第9話「Tragedy」3
第9話「Tragedy」3
「馬鹿野郎ッ!」
「やめて!」
目の前に、自分をかばって殴られた母親の背中があった。母を殴った男――父親は、酒臭い息を吐き、血走った目で母を見下ろしている。その手には、母がずっと使っている、古びた財布があった。
「元はオレの稼いだ金だろうっ! オレが使って何が悪い! そもそも、働いて金を稼いでくる亭主のために、酒ぐらいちゃんと用意しておくのが主婦のつとめだろうが!」
「でもあなた、もう飲みすぎで――」
「うるせぇっ!」
反論しかけたところで、再び、母に鉄拳が振り下ろされる。倒れた母は、部屋の床にいくつも転がっている焼酎の空ペットボトルにぶつかり、ガラガラと大きな音が響いた。父は足元に転がってきたペットボトルを力任せに蹴りつける。ボトルがテーブルにぶつかり、置いてあったコップが落ちて砕けた。
「こっちはこんな安酒で我慢してるんだろうが! だったら、酒ぐらい好きなように飲ませやがれ!」
ふらつく父親の足元には、色とりどりの折り紙を貼りつけたティッシュボックスとトイレットペーパーの芯の残骸があった。幼稚園の工作の時間に作ったロボットだったものだ。しかし、つい先ほど踏みつぶされてしまった。
(コータ君、このロボット、すごく上手に作れたから、持って帰っておうちの人にも見せてあげてね)
幼稚園の先生は、そう言ってほめてくれた。コータは笑顔でうなずきながらも、内心は複雑だった。
(持って帰っても、すぐに壊されるか、捨てられるだろうな)
(でも、もしかしたら、パパ、今日は『飲んでない』かもしれない。そしたら、これを見て喜んでくれるかも……)
そんなかすかな希望は、帰宅後、ほどなく打ち砕かれた。巨大なペットボトルから焼酎をラッパ飲みして泥酔する父親。殴られて泣く母親。響く怒鳴り声。団地の小さな部屋の中に繰り広げられているのは、いつものわが家の光景だった。
当初は父親が暴力を振るうたび、恐怖に震え、泣き叫んだものだった。そのたびに「うるせえ!」と父親から殴られた。やがて、コータは気持ちを麻痺させることを覚えた。
(泣いても、怒っても、どうせ殴られる。だったら、オレは何も見ない。何も聞かない。パパが寝るまで、静かにしていればいいんだ)
コータは心を閉ざし、お気に入りの特撮ヒーローの写真絵本をジッと見つめながら、ただひたすら耐えた。
(ヒーローでも、悪者でもいい。オレにもこんな力があれば……。強くなれたら……)
そんなことを考えたとき、絵本を握りしめた手が少しだけ震えた。
コータが小学校に入ってすぐ、両親は離婚した。母親は生活費を稼ぐため、それまで続けていたスーパーのパートではなく、工場で朝から夜まで働くことになった。
日々の生活は厳しく、学校の制服も、授業で使う教材も、新品は買ってもらえなかった。母親はいつも、誰かから中古のものを譲り受けてきた。体のサイズに合っていない、古びた制服を着たり、同級生が使っている教材とは微妙に形の違う、使い古された教材を使って授業を受けたりするのは、子供心にも恥ずかしく、みっともないという思いでいっぱいだった。
それでも、いじめられることはなかった。それは、ケンカが強かったからだ。制服や教材のことをからかってきた相手は、上級生だろうと同級生だろうと、容赦なく殴り倒した。相手が仲間を連れて仕返しにきても、全員、動かなくなるまで殴り続けた。
(パパに殴られたことを思えば、コイツらなんて大したことない!)
殴られたくなければ、強くなればいい。
殴られる側ではなく、殴る側になればいい。
コータは、そう考えた。
それでも、不意に切なくなることがあった。
授業参観や運動会など、保護者が参加する行事になると、否応なく寂しさを味わわされた。母親の姿がなかったどころか、弁当すら作ってもらえず、コンビニで買ったおにぎりや菓子パンを教室で食べた。
そんな特別な日の寂しさよりも、はるかにつらかったのは、何げない平日、一人で過ごす夜だった。
母親の勤める工場には、通常の朝から夕方までの勤務に加え、午後九時まで作業を続ける「夜シフト」があった。少しでも収入を増やすため、母親はよくそれに入った。
学校から帰って一人で宿題を済ませ、作り置きの夕飯を食べる。夕飯がなければ、コンビニでパンやおにぎりを買う。一人の部屋は静かすぎるので、ずっとテレビをつけている。バラエティ番組で、ひな壇に並んだお笑い芸人の話にドッと笑い声が上がる。コマーシャルでは、にぎやかな音楽やセリフと共に、新しいお菓子やゲームが紹介される。番組が終わってふと窓を見れば、外はいつの間にか真っ暗になっている。それでも、母親は帰ってこない。
そんなとき、コータは強烈な寂しさを感じた。それは、胸の奥にぽっかりと大きな穴が開き、その空白を誰かに無理やり鷲掴みにされるような痛みを伴っていた。
締めつけられるように痛む胸を押さえていると、いつも思い出す光景があった。
隣町の緑地公園。大小さまざまの遊具が置いてある広場があり、公園の中央には大きな池があった。その池にパンくずを投げると、大きな鯉が何匹も集まり、群がってパンを奪い合うのだった。
それは、彼が幼稚園に入る前の記憶。物心がついてから覚えている、最も古い記憶だった。
(あの頃のパパは、ちっともお酒を飲んでいなかった。ママとも仲が良くて、毎日が楽しかった……)
(どうして、こんなことになっちゃったんだ。あの頃に戻りたい。パパも、ママも、一緒にいてほしい……)
「そうだったのか……」
ハイブの「中の人」、コータの記憶にふれた私は、目をしばたたかせた。
胸の奥に広がる強い痛みと、圧倒的な寂しさの感情の前に、思わず知らず涙が込み上げていた。
「大事な人はいないの?」
私が以前、そう問いかけたとき、ハイブは
「そんなもん、いねーよ!」
と答えた。それは寂しさの裏返しであり、子供なりの精いっぱいの強がりだったのだ。そうやって虚勢を張っていないと、寂しさで心が押しつぶされそうだったのだ。
私の心の中は、母親を、そして父親を求めるコータの切ない気持ちでいっぱいだった。
そして以前、私が彼を抱きしめて叱った時の記憶が流れ込んできた。
「かわいそう」と言って抱きしめられたとき、コータの心は、「子供扱いされたくない」という反発と同時に、うれしさや喜び、「甘えたい」という気持ちなどが複雑に入り混じった感情でいっぱいになっていた。
(コータ……。キミは、こんなふうに親に甘えることができなかったんだな……。だから、この気持ちをどうすればいいのか、分からなかったのか……)
私はハイブの手首をつかんだまま、心の中で語りかけた。
ハイブ(=コータ)の中にも、松嶋の記憶が流れ込んでいた。
特に強く感じたのは、娘の「ミサ」が生まれたときの喜び。そして、仕事をしながらも夫婦で子育てに奮闘する様子だった。
理不尽なことを言う上司や取材相手に、ひたすら頭を下げて交渉する。早朝や深夜の取材、原稿執筆。連日の会議。ストレスからくる胃痛や頭痛、睡眠不足、その他もろもろの不調を市販薬でごまかしながら、やり過ごす日々。
(なんだよコレ……。こんなの、オレだったら絶対にブチ切れてブン殴ってることばっかりじゃねーか……)
それでも、仕事を終えて子供の寝顔を見たときや、休日、子供と遊んでいるとき、心の中は優しさと喜びで満たされ、ストレスから解放される。どんなに疲れていても、休日の朝から子供を連れて遊びに出かけるのは、
(この子に幸せな時間を過ごさせてあげたい)
という、松嶋の切実な親心が根本にあった。
松嶋の記憶の中で、コータにも馴染みのある緑地公園の光景が広がった。
(ここは……あの公園じゃないか……)
大小の遊具で遊ぶ子供の姿。それを見守る松嶋と妻。幸せな家族の姿は、コータが切望してやまない、何より幸せだった時代の記憶そのものだった。
羨望。憧憬。そして切なさの入り混じった気持ちで、無邪気に笑う子供の姿を見守るうち、コータの目から涙があふれ出した。
(こんな家族が……ほしかった……)
そして、松嶋の記憶の中に、ポンニュが現れた。
「『魔法少女』になって、世界をたすけてほしいニュ」
非常識極まりないポンニュの願いを、「子供を守りたい」という一念で受け入れた松嶋。
戦いどころか、スポーツさえ無縁の平凡なサラリーマンがベジーティアとして戦い続ける日々の根底にあったのは、常に、「子供を守るために、自分が戦わなければいけない」という強い気持ちだった。
(コイツは……戦いを、楽しんでなんかいない……)
戦っているときの松嶋が考えているのは、ほぼいつも、
「痛い」
「怖い」
「苦しい」
そればかりだった。
しかし、どんなに痛く、怖く、苦しくても、
「ミサを守る」
ただその一点だけは揺るがなかった。
アニメの悪役の「中の人」に選ばれたからと、メタミートを使って町を破壊し、超パワーを使って好き放題に暴れてきた自分とは、まるで違っていた。
突然、視界が開けた。
私とコータは、見渡す限り青い空と青い海が広がるだけの明るい世界に、二人きりで向き合っていた。
体は宙に浮いていた。そして、「キャロティア」と「ハイブラッド・グルコース」というキャラクターではなく、素の自分――松嶋ヒロシと小学生のコータ――の姿に戻っていた。
ここは、一体どこなのか。
どうして、突然ここに来たのか。
素の自分の姿に戻っているのはなぜなのか。
いくつもの疑問が際限なく浮かんでくる。
しかし、同時に私は、それらの問いの答えを「知っている」ことに気づいていた。
ベジージェムとミートジェムは、対をなしている。
表裏一体のパワーが均衡を保った状態でぶつかり合ったことで、魔力が共振し、混じり合った。そして、「精神の一体化」とでもいうべき現象が発生したのだ。その結果、生まれたのが、この世界だ。
言うなればここは、私とコータだけが共有する精神世界だったのだ。
「コータ……。お説教のように聞こえるかもしれないけれど、聞いてほしい」
私は目の前のコータに向かって語りかけた。
「君のお母さんがずっと仕事をしているのは、君を守るためだ。君を守りたい、君を育てたいから、どんなに疲れていても、体調が悪くても、つらいことがあっても、仕事を続けているんだ。それが、親なんだよ。
確かに君のお父さんには、問題があった。君にとって、いいお父さんじゃなかったかもしれない。
だけど、お母さんみたいに、君のことを大事に思って、必死で頑張ってる人もいるんだ。
それだけ大切に思っている子供から、『家族なんていない』『自分なんてどうなってもいい』なんて言われたら、お母さんは悲しすぎるじゃないか……」
コータは無言のまま、足元に視線を落としている。
私は言葉を続けた。
「だからといって、君が一人で我慢して、寂しさを抱え続けていれば良かったなんて言うわけじゃない。君の寂しさに気づいてあげられなかった、君のつらさを分かってあげられなかったのは、オレたち、大人の責任だ。君や、君のお母さんが何もかも抱え込まなくてもいいように、周りの大人が、手を差し伸べなきゃいけなかったんだ……」
私はコータに歩み寄り、小さな肩に手を掛けた。
「気づいてあげられなくて、ゴメンな。こんなことぐらいで、君の気が済むわけはないんだけど、大人を代表して謝る」
ぐっと力を込めて抱き寄せる。
「すまなかった……っ!」
それは私にとって、心の底から湧いてきた思いだった。
もし、コータが自分の子供だったら、こんな思いはさせなかっただろう。
もし、コータが自分の身近にいたら、何か少しでも手を差し伸べようとしただろう。
実のところ、私はこれまで、よその子供に対してそのように考えたことはなかった。今、自然とそのような気持ちが湧いてきたことが不思議な気もした。もしかしたら、私自身が元から持っていた精神に、「キャロティア・赤坂ほのか」そして「赤川のどか」の精神が少しずつ融合した結果、生まれた感情だったのかもしれない。
コータはしばらく体をこわばらせていた。しかし、精神を共有し合っているいま、お互いに何を考えているかは筒抜けになっている。私が嘘をついていないことは、間違いなくコータに伝わっていた。そして、私の気持ちを受けとめたコータが、戸惑い、気恥ずかしさ、照れくささ、嬉しさ、その他諸々の感情の渦に飲み込まれ、どうすればいいのか分からなくなって硬直しているだけだということも、私に伝わっていた。
おずおずとコータの両手が上がり、私の体に巻きついた。
「うわあああああああああああああああああっ!」
私にしがみつき、コータは号泣した。
これまで一度として表に出ることなく、押しつぶされてきた寂しさ。
それが慟哭の形をとって、初めて出てきたのだ。
私は泣き続けるコータを、黙って抱きしめていた。
どれぐらいの時間が経ったのだろう。
泣き止んだコータは鼻をグズグズ鳴らしながら私から離れた。照れ隠しのつもりなのか、そっぽを向いたまま自分のシャツの袖で乱暴に顔をこすり、涙をふき取る。
「ありがとう……。アンタみたいな大人も、いるんだな……」
「そうだな……。大人だって間違えることはあるし、嘘をつくこともある。どうしようもない人間だっている。だけど、そんな大人ばかりじゃない。少なくとも私は、自分の手の届く範囲の人だけでも守りたい。力づけたい。こうして知り合ったんだから、君のことも、これから少しでもサポートできたらと思ってるよ」
「そっか……」
そんなことを話していた矢先、コータの顔が突然、引きつった。
「え……、な、なんだよ、それ……」
「どうした?」
反射的に尋ねたものの、お互いの精神を共有し合っているこの世界で、コータが感じ取ったものは私にも即座に流れ込んできた。
コータが見たのは、私が、コレスやプリンと戦ったときの記憶だった。
強制的に二つ目のミートジェムを解放され、暴走するパワーによって自我の崩壊に追い込まれたコレス。
ヘドローンに騙された挙句、「エサ」としてヘドロに飲まれそうになったプリン。
二人に対する態度が、ヘドローンへの不信感を一気に増幅させた。
(ヘドローンにとって、敵も味方も『エサ』でしかない……。だとしたら、どうしてこんなベルトをくれたんだ? コレ、着けてたらヤバいんじゃないのか……?)
コータがそう考えた瞬間、世界が暗転した。




