プロローグ 山とにゃんこと登山客
薄暗い空が東の方から少しずつと明るくなってくる。僕は岩場の陰で太陽の光が段々と差し込んでくるのを瞼の上から感じていた。何故せっかく目をつぶって寝ているのにまぶしくなってくるのだろう? これじゃ目をつぶっている意味がないじゃないか。そう思いながらもゆっくり岩山の隙間からでて手足を伸ばし軽く伸びをする。
そのあと顔を洗ういつものルーチンワークだ。顔を洗うといっても水で顔をバシャバシャやるわけではない。これは顔の前でひげを整えている姿をみて、人間から顔を洗うと言われているだけだ。
なぜひげを整えるのかって? 視力の弱い猫にとってひげは実は体毛の一部なのだが高感度のセンサーという役割を持っており、物体との距離や空気の流れを感じ取る重要なものなので、折れたり曲がったりしてないか確認しながら整えるのだ。
ちなみに猫のひげは顔だけではなく手足にも生えている。他の体毛と違い根元が神経につながっているので引っ張られると非常に痛い。もし、強引にひげを触ってくるようなことがあれば、全力で引っ掻くので覚悟してもらいたい。昨日爪とぎをしたばかりなので、今の僕の両手はさしずめシザーハンズのような切れ味だ。もしくはウルヴァリンかもしれない。
さて、今朝は晴れているが薄い雲が平べったく広がっていて過ごしやすい。山の葉っぱも緑から黄色に変わってきて暑さも和らいでいる。過ごしやすい気候とはこういうことを言うのだろう。とはいえ、これから冬になると今度は寒すぎるのでそれも僕は好まない。今は柔らかい草も茶色くなって固くなるので、食べにくくなっておなかがムズムズしてきた時に困るしね。
しかし冬が近づくことで良いこともある。僕の生まれた場所はある山の中腹にある。そこに高さ四、五メートルほどの小さな岩山があり、その前は小さな展望広場の様になっていて山の景色を楽しむことが出来る。真夏は人通りが少ないが涼しくなるにつれ、大勢の登山客と呼ばれる人間たちが岩山の前の展望広場で休憩したりご飯を食べたりしている。その時に食べ物をくれる人が結構いるのだ。もちろん、疑り深い僕は警戒するがここに来る人間は逆に僕に対してほぼ警戒せず近寄ってくる。
「きゃー! かわいい!」
「インスタで見た猫だね」
「ほら耳に切り込みがあるでしょ。ちゃんと去勢もしてあるから、街猫としてみんなでお世話していいんだよ」
山に住んでいるのに街猫とはこれいかに。言うなら山猫ではなかろうか、でもそれだと違う種類の猫になっちゃうし、天然記念物と間違えられても困るし、せめて山にゃんこというのが落としどころな感じだろうか。そんなことを考えていると、いつのまにか無意識に細い袋から出てくるドロッとした食べ物を夢中でなめている。まただ、いつもこの細い袋を前に出されると警戒心は吹っ飛び夢中で食べてしまう。恐るべき人間どもの英知。この僕の警戒心をいともたやすく解除するとは。
「食べてる。食べてる。かわいい! 私これ動画で撮ってSNSにアップしよっと」
この何年かよく聞く言葉だ。なんでも“ちっくとっく”とか“いんすた”とか。どうも初対面の人間が僕のことを知っているかのように近づいてくるのはこの言葉が関係しているらしい。
僕はこの山で生まれ育ったので、山の下に何があるのかはあまり知らない。しかし一度だけ山の下に行ったことがある、というか無理やり連れて行かれたことがある。
あれはまだ僕が今よりも小さかったころの事だった。
いつものように細長い袋から出るドロッとしたものを夢中でなめていると、急に後ろから網のようなもので捕らえられた。そのまま箱に入れられて、何やらさらに大きな箱(後でこれが車という人間の乗り物だということは仲間に教えてもらった)に乗せられ、そのままゴトゴト揺れながらどこかに運ばれてい行ったのだ、到着したのは山の下にあるある建物だった。
僕はその建物の中に運ばれ、なにやら台の上に乗せられる。すると、白い服を着た人間が箱から僕を出そうとするが、不安で気が立っている僕は、爪をむき出しにして威嚇した。しかし、また例によってドロッとしたものを鼻先に出され、意識がそっちに向いてしまう。
その隙に僕は体を押さえられ、色々体を触れたり、目を覗き込まれたりして好き放題去れてしまった。我ながら情けない。
そして、お尻がチクっとしたと思ったら僕はだんだん眠くなり意識が遠のいていった。ああ、これで僕は死ぬのかな。どうせならドロッとしたやつもっと食べたかったな、等と思いながら二度と覚めないであろう眠りについた。
・・・・・・あれ? 意外にもまた目が覚める。すごくよく寝たが股がスースーするしちょっとチクチクして痛い。何が何だかわからないまま、その日は狭い部屋に入れられて過ごした。
周りにも同じような狭い部屋が並んでいて、黒い猫や茶色の猫、僕と同じような黒い猫もいた。皆緊張しているのか押し黙っている。ただ、狭いけど下はふかふかしており、暑くも寒くもなく快適であった。ご飯もたくさん食べた。
あーなんかこのままここで暮らしてもいいかな~、なんて思っているとまた箱に入れられ、またゴトゴト揺れるものに乗せられて気が付いたらもとの住処である岩山の近くに戻っていた。戻ると兄弟たちが寄ってきて、帰ってきたことを喜んでくれた。ただ、僕が無事に帰ってくることはわかっていたようで、兄弟の一人が、
「ま、通過儀礼みたいもんやから気にせんとき」
と言った。通過儀礼ということは、兄弟たちも皆経験済みということなのだろうか。「気にせんとき」というのはプチ誘拐されたことなのか、それとも股の間がスースーすることなのか僕にはわからなかったが、とにかくそれが唯一山を下りた時の体験だった。
そんな目にあったにもかかわらず、あの細長い袋を見るとあいかわらず体が勝手に動いてしまう。あれは本当に合法のものなのだろうか。
さて、今日もドロッとしたやつ美味しかった。他の兄弟たちも、同様にもらったらしく満足げな顔で岩の隙間に座っている。山にいるネズミや虫も美味しいがこの中毒性には敵わない、甘さが違うのだ。特に今から虫も減るし小動物達も冬眠するので冬の食糧事情は深刻だ。僕らのお腹の命運はこの登山客達にかかっているといってもいい。出来ればカリカリした歯ごたえのやつも香ばしくて美味しいし、腹持ちが良いので、一週間に一度くらいは持ってきてほしいと思っている。
そうこう考えているうちにも、登山客は次々と訪れ、景色を見たり、僕や兄弟達に食べ物をくれたり、自分達が食事をしたりして去っていく。
あまり長い時間滞在しないということはこの登山客という人間たちは山の下から来て、用事がすんだら山の下の戻っていくのであろう。なぜ、また下るのにわざわざ登ってくるのか僕には理解できないが、そんなふうに色々な登山客と触れ合いながらも時々昼寝を挟みつつ、一日終わっていくのが僕達の日常であった。




