40 祭祀休み
疲れてるとお話も暗くなりがちだなと感じています。次回はもっとわちゃわちゃした話を書きたいなと思いました。
5月の始め、皇国ではどの城砦も長い連休期間に入る。いわゆる祭祀休みだ。
この期間、城砦に住むすべての人たちは様々な祭礼行事の準備に追われることになる。祭祀休みで行われる神事や祭礼は非常に多岐にわたっていて、職種や年齢、性別などで参加する行事が異なっている。
なかでもほとんど全員が参加するのが『御柱祭り』と『田ノ神降ろし』という二つの祭礼だ。
『御柱祭り』は皇国を支える礎の魔術に自作の護符を奉納する祭りで、男性しか参加できない。逆に豊穣を願って行われる『田ノ神降ろし』は女性だけの祭礼だ。
祭祀休みの間は緊急を要する職業を除き、ほとんどすべての職場が休業になる。祭礼行事に全力を尽くすことが皇国民の義務とされているからだ。
特に7歳から16歳までの女性は、祭祀休み後に行われる『御田植祭』で田ノ神の依代である早乙女の役割をすることになるため、不要不急の外出を禁じられている。この期間、早乙女たちは身を清め、家の中に作った結界の中で過ごすのだ。これは『皐月忌』と呼ばれている。
マドカは去年まで、この皐月忌を物凄く嫌がっていた。新道家で早乙女の資格を持っているのはマドカだけなので、この期間はほとんど一人きりで過ごさなければならなかったからだ。
他に姉妹がいる家庭なら、一緒に過ごす話し相手がいて少しは気がまぎれるのだろうけど、生憎マドカには姉妹がいない。皐月忌の間は男性と会話することも良くないとされているので、僕もマドカと一緒にいることができなかった。
おまけに救急施術士をしている母さんは仕事に行ってしまっている。小さいマドカにとっては本当に辛い期間だったろうと思う。
だけど今年は、マドカのそんな事情を知ったトモちゃんのお父さんが、マドカを自宅に招待してくれた。マドカの親友、鹿島トモエちゃんの家は第3城砦の御社の管理を任されていて、お父さんは斎主さんを務めているのだ。
マドカは今、トモちゃんと一緒にいる。毎日マギホのメッセージアプリに送られてくる写真を見る限り、とても楽しく過ごしているようだ。そろいの白装束を纏って自撮りをしている二人は本当の姉妹のようで、とても微笑ましかった。
これは後から知ったのだけれど実は鹿島さんは2年前からずっと、母さんに皐月忌の間、マドカを預かりましょうかと声をかけていてくれたらしい。ただ去年までマドカがまだ小さかったせいもあり、長期間のお泊りは難しいだろうと母さんが遠慮して断っていた。
でも今年マドカが10歳になったことで、母さんの方からお願いに行ったのだそうだ。母さんは何も言わなかったけれど、もしかしたら僕が誘拐された事件のことが関係しているのかもしれないと、ちょっと考えてしまった。
学校が休みなので、僕も祭祀休みの間ずっと、家で御柱に奉納するための護符を作って過ごした。これは簡単な魔法陣と呪文の組み合わせで作られた非常に単純なものだ。幼年学校で作り方を教えてもらえるため、小さな子でも作ることができる。
祭祀休みの間は毎朝身を清めた後、精霊に祈りを捧げることで護符に魔力を込める。これを御社に奉納するのが、皇国男性の義務なのだ。
祭祀休みが終わる3日前、マギホに奉納日の連絡が送られてきた。
護符を奉納する場所は住んでいる場所に近い御社と決められている。混雑を避けるために奉納日も大体決められていて、大抵は年齢順に若い男性から奉納することになっている。これは一般的に年齢が高くなるほど、護符に込められる魔力の量が多くなるためだ。
連絡のあった翌朝、僕は長袖のシャツを着て帽子を目深に被り、護符の木札を手にして家を出た。久しぶりに目にする初夏の太陽が目に眩しい。僕は義眼の光量感度をいつもより低めに調整し、前髪で慎重に顔を隠した。
右足を引きずりながら階段を下りていると、後ろからコツコツという固い足音が聞こえ、不意に名前を呼ばれた。
「カナメ殿、団長も一緒に参ります。」
振り返るといつもの鎧姿の団長さんが立っていた。
「えっ、でも今日は男性しか・・・。」
「分かっていますよ。ただ護衛は必要です。大丈夫です、祭祀場には立ち入りませんから。」
団長さんは困惑する僕に向かって穏やかに笑いかけた。
「心配は無用ですよ。あらかじめ鹿島殿や御母堂にもお許しをいただいております。さあ、参りましょう。」
彼女はそう言うとさっさと僕の横について一緒に階段を降り始めた。確かに言われてみれば団長さんは正式な皇国民じゃないし、早乙女の資格もないから出歩くのに何の問題もない。
ただ団長さんみたいなきれいな人と一緒に祭礼に出かけていくのは初めてだったので、正直に言うと少しだけ恥ずかしい。僕は被った帽子のつばを無意識に引き下げ、「は、はい」と曖昧な返事をして彼女と一緒に歩き始めた。
御社に続く通りは人がまばらだった。いつも賑やかで魔導車が行きかっているバス通りも閑散としている。通りに面したどの店もシャッターを下ろして静まり返っていた。
公共交通機関もすべて運休しているため、平日は行列が出来ている停留所にも誰も並んでいない。僕は人通りが少ないことに少し安心しながら、御社への道を歩いて行った。
目的地である御社、鹿島神社には10分くらいで着いた。この奥にはマドカがいるはずだ。でもあと二日間は皐月忌が続くため、残念ながらマドカの姿を見ることはできない。
通りと異なり、御社にはすでに多くの人が集まっていた。見知った顔が多いのは、僕と同年代の男子が全員集められているからだ。彼らのほとんどは僕の幼年学校の同級生たちだ。
彼らは皆一様に、僕の隣を歩く団長さんを見てぎょっとした顔をした。その後にやけた表情で、歩く彼女の姿を目で追っていく。彼らの目線の先にあるのは、銀の胸当てを高く押し上げている大きな二つの膨らみだった。
そんな視線を知ってか知らずか、団長さんは興味深そうな様子で辺りをキョロキョロと見回した。そして御社の鳥居の側まで来たところで僕に向かってこう言った。
「ではカナメ殿。団長はここでお待ちしております。」
彼女の言葉を耳にした数人がハッとした表情で僕の方を見た。僕はもごもごと彼女に「はい、行ってきます」と言った後、鳥居の脇を通って奉納の受付所に向かった。
受付所への道はとても混みあっていた。去年来た時とまったく同じだ。ただ一つ違うのは、今年は僕が歩くに連れてその人混みがさっと分れ、自然と道が開くことだった。
「なあ、あいつカナメじゃね?」
「カナメって、新道のこと? あのキモイ見た目の?」
「あれ、あいつってなんかやばい魔獣に喰われて死んだんじゃなかったっけ?」
「いや、行方不明だったけど見つかったらしいぞ。」
「そういえば、こないだ見かけたって奴からメッセ来てたわ。興味ねーからすぐ消したけど。」
僕から少し距離を取りながら、彼らはひそひそと会話していた。好奇心と冷笑の混ざった遠慮ない視線が僕に突き刺さる。
僕は何となく居たたまれない気持ちになって顔を伏せ、彼らの視線を避けた。うまく動かない右足を精一杯引きずり、僕は一心に前に進み続けた。
その時、僕の左肩を誰かが後ろからポンと叩いた。
「おっ、カナメじゃん。久しぶり。」
「エイタくん!」
人の好さそうな顔でニコニコしながらそこに立っていたのは、僕の幼年学校時代の唯一の友達、伊都蒔エイタくんだった。
「久しぶり・・・エイタくんは、すごく背が伸びたね。」
「まあな。お前は相変わらずチビだなあ。」
エイタくんはそう言って僕の左肩をバンバンと叩き、ハハハと昔のように笑った。
エイタくんとは僕が幼年学校に入学してからずっと一緒にいた。彼は性格がのんびりしていて余り勉強が得意でなかった。体に障害を抱えた僕と、人より何かをするときに時間がかかる彼は、何かと一緒に行動する機会が多かった。それで自然と仲良くなっていったのだ。
幼年学校の時は僕と同じくらいの背丈だった彼は、僕より頭一つ分以上背が高くなっていた。元々はちょっと太目の体型だったけれど、今ではその脂肪が全部筋肉に変わっている。まるで一回り小さくなったテイジみたいな感じだ。
でもその懐っこい笑顔とのんびりした語り口は全然変わっていなかった。僕はすごく救われた気持ちになり、夢中で彼に話しかけた。
「エイタくん、鳶の見習いをしてるって言ったよね。仕事はどう?」
「うーん、まあまあかな。きついこともあるけど楽しいぜ。この間、初めて足場に上らせてもらったんだ。」
エイタくんは嬉しそうな様子で僕に仕事のことを話してくれた。彼は僕のことを見ている周りの目なんかまったく気にしていなかった。僕たちはお互いの近況を話しながら、奉納の受付所の前に出来た列に並んだ。
彼に限らず、皇国に暮らすほとんどの人は12歳で幼年学校を卒業したらすぐに働き始める。もちろん最初は見習い仕事がほとんどだ。
大体4年くらい働くと一人前と呼ばれるようになる。多くの人はそのあたりで結婚し、家庭を持つのだ。子どもを多く産んで立派に育てることは皇国においてもっとも尊いとされている。新道家のように兄妹二人だけの家庭というのは、実はとても珍しいのだ。
今、エイタくんには結婚を前提にお付き合いしている女性がいるそうだ。僕が「おめでとう」と言うと、彼は照れくさそうに笑った後、急に真面目な顔になって僕にこう話しかけてきた。
「ニュース見たぜ。お前、大変だったな。」
彼が何を言っているのかは、すぐに察しがついた。
「エイタくん、知ってるんだ。」
「そりゃそうだろ。去年の11月くらいまではあの事故のニュース一色だったからな。」
その言葉を聞いて、周りで僕のことをひそひそと言い合っていた同級生たちが一斉に視線を逸らした。彼らは気まずそうに口を噤んだ。でも彼らの表情からは容易に、悪意や敵意を感じ取ることができた。
思わず視線を下げそうになった僕の肩を、エイタくんはポンと叩いた。
「あんま、気にすんなよ。」
その短い言葉が逆に嬉しかった。僕は顔を上げて彼に微笑み返した。
「うん、大丈夫。慣れてるから。」
僕がそう言った表情を見て彼は少し黙った後、二ッと笑って見せた。
「お前、変わったな。」
「そう?」
「ああ。でも、なんか安心したぜ。」
彼の言葉で僕は周りの視線が気にならなくなった。そのまましばらく並んでいると、だんだん列が短くなってきた。
「お、そろそろ俺たちの番だな。」
護符の受付所で名前を記入した後、僕たちは御柱のある社の中へと進んでいった。
静かな社の中はピンと張り詰めた空気が満ちていた。紙垂の下がった注連縄の結界の傍らに立っている斎主、鹿島さんは僕に気づいてほんの少し表情を緩めてくれた。
結界の奥には薄青い光を放つ大きな岩が、むき出しの地面に直接置いてある。これが僕たちが護符を納める御柱だ。
この御柱は地中を流れる霊脈を通じて皇国全土を覆う礎の魔術とつながっている。ここに護符を納め魔力を注ぐことで、礎の魔術をより強固なものにすることができるのだ。
斎主さんは僕たちに護符を御柱の前に置かれた供物台に載せるようにと言った。
「じゃあ、お先に納めさせてもらうぜ。」
エイタくんはそう言って、供物台に自作の護符を載せた。彼の描いた少し歪んだ魔法陣を見て、僕は幼年学校時代のことを思い出し、ほんのりと温かい気持ちになった。
斎主さんが御幣を振って周囲を清めた後、エイタくんは作法に従って拝礼をした。
「遠御祖神、御笑覧たまえ。これなる言霊、御許へ捧げん。祓え給え、清め給え、神ながら守り給い、幸え給え。」
彼が略式の祝詞を大きな声で唱えると、供物台にあった護符が光を放ちながらふわりと浮き上がり、そのまま御柱へと吸い込まれていった。その瞬間、御柱の光が一瞬だけ強くなった。彼の魔力が無事、礎の魔術に吸収された証だ。
彼は満足そうな笑みを浮かべて斎主さんに頭を下げ、僕の所に戻ってきた。
「朗々としてすごくいい祝詞だったね。」
「もう何年も、毎年やってんだから当たり前だろ。次はお前の番だぜ。」
「うん、行ってくるよ。」
僕も彼と同じように護符を置き、祝詞を捧げた。ところが僕の護符が捧げられた途端、御柱の光はすっとかき消え、辺りが夜のように暗くなった。
一体何が起こったのかと斎主さんに尋ねようとしたそのとき、足元からドンと突き上げるような衝撃を感じ、僕は思わず姿勢を崩してその場に蹲った。
「これは・・・水!?」
ハッと気づくと、僕の足元は黒い水で覆われていた。僕は慌てて立ち上がったけれど水はみるみるその嵩を増し、あっという間に僕の体を飲み込んでしまった。
僕は息を止め、エイタくんを探して辺りを見回した。しかし周りは墨を流したような闇に覆われ、一切のものが見えなかった。僕は水から逃れようと必死に手足を動かした。けれどいくら藻掻いてもその水から逃れることはできなかった。
まもなく息が続かなくなり、僕は肺の中の空気をすべて吐き出した。焼け付くような痛みを胸に感じながら、僕は暗闇の向こうに光る小さな二つの光に気が付いた。
それは何者かの目だった。その目は僕をじっと見つめていたが、やがてじわじわと僕の方に近づいてきた。喉を掻きむしり苦しむ僕の姿を見て、その目はくにゃりと歪んだ。半月の形になって嗤うその目を見た瞬間、僕は胸の痛みも忘れ、魂が凍り付くような寒気を感じた。
歪んだ光はゆっくりと僕の方へ近づいてきた。目の持ち主はもう手を伸ばせば届くくらいの場所にいる。意識が闇に飲まれて・・・。
「天津神、祓い給え!」
暗闇の中に響いた鋭い声で、僕はハッと意識を取り戻した。
「大丈夫かい、カナメくん?」
そう言って、供物台の前に横たわる僕に手を差し出していたのは、護身用の刀を手にした斎主さんだった。刀は半ばから刀身が折れてなくなっていた。
僕は斎主さんに手を借りて立ち上がった。
「御柱が・・・!!」
僕は思わずそう声を上げずにはいられなかった。社の中はまばゆい光で溢れていた。社の中心にある御柱は、先ほどまでと打って変わって、太陽のような輝きを放っていた。
「君が護符を捧げた瞬間、御柱が凄まじい光を放ち始めたんだ。同時に君が苦しみ始めた。だから何か大変なことが起こっていると気づいて、すぐに術を中断したんだよ。」
御柱の周りに張ってあった注連縄は断ち切られていた。その近くには折れた刀の刃先が転がっている。その刃は水でしっとりと濡れていた。
僕は急いでエイタくんの方を振り返った。彼は社の入り口あたりで倒れていた。僕はすぐに彼の下に駆け寄った。
「エイタくん! エイタくん、大丈夫!?」
彼は気を失っているだけのようだった。揺り動かすと彼はすぐに目を覚ました。僕は安心して胸を撫でおろした。
「み、水が、黒い水が・・・!?」
飛び起きた彼は自分の体をまさぐり、辺りを見回した。そして僕と目が合った瞬間、彼は短く「ヒッ」と息を呑んで動きを止めた。そしてそのまま後ろも見ないで社を飛び出し、一目散に走り去っていった。
僕の顔を見た瞬間の彼の表情は、恐ろしい化け物を見たときのように恐怖で歪んでいた。その表情は僕の心に深く突き刺さった。
僕は自分を落ち着かせるため、塩辛い味のする唾をぐっと飲み込んだ。
その後、奉納の祭礼は一時中断することになった。そのことを謝ると斎主さんは慰めるように僕へ言った。
「君の捧げた魔力で御柱が一杯になってしまったから、どのみち今日はこれ以上できやしないんだ。それにたくさん魔力をもらえたから、今年は城砦周辺の魔獣の被害も減るはずだ。むしろお礼を言いたいくらいだよ。ありがとうカナメくん。」
僕を気遣ってそう言ってくれているのは明らかだった。僕は深く頭を下げて社を出た。
社の周りは気を失って倒れた人と、それを介抱する人で一杯になっていた。漏れ聞こえてくる会話から、彼らも僕やエイタくんと同じようにあの黒い水の幻を見たのだということが分かった。
彼らは一人で社から出てきた僕に、あからさまな敵意と恐怖の視線を向けている。あの幻を見せたのが僕だと確証している様子はないけれど、何となく僕のせいだと感じているのかもしれない。
僕は冷たい視線に晒されながら重い足を引きずり、御社の入り口まで戻った。
「カナメ殿、何かあったのですね?」
団長さんは戻ってきた僕を見るなりそう言った。鳥居の前には救急魔導車が集まり、神社から運び出される人が次々と乗せられている。命に関わるような容態の人はいないけれど、錯乱してケガをしてしまった人が数人かいるようだった。
僕は団長さんに御社の中であった出来事を話した。団長さんは何も言わず、翠玉の瞳で僕をじっと見つめながら話を聞いてくれた。そして聞き終わると、籠手をはめた手で僕の頭を軽くポンポンと叩いてくれた。
否定も肯定もしてくれないその彼女の態度が、その時の僕にはありがたかった。胸はまだ痛いままだったけれど、話を聞いてもらったことでほんのちょっと気持ちが楽になった。
「帰りましょう。」
団長さんはそう言って歩き出した。僕は小さく頷き、彼女の隣に並んだ。
「カナメ!」
名前を呼ばれて振り返ると、そこには息を切らしたエイタくんが立っていた。彼は僕に駆け寄ってくると、深々と頭を下げた。
「さっきは悪かった。」
いろんな感情が溢れてきて、何と言っていいか分からなかった。
「・・・ううん、いいんだ。気にしてないよ。僕の方こそ皆に怖い思いをさせちゃったし。」
散々言葉を探した挙句、ようやく出てきたのはそんな陳腐な言い訳じみた言葉だけだった。居たたまれなくなった僕は「それじゃあ、元気で」と彼に背を向けた。
でもエイタくんはそれを許さなかった。彼は僕の前の飛び出すと僕の両手を強く握り、顔をグイっと近づけて僕の目を正面から覗き込んだ。その真剣な眼差しを見て、僕は目が逸らせなくなってしまった。
「俺、頭悪いからうまく言えねえけどさ。」
彼はそう前置きしてから、一気に話し出した。
「俺、さっきすげえ怖かった。怖くて怖くて気が付いたら逃げ出しちまったんだ。だけど逃げてから、あれがお前が戦ってる相手なんじゃないかって思ったんだ。」
彼は一度、言葉を切ると僕の両手をぎゅっと強く握った。
「お前が俺たちを守るために、あいつ相手に命張ってくれてんだって、分かった。だから、その・・・ああ、ちくしょう! なんで言葉が出てこねえんだろう!!」
彼が苛立たし気にそう言ったのを聞いて、僕は思わずくすりと笑ってしまった。幼年学校時代に難しい問題を解いている時の彼、そのままの姿だったからだ。僕が笑ったのを見て、彼は少し照れくさそうな顔をした。
「だから、俺たちのためにありがとう、カナメ・・・これからもよろしく頼むぜ!」
彼はそう言って、また人のよさそうないつもの笑顔でニッと泣き笑いした。それを見た途端、僕はずっと感じていた胸の痛みがすうっと消えていくのを感じた。
「うん、任せておいて。何があっても皆を守ってみせるから。」
涙で震える声で僕がそう返事すると、彼は僕の顔をまじまじと見ながら言った。
「お前、やっぱ変わったな。」
「そうかな?」
「ああ、いい顔するようになった。」
「エイタくんもね。」
僕たちは互いの目を見合わせた。あふれる涙越しに見る彼の鼻水塗れの笑顔は、なんだかとってもおかしかった。そして今、きっと僕も同じ顔をしているんだろうと思った。
彼は最後に「じゃあまたな」と言って帰っていった。僕は「うん」と答えたけれど、その涙交じりの声は自分でもよく聞き取れないくらいだった。
遠ざかる彼の背中を見ていたら、いつの間にかいなくなっていた団長さんが、また隣に立っていた。
「いいお友達ですね。」
「はい!」
団長さんは僕の頭をまたポンポンと叩くと黙って歩き出した。僕はエイタくんに背中を向け、彼とは反対の方向へ歩き始めた。
ふと目を上げると、初夏の青空の向こうに白く小さな入道雲が見えた。僕はあの白龍と対峙した時のことを思い出した。
マリさんは「命に代えても城塞の皆を守る」と言っていた。あのときの彼女の気持ちが、今の僕にはすごくよく分かった。
「エイタくん、またね。」
僕は小さくそう呟き、顔を上げてまっすぐに前を見つめた。
読んでくださった方、ありがとうございました。




