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76 幽世の門

幽世のお話は終わりです。この後少し時間が進みます。

頬にポタリと液体が落ちる感触で目が覚めた。


「ホノカ・・さん・・・?」


 僕の顔を覗き込んでいたホノカさんは、泣き笑いしながら僕の頬をゆっくりと撫でた。


「無茶ばかりして。本当にしようのない人。」


 すっかり大人の顔立ちになり、美しい化粧を施された彼女の両目からは大粒の涙が零れ落ちていた。見た目は大きく変化しているけれど、僕を見つめるその眼差しは、僕の知っている彼女のままだった。






 僕は闘技場の床に寝かされたまま、彼女に膝枕されていた。僕たちを両側から挟むようにして、エイスケとウズメさんが心配そうに、こちらを覗き込んでいる。


 周囲からは、僕と桜公方の一騎打ちを観戦していた妖怪たちのざわめきや怒号が響いていた。


「おう、目が覚めたな。起きられるか? ちょっとやべえことになってるぞ。」


 僕はエイスケの手を借りて、立ち上がった。胸の中心にポッカリと穴が空いたようで、うまく身体をコントロールできない。どうやら魔力を使いすぎてしまったようだ。もし、生身のままなら、急性魔力枯渇による激しい頭痛と吐き気に襲われているはずだ。


「僕はどのくらい気絶してた?」


「ほんの2、3分だ。」


 ふらつく僕を、エイスケとウズメさんが両側から支えてくれた。


「新道先輩、さっきまで霊体が消えかかってたんですよ。穂津・・小桜先輩が仙術で助けてくれなかったら、そのまま消滅しちゃうところでした。」


「心配かけてごめん。ありがとう、ホノカさん。」


 後ろを振り返ってお礼を言うと、彼女は涙をそっと拭いながら、小さく頷いてくれた。






「動けるようなら、すぐにここを離れよう。」


 そう言ってエイスケは、僕たちを守るようにこちらに背を向けている、マリさんとテイジを指さした。僕たちは、武器を手にした烏天狗たちに、完全に包囲されてしまっていた。


「公方様には、指一本触れさせぬぞ!!」


「だーかーらっ!! あたしたちは、何にもしないって言ってるじゃん!」


 周囲のどよめきに混じって、烏天狗たちと睨み合っているマリさんの声が聞こえる。


「どういうこと?」


「お前と桜公方が倒れた後、俺と小桜がお前のところに駆け寄った途端、あの連中が『公方様を守れ!』って、なだれ込んできたんだよ。」


 エイスケは困惑した様子で、僕の問いかけに答えた。すると、僕たちの後ろから不意に声が聞こえてきた。






「ほっほっほ。公方が散々『命がけの一騎打ちだ!』と喧伝しておったからのう。お主たちが公方にとどめを刺すつもりだと思いこんでおるのだろうて。」


「!! 翁様! いつからそこに?」


「いつからも何も、最初からおったわい。ただ、わしの力は戦いの場には馴染まんのでな。」


 ぬらりひょんの客人神まれうどがみとしての力は、大きく気の乱れる場所では作用しにくいらしい。翁様は小さくため息を吐いた。


 その時、僕たちを取り囲んでいた烏天狗たちの後ろで、動きがあった。どうやら、気絶していた桜公方が目を覚ましたらしい。






「お前ら、どけどけ! 俺にこれ以上恥をかかせるんじゃねえ!!」


 空気を圧するような声が響き、烏天狗たちが後ろに下がっていく。彼らの中から姿を表した桜公方は、僕の前にどっかりと座り込んだ。


 奴の着ていた修験者装束の上半身は、僕の放った光弾によってすべて焼け落ち、なくなってしまっていた。筋肉が盛り上がった、岩のような身体にも、酷い火傷の跡が残っている。


「俺の負けだ。さっさとトドメをさせ。」


 公方の言葉を聞いて、烏天狗たちに動揺が走る。中には、武器を握りしめて、涙を流している者もいた。しかし、さっきの公方の言葉があるためか、僕たちに何かする様子は見えなかった。


 烏天狗たちのただならぬ様子を察してか、群衆の声がだんだん静まっていき、広場に沈黙が降りた。しわぶき一つない、張り詰めた空気の中、はじめに動いたのは、ホノカさんだった。






「勝手に死なれては困ります。わたくしとの約定を果たしてくださいまし。」


「律儀なことだ。そんなもの、俺の首を取った後に、いくらでもやれるだろうに。」


 そう言うと、公方は、空に向かって大きな声で「雲外鏡!」と怒鳴った。すると、僕たちの頭上に白い光の玉が浮かび上がり、その中から円形の巨大な鏡が現れた。


 鏡は空中に浮かんでいる。やがて、鏡の表面に、白い髭を生やしたおじいさんの姿が映し出された。






「公方様、何の御用でしょうか?」


 鏡の中のおじいさんがそう尋ねる。 


「俺が預けたものを、穂津に返してやってくれ。」


「承知しました。」


 おじいさんがそう言うと、鏡はくるりとホノカさんの方を向いた。鏡の中に映ったホノカさんに、おじいさんは黒塗りの小さな箱を手渡した。


「確かにお返ししました。」


 おじいさんがそう言うと、鏡はまた白い光の中に消えていった。気がついた時、ホノカさんの手には小さな黒塗りの箱が握られていた。


「こんなに素直に返してくださるとは思いませんでした。」


 ホノカさんの言葉に、公方は腕組みしながら、ニヤリと笑ってみせた。






「他の大妖怪共にこの『嫁盗り』を提案されたときから、覚悟はしてたさ。俺がこの国を統一できたのは、お前の助力があってこそ。お前がいなければ、俺はただ力が強いだけの天狗だ。だが、最後まであがいてみたかったんだ。俺は、お前に惚れてたからな。」


 公方はそう言うと、僕の方に顔を向けた。


「最初に仕留め残った時点で、俺は負けちまってたんだろうな。俺が100年かかっても、口説き落とせなかった女だ。大事にしろよ。」


 言葉を切った公方は、目を瞑って大きく息を吐きだした。


「俺の首を落とせ。この間使った刀は、もう持ってねえのか? なら、俺の百鬼丸なきりまるを貸してやる。すっぱりとやってくれ。」


 公方は無言で顎をシャクって、烏天狗の一人に自分の大太刀を持ってこさせた。烏天狗は涙目でそれを僕に差し出した。


 でも、僕は手を振って、公方の申し出を断った。






「僕は・・・あなたを殺そうとは思っていません。それに、あなたが協力してくれなければ『幽世の門』を開くことができなんですよね?」


「ああ、そんなことを心配してたのか。安心しな。他の里長たちは、桁違い化け物揃いだ。俺一人が欠けたくらいで、門が開けなくなることはねえ。だから、早く終わらせてくれよ。あんまり長くしゃべってると、せっかくの覚悟が鈍っちまう。」


 公方はそう言ったきり、目を瞑って黙り込んでしまった。もう何を言っても無駄みたいだ。


 僕は困り果てて、エイスケたちを振り返った。でも、エイスケたちもどうしたらよいかわからないようだ。


 すると、僕の隣に立っていたホノカさんがすっと前に進み出て、烏天狗の持っているたちの柄に手をかけた。






「ほ、ホノカさん!?」


 僕は思わず、彼女の名前を呼んだ。でも、彼女は僕の方をちらりと見ただけで、何も言わなかった。彼女は、重い太刀を引きずるようにして、公方の前に立った。


 目を開けてホノカさんの姿を見た公方は、笑っているとも泣いているともつかない表情で、彼女の目を見つめた。


「お前が引導を渡してくれるのか。惚れた女の手で死ねるなら、これ以上、望むことはねえ。」


 巨漢の公方はあぐらをかいた状態でも、立っているホノカさんと目の高さが同じくらいだ。ホノカさんは、冷たい目で、真正面にいる公方を見つめた。


「100年前、私があなたに会った時、あなたは戦乱から弱い人妖たちを守ろうと必死になっていましたね。他の里の妖怪に襲われ、命を落とした仲間の骸を抱きながら、泣いていたあなたの姿。今でも忘れてはいません。」


「そうだな。あの時は本当に毎日が命がけだった。お前が俺たちに手を貸してくれて、ようやく俺たちは逃げ回らなくて済むようになったんだ。」


 公方は遠い目をして、そう言った。ホノカさんはわずかに目を伏せて、公方に語りかけた。






「でも、あなたは変わってしまった。勝利を重ね、里が大きくになるにつれて、弱きものを顧みることがなくなってしまった。桜公方の威を借りて、横暴を働く者たちを、あなたも知っていたはずです。」


「・・・そういえば、お前に幾度か、諌められたな。俺は耳を貸さなかったが。」


 公方の言葉に、ホノカさんは小さく頷いた。


「あなたは勝つことに執着していましたから。」


「勝ちさえすれば、すべてが解決すると信じていた。俺は間違っていたのか?」


「確かに、人妖の里は平和で豊かになりました。ですが、他の里はどうでしょうか。」


 ホノカさんの言葉を聞いた群衆達は、互いの顔を見合った。中には、気まずそうに目を伏せる者もいる。その様子を見た公方は、自嘲するように口元を歪めた。






「増長と強欲。天狗としての俺のさがが、民たちの心も歪めちまったということか。」


 嘆息した公方は、ホノカさんを見た。


「お前にも随分、酷いことをしちまった。俺は、お前をどうしても手放したくなかった。俺を恨んでいるだろうな。」


 ホノカさんは何も言わなかった。彼女は黙って、ゆっくりと太刀を持ち上げた。公方は、その様子を見ながら、自分に言い聞かせるように、ポツリと呟いた。


「俺はただ、お前に惚れてた。お前がいれば、何でもできると思ってたんだ。俺は・・・どこで間違えちまったんだろうな。」


 公方は覚悟を決めたように、ぐっと目を瞑った。烏天狗たちが息を呑み、群衆たちからは小さな悲鳴が上がる。






 ホノカさんは持ち上げた太刀を振り下ろすこと無く、あぐらをかいている公方の膝の上に、そっと置いた。


 そして、両手を公方の胸に当てる。その途端、みるみる彼の体の傷が消えていった。


穂津ほのつ、お前・・・!!」


 驚く公方に、ホノカさんは静かに微笑みかけた。


「仲間のために、奔走するあなたが好きでした。今まで、私とともに戦い、私を守ってくれたこと、本当に感謝しています。」


 公方から手を離した彼女は、深々と頭を下げた。


「今までありがとう、猿多坊。そして、さようなら。」


 晴れ晴れとした表情で顔を上げたホノカさんの目から、すっと涙が一粒零れた。


 それを見た公方は、彼女を抱きしめようと手を伸ばしかけた。しかし、その手を止め、ぐっと握りしめると、地面に強く叩きつけた。






「おおおおお、穂津! 穂津よおぉ!!!」


 公方は土を握りしめたまま、子どものように声を上げて泣き始めた。ホノカさんはそんな公方に背を向けると、僕たちの方へ歩み寄ってきた。


 彼女の目には、今にも零れそうなほど、たくさんの涙が湛えられていた。僕たちの前に立った彼女の口元は小さく震えている。まるで、溢れ出る言葉を必死に堰き止めているみたいだった。


 でも、彼女が何かを言うよりも早く、エイスケが先に口を開いた。


「小桜、謝るんじゃねえぞ。そんなことより先に、言うことがあるだろ。」


 ホノカさんは驚いて口をぽかんと開けたまま、その場に立ち尽くした。でもすぐに大きく頷くと、涙で顔をグシャグシャにしながら僕たちに言った。






「皆、ありがとう。ただいま。」


「おかえり、ホノちゃん!!」


 マリさんがホノカさんに抱きついた。二人はそのままその場に座り込んで、泣き始めた。ウズメさんは大粒の涙をポロポロ零しながら、二人の様子を見ていた。


 エイスケとテイジは、僕に向かって拳をぐっと突き出した。僕はその拳に、自分の拳を合わせた。


「悪かったな、感動の再開を邪魔しちまって。本当はお前が抱きしめたかったんじゃないのか?」


 ニヤリと笑ってそう言ったエイスケに、僕は何も言わず、小さく頭を振ってそれに答えた。胸が一杯で、そうすることしかできなかったからだ。


 こうして、僕たちは試練を乗り越えた。その後に行われた四つの里長の話し合いで、ホノカさんが現世に帰るための『幽世の門』を開く日が決まったのだった。












 四つの里長たちが『幽世の門』を開く日の五日前、僕たちはホノカさんと一緒に、彼女の師である仙女が住む遊撫山ゆふさんへとやって来ていた。


「久しぶりだね、ホノちゃん。でも、すごく疲れてるみたいだけど、大丈夫?」


「皆になかなか会いに行けなくて、ごめんなさい。今朝ようやく終わったところです。」


 ホノカさんは少し疲れた様子で、マリさんに微笑んだ。案内役として同行してくれている、ぬらりひょんの翁様は、心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。


「穂津媛殿、いや、今はもうホノカ殿であったな。ホノカ殿は、風早国の謂わば宰相のような立場だったからのう。各里との折衝や引き継ぎで、この10日間ほどは、寝る間もないほどじゃったと聞いておるぞ。」


 桜公方との一騎打ちからすでに半月ほどが過ぎている。その間、僕たちはホノカさんとまったく会うことができなかった。だから、遷外境の見物などをしながら、翁様が紹介してくれた宿でじっと待っていたのだ。


「でも、翁様のお力添えのおかげで、なんとか他の里長たちの協力を取り付けることができました。人妖たちが協力して現世で魔獣を狩り、魔石を供給することで、風早国の氣の不足を解消する目処も立ちましたし。本当にありがとうございます。」


 ホノカさんは、翁様に丁寧にお礼を言った後、今後の風早国について話を聞かせてくれた。






 一番大きな変化は、人妖の里と鬼神の里が同盟を結んだことだそうだ。それに伴い、人妖の里長、桜公方改め大天狗の猿多坊と、鬼神の里長の娘、淀鈴さんとの婚約が発表された。


「でもそれって、いわゆる政略結婚って奴だよね? 大丈夫なの? その、相性とかって・・・?」


 僕が尋ねると、ホノカさんは手に口を当てて、クスクスと笑いながら言った。


「淀鈴殿は猿多坊のことが、ずっと好きだったんです。私は、彼女からそのことを知らされて以来、二人の仲について相談を受けていたんですよ。今回の『嫁盗り』の試練についても、彼女は自分から私のために、協力して動いてくれました。」


 淀鈴さんがやけに僕たちを助けてくれていたのは、そういう裏の事情があったらしい。すると、エイスケが呆れたように僕に話しかけてきた。






「お前、全然気づいてなかったのか?」


「えっ、もしかして皆知ってたの?」


「淀鈴さんが公方のこと話してるとこ見たら、バレバレじゃん。カナメっちって、本当ほんとこういうのに鈍いよね。」


 マリさんの言葉に、テイジもうんうんと頷いている。どうやら気づいていなかったのは、僕だけだったようだ。


 ウズメさんにまで「新道先輩って、そういうところありますよね。まあ、そこが良いところでもありますけど、正直ちょっとだけムカつきます」って真顔で言われてしまい、かなり凹んでしまった。






「でも最初、淀鈴さんって、結構本気で僕たちを負かしに来てなかった?」


 僕が苦し紛れにそう言うと、ホノカさんは少し気まずそうな顔をして、口を開いた。


「実は、私が淀鈴殿にお願いしたんです。皆の力を試してほしいって。彼女に勝てないようなら、他の里長たちには到底敵いませんから。」


 ホノカさんは、僕たちが試練で命を落とすかもしれないと危惧して、淀鈴さんにお願いしていたらしい。淀鈴さんなら、たとえ僕たちが負けても、僕たちの命までは奪わないことが、分かっていたからだ。


 ちなみに、鬼神の試練が終わった直後、淀鈴さんから彼女に「結構本気でやったけど負けた。彼奴等なら大丈夫じゃ!」と、ノリノリで連絡があったらしい。






 その話を聞いたエイスケは大きく鼻を鳴らし「はん、余計な世話だぜ。俺たちに黙って、勝手なことしやがって!」と言った。


 そして、すぐに謝ろうとするホノカさんを、手を上げて押し止めると、ニヤリと笑ってこう付け加えた。


他人ひとに余計な気ばっか回して、自分のことは後回し。まったく、本当に似た者同士だよ、お前らは。」


 僕は思わずホノカさんと顔を見合わせた。けれど、なぜか物凄く恥ずかしくなり、二人同時に顔を赤くして、目を逸らしてしまった。


 そんな僕たちの様子を見て、マリさんが半ば呆れながら、でもからかうように僕たちに言った。






「やれやれ、結婚の約束してた二人とは思えないねー。付き合いたての頃に、戻っちゃったみたいじゃん。」


 まあ、マリさんの言うことも分かる。けど、考えてみてほしい。今のホノカさんは20代後半くらいの見た目になっているのだ。僕から見たら完全に『キレイなおねえさん』なのである。


 これまでは、彼女を取り戻すために必死になっていたから、それほど気にしていなかった。けれど、こうやって冷静になってみると、流石にかなり気恥ずかしい。きっと、ホノカさんも同じように感じているはずだ。


 その後、ホノカさんの師匠の庵に着くまでの間、僕たちは遷外境で見聞きしたことを話しながら歩いた。でも、僕とホノカさんは何となくぎこちない会話しかできずにいた。











 細い山道を越えていくと、不意に視界がひらけ、美しい小川が流れる谷が見えた。


 小川を辿って谷を進む。撫子の花が咲き乱れる小さな道を辿ると、やがて小さな泉の側に立つ、古い庵に行き着いた。庵からは炊事をしていると思われる煙が上がっている。


 ホノカさんはなんとも言えない表情で、庵の扉を叩いた。扉から表れたのは、質素な官女装束を纏った、30歳くらいの女性だった。なんだか、すごく優しい雰囲気のある人だ。


 その女性は、ホノカさんの顔を見て、すごく嬉しそうに微笑んだ。






「久しぶりですね、穂津ほのつ。私のところにやって来たということは、宿願を成就させたということですね。」


「はい、お師匠様。あのときのお約束を果たしに参りました。」


 ホノカさんがそう言うと、女性は僕たちの方に目を向けた。翁様は女性と目を合わせ、小さく頷いた。話に聞いていた通り、翁様とこの女性は旧知の仲のようだ。






「ようこそ、風早国かぜはやのくにへ。私は邯娥仙子かんがせんしと申します。さあ、こちらへ。」


 僕たちは庵の中に案内してもらった。古いけれど、よく手入れされたこの庵は、入ってすぐの土間が炊事場になっている。


 土間に続く、少し高くなった板の間の中央には囲炉裏があり、小さな鉄瓶が火にかけられていた。鉄瓶からは漢方薬のような香りがする。


 囲炉裏を取り囲むようにして僕たちが座ると、邯娥仙子さんが話し始めた。






「大事な弟子に、聞きたいことがたくさんありますが、長い話になりそうです。まずは、術を解くとしましょう。『時封じの箱』を渡してください。」


 邯娥仙子さんがそう言うと、ホノカさんは懐から小さな黒塗りの箱を取り出した。彼女が桜公方から取り返したあの箱だ。


 箱を受け取った邯娥仙子さんは、すぐに蓋を開いて、それを板の間に置いた。でも、箱には何も入っていなかった。


「では、あの時と同じようにするのです。手順は覚えていますね?」


 ホノカさんが頷くと、邯娥仙子さんはニッコリと笑って、箱の中に手を入れた。続いて、ホノカさんも同じように手を入れる。その途端、二人の体あっという間に、箱に吸い込まれていってしまった。


 そして次の瞬間、箱が強い光と共に燃え尽きたかと思うと、また二人がその場に現れた。






「!! ホノちゃん、元に戻ってる!?」


 マリさんが驚いて声を上げた通り、そこにいたのはなんと、僕たちが半年前に別れたときのままの、13歳のホノカさんだった。


「200年ぶりに、自分の身体に戻った感想はどうですか?」


 そう言った邯娥仙子さんを見て、僕はまたもや、すごく驚いてしまった。なんと彼女も、若返っていたのだ。さっきまで30歳くらいだったのが、今は十代後半くらいになっている。


「何だか、すごく変な感じです。違和感がすごいというか。それに服の大きさも全然合っていませんし・・・。」


 ホノカさんは、ぶかぶかになった官女装束の胸を押さえながら、恥ずかしそうに言った。邯娥仙子はくすくすと声を立てて笑った。


「奥の間にあなたの服を準備してあります。着替えていらっしゃい。場所は分かりますね?」


「はい、お師匠様。」


 ホノカさんは赤い顔で立ち上がり、板の間の奥にある小さな入口に姿を消した。その姿を見届けた後、邯娥仙子さんが僕たちに説明をしてくれた。






「穂津が私に弟子入りしてきた時、私は彼女に自分の寿命を少し分け与えたのですよ。そうしなければ、仙術を身につけるための修行を終えることができなかったからです。」


 人間が仙術を身につけるためには、非常に長い時間がかかる。そのため、邯娥仙子さんは、ホノカさんの肉体を『時封じの箱』の中に封じ、彼女自身の寿命を分け与えることで、仮初の肉体を作り出したのだそうだ。


「穂津が宿願を果たし、現世に帰ることができたら、術を問いて肉体を返すという約束をしていたのですよ。」


 邯娥仙子さんが若返ったように見えたのは、ホノカさんに分け与えた寿命がもとに戻ったからだそうだ。感心する僕たちを見て、翁様は声を立てて笑った。






「ほっほっほ。仙子殿は、ホノカ殿をいたく気に入ってな。わしが相談したら、二つ返事で引き受けてくれたのじゃよ。」


 翁様の言葉に、邯娥仙子さんは小さく頷いた。


「あの子は私に、人の身でありながら、虐げられているあやかしたちを救いたいと言ってきたのですよ。その上、どんなに時間がかかっても、この風早国を統一して『幽世の門』を開いてみせるともね。そんな途方もない夢を語られたら、力を貸さないわけには行かないでしょう?」


 邯娥仙子さんは、幽世と現世では時間の流れが違うこと、たとえ現世に戻れたとしても自分のいた時代には戻れないかもしれないことを説明したらしい。それでもホノカさんは、一縷の希望を『幽世の門』に賭けたのだそうだ。


 たった一人で戦い続けた彼女の200年間を思って、僕は胸が締め付けられるような気がした。






「?? どうしたの皆、そんな顔して? 私の顔に何かついているかしら?」


 着替えを終えて戻ってきたホノカさんは、しんみりしている僕たちを怪訝そうな顔で見た後、自分の顔をペタペタと触った。


「ふふふ、あなたと出会った頃の昔話を語っていたのですよ。」


「!! お師匠様、皆に何か言ったんですか!?」


「さあ、どうでしょうか?」


 邯娥仙子さんは、そう言って言葉を濁すと、席を立って土間の炊事場に降りていった。そして、小さな鍋に豆のようなものをいれて、火にかけた後、また席に戻ってきた。






「せっかくですから、粥でもご馳走します。煮えるまでの間、今度はあなたから、私と別れてから100年の間に起きたことを、聞かせてください。」


 邯娥仙子さんは、囲炉裏に置いてあった鉄瓶を取り上げると、湯呑見にその中身を少しずつ注いで僕たちに振る舞ってくれた。


「撫子の花から作った薬湯です。身体の毒を流す作用があるんですよ。」


「ん、甘い!」


 結構癖の強い香りにも関わらず、薬湯はほんのり甘みがあって美味しかった。幽世に来てから、味を感じたのはこれが初めてだったので、つい一息に飲み干してしまった。途端に、胸の奥がホカホカしてくる。






「それ、あんまり飲みすぎると、お手洗いから出られなくなりますよ。皆は霊体だから、大丈夫だと思いますけど。」


 薬湯を美味しそうに飲む僕たちを見て、ホノカさんが苦笑しながらそう言った。すると、それを聞いた邯娥仙子さんが、またクスクスと笑い出した。


「そう言えば、そんなこともありましたね。あれはあなたがこの庵に来たばかりの頃でしたっけ。随分懐かしいです。」


 二人は目を合わせて、見つめ合った。


「あなたが初めてこの庵に来た日も、あなたに粥をご馳走したのでしたね。さあ、話を聞かせてください、穂津。終わる頃には、ちょうど粥も出来上がっていることでしょう。」






 邯娥仙子さんに促され、ホノカさんは仙女となって、この庵を旅立ってからの出来事を、訥々と話し始めた。彼女の話を聞いているうちに、僕はすっかり話に引き込まれ、まるでホノカさんになって、目の前でそれを体験しているような、不思議な感覚を味わった。


 話を聞いているうちに、だんだん頭がふわふわとするような気がしてきた。現実の自分と話の中のホノカさんとの境目が曖昧になり、強く意識しないと、今自分がどこにいるのか、分からなくなりそうだった。


 やがて彼女の話が、僕たちが幽世にやって来た頃の話になると、その感覚がますます強くなってきた。強い眠気を感じ、意識が途切れ途切れになっていく・・・。






「穂津、目を覚ましなさい。粥が煮えましたよ。」

 

 邯娥仙子さんの声に、ハッとして顔を上げる。いつの間にか、眠ってしまっていたみたいだ。


 周りの皆を見ると、翁様以外の全員が、僕と同じように座ったまま眠っていた。でも次第に目を覚まし始め、眠っているのはホノカさんだけになった。


「あ、あれ? お師匠様? それに、皆も? どうしてここに?」


 目を覚ましたホノカさんは、少し混乱した様子で周りを見回した。僕たちがいることに、すごく驚いている。






「私、皆と離れて、すごく長い時間を過ごして・・・あれ?」


「ふふふ、夢でも見たのでしょう。」


「夢・・? あれはすべて、夢だった?」


「ホノカさん、大丈夫?」


 僕がそう尋ねると、彼女は僕の顔をまじまじと見た。


「一つ一つの出来事の記憶はあるのに、まるで現実感がないの。これは、お師匠様のお力ですね?」


 ホノカさんの言葉に、邯娥仙子さんは小さく頷いた。






「幽世での200年間は、これから人の身で生きていくあなたには重すぎる。だから、私がもらっていきます。あなたから返してもらった、私の寿命とともにね。」


 そう言うと、邯娥仙子さんは、パチンと音高く、両手を打ち合わせた。身体がビクッと震えるほどの衝撃を感じ、さっきまで感じていたふわふわ感が綺麗サッパリなくなって、急に現実感が戻ってくる。


 ハッとして周囲を見回す僕たちに、邯娥仙子さんは諭すように、ゆっくりと言葉をかけた。






「ここは遊撫山ゆふさん。夢とうつつが混ざり合う、幽世の神域です。不肖の弟子の門出に、ささやかな餞を贈りましょう。さあ、粥をお食べなさい。」


 邯娥仙子さんは、僕たちに小さな椀に入れたお粥を振る舞ってくれた。赤いトウモロコシのようなタカキビと、お米で作ったお粥は、薄い塩味がついているだけの、とても素朴なものだった。


「美味しい。あの日、お師匠様が作ってくれたのと同じ味です。まるで、あの日に戻ったみたい。」


 お粥を口にしたホノカさんは、そう小さく呟いた。お粥を噛みしめる彼女の両目からは、とめどない涙が流れ続けていた。












 邯娥仙子さんに別れを告げて、僕たちは遷外境へと戻った。そして、ついにホノカさんが現世に戻るための『幽世の門』を開くときがやって来た。


 黒い雷雲を伴って天空をかける巨大な鵺と、空を圧するほどの巨大な餓者髑髏、それに負けないほどの巨体を持つ鬼神を筆頭に、各里の主だった大妖怪たちがすでに遷外境に集まってきている。


 大天狗の猿多坊の号令の下、大妖怪たちが妖気を放つ。放たれた妖気は渦を巻きながら、遷外境の中央広場へと集まっていき、やがて黒い球体を形作った。


「あれが『幽世の門』じゃよ。人が生身のまま幽世から出るためには、あの門を通るしかない。」


 ぬらりひょんの翁様が、僕たちの直ぐ目の前にある球体を指さしながら、そう言った。生身の人間がこの門を通らずに現世に戻ろうとすると、時の狭間に飲み込まれ、まったく知らない場所や時代に飛ばされてしまうという。その上、その時間差がそのまま肉体に降り注ぐため、急激に老化して身体が散り散りに砕け散ってしまうのだそうだ。


 僕たちは皆で『幽世の門』の前に立った。






「穂津媛殿、どうか達者でな。」


 見送りに来たたくさんの妖怪たちを代表して、淀鈴さんがホノカさんに別れを告げる。ホノカさんは笑顔で大きく頷いた。


 僕たちは門を通って、現世へと戻ることができた。こうして僕たち、222分隊は、ようやく元の形を取り戻すことができたのだった。

読んでくださった方、ありがとうございました。

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