2 歴史
2話目です。少しずつ書いていくつもりですが、最初は少し書いているので、その分を投稿します。
西暦1999年7月、人類の科学文明は終わりを告げた。
超魔力彗星アンゴルモアが引き起こした地球規模の魔力災害によって化石燃料や電力を用いたテクノロジーがすべて使用できなくなったためだ。
その後、世界各地で開いた異界の『門』からの多くの魔獣が侵攻してきた。強大な力を持つ魔獣たちの襲撃と魔力氾濫による自然災害によって多くの国が滅びた。70億以上あった世界人口も、魔力災害1年後には3億人にまで減少していた。
そんな中、大日本皇国では時の帝が発動した礎の魔術『八十柱結界』によって被害を最小限にとどめることができた。
生き残った人々は帝がお作りになった各結界都市に身を寄せ合った。帝は優れた魔力を持つ人々を貴族に任命すると、彼らに都市内にある『城砦』を治めさせ、人々の暮らしを守らせた。こうして帝の指導の下、大日本皇国の人々はかつてのテクノロジーの残滓と魔力を融合させた新たな魔導技術を用いて、大災害直後の混乱期を生き延びたのだった・・・。
幼年学校時代から歴史の授業の前には必ず聞かされる皇国歴元年の逸話。教官の話すその逸話を聞くともなしにぼんやりと聞きながら、僕は午後からの魔力演習のことを考えていた。
「・・・災厄の日からまもなく200年。帝にお仕えする皇国防衛隊によって皇国の平和は保たれてきた。君たちは栄えある魔導機士になるべくここに集められたのだ。自分の力と使命を肝に銘じ、学業に訓練に励むように。わかったかな?」
「「「はい!教官殿!」」」
クラスの皆が一斉に出した声にハッとして、僕もすぐに返事を返す。
「は、はい!!教官殿!」
でもぼんやりしていたせいで、声を出すタイミングが完全に遅れてしまった。周りの同級生の視線が僕に突き刺さる。
「・・・新道カナメ君。その場に起立したまえ。」
僕は不自由な右足を引きずるようにして慌てて立ち上がった。初老の宇津井教官はそんな僕をじろりと睨みつける。
「昼食後、歴史の教科書を準備して私の教官室に来るように。理由は言わなくても分かるね?」
「はい・・・。」
「返事ははっきりと!!」
「はい!教官殿!!」
僕が席に座るとすぐに歴史の授業が始まった。同級生からの非難の視線は感じるものの、私語や笑い声、罵声などは一切起きない。もしこれが幼年学校だったら、今頃は皆にからかわれて大変だったろう。こういうところはさすがに皇国防衛のエリートを養成する防衛学校だなと思う。
それにしてもとんだ失敗をしてしまった。どうか軽めのお説教で済みますように! そう祈りながら、僕は必死の思いで教官の出す課題に取り組んでいった。
その日の昼休み、薄暗い平民用食堂の隅で配給食をかきこむようにして飲み込んだ後、僕はすぐに教官棟に向かった。
高天原防衛学校の教官室は教官の研究室も兼ねているため、それぞれがかなり広めの個室になっている。歴史担当の宇津井教官の部屋は教官棟の三階の一番奥だった。
暗く長い廊下を歩いていると時々白くてぼんやりしたものとすれ違う。彼らは幽体。体を持たず魂だけの存在となった彼らは古いものや歴史あるものに惹かれる性質があるという。
多分、宇津井教授の歴史の研究資料に惹かれて集まっているのだろう。霊視力があれば幽体の姿をはっきり見たり会話したりできるらしいけど、幸か不幸か僕にはそんな力はない。
ただ敵意のある気配は感じないし、むしろ近づくとほんのり温かい感じがするので、きっと歓迎してくれているんだろうと思う。僕はとりあえず彼らに軽く会釈しながら先を急いだ。
「新道カナメ君。入り給え。」
入室の許可を得るためノックしようと黒くて重たい感じのする立派な扉の前に立つと同時に、中から宇津井教官の声がした。僕はそれに応えて、決められている通りの名乗りを上げた。
「高天原防衛学校魔導防衛科、航空魔導機教育隊2年、新道カナメ! 入ります!」
僕が名乗りを終えた途端、誰も手を触れていないのに重厚な造りの木の扉が音もなく開いて、薄暗い室内の奥の机に座っている宇津井教官の姿が見えた。カーテンを閉めているのか、広い室内は少しひんやりとして明かりがほとんどない。でも寒々しい感じはなく、むしろ安心するような暗さだった。
扉の傍らから周囲の暗闇にすっと溶け込むように白い影が消えていった。扉を開けてくれたのは彼(彼女?)だったのかな?
薄暗さに目が慣れてくると広い室内の壁一面が天井まである書棚になっていることが分かった。書棚はどれも様々な本で埋め尽くされている。
カラフルな印刷をされているのはおそらく大災害期以前のものだろう。その他にも外国語の表題が付いた書籍や和綴じの草紙類、そして革張り表紙の魔導書まで様々な本や資料がきちんと整頓されて並んでいた。
「カナメ君、そこに掛け給え。」
宇津井教官は音もなく椅子から立ち上がり、部屋の中央に置かれた応接用のソファを指した。僕は教官が腰を下ろすのを待ってから「失礼します」と言って教官の正面にあるソファに浅く腰かけた。
きちんと整えられた白い顎髭をなでながら、教官は僕をじっと見つめている。教官の着ている黒い官服の袖が立てるさらさらという音がやけに大きく聞こえた。
平安時代の狩衣をもとにデザインされたこの官服はゆったりとして袖が長い。直垂に似た僕らの学生服と違い、とてもどっしりとした印象がある。
教官は手に持ったタブレット端末を操作し、僕の顔を手元の画面と見比べた。
「新道カナメ。皇国歴182年7月21日生まれ。13歳。魔力適性S。学習成績A+。実技成績B+。卒業後の進路希望は・・・魔導機支援部隊?」
教官が探るような視線で僕の左目を見た。僕は思わず視線をそらした。でも右目の義眼のギミックが勝手に作動して、教官の目に焦点を合わせた。
そのせいで僕は宇津井教官の鋭い眼光を正面から捉えてしまった。僕はしどろもどろになり、ようやく教官の問いかけに応えた。
「あ、あの、子供のころに遭った魔力災害のせいで、右半身が不自由なので・・・。」
教官は学生服に隠された僕の右半身をじろりと睨んだ。僕は無意識のうちに右手の義手をそっと後ろに引いていた。
「魔導機の操縦は身体能力にほとんど影響を受けないはずだが?」
詰問口調のその言葉に、僕はすっかり震え上がってしまった。
確かに宇津井教官の言う通り、魔力を同調させることで操作する魔導機に魔導機士の身体能力の差は関係ない。だがどうしてもダメなのだ。シミュレーションならうまく操作できるのに、実機に乗るとどうしても動きがぎこちなくなってしまう。
それがなぜなのか、僕自身にもよくわからなかった。教官は答えに窮してしまった僕をじっと見つめていたが、やがてほんの少し表情を緩めて話しはじめた。
「君が私の授業を受けるのは今日で2回目だね?」
「は、はい。1年生の時は総合科目だけでしたので。」
「2年に進級したばかりならもちろんそうだろう。ところでこの資料によると君は学生寮ではなく、自宅から通学しているようだね。」
「はい。学校からは少し離れていますが、通えない距離ではないので特別に許可をいただいています。入寮費用が賄えなかったので・・・。」
それから教官は僕の家族や生活の様子についていくつか質問した。僕の気のせいでなければ、教官は僅かに微笑んでいる気がする。
どうやら怒られてはいないみたいだけど、なんでこんなことを聞くんだろう?
「最後の質問だが立花くん、いやマコトさんは息災かな?」
立花は僕の母さんの旧姓だ。急に母さんの名前を出されて驚いたものの、僕は何とか教官に返事をすることができた。
「母さん、いえ、は、母は元気です。あ、夜勤明けの時はかなり疲れていますけど。」
「救急施療院勤務だそうだね。大変な仕事だ。だが、かけがえのない仕事でもある。マコトさんらしい職業選択だな。」
教官はそう言って、また僕をじっと見つめた。やっぱり少しだけ笑ってる?
僕は竦みあがった気持ちをぐっと押さえ込み、思い切って教官に質問をしてみた。
「あの、宇津井教官は母のことをご存じなんですか?」
「ああ、君のお母様のことはよく知っているよ。素晴らしい施療師だ。お母様によろしくお伝えしてくれ給え。」
「はい!」
こんなところで母さんの知り合いに会うとは思ってもみなかった。母さんはどうやって宇津井教官と知り合ったのだろう。やっぱり仕事関係なのかな?
もしかしたら死んでしまった父さんを通じて知り合ったのかもしれない。母さんは父さんのことをあまり話したがらないので、父さんのことを知っているかもしれない人に出会えたのがとても嬉しかった。
でもそんなホンワカした気持ちは、教官が僕に告げた次の言葉で完全に吹き飛んでしまった。
「それは別として授業に集中していなかったことへの懲罰は与えねばならん。そうだな・・・今日中に皇国暦縁起の序文を書き写してきたまえ。多少、困難な状況に陥るかもしれないが、なあに君の魔力量なら容易くこなせるだろう。」
僕は教官の言った言葉がすぐに飲み込めず、馬鹿みたいにぽかんと口を開けた。宇津井教官は厳めしいけれど、どこか面白がるような表情を浮かべたまま、そんな僕の様子を見ていた。
皇国歴縁起の序文を書写? 僕一人で? しかも今日中に!?
間違いなく今日は居残りをすることになる。それどころか今夜、無事に家に帰れるかどうかすら怪しい。授業をしっかり聞いていなかったのは確かに僕が悪いけれど、まさかこんな酷い懲罰を受けるとこになるなんて思ってもみなかった。
僕の心の動揺を示すように、右目の義眼が無暗に周囲の暗闇に焦点を合わせようとする。泣きそうな僕と薄笑いを浮かべる教官が無言で向かい合う中、義眼の魔力モーターの音だけが居心地の良い薄闇に響いていた。
部屋を出た僕は縁起を書写するために宇津井教官から渡された抱えるほどの資料を持って自分の教室に向かった。
途中、廊下ですれ違った1年生の女子生徒たちが、僕の顔を見るなり「ヒッ!」と息を呑む。その後、彼女たちは慌てて目を逸らし、そそくさと逃げるように走り去っていった。
うーん、この反応も久しぶりだ。僕の入学以来だからちょうど1年ぶりくらいだろうか。でもまあ、つい2週間前に入学したばかりの新入生はまだ僕の姿に見慣れていないのだから仕方がない。
僕の右半身は子供のころに受けた酷い火傷のせいで、ほとんどが魔導機械に置き換えられている。
特に上半身の傷は酷く、機械に覆われていない部分は焼け爛れた皮膚が剥き出しになっているのだ。首から下は制服で隠されているからあまり目立たないのだけれど、むき出しの顔だけはどうすることもできない。
僕の顔の皮膚は右の額から顎にかけて赤黒く変色している。そのうえ魔導機械と生体部品を組み合わせた義眼が右目に埋め込まれているので、初めて僕の顔を見る人は皆ぎょっとした表情をする。
まあ、瞼のない魔獣の眼球が機械の中にぽっかり浮いているのを見たら、誰だってびっくりするだろう。僕も最初は自分の顔を鏡で見るのが怖くて仕方がなかったくらいだからね。
小さいころからずっとそうなので、僕自身は気味悪がられたり怖がられたりすることを、もう何とも思っていない。むしろさっきの子たちにも驚かせてごめんねと思ったくらいだ。
現代の日本には、人間と大きく見た目の異なる亜人種族や異形種族があふれている。それでも同族の体に残るダメージ痕には本能的な恐怖を抱いてしまうものらしい。事故の後に僕を担当してくれた心理療法術師の先生がそう教えてくれた。
だからジロジロ見られたり驚かれたりするのは仕方ないと諦めている。とにかく周囲に慣れてもらうしかないのだ。慣れてもらえさえすればこれまでの同級生と同様に、そっと距離を置いてもらえるに違いないからね。
重たい資料を抱えて2年生校舎の2階にある自分の教室に向かうため、階段を慎重に上る。すると踊り場でたむろしてる三人の生徒が目に入った。その途端、僕は胃の上の辺りがキリリと痛むのを感じた。
残念なことに彼らはこの学校では本当に数少ない、僕をそっとしておいてくれない連中だ。
彼らは僕を見つけるなり、いつものようにニヤニヤしながら近づいてきた。僕よりも20㎝以上背の高い二人組が僕を両側から取り囲む。僕は彼らに押されるような形で、あっという間に踊り場の壁際へ追い詰められてしまった。
「おい新道!加瀬様から聞いたぞ。授業中にぼーっとしてたらしいな。お前、自分が栄えある航空隊のレベルを下げてるって自覚はあるのか? ああ?」
「お前みたいなのがいるとエリート部隊の士気が下がるんだよなあ。後方支援科に転科したほうがいいんじゃないのか、ええ?」
僕の体を壁に押し付けるようにして、二人は膝をごつごつと僕の太ももにぶつけてきた。格闘隊に所属している小内と山野は、豚鬼みたいなごつい体から蹴りや拳を繰り出し容赦なく僕を痛めつける。
この理不尽な暴力に対して僕は強い怒りを抱いた。でも僕は口答えや反抗することなく、黙って彼らの暴力を黙って受け入れた。平民の僕にはそうせざる得ないからだ。僕はいつものように下を向いて急所を庇いながら、彼らの暴力に耐え続けた。
ただ暴力を振るわれることは別にして、二人の言うことについては僕自身が一番その通りだと思っている。
貴重な魔動機を操る航空魔導機教育隊は一般的に、保有魔力量の多い貴族の子弟のみで構成される。でも僕はどういう訳かその航空隊の魔力適正検査に合格してしまい、幼年学校を卒業すると同時に防衛学校魔導防衛科へ強制的に入学させられてしまった。
平民の僕が検査に合格したのは多分、僕の右半身の機能を補うために体内へ挿入されている寄生型魔獣の影響ではないかと思う。ただ詳しい原因は今でも分からないままだ。
今の僕は自分の体さえ十分に動かせないにもかかわらず、国防のエリートたちに混じってやりたくもない魔動機の操縦訓練をさせられている。入学から1年がたった今でも、僕はそれを受け入れられずにいた。
だから小内たちに言われるまでもなく、僕は自分が航空隊の皆の足を引っ張っているという強い自覚がある。
もちろん入学してすぐに、僕は担当教官を通じて適性検査のやり直しと後方支援科への転科を願い出た。でも聞き入れてもらえなかったのだ。検査担当官曰く『畏くも帝の御定めになった典範と適性検査に間違いなどあり得ない』ということらしい。
そう言われてしまったら平民である僕には、もう何も言えるはずがない。平民にとって貴族や皇族の言うことは絶対。逆らうことなどできないからだ。
それに今、僕が学校を辞めてしまったら、入学のために使ってしまった支度金を返済しなくてはならない。母子家庭の我が家にそんなゆとりなどあるわけがない。
だから今の僕にできるのは、とにかく防衛学校を無事に卒業して魔導機士となり、たった二人の家族である母さんと妹のマドカに少しでも楽をしてもらうことだけ。僕は自分にそう言い聞かせ、下を向いて体と心の痛みをじっと堪えた。
小内と山野の二人は僕が反抗できないことが分かっているので、ますます調子に乗って僕を痛めつけ始めた。二人は僕と接吻できるぐらい顔を近づけ、周りからは見えないようにしてわき腹や太ももを攻撃してくる。
僕はいつの間にか無意識に右足を前に出して自分の体を庇っていた。右足は軽くマヒしているので蹴られてもあんまり痛みを感じないからだ。でもきっと酷いアザになってるだろうな。
不幸中の幸いだったのは両手いっぱいに教官から受け取った資料を抱えているので鳩尾を殴られずに済んだことだ。そうでなければまたこの間の時みたいに、食べたばかりの昼食を廊下に撒き散らすことになっていただろう。
僕は両手で荷物を自分の体にしっかりと抱え込んだ。このまま午後の授業が始まるまで耐えればいい。午後の始業に遅れて懲罰を喰らうのは、この馬鹿たちもさすがに困るはず。そうなればこのくだらないやり取りもおしまいだ。
「おい、なんとか言えよ!俺たちを舐めてんのか!?」
左側にいる坊主頭の山野が焦れたように低く怒鳴って、僕の左肩を拳でごつごつと小突き始めた。どうやら声も上げずに耐えている僕の反応が気に食わなかったみたいだ。拳が振るわれるたびに左肩が後ろの壁に当たって地味に痛い。
右側にいる小内が僕の右肩を殴らないのは、僕の右腕が義手だからだろう。金属と生体部品を組み合わせて作った義手を殴っても小内の拳が痛いだけだからね。
そのかわり、小内はニヤニヤしながら、僕の太ももの間に膝をぐいぐい入れようとし始めた。僕はうまく動かない足を必死の思いできつく閉じ、そのいやらしい攻撃に精一杯の抵抗をした。
180㎝近くある二人に取り囲まれているので、160㎝そこそこの僕には周りの様子がよく見えない。ただ何人かが僕たちを遠巻きにしながら通り過ぎていく気配を感じた。
いつものことだけれど助けてくれる人は一人もいない。その理由は僕がこいつらに抵抗できないのとまったく同じだ。だから僕はそれを恨みに思うことはない。
仕方がないことなんだと自分に言い聞かせながら僕は唇を噛みしめ、昼休みの終わりを告げる予鈴がなるのを待った。すると二人の体の向こう側から、心底嬉しそうな甲高い男の声が聞こえた。
「まあまあ小内君、山野君。いくら出来損ないだからといっても、彼も一応僕らの隊の一員なんだ。あまり責めないでやってくれたまえ。反省のあまり言葉も出ないようだし、もうそのくらいで勘弁してやったらどうかな?」
豚鬼みたいに筋肉質な二人の後ろから、扇で口元を隠しながらそう声をかけたのは、きれいな顔立ちをした色白の男だった。そいつは釣り気味の目をさも可笑しそうに細めて、見下すように僕を見た。
その言葉で小内と山野は攻撃の手を止めた。最後っ屁と言わんばかりに、二人は僕の脇腹を強く小突いてから離れていった。僕は堪らず「うぐっ」と小さくうめき声を上げた。
「加瀬様がそうおっしゃるなら、仕方がないですね。おい、新道! 加瀬様に感謝しろよ!」
「上級貴族の加瀬様が平民のお前に慈悲をかけてくださるんだ。そこに土下座して礼を言えよ、ほら!!」
二人は僕の肩を掴んで無理やり僕を跪かせた。そしてそのまま頭を押さえつけ、床に僕の顔を付けようとする。
いつもの僕なら抵抗せず、床に顔を押し付けられているところだ。でも今の教官から借りた貴重な資料を抱えている。これを傷つけたり汚したりしたら懲罰どころでは済まない。
二人もそれが分かっているから、わざと僕に資料を手放させようとしているのだろう。口答えしたと言いがかりをつけられないために、僕は二人に向かって「やめてください。お願いします。」と必死に懇願した。
「止めてください? なんだお前、平民の分際で貴族様の言いつけに逆らうのか?!」
「仕方のない奴だ、このクズめ! 礼の言い方も知らないのか、ああ!?」
二人は力任せに僕の頭を押さえつけたまま、僕の体を痛めつける。蹴りが背中や脇腹に入るたびに、右目の視界の端に生体部品への負荷を知らせる黄色い文字の注意文が繰り返し表示される。でも僕はそれを無視して懇願を続けた。するとその時、そんな僕を嘲るような加瀬の声が聞こえた。
「はは、やはり出来損ないか。惨めなものだな。やれやれ、自分の子供もろくに守れないような下級兵士の息子は、まともな礼の一つもできないようだ。」
その言葉を聞いた瞬間、僕の視界が真っ赤に染まった。渦巻く炎のような魔力が胸の奥から沸き上がり、体の内側を舐めるように焼き尽くしていく。生体部品過剰負荷を示す黄色い注意文が、体内魔力圧急上昇を知らせる赤い警告表示に切り替わった。
体内の魔力に押されるように、僕は頭を押さえていた山野の手を無理やり跳ねのける。両手でしっかり資料を抱えたまま顔を上げ、僕は加瀬の目を睨みつけた。僕の魔力の高まりに反応して、義眼の中の魔獣の瞳が赤い輝きを放つ。
山野は、今まで無抵抗だった僕が、急に自分の手を振り払って顔を上げたことであっけにとられていた。だけどすぐに我に返ると、僕の胸倉をつかんで無理やり立ち上がらせた。
急に体を引っ張り上げられたことで、教官から借りた大切な資料が床に散乱する。その拍子に教官の施した霊封の護符が僅かにずれた。途端に、封印を解かれた資料たちからざわりとした嫌な気配が立ち上った。
「なんだその目は、ああ!?」
山野は僕を殴ろうとして拳を固め腕を大きく振り上げた。それでも僕は加瀬から目を離さなかった。加瀬はおどおどしながら、僕の視線を避けようと一歩後ろに下がった。同時に山野の拳が僕の顔に向かって振り下ろされた。
「ぐはぁ!!?」
しかしボグンという鈍い打撃音は僕の頭ではなく、山野の腹から聞こえた。僕は山野に掴まれたまま、一緒に床に倒れこんだ。倒れた拍子に奴から解放された僕が座り込んだまま周りを見ると、奴は右脇腹を押さえ、体を二つに曲げて床の上で苦しんでいた。そしてその傍らには見上げるほど大きな背中をした、訓練着姿の男子生徒が立っていた。
「お、鬼留!!?なんでてめ・・・」
倒れた山野の右腹を思い切り蹴り上げた巨漢、鬼留テイジは、小内が何か言う前に素早く奴の顔を右手で掴んだ。そしてそのまま後ろに大きく腕を引き、踊り場の反対側まで奴を投げ飛ばした。
小内は強化樹脂の壁に激突して床に崩れ落ち、白目をむいて糸の切れたマリオネットみたいに動かなくなった。
僕が気が付いたときにはもう、加瀬はいつの間にか姿を消していた。山野と小内を一蹴したテイジは今度は僕の前に立ち、座り込んだ僕をじっと見下ろした。僕は彼の目をまっすぐに見上げた。厳めしい表情をした彼の目からは何の感情も感じられない。
テイジは右拳を握り僕の頭上でそれを振りかぶった。殴られるのかな。僕はそう思いながらも、なぜかテイジの目から自分の目を逸らすことができなかった。
テイジと僕はそのまましばらく無言で見つめ合うことになった。だがやがて彼は拳を解いて僕に右手を差し出した。僕は左手で彼の右手を取った。するとそのまま手をぎゅっと掴まれ、すぐに上に引き上げられた。どうやら助け起こしてくれたみたいだ。
「あ、ありがとう鬼留く・・・。」
礼を言おうとした僕の左肩を、テイジはドンと軽く突いた。僕はよろけて後ろの壁にぶつかった。僕が顔を上げたとき、彼はすでに階段を降り始めていた。
「ありがとう鬼留くん!」
僕が少し声を張ると彼はちょっとだけ立ち止まった。けれど後ろを振り返ることもなく、またすぐに歩きだして行ってしまった。
我に返った僕は床に散乱した資料を急いで拾い集めた。幸い汚れなどは付いていないようだ。ずれた霊封の護符を元の位置に戻すと、資料から立ち上っていた嫌な気配が薄まっていくのを感じた。僕はホッと胸を撫でおろした。
するとその時、目の前にすっと資料が差し出された。驚いて目を上げると、にっこり笑いながら僕を見ている赤みがかった茶髪の女の子と目が合った。
「はいこれ。階段の下の方まで飛ばされてたよ。馬鹿に絡まれて大変だったねー。」
ショートヘアの似合うきれいな顔立ち。でも、ちょっと鋭い印象のある女の子だ。眉毛やまつげも髪と同じ色なので、赤みの強い茶髪は生まれつきなのだろう。彼女の目の虹彩は猫のように細い縦線だった。間近に顔を近づけられた僕は、どぎまぎしながら彼女にお礼を言った。
「あ、ありがとうございます・・・。」
「あたし阿久猫マリ。テイジと同じ格闘隊の2年よ。よろしくね。」
「あ、はい、よ、よろしく。」
僕は彼女のことを知っている。いろいろな意味で有名人だからだ。阿久猫さんは僕の左手を勝手に掴んでぶんぶんと上下に振った。
彼女は格闘隊、つまり魔導格闘教育隊だ。2年なら山野、小内と同じクラスのはず。確かに彼女の制服には格闘隊であることを示す赤い飾り紐がついている。ちなみに僕たち航空隊の飾り紐は明るい水色だ。
彼女は猫そっくりの表情でニヤリと笑うと、からかうような調子で僕に話しかけてきた。
「あんた見かけによらず根性あるんだね。テイジを睨み返すなんて。」
「えっ・・・?」
僕は呆気に取られて彼女の方を見た。彼女は僕を探るように見ながら言った。
「さっきさ、テイジがあんたのこと殴ろうとしたとき、睨み返したでしょ。」
僕は慌てて彼女の言葉を否定した。
「ち、ちがうよ。ただなんていうか・・・目が離せなかったんだ。」
僕が言い淀みながらそう言うと、彼女はクスリと小さく笑みを零した。
「それを睨み返すっていうの。あのテイジに睨まれて目を逸らさないなんてなかなかできないよー。」
そして猫のような目をくるくるとさせながら、阿久猫さんは愉快そうに言った。
「こんな馬鹿な連中なんて蹴散らしてやればよかったのに。」
阿久猫さんは足元で白目をむいてよだれを垂らしている山野を、汚いものでも見るような目つきで一瞥した。どうやら奴はテイジに蹴られた脇腹の痛みで失神したらしい。
「別に何でもないから。相手にするだけ無駄なんだ。放っとけばそのうち飽きてどっか行くんだし。」
僕がそう言うと、阿久猫さんは呆れたように口を開けたあと、猫みたいな目を細めてまたニヤリと笑った。
「ふふ、それにしてはさっきの魔力はなかなかのもんだったよ? 下の階にいたあたしが思わずびくってしちゃったくらいだもん。」
それはきっと加瀬に父さんのことを言われた時だろう。加瀬に言われた言葉が蘇って、僕は思わず彼女から目を逸らした。と同時に休み時間の終わりを告げる予鈴が鳴った。
「やば、午後の格闘演習に遅れちゃう!あんた、名前は?」
「し、新道カナメです。」
「そっか。じゃあまたねカナメっち!あたしのことはマリって呼んでね!」
阿久猫さんは音もたてずにその場からあっという間に走り去っていった。さすがは格闘隊。すごい身のこなしだ。僕も急がないと遅れてしまう。
僕は宇津井教官の資料を抱えると、思うように動かない右足を引きずりながら教室への階段を急いで駆け上がった。
読んでくださった方、ありがとうございました。