第五話 トラ
私は神戸の六甲山のふもとの町で生まれた野良猫だった。気が付いた時には一人だったので母親の顔など知らない。自分では何もできずお寺の境内の下で「にゃあにゃあ」鳴いていたが、その寺の住職が僕を見つけ、ミルクなどを与えてくれた。そのお寺の住職は猫好きで猫の保護活動というものをやっているらしい。そこには他の猫も多く集まっていたが、私はあまり他の猫と馴染めずにいた。生まれつきなのか親に捨てられたという体験からなのかわからないが、同族と慣れあうことに抵抗があり、ちょっかいを出してくる猫としょっちゅう喧嘩しており、お寺を騒がしていた。
やがて私は放逐されることとなる。これは街猫というらしいが、先日変なところに連れて行かれて眠っている間になにやら体を改造されたことが関係しているらしい。水たまりで自分の顔を覗き込むと耳に切れ込みが入っていた。
街に出た後も相変わらず私は他の猫と喧嘩ばかりして、街を騒がしていた。別に喧嘩がしたいわけではない、でもなにかムシャクシャしてしまうのだ、特に私はトラ柄で体が大きく強かったため、そのうち皆私を避けるようになり、私は近くの山に登り一人で過ごすことが多くなっていた。
そんなある日、街中でタイヤなどを積んでいるトラックが目に入る。どうも遠くに行くトラックのようだ。私は衝動的にこの街を出ることを決意した。幌の隙間から荷台に忍び込み、隅っこで体を丸める。そのうちトラックは動き出し、私は眠りについた。どれくらい眠ったであろう。夕方に乗ったトラックは夜通し走り朝を迎えていた。しばらくして信号で止まった時にトラックから降りてみると、そこは山のふもとにある小さな集落で、自分の住んでいた場所とどことなく似ていた。はっきりした場所はわからないが、生まれ育った神戸からはだいぶ東に来たらしい。すれ違う猫もしゃべる言葉が違う。
私はやはり前の街と同様に近くの山を登ってみた。その山は人間も登れるように登山道が整備されており、なじみのある六甲山にも似た雰囲気があった。しばらく登っているとやがて大きな岩山にたどり着いたのだが、そこからは複数の猫の匂いがした。また、ここは登山ルートらしく、岩山の前にある広場では数人の人間達がたむろしていた。
私は別に人間は嫌いではない。子猫の時死ななかったのも人間である住職のおかげだし、街でも人間がたまに食べ物をくれていたのは、この耳が欠けていることが関係しているらしいからだ。
そんな人間たちの前を素通りし、岩山の前に行くと数匹の猫がいた。猫達は私が近づいてくることにも特に警戒していないようだった。
「くつろいでるとこ邪魔して悪いけど、ここの責任者呼んでくれへんか?」
いきなり聞きなれない言葉で喋りかけられた猫たちは顔を見合わせ、
「責任者なんていないよ。そもそも僕ら猫は責任取るのが嫌いだし」
全ての猫が無責任みたいな言い方されても困るが、まあ確かに私も何かの責任を負わされるのは大嫌いだ。私は改めて聞き直す。
「言い方が悪かったな、私は今日、西の方からこっちに流れてきたんやけど、しばらくこの岩山の近辺をねぐらしたいと思うてる。何となく地元の山に似てるから落ち着くんや。つまりそれを許可してくれるボスはおるかと聞いてるんや」
すると一番と年上と思われる猫が答えた。
「わしは別にボスじゃないけど、多分この中で一番年寄りだからわしが答えよう。ここは別に誰の縄張りでもない。強いて言うなら山の神さん縄張りかな。だから、山の神様を怒らせるようなことさえしなければ、自由にすればいい。ただし、ここは人間との共有スペースでもあり、わしら山に住む猫はちょっとした人気者なので、人間にはかわいげのある態度をとってくれよ」
なんともビジネスライクな話ではあるが、滞在していいならありがたい。そう思って岩山の裏の一角をねぐらとさせてもらうようになった。ここの猫たちはいい意味で距離感があり、お互いに深く入ろうとしない。なにか訳アリの猫もいるかもしれないが、私もそこには踏み込むことはなかった。
ただ、私は体が大きいわりに気配を消すのが上手く、この山においても数々の狩りを成功させていたため、食糧調達の観点からは頼りにされるようになっていた。
そんな生活が一年続いたころ、まだ人がいない明け方に山をふらふら登ってくる白い猫をみつけた。
「お前どないしたんや、見たところ首輪しとるし飼い猫やないんか?」
とはいえ、体はかなり汚れていて、首輪がなければ野良猫だと思っただろう。それにお腹が大きかった。白い猫は体を引きずるようにしてトラの前まで行きこう言った。
「すみません、私はごらんのとおりお腹に子供がいて、生まれる日も近いと思うんです。ぶしつけなお願いですが、この岩山のどこかで子供を産ませてくれませんか?」
そう言ってうなだれるように座り込んだ。他の猫もなんだなんだとやってきて、身重の猫を覗き込んだ。そして一番年寄りの猫が私に言った。
「トラのねぐらの隣に平らで横になりやすい場所があっただろう。そこに案内してあげなさい。あそこなら夜露もしのげるし静かだ」
私はいつしかここではトラと呼ばれていた。まあ、単純にトラっぽい柄の猫だからだろうが、名前なんて神戸にいるときは多分なかったし、この岩山のコミュニティ内に置いて個体を区別するための記号だと思って受け入れている。
「え、私のねぐらの横で子供を産むん? いやいや、そうゆうのは経験豊かな年長者の方がええんちゃう?」
一応に反論したが、私もここでは新入りの部類だ。時々癇癪を起して他の猫と喧嘩してしまうが、それでも追い出されずにいられるのは、先住猫たちの寛容さによるものだというのは流石の私も気が付いている。結局その白猫は私のねぐらのそばにある少し洞穴のようになった場所で出産を待つことになった。
しかし、その白い猫はやはり元々飼い猫だったらしく、最初は虫や鳥やネズミも気味悪がってあまり食べようとしない。それでも人間達からもらう食べ物だけでは明らかに栄養が不足するため、子供のためだと説得して何とか食べるようになった。
そうしてまた数日が経ち白い猫はいよいよ出産を迎えることとなったが、元々体が強いほうではない上に慣れない野良猫生活と妊娠で体は衰弱しており、無事に子供が生まれるかどうかも怪しいものであった。山の猫たちにも出産に立ち会ったが、出産経験あるいは出産を介助したことがある猫はおらず、苦しそうに呼吸する白い猫を見守るだけであった。
そしてある日出産を迎える。生まれた子供は三匹、しかし皆すでに衰弱している。白い母猫は子供達の体を懸命になめるが、二匹はまもなく死んでしまった。残る一匹もいつまで持つかわからない状況であったが、懸命に白い母親の乳にたどり着き吸い始めた。
あの時は皆でずいぶん安堵したものだった。生き残った子猫は白い母猫から生まれたのに体の大半は黒色でおなかのところだけ白くなっていた。白い母猫から名前を私につけてほしいと頼まれたので一秒も考えずクロと名付けた。幸い反対する者はいなかった。
クロが生まれてから、白い母猫は出産前よりも積極的になんでも食べるようになった。割と大きめの鳥なんかも躊躇なくかぶりつく。全ては子供に栄養豊富な乳を与えるためであろう。クロは生まれつき体が小さかったが、時が経つと徐々に活発に動くようになり、数か月後には乳離れしてなんでも食べるようになっていた。
「ねえ、トラちゃんお願いがあるの」
ある日、白い母猫は私に話しかける。
「なんやユキ、改まって」
その猫はユキと名乗っていた。飼い猫の時に飼い主につけられた名前だ。
ユキは元々この山のふもとの家で飼われていたそうだ。年老いたおばあさんに大事に飼われていたが、やがておばあさんが老衰で亡くなってしまった。子供のいなかったおばあさんは行政と近所の人たちに弔われたが、ユキを引き取る者はいなかった。ユキは空き家になったその家に残り、おばあさんが買いだめしていたキャットフードの袋を必死で破いて食べていたが、それもひと月ほどで尽きてしまった。
やがて空腹に耐えかねたユキはその家を後にし、街で残飯をあさりながら生活するようになっていた。そんな生活の中で出会った黒ぶちの猫との間で子を宿し、一緒に安全に子供を産めるところを探していたが、野良猫を保護しようとした人間に見つかってつかまりそうになったので、身重の体を引きずってこの山に登ってきたのだそうだ。
お腹の子の父親はどうしたか聞くと、人間に追いかけられていた際に、ユキを逃がすため囮になってくれたらしい。中々骨のある猫のようだ。
ユキが言うにはクロの父親である黒ぶち猫は体は小さいが頭がいい上にすばしっこく、人間につかまるような間抜けではない。どこかで無事にいるのだろうと言っていた。願いもあるのかもしれないが、私もそれを信じることにした。
私は親に捨てられたという心傷を抱えて生きてきたが、ユキは大好きな飼い主を失い連れ合いとも別れ、一人ぼっちになったという心傷を持っていた。そのためかユキとは妙にウマが合い、よく話すようになっていた。そんなある日、話を切り出されたのだ。
「なんやユキ、改まって。ドロッとした美味しいのなら今日はないで、大体あれ、ここまで持ってくるのにわざと前足にべったりつけたりして大変なんやからな。お前に自分の前足なめさせんのもなんかいややし」
「あら、残念ね。でも、今日はそうじゃなくて私の子供のことよ、クロのこと。あの子は今後ここで生きて行かないといけないのだから、あなた達のように狩りができるようにならないといけないの。私はこんな体だし、そもそも、家でご飯をもらう以外では残飯あさりしかしたことないから、狩りなんて教えられない」
「体、そんなに悪いんか?」
「……正直言うと、もうそんなに長くないと思うの。本当は最後の力も出産で使い果たした感じだったの。でも、あの子を見ているとまだ死ねないって、あの子が一人で生きていけるようになる姿を見届けたかったけど」
「それで、私に狩りを教えろゆうんか?」
「うん、完全に独り立ちするまでは見届けられないかもしれないけど……」
「いや、間に合う、間に合わせる。ちょっとハードコースになるかもしれんけどユキが生きているうちに、あいつが一人で狩りができるところを見せたる」
自分でも驚いていた。自分がそんなこと言うなんて。でも目の前の母親を見ていると、私の親も生き別れになった私のことを、ちょっとは気にかけてくれているのかも知れんなと思った。
「明日から、いや、今から特訓や」
クロはなんでも食べるようになっていたとはいえ、基本的には気の小さい子猫だった。一度まだ動いている獲物を目の前に出したら一目散に逃げたこともあった。なので、結構時間がかかることも覚悟していたが、子供なりに母親の状態が良くないことはわかっていたようだ。
私はクロにいきなりまだ生きている鳥のとどめを刺させた。一発目にしては厳しい課題であったと思うが、狩りにいく以前に日ごろ自分達が食べているもの全てに命があり、それをもらって生きているということ、また狩りが出来ない者の代わりにその命を奪っている誰かいるということを、わかってほしかった。それは動物であろうと植物であろうと同じで、いつももらっているドロッとした美味しいやつも、元をたどれば誰かの命で出来ているはずだ。
もちろん他者の命を奪うことを楽しいと思う者はいない。それでも自分たちが生きていくために必要だから、誰かがそれをやらなければならない。生きていくということはそうゆうことなのだ。
その後、親に栄養をつけさせるというモチベーションも助けになって、クロの狩りの腕はみるみる上達していった。特訓が始まって、数か月経つ頃にはこの岩山に暮らす猫で私の次に狩りが上手くなっていた。まあ、他の連中が下手すぎるのもあるのだが、それはまあ置いといても予想を超える成長速度だった。
そんなクロが狩りを始めてから一番大きな獲物を母親の前に持ってきた日、ユキはクロに席を外させ、私にこう言った。
「トラちゃん本当にありがとう。あの子がたくましく育ったところを見られて、私は夢を見ているようだわ」
「なにをゆうてんねん、明日はもっと大きい獲物をとってくるで」
「ありがとう、いつもそうやって私を奮い立たせようとしてくれて。でももう十分。私もそろそろ休みたくなったの。先に逝った他の子供のお世話もしないとね。トラちゃん、あの子をこれからもお願いね」
「……」
「あの子を呼んできてくれる?」
「……わかった」
私は広場にいるクロを呼びに行った。
「おいクロちょっとこっちに来い」
連れてきたクロは不安げな表情でユキを見ている。
ユキはまっすぐにクロの目を見て言った。
「よく聞いて、クロ。トラちゃんやみんなの言うことをよく聞いてここで過ごすのよ、ここにいる猫たちのことは家族だと思うの。みんな一緒に暮らす兄弟みたいなものなんだからね」
クロは戸惑っているような、何かを感じ取ったような微妙な顔でうつむいていた。静かな時間が流れている。
沈黙に耐えられなくなった私は場を和ますために、とっておきのトリビアを披露したが、クロはきょとんとしていた。
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