」
静かに彼を遮った。
「あなたが署名した瞬間に、もう手遅れになったの」
「今の私は、仕事の話しかしません」
怜司は立ち尽くした。
目に浮かんだ感情は、懇願から失望へ、そして最後には憎しみへ変わった。
「晴香、君は後悔する」
そう言い捨て、怜司は扉を強く閉めて出ていった。
まだかすかに震えている扉を見つめながら、私は椅子の背へ身体を預けた。
後悔するのだろうか。
いつか、十年間の結婚を失ったことに胸を痛める日が来るかもしれない。
けれど少なくとも今、自分を欺き続けた過去を終わらせたことは後悔していなかった。
午後二時五十分。
星環の法務部から、正式なメールが届いた。
新しい提携案は取締役会で承認された。
星環テクノロジーズは、朝凪が提示した条件をすべて受け入れた。
7
星環との提携を、朝凪に圧倒的に有利な条件でまとめたことで、私は朝凪ホールディングスの中に確かな立場を築いた。
桐生征臣は経営会議で私の働きを高く評価した。
突然、専務執行役員として入社した私に疑問を抱いていた古参役員たちも、しばらくは何も言わなくなった。
私は新しい仕事へ没頭した。
朝凪は星環より規模が大きく、扱う事業も複雑だった。
忙しさと新しい挑戦が、結婚の終わりと星環を離れた後に生まれた空白を埋めていった。
同時に、弁護士へ新しい離婚届と離婚協議書の作成を依頼した。
財産分与、白汐台の家の売却、互いが所有する株式の処理についても、明確に定めた。
怜司は最終的に抵抗しなかった。
弁護士の立ち会いのもとで改めて書類へ署名し、私たちは星凪市役所へ離婚届を提出した。
戸籍窓口を出た後、私は正式に旧姓へ戻った。
その日から、私は一ノ瀬晴香ではない。
早川晴香になった。
時折、業界の知人から星環の話が入ってきた。
水原美羽は社長付特別補佐兼プロジェクト責任者になったものの、その権限に見合う能力を見せられなかった。
彼女が主導した複数の事業で、次々と問題が発生した。
社内には不満が広がったが、怜司は取締役たちの反対を押し切り、美羽を守り続けた。
星環の業績は悪化し、株価も少しずつ不安定になっていった。
その話を聞いても、もう心はほとんど動かなかった。
一か月後、私は朝凪を代表し、月城イノベーションサミットへ出席した。
サミットの晩餐会は、星凪パレスホテルで開かれた。
そこで再び怜司と顔を合わせた。
怜司は会場の端に一人で立っていた。
濃紺のスーツをまとった姿は相変わらず整っていたが、眉間には隠し切れない疲労が漂っている。
怜司も私に気づいた。
一瞬、避けるか迷ったようだったが、最後にはグラスを持って近づいてきた。
「久しぶりだな」
「お久しぶりです」
私はグラスを軽く上げ、礼儀正しく答えた。
二人の間に、気まずい沈黙が落ちた。
かつて何でも話していた夫婦が、今では自然な会話を一つも見つけられない。
怜司はようやく話題を探した。
「朝凪では、うまくやっているのか?」
「はい。おかげさまで」
再び沈黙した。
怜司はグラスの中の酒を見つめ、声を落とした。
「星環について、最近はよくない噂が増えている」
「裏で問題を起こしている人間がいるんだ」
美羽と彼の経営方針に反発し始めた社員や株主のことだろう。
以前なら、怜司はこうした悩みをすべて私へ話した。
私は状況を分析し、解決策を考え、時には自分で厄介な問題を処理した。
今の私は、淡々と答えた。
「会社を経営していれば、さまざまな問題が起きます」
「一ノ瀬社長なら、きっと適切に処理できるでしょう」
怜司の目に失望が浮かんだ。
「晴香、俺たちの間には、もうこんな社交辞令しか残っていないのか?」
知らず知らず声が大きくなり、近くにいた人々がこちらを見た。
私はわずかに眉を寄せた。
「一ノ瀬社長、ここは公の場です」
その言葉で、怜司は我に返った。
深く息を吸い、感情を抑え込む。
「すまない。取り乱した」
経営者らしい姿勢へ戻ったが、瞳に残る寂しさは隠せなかった。
その時、聞き慣れた不快な声が割り込んだ。
「怜司さん、ずっと捜していたんですよ」
水原美羽が、場に合わないほど派手なドレスで近づいてきた。
私に気づくと一瞬笑顔をこわばらせたが、すぐに作り物めいた笑みへ変えた。
「早川専務もいらしたんですね。偶然ですね」
私は返事をせず、怜司へ軽く会釈した。
「失礼します」
立ち去ろうとしたが、美羽が一歩横へ移動し、行く手をふさいだ。
声を低くし、得意げに私へ告げる。
「早川晴香。朝凪へ行ったからって、偉くなったつもりにならないでください」
「怜司さんは、私が自分の会社を設立するための資金を出すと約束してくれました」
「これからは、星環の技術も販路も顧客も、私の会社を優先して使えるんです」
美羽は誇らしげに笑った。
「すぐに、私の方があなたより優秀だと証明してみせます」
彼女の幼稚な自慢を聞き、笑いそうになった。
怜司は、そこまで愚かな判断をしたのか。
星環の資源を使って、星環と同じ事業分野の会社を育てる。
自分の手で競合企業を作るようなものだ。
隣にいる怜司を見ると、表情がわずかに変わった。
美羽を止めようとしたようだが、結局何も言わなかった。
同意しているのか。
それとも、もう彼女を制御できないのか。
どちらでも、私には関係なかった。
「おめでとうございます」
それだけ告げ、美羽の横を通り過ぎた。
数歩進んでも、背後から不満げな声が聞こえた。
「怜司さん、何ですか、あの態度」
怜司が疲れた声で遮った。
「もういい。黙ってくれ」
晩餐会の後半、怜司の視線が何度もこちらへ向けられているのを感じた。
そこには複雑な感情があった。
だが、もう理解しようとは思わなかった。
サミットが終わって間もなく、経済メディアが一つのニュースを報じた。
星環テクノロジーズ代表取締役社長の一ノ瀬怜司が、多額の個人資金を投入し、保有する星環株の一部を担保に資金を調達して、水原美羽の新会社へ出資したという。
さらに星環は、美羽の会社と技術業務委託契約や販路共有契約を結ぼうとしていた。
新会社の事業内容は、星環の一部事業と競合している。
それにもかかわらず、取引について十分な利益相反審査が行われていなかった。
ニュースが公表されると、星環の株価は急落した。
社外取締役や主要株主は怜司の判断を公然と批判した。
関連当事者取引について調査するため、臨時取締役会の開催を求める声まで上がった。
その日、朝凪のオフィスにいた私へ、桐生征臣から電話がかかってきた。
「早川専務、星環の状況は見ただろう?」
「社内は混乱し、株価も下がっている」
「好機だ」
私はモニターに映る、下落を続ける株価チャートを見つめた。
「桐生社長のお考えは?」
「買収だ」
迷いのない声だった。
「朝凪は星環に対し、敵対的TOBを開始する」
「君は星環の共同創業者で、あの会社の経営構造と事業価値を誰よりも理解している」
「この買収案件を、君に一任したい」
スマートフォンを握り、窓の向こうに広がる星凪市の夜景を見た。
星環は、私と怜司が一つずつ積み上げて作った会社だった。
そこには十年分の青春と夢、永遠に続くと信じていた感情が残っている。
その会社を、今度は私が買収する。
ひどく皮肉な結末だった。
電話の向こうで、桐生が返事を待っている。
私は目を閉じ、深く息を吸った。
再び目を開けた時、心はすでに静まっていた。
「承知しました」
「直ちにチームを編成し、買収評価を開始します」
「調査資料については、すべて法務部門とコンプライアンス部門の審査を受けます」
過去は、もう過去だ。
結婚も、星環も。
今の私は、朝凪ホールディングスの専務執行役員だ。
自分の責任と、新たな仕事の舞台がある。
8
朝凪ホールディングスによる、星環テクノロジーズへの敵対的TOBが正式に始まった。
私はプロジェクト総責任者として、投資、法務、財務、技術、広報の合同チームを編成した。
星環の組織や経営構造を熟知しているからこそ、判断の根拠については厳格な規則を設けた。
利用できるのは、公開された財務資料、適法なデューデリジェンス、そして株主が自発的に提供した情報だけだ。
星環の営業秘密を持ち出すことはない。
この買収を、個人的な復讐にするつもりもなかった。
朝凪はTOBを公表し、買付価格を提示した。
同時に、星環の主要な機関投資家や大株主との協議を開始した。
買収に成功した場合は、中核となる研究開発チームと一般社員の雇用を維持する。
水原美羽の会社への資金と技術の流出を停止し、企業統治体制を再構築する。
朝凪は、そう約束した。
怜司と美羽に不満を抱いていた株主たちは、次々と朝凪への支持を表明した。
星環の創業時から私と怜司を支えてくれた古参幹部たちも、私へ連絡してきた。
彼らは、怜司が美羽から向けられる崇拝に溺れ、会社の利益を顧みなくなったと嘆いた。
星環を正常な状態へ戻してほしいと頼まれた。
もちろん、怜司も何もしなかったわけではない。
だが、美羽への投資で保有株の一部を担保へ入れ、星環と美羽の会社との間に複数の不利な契約を結んでいた。
買収に対抗するために動かせる資金も、社内の支持も限られている。
取締役会も、もはや完全には彼を支持していなかった。
水原美羽については、現実の資本市場で、弱さを演じたり、男性へ甘えたりする方法など通用しなかった。
彼女の会社は星環から資金と資源を吸い上げ続けたが、具体的な成果を何も出せない。
その事実が、投資家の信頼を崩す最後の一因となった。
買収戦は、次第に朝凪側の一方的な展開になっていった。
その途中で、怜司と一度だけ直接話した。
夫婦としてではない。
知人としてでもない。
買収する側と、買収される側の代表としてだった。
電話の向こうから聞こえる怜司の声は、疲れと怒りに満ちていた。
かすかに、崩れ落ちる寸前の震えも混じっている。
「早川晴香、本当にここまでやるつもりなのか?」
「星環は、俺たちが一緒に作った会社だ」
「君は、本気で星環を壊すつもりなのか?」
「星環を壊したのは、私ではありません」
私は冷静に答えた。
「一ノ瀬社長が、公私を分けずに経営判断を行った結果です」
「企業統治を無視し、個人的な感情を満たすために会社の資源を使った」
「株主と社員の利益より、特定の女性への肩入れを優先したから、朝凪に買収の機会を与えたのです」
「私は、必要な経営判断をしているだけです」
「朝凪が星環を買収し、技術と市場を統合することは、双方の事業と一般社員にとって利益になります」
少し間を置いた。
「ただし、損失を生み続ける不安定な人材と取引は、排除しなければなりません」
誰を指しているのかは明らかだった。
怜司も理解した。
「俺を憎んでいるから、こんなことをするんだろう?」
「憎んではいません」
「今、あなたへ何か感じているとすれば、感謝でしょうね」
怜司の呼吸が止まった。
私は続けた。
「私を完全に目覚めさせてくれたことに感謝しています」
「十年間、壊れるはずがないと信じていた結婚と信頼が、どれほど脆いものだったか分かりました」
「そして私を、もっと大きな場所へ押し出してくれた」
「あの関係から離れれば、私はもっと遠くまで進めるのだと知りました」
長い沈黙が続いた。
聞こえるのは、怜司の抑えられた呼吸だけだった。
しばらくして、ほとんど聞き取れない声が届いた。
「晴香……後悔している」
後悔。
もう遅い。
選択には、取り消せないものがある。
傷は、後悔したという一言だけでは、なかったことにならない。
「一ノ瀬社長、ほかに業務上のご用件がなければ、買収に関する連絡は朝凪の法務チームへお願いします」
「失礼します」
怜司の返事を待たず、通話を終えた。
9
一か月後。
主要株主たちも朝凪のTOBへ応じた。
朝凪ホールディングスは、星環テクノロジーズの議決権の過半数を取得し、経営権を掌握した。
買収成功の記者会見で、私は朝凪側のプロジェクト責任者として、壇上の中央へ座った。
目の前ではカメラのフラッシュが絶え間なく光り、記者たちの質問が続いている。
一人の経済記者が立ち上がった。
「早川専務は、かつて星環テクノロジーズの共同創業者であり、取締役副社長でもありました」
「今回、買収する側の責任者として古巣へ戻ることになりましたが、現在のお気持ちをお聞かせください」
「古巣への凱旋というお気持ちはありますか?」
私は記者席を見渡し、落ち着いて答えた。
「企業には成長する時期もあれば、停滞する時期もあります」
「M&Aと事業統合は、市場では珍しいことではありません」
「朝凪による星環の買収は、技術、市場、長期戦略を総合的に検討した経営判断です」
「私個人の感情は、意思決定の要素に含まれていません」
一度言葉を切り、首を横へ振った。
「古巣への凱旋とも考えていません」
「私は一人の経営者として、自分の職務を果たしただけです」
記者会見が終わると、朝凪は計画どおり星環の臨時株主総会を開き、取締役会を改選した。
新しい取締役会は最初の決議として、水原美羽を星環および関連プロジェクトのすべての役職から外した。
星環と美羽の会社との技術共有、販路協力、資金支援も全面的に停止した。
関連する取引については、第三者機関によるコンプライアンス調査が始まった。
星環からの資金と資源を失うと、美羽の会社はすぐに資金繰りが行き詰まった。
独自のコア技術も、安定した顧客もない。
最終的に、破産を申請するしかなかった。
水原美羽は星環での役職を外された日、会社のロビーで激しく騒いだらしい。
怜司が約束を破ったと叫び、星環と朝凪が自分を陥れたと訴え続けた。
最後には警備員に建物の外へ連れ出されたという。
一ノ瀬怜司もまた、経営権を失った後、新しい取締役会によって代表取締役社長の職を解かれた。
残っていた株式の一部を売却し、星凪市を去った。
彼がどこへ行ったのか、知る者はいない。
私も調べなかった。
すべてが終わった日。
私は一人で、かつて「家」と呼んでいた場所へ戻った。
白汐台の住宅には、すでに売却の看板が出ていた。
私の荷物は、すべて運び出されている。
空になった部屋には、すぐには動かせない家具だけが残っていた。
白い布がかけられ、その上に薄いほこりが積もっている。
夕日が大きな窓から差し込み、床へ長い影を落としていた。
リビングの中央に立つと、十年前、二人で初めてこの家へ入った日の姿がよみがえった。
怜司は楽しそうに、ソファを置く場所や、観葉植物を飾る場所、書斎の照明について話していた。
あの頃の彼の目は、驚くほど輝いていた。
「晴香、俺たちはこれから、きっともっと幸せになる」
そうだ。
あの時は、二人とも未来がよくなると信じていた。
それでも、最後にはここまで来てしまった。
長居はしなかった。
家を出て、不動産会社の担当者へ鍵を渡した。
その瞬間、この家のことも、怜司のことも、自分を欺き続けた過去も、すべて終わったのだと分かった。
10
星凪市の街灯が、一つずつともり始めた。
夕方の風が頬をなで、初秋に残っていた蒸し暑さを運び去る。
スマートフォンが鳴った。
桐生征臣からだった。
「早川専務、次の買収案件について、初期資料がそろった」
「取締役たちも会議室で待っている」
私は電話に出ると、歩く速度を少し上げた。
「承知しました。すぐに向かいます」
これから先の道は、まだ長い。
企業間の競争も、終わることはないだろう。
けれど私はもう、自分の人生も仕事も尊厳も、一つの結婚へ預けていた一ノ瀬晴香ではない。
私は早川晴香だ。
これから一人で歩くことになっても、以前より冷静に、迷わず進んでいける。
これが、私の新しい人生だった。




