水胎呪
冬が近づいていました。
麓から山に帰る途中、男は聞き慣れない水の音を聞き付けました。
辿ってみると小さな川があり、そこにびしょ濡れの身重の娘を見つけました。
なぜこんな場所に、という疑問はともかくこの季節にそんな有り様では命に関わります。
男は慌てて青い唇でぶるぶる震えていた娘を家に連れ帰って体を温めさせ休ませました。
落ち着いてから事情を聞いてみると、娘は呪いをかけられて故郷を追い出され、さ迷っていたと話しました。
いまだに呪いと騒いで、確かな証拠もなく弱い者を追い立てるとは。
娘の話を聞いて男はなんと非科学的で非人道的な行いだと腹が立ちました。
本当は女手のある麓の村で世話を頼むのが良いのですが、道は険阻な山の中。
とうてい妊婦に行かせる道ではありません。
娘がなぜこんな場所にいるのかも不思議なことでした。
男は人里から少し離れたこの不便な山の奥の場所に隠遁してしばらく経っておりましたが、見かけるのは狩人ばかりで女子どもが気軽に来れるような場所ではありません。
本人に尋ねても、水についてきたというばかりでどうやってこんな山の中まで来たのかよくわからないようでした。
男の暮らす場所は赤ん坊や若い母親に快適とは思えませんし、獣もでます。
身二つになって、時節と体調が良くなった頃に麓に送って生活の目処をつけてやるのが一番良いだろうと思いました。
幸い彼は姉妹の多い田舎育ちで、医者が間に合わない姉の出産に、母に指示を飛ばされながら手伝いに駆り出されたことがあります。
牛やヤギの出産なら何度も経験しているし恐らくなんとかなるでしょう。
念のため、もう一度麓に下りて、村の産婆に一度診てもらえるか相談して必要なものをそろえよう。
娘は良い家の育ちなのか、家のことはなんにもできません。
男の家に飾ってある鉱物を楽しそうに手に取って並べ替えたり、あれこれ自分の世話をする男を上機嫌にソファーで眺めておりました。
娘が大丈夫そうなので、男は自分の心づもりを話し、一度麓に下りて来ることを話します。
もし娘が不安なら村の衆を呼んできて、村で出産できるよう下山のために人手を頼もうかとも、尋ねて見ました。
娘は笑顔を消して眉をひそめます。
「親切なあなたとこの子がいれば、何も必要ないわ。村には行きたくない。たくさんの人がいるところへ行けば人はわたしを撥ねつけるの。わたしの呪いはそういう呪いなの」
そう、頑な様子で言うのです。
どうやら娘も、自分が呪われていることを信じこんでいるようでした。
それでも男は、不測の事態を避けるため、一度産婆を連れてくることは必要だと言って聞かせます。
そして次の日、また出かけていきました。
途中娘を見つけた川は何の痕跡もなく消えていました。
濡れた土の気配さえありません。
首を傾げながら麓に下りて村の産婆を訪ねます。
しかし彼女を連れてくることは叶いませんでした。
途中の川が激しく増水していたのです。
冷たい水に落とされるのを産婆は怖れました。
それで仕方なく、娘になにかあったならどんなことがあっても山に引っ張っていくことを約束して戻るよりなかったのです。
一人でひっかえすと、川の流れは元に戻っていました。
長らく住んでいて、こんなに山が奇妙なことはありませんでした。
知らない川が現れ消えて、雨も降っていないのに川が増水するとは。
しかしもう暗くなるので、急いで戻ると娘が笑顔で出迎えました。
産婆を連れて来なかったことを話すと娘はにこにこと頷きました。
「ええ、そうでしょうとも。他の人がいなくても全て万端で大丈夫という思し召しだわ」
男は仕方なく娘といずれ生まれる子が快適に過ごせるように精一杯冬支度を整えました。
奇妙なことはさらに起こりました。
素っ気ない庭を見て娘は窓辺に立って、
「寂しいお庭ね、花があればいいのに」と呟きました。
翌日庭に池ができていました。
しかも水面には見たことのない水色の花弁の花がたくさん咲いてました。
今は山がわびしくなる初冬だというのに。
あまりに非現実的な光景でした。
突然に水脈が移動して水が湧き出たのだろうか。やはり山に異変が起こっているのだろうか。
頭を悩ませました。
娘の言葉に符号したように現れたのも気になります。
娘は池と花を見て嬉しそうに、膨らんだおなかを撫でていました。
さらに翌日。
娘が果実を欲しがりました。
男にねだったわけではありません。
ソファーで池を眺めながら、一人言のように呟いたのです。
すると、庭にできた池にぷかりとそれが浮かびあがりました。
ここまで来るとさすがに男も娘を訝しく思いました。
山が異変を起こしているのではなく、娘が原因なのではあるまいかと。
努めて冷静を保ち問いただします
「君は魔法を使うのか、だから呪われていると言われたのか」
娘は取ってきてもらった果実を受け取りながら、無邪気に答えました。
──お腹の赤ん坊が望みを叶えてくれるの、と。
「赤ん坊が池を作って花を咲かせ、季節にない果実をどこからか採ってきたと?」
「わたしは呪われていても、お腹の子と水は味方なの。これはそういう呪いなの。この呪いは人の群れに弾かれるけれど、水と親切な人がそばにいれば願いを叶えてくれる。湖の鱗の魔女はそう言っていたわ」
「魔女? そんなものがこの時代に本当にいるとでも?」
「わたしは会ったわ。母と喧嘩してひっぱたかれたの。わたしがいずれ去ってしまう旅人と親しくなりすぎるからって。彼は、青空みたいな瞳のとても心の綺麗な人だったのに。一人ぼっちで湖で泣いていたら彼女がわたしの味方になってくれると言ったの。首筋に魚みたいな鱗がある女の人よ。そうしたら村の皆がわたしを不吉と罵ってわたしを追い出したの」
つやつやした頬に笑みを浮かべ果実を喜ぶ娘は非常に愛らしかったけれど、男はもはや何が何やらわからず、娘を少し不気味にも感じました。
娘は少し知性が幼いのかもしれません。
何かの病気で隔離された女性が魔女と呼ばれ、迷信で追い出されたのかもしれません。
しかし、そうだとしてもこの山で娘が現れてから起こった現象は……?
娘を不気味に思ったその日の真夜中、男は赤ん坊が身をよじるように激しく泣く声を聞いたように思いました。
続いて「よしよし」ととても優しげに宥める娘の声が聞こえました。
起き上がって部屋の様子を見ましたが、しんとしています。
夢だろうと思いました。
赤ん坊はまだ生まれてはいないのですから。
一切解明できない不思議はそれからも続きました。
娘は次から次へと願い事をし、次の日にはそれが池に浮かんでいるのです。
男にも何か欲しいものをお腹の赤ん坊に願ってみるようにとさえ言いました。
男は断りました。
娘は本当に呪われているのかもしれない、と心のどこかで不吉に思ってしまったのです。
殺風景な家は若い娘の好むものでいっぱいになりました。
男は池をはじめとしてこれらの品がどこからどういう経路であらわれたのか突き止めようとしましたがうまくいきませんでした。
池の花も植物事典には見当たりません。
服や装飾品も遠方のものです。
娘はまるで気にならないようでそんな無駄なことに時間を使うより、男も実際になにか願って見れば良いのにと不思議そうでした。
ある日の夜、男は昔の夢を見ました。
職場で論文資料のでっち上げを疑われたのです。親しかった人も皆、男に背を向けました。
彼を告発した同僚は妻の不倫相手でした。
疑いは晴れ、謝罪も受けましたが男は背を向けた人達の冷たさを忘れられませんでした。
日頃交誼を結んでいてもそれが虚しいものだと思い知ってしまったのです。
妻でさえ、笑顔で彼を裏切っていたのですから。
夢の中で座り込んだ男の頭を、あの娘が「よしよし」と温かい手で優しい声音で撫でました。
そして、あの池の花を浮かべたコップの水を勧めました。
男が一口飲むと、娘は青い花をつまみ上げて食べました。
目覚めるとひどく奇妙な心持ちがしました。
とうのむかしに消え去った、母親を独占したい子どもの自分がポンと現れて、またつまらない悪戯を始めたり母に誉められるようなことを探しているような。
勿論、今の自分はそんなことをまるで必要としていないののですから、ひどくちぐはぐな気分でした。
ある日娘がまたいつものように気まぐれを起こして、男に自分のお腹の子に対して願い事をするよういつもよりしつこく迫りました。
「赤ん坊が無事に生まれるように」
娘があんまり執拗なので男がそう言うと、娘はそれはそれは嬉しそうな笑みを浮かべました。
「あなたは本当に優しい人なのね」
そして男の頭を撫でました。
「よしよし」
男は叱りましたが、それほど不快ではありませんでした。
夢の中のように温かい手でした。
その夜、準備が整ったので明日にはこの子が生まれる、と娘が言いました。
そして池の水を汲んだ金だらいに池の花を全部摘み取って浮かべ、家の戸締まりを厳重にするよう男に頼みました。
さらに鏡に覆いをして窓も閉ざし細かな隙間も塞ぐようにと言いました。
「やってくる魂がどんな隙間からも逃げ去らないように。そしてこの子の魂が天に逃げ帰って恨み言や告げ口を洩らさないように。どんな隙間も見逃さないで」
真剣に念押しします。
「魂が去ってしまったら、全てが終わってしまうから」
と。
おかしな言い方でしたし、全く俗信的な頼み事でしたが、出産は大事です。
心安らかにお産に取り組めるように男は頼みを聞いてやりました。
その日、外は雪がちらついていました。赤ん坊の産声を固く閉ざされた男の家から聞こえることはありませんでした。
雪が降り積もる頃になっても灯りは灯らず家はしんと静まり返ったままでした。
春になり冬に閉ざされた道が開きました。
見知らぬ妊婦を助けた話をしていたので麓の村の者が見舞い品を持って山に訪ねてきました。
家は、固く固く閉ざされたままでした。 庭の池が消え去りまた侘しい様子に戻っていましたが、無論訪ねて来たものはそんな異変はしりません。
いくらか呼んでも返事をせず、最悪を想定して扉を壊して中に入りました。
男も娘も見当たりませんでした。
ただ、居間にベビーベッドが置かれ、その中に見たことのない瑞々しい水色の花が溢れていました。
そしてその底に皮ばかりのしわしわでミイラのように干からびたぺったんこの胎児が花の根に絡めとられて埋もれておりました。
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そこから遠く離れた湖畔ではびしょ濡れの娘が新しい胎児を撫でながら、優しい通行人を待っておりました。
男は娘の腹の中で胎児になった夢を見てゆらゆら水に揺られておりました。
深く眠る男を誉めるようにあやすように娘の優しい声が降ってきました。
「よしよし、あなたは何色の花を咲かせるかしら……? あの綺麗な鉱物のようなお花かしらね?」