前編
全2話です。
よろしければ、最後までお付き合い下さい。
「アヤ! すごくすごく綺麗だよ! こんな素敵な姿を見たら、結婚式まであと半年も待てないよ!」
ホワイエ伯爵邸にある一室に入るなり、クローデル伯爵家長男のイヴァンは顔を赤くして婚約者であるアヤ・ホワイエに足早に近付いた。
半年後に行われるイヴァンとアヤの結婚式の衣装合わせに、どうしても立ち会いたいとイヴァンは押しかけたのだ。
小さい頃から幼馴染として共に過ごし、お互いを大切に恋しく思い温めてきた関係も、とうとう半年後に成就する。
最近の二人は周囲からもそれはそれは幸せそうに見え、まるで人生の春を謳歌するように笑顔溢れる毎日を送っていた。
「イヴァン、いきなり入って来ないでよ。恥ずかしいわ……」
はにかむアヤの手を取り、イヴァンが唇を落とす。
ウェディングドレスを着付けていた侍女やデザイナー達は、そんな二人を微笑ましく見ていた。
その場にいる者すべてが、そんな二人の輝かしい未来を疑わなかった。
その時。
幸せな雰囲気を壊すように、伯爵邸に似つかわしくない荒々しい足音が聞こえてきた。
イヴァンとアヤが開いたままのドアから廊下に目をやると、慌てた様子でイヴァンの父であるクローデル伯爵がこちらに向かって来たところだった。後ろにはアヤの父親のホワイエ伯爵も青い顔をして立っている。
「イ、イヴァン……王宮から呼び出しがあった。今すぐ向かうぞ」
何かあったのか問うイヴァンに答えず、クローデル伯爵はウェディングドレス姿のアヤを見て一瞬動揺し、でもやはり何も言わずに踵を返した。
「何かあったのかしら?」
幼い頃から娘のように可愛がってくれているクローデル伯爵の態度に、アヤは不安を感じた。
ウエディングドレスを着る前には、自分が一番にアヤのドレス姿を見たいと騒ぎ、イヴァンと口喧嘩するほどだったのに……
「何だかわからないが、とにかく王宮からの呼び出しだから行って来るよ。すぐ終わらせて帰ってくるね」
イヴァンはアヤを安心させるように笑顔でそう言うと、アヤの手をぎゅっと握ってから部屋を出ていった。
アヤは握られた手の温かさに元気付けられ、イヴァンが戻って来るまでに衣装合わせを終わらせてしまおうと鏡に向き直った。
しかし、イヴァンとアヤが婚約者として顔を合わせたのは、この時が最後となった……
その日の夜遅くに、アヤは父親からイヴァンとの婚約が解消されたことを聞いた。
王宮に呼ばれたクローデル伯爵とイヴァンが国王に命じられたのは、フランソワーズ・ルブラン公爵令嬢との婚約だった。
フランソワーズはアヤより1歳年上のイヴァンと同じ歳で、長年、王太子殿下の婚約者であった。
王太子殿下は新たに国交を結ぶ新興国の皇女に請われて婚姻が決まったらしく、それに伴ってフランソワーズとの婚約が解消されたばかりだ。
国政だからと婚約解消を呑んだフランソワーズを不憫に思った王妃が、フランソワーズの願う相手を婚約者にすると言ったところ、密かに以前より心を寄せていたイヴァンの名前が上がったのだ。
王命となれば伯爵家が拒否できるはずも無く、腸が煮えくり返る思いをしながらも、父親としての感情を殺してクローデル伯爵もホワイエ伯爵もイヴァンとアヤの婚約を即座に解消した。
10年以上にも渡る婚約と未来は、イヴァン達が王宮に呼ばれてからたったの2時間で奪われた。
淡々と説明したアヤの父であったがよほど怒りを抑えていたのだろう、今まで見たことの無い表情をしていて、母はただただ泣いていた。
アヤは余りのことに涙すら流すことも出来ず、ショックでふらつく体を侍女が泣きながら支えてくれた。
その日は一睡も出来ず、翌朝アヤは修道院に入ることを父に告げた。
父も母もアヤの決心に戸惑いながらも、この先社交界でイヴァンとフランソワーズの姿をアヤが目にして苦しむのなら、と泣く泣く修道院行きを認めた。
そんな朝早くに、今度はホワイエ伯爵とアヤに王宮から呼び出しが届いた。
「この度、フランソワーズ・ルブラン公爵令嬢とイヴァン・クローデル伯爵令息の婚約が整ったのよ」
王宮の一室で、そう言ったのは王妃である。
父とアヤの向かいのソファーには、クローデル伯爵とイヴァン、イヴァンの隣にはフランソワーズとルブラン公爵が座っている。
少し離れた1人掛けのソファーに座っている王妃は、イヴァンの隣で満面の笑みを浮かべるフランソワーズを見て嬉しそうに微笑んだ。
「フランソワーズは娘のように可愛がっていたから、良い縁に恵まれて本当に良かったわ」
王太子殿下の婚約者だった頃のフランソワーズは、とても美しくて品があり憧れであった。
そんな雲の上のご令嬢だった人物が、昨日まで自分の婚約者であったイヴァンの隣で頬を赤らめてイヴァンを見つめるのを、アヤは不思議に思いながら見ていた。すべてが夢のようでお芝居のようで。
イヴァンはアヤと目が合わない。合わないどころか、イヴァンを見つめるフランソワーズと目が合うと微笑み返した。
それを見てアヤは血の気が引き、吐き気までしたが背筋を伸ばし冷静を装った。
考えるのは家に帰ってからにしよう。
「王妃様、私どもに何か……」
目下の者が話しかけるのは大変失礼に当たる行為だが、アヤの様子を見たホワイエ伯爵が王妃に話し掛けた。
王妃は一瞬ムッとした表情を浮かべたが、すぐにニッコリと微笑んだ。
「まあまあ、怖いお顔ですわよ、ホワイエ伯爵。今日はフランソワーズが、ホワイエ伯爵とアヤ嬢にイヴァンとの婚約から身を引いてくれた感謝を述べたいと言うので来てもらったの」
そんなことして貰わなくても。ホワイエ伯爵とアヤが固辞しようとするが、それより早くフランソワーズがアヤに話し掛けた。
「アヤ様。この度は私のせいでこんなことになってしまって……でも、イヴァン様はこれからは私と公爵家のために生きると言って下さったの。でもね、イヴァン様と私だけが幸せになるのは申し訳なくて……」
本当に申し訳なさそうな顔をしてフランソワーズが言う。
今更そんなに申し訳がるのなら、最初からイヴァンを取らないで欲しかった。アヤは心の中で叫びながらも、顔には出さずにじっと自分の手元に視線を落としたままでいた。口を開けば、今にも文句を言ってしまいそうだった。
何の反応も示さないアヤに、今度はルブラン公爵が話し掛ける。
「今から婚約者を探したりは大変だろう。それでだ。私の甥でフランソワーズの従兄弟、マレ侯爵家の次期当主であるフランクと婚約を結ぶのはどうだろう?」
突然の申し出に、アヤはもちろん、父親のホワイエ伯爵も慌てた。
イヴァンは既に聞いていたのだろう。相変わらずこちらを見ることも表情も変えることも無い。
「せっかくのお話ですが、私には過ぎるご縁です。それに、私は近く修道院に行くこととなりましたので」
アヤは声が震えないように慎重に、でもしっかりと断った。
修道院という言葉を聞いた時、イヴァンの肩がビクッと震えたのが見えた。まさか昨日の今日で、アヤが俗世と縁を切ることを決めてしまうとは思っていなかったのだろう。
「それはいけません」
王妃がピシャリと言う。自分の息子である王太子の婚約解消のせいで、伯爵家と言えど一人の貴族令嬢が修道院に入ることになった。そんな話が広がるのが嫌なのだろう。王妃が勧めるアヤとフランクの婚約も、もう王命と同じなのである。
それからの話は、何一つアヤの頭の中には入って来なかった。
嬉しそうに話す王妃とフランソワーズ、フランソワーズにしか目線を送らないイヴァンとクローデル伯爵。アヤだけが違う世界にいるみたいに思えて、ただぼんやりとその様子を眺めていた。
時々触れる、父の肩が小刻みに震えていることだけが、アヤを現実に戻した。
その日の夜遅く、アヤの自室に兄が入って来た。兄は1ヶ月ほど前から領地に視察に出ていて、今回のことを聞き急いで戻って来たのだ。
兄の顔を見て思わず涙ぐむアヤを、兄は優しく抱きしめた。
「イヴァンに会ったら一発殴ってやろうと思っていたんだが……」
そういうと、兄はポケットから一通の手紙を取り出してアヤに渡した。封筒には何も書いていなかったが、アヤにはそれがイヴァンからの手紙だとわかった。
兄もイヴァンとは幼馴染で兄弟のように仲良く過ごしていた。義理の兄弟になるのを本当に楽しみにしていたのだろう。
「少しだけイヴァンに会った。もう会っても話すことは無い」
それだけ言うと、兄はアヤの頭をひと撫でして部屋を出て行った。
アヤはゆっくりと封筒から便箋を出すと、ふうっと息を吐き出し便箋を開いた。
そこに書かれた短い文章を見て、初めてアヤは泣いた。子供のように声をあげ、流れる涙を拭くこともせず、ただただ泣き叫んだ。
アヤの慟哭は長い時間、伯爵邸に響いた。
やがて泣き疲れて眠ってしまったアヤの手には、握りしめられてクシャクシャになった便箋があった。
そこには、
〜 生まれ変わったら一緒になろう 〜
とだけ、書かれてあった。
***
そこから半年は、目まぐるしい忙しさだった。
イヴァンもアヤも予定通り、半年後にそれぞれ結婚式を挙げた。王太子の結婚式が1年後に行われるため、その前に以前の婚約関係はすべて方を付けるようにとの王妃からの命令だ。
忙しさのおかげで、アヤはイヴァンのことを考えないように過ごすことができた。そのことだけは王妃に感謝した。
アヤはマレ侯爵家へと嫁いだ。家格だけ見れば玉の輿である。
しかし、夫のフランクは21歳だというのに婚約者がいないのも納得するほどに女癖が悪かった。
アヤとの結婚を機に侯爵家の当主になったフランクは、従姉妹の後始末とばかりに押し付けられたアヤのことを快く思っていなかった。
アヤは侯爵家では孤立して過ごしていた。
新婚にも関わらず、フランクはパーティーに愛人を連れて参加した。アヤにとって、それはフランクの従姉妹夫婦であるフランソワーズとイヴァンに会わなくて済むので嬉しいことだった。
それでも一度だけ、王宮の夜会に参加しなければならない時があった。
美しく着飾ったフランソワーズを優しくエスコートするイヴァンを見て、会場について早々フランクに置いて行かれたアヤは、本当ならば……と恨まずにはいられなかった。
アヤが妊娠すると、フランクは別邸にアヤを追いやり愛人を本邸に住まわせた。
アヤは最低限の世話係と共に暮らし、やがてひっそりと男児を出産した。子供はとても可愛かったが、難産だったアヤには子供を抱く力は残っていなかった。
出産から5日後。
アヤの短い人生は静かに幕を閉じた。
生まれ変わったら一緒になろう、そう思いながら……
***
「アヤさんがお亡くなりになったそうよ」
寝室でフランソワーズに言われたイヴァンは、そう、とだけ答えた。何の表情も浮かばないイヴァンの顔を見て、フランソワーズは嬉しそうに続けた。
「でも、最後にしっかりと後継ぎをお産みになったのはご立派よね。フランクの愛人……後妻に入られる方の身分では、いくら男児が産まれようと後継ぎにはなれないから」
何も言わずにフランソワーズの髪を撫でているイヴァンに、フランソワーズは抱きついた。
イヴァンとアヤの婚約を解消させてから、イヴァンは恨み言を言うどころかフランソワーズの言うことを一番に聞いてくれている。
イヴァンとアヤが愛し合っている婚約者だったというのが、まるで嘘のように。
それでもイヴァンがいつがアヤと通じるのではないかと、フランソワーズは気に病んでいた。
アヤが死んでしまった今、憂うことは何一つない。
フランソワーズはイヴァンに口付けた。イヴァンもそれに応じ、二人は抱き合った。
その後、イヴァンとフランソワーズは3人の子を授かり、10人の孫に恵まれた。
仲がいい夫婦として社交界で評判だった二人は、長男が家督を継いだ時に領地に移り住んだ。そしてフランソワーズは、もうすく60歳を迎えるという頃、病に倒れた。
フランソワーズの今際の際、ベッドに横たわるフランソワーズに付き添うのはイヴァン一人だった。
フランソワーズの急変に、急いで領地に向かう子や孫達は間に合いそうにない。
フランソワーズは荒い息をしながら、イヴァンに話しかけた。
「私たちの始まりは色々あったけれど、イヴァンはいつも私の言うことを全て聞いてくれた。とっても幸せだったわ」
フランソワーズは目を細めて、嬉しそうに言った。呼吸は苦しそうだったが、それでも幸せそうだった。
「ねえ、イヴァン。これが最後のお願いよ……逝く時に1人は寂しいの。手を握っていて」
フランソワーズのお願いにイヴァンはニコリといつも通りの優しい笑顔を向けた。
しかし笑顔を向けるものの、イヴァンは動かなかった。
それまで幸せそうにイヴァンを見ていたフランソワーズが目を見開く。
「……イヴァン。寂しいわ……何か、何か言って」
イヴァンはすがるように自分を見るフランソワーズに優しい笑顔を向けたまま言う。
「君のハニーブラウンの柔らかい癖っ毛が大好きだ」
今は白くなってしまったが、かつては王族に相応しいとまで言われた癖一つ無い金色の髪を持つフランソワーズは固まった。
「君の菫色の瞳が大好きだ」
フランソワーズは金色の瞳を見開いた。
「愛してる。ずっと君だけ愛してる。愛しいアヤ」
絶望が浮かんだ金色の瞳から涙が溢れる。そして深く息を吐き、フランソワーズは絶望のまま永遠の眠りについた。
それからのイヴァンはアヤだけを思って生きた。この国の国教では、自死すると動物に生まれ変わり来世では人として生きられない。
イヴァンは信じている訳ではなかったが、それでも生まれ変わってアヤと一緒になる為にと、天寿を全うした。
死ぬ間際、イヴァンは「生まれ変わったら一緒になろう」と呟き、あの菫色の瞳を思い浮かべた。
そしてそっと目を閉じた……
イヴァンが目を開けると、そこにはあの菫色の瞳があった。
「アヤッ! アヤなのかっ?!」
イヴァンは目の前にいる菫色の瞳の女性に向かって、大声で呼び掛けた。
「……イヴァン、イヴァンなの?」
女性は菫色の瞳を目一杯開き、掠れた声を出した。その瞳にはみるみる涙が溢れてくる。
「っ! アヤッ、アヤッ!!」
イヴァンは力一杯、女性を抱きしめた。女性はためらいながらも、イヴァンの背中に手を回した。
「もう離さない! もう離れない!」
「ちょっ! まじか、お前! やめろっ」
騎士団の制服に身を包んだイヴァンの同僚らしき若者が、慌ててイヴァンとアヤに駆け寄る。
「誰かっ! イヴァンがご老人を襲っているぞ!」
周りにいた、騎士団員数人が慌てて声のする方へと集まる。
駆けつけた騎士団員が見たのは、騎士学校を出たばかりの19歳のイヴァンが、修道女の服を着た菫色の瞳の老女に、今にもキスをしようと抱きついている姿だった。
前編お読み下さり、ありがとうございます。
もう苦しい場面はないかと思います。
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*投稿は19時頃の予定です。
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