10 解放 前編
ちょっと長いので二つに分けました。こちらは前編です。
ホノカはぼんやりと微睡んでいた。彼女は今、ゆっくりと揺られながら誰かに抱えられている。体を包む安らかな温もり。
子供の頃の夢を見てるのかな。優しいお父さんとお母さん。ホノカは両親にとって、高齢になってから生まれた待望の一人娘だった。
未熟児として生まれ、体が弱かったホノカを本当に大切に育ててくれた両親。そんな私が防衛学校に合格した時は私以上に大喜びしてくれたっけ。
次の瞬間、ホノカの脳裏に惨い記憶がフラッシュバックする。剥ぎ取られる衣服。終わりのない暴力。屈辱的な命令。そしてそれに抵抗できない惨めな自分。
ホノカは小さく悲鳴を上げ、目を覚ました。慌てて目を開き、周囲の様子を確認しようとする。そしてふと顔を上げた時、彼女は自分の顔を覗き込むように見下ろしている奇怪な化け物と、正面から目を合わせてしまった。
彼女を見つめる化け物の恐ろしい顔面。そのあまりの異様さに、彼女は息をするのも忘れてしまったほどだ。
焼け爛れた皮膚がボコボコと盛り上がり、地を這う虫のように蠢いている。本来あるはずの位置に眼球はなく、代わりに奇怪な金属に縁どられた魔獣の瞳が不気味な赤い光を放っていた。
「いやぁぁ!!」
悪夢が具現化したかのような化け物から逃れるため、ホノカは夢中で手足をバタつかせた。直後、彼女はそっとその足を地面に降ろされた。
「目が覚めたんだね、ホノカさん。びっくりさせてごめん。もう自分で立てる?」
222分隊の隊長である新道カナメが心配そうに彼女に語り掛ける。彼女は混乱した頭を必死に整理し、ついさっきまでの自分の記憶を呼び起こした。
降り始めた夕闇の中でしばらく立ち竦んだ後、ようやく彼女はこれまでのことを思い出した。
ヤスエたちから金を持ってくるように脅されていたこと。そこへマリがやってきたこと。そして222分隊の仲間たちの姿を見たこと・・・。
彼女の記憶はそこで途切れていた。おそらく気を失ってしまったのだろう。周囲の様子から察するに、ここは総合演習場の入り口付近のようだ。
気を失った自分をカナメが抱えて運んでくれていたのだと、彼女は悟った。同時についさっき自分が、カナメに対してあまりにも酷い感情を抱いたことを思い出した。
彼に対する深い感謝の気持ちと共に、恥ずかしさと申し訳なさが心の中から溢れ出し、彼女はひどく混乱した。
思わず感情のままに叫び出しそうになるホノカ。だが自分を心配そうに見つめるカナメの静かな左目を見たことで、彼女はその衝動を何とか理性で押さえ込むことができた。
「ご、ごめんなさい、私!!・・・た、助けてくれて本当にありがとう、新道くん。わたし、もう、大丈夫だから!」
カナメに心配をかけまいと、彼女は精一杯の声で彼の問いかけに応えた。だがカナメはより一層心配そうに、彼女へ尋ねた。
「そ、そう? それならいいんだけど・・・今、分隊舎に行くところだったんだ。一人で歩ける?」
「う、うん。もう平気だよ。」
ホノカは分隊舎に向けて歩きだした。だが数歩も歩かないうちに、膝から崩れ落ちるように姿勢を崩した。
「全然駄目じゃねーか。」
呆れたようにそう言って、倒れそうになったホノカを咄嗟に支えたのは、同じ後方支援科の丸山エイスケ先輩だった。彼女は今まで背を向けていたので、彼の存在に全く気が付いていなかったのだ。
彼女を支えたことでエイスケの抱えていた箱が、強化樹脂で舗装された滑走路に落ちる。地面の上に散らばった箱の中身を見て、彼女は凍り付いたように動きを止めた。
そこに在ったのは大量の魔力端末。そして女物の財布や手帳、ポーチ類だ。見覚えのあるそれらの品を目にして、彼女の耳にカタカタという小さな音が聞こえ始める。それが自分の奥歯が小刻みに震える音だと彼女が気が付くまで、しばらく時間がかかった。
エイスケがいつものように角刈りの頭をボリボリと掻きながら、ふっと息を吐いた。彼はホノカの目を遮るようにしながら、散らばったものを素早く箱に入れ始めた。
「ムリすんな、小桜。お前、酷い顔色だぞ。おい、新道。抱えて運んでやってくれ。」
「え、ぼ、僕が?」
戸惑うように言ったカナメに対して、エイスケは盛大にため息を吐いて見せた。
「他に誰がいるんだ? 俺はこの箱を運ばにゃならんだろうが。」
その言葉でカナメはホノカをちらりと見た後、一瞬右手の義手で自分の右目を隠すような動きをしかけた。だがすぐにぐっと息を呑んで、右手の義手をぎゅっと握り締めた。
「うん。分かったよ。」
カナメは床で震えるホノカの左側にそっと座り込んだ。右半面を見せないようにしながら「ごめんね、ホノカさん」と彼はホノカに優しく微笑みかけた。
彼はホノカの後ろに回って彼女の体に手をかけた。彼に触れられると思った瞬間、停止していたホノカの思考が再び動き始めた。
「だ、大丈夫だから!」
さっきの恥ずかしさと申し訳なさを思い出し、ホノカはそう言ってカナメの手から逃れようとした。しかし抵抗虚しく、彼は彼女の小さな体をひょいっと後ろから抱え上げてしまった。
彼はまっすぐに前を見たまま、ゆっくりと分隊舎に向けて歩き出した。
カナメは今、両手でしっかりとホノカの体を抱きかかえている。いわゆるお姫様抱っこだ。
こんな風に新道くんに抱えられるなんて。
ホノカは混乱しきった頭でそんなことを考えた。カナメに対する様々な感情が彼女の心に溢れる。そのせいで、さっきまで彼女を震えさせていた恐怖はどこかに追いやられてしまっていた。しかし彼女自身はそれに全く気が付いていなかった。
カナメは右足を軽く引きずりながらゆっくりと歩いていく。でもいつもよりも足取りはしっかりとしているようだ。さっき、赤ん坊をあやすように揺すられていると感じていたのはこのせいだったのかと、ホノカは思い至った。
放課後の演習場は静まり返っていた。明日の総合演習に向けて課外訓練を行っている生徒の姿もすでにない。日が落ちたことで昼間の暑さが急激に去っていく。まだ明るい夜空に輝く一番星の下では、さわやかな夜風が吹き始めていた。
頬に当たる冷たい夜風が心地よかった。ホノカはそのことで、自分の顔が熱を帯びていることに気が付いた。
薄明かりの残る夏空の下をゆっくりと歩いていくカナメとエイスケ。広大な演習場を横切るように歩いた彼らはやがて、222分隊の分隊舎へとたどり着いた。
すでに夕日は完全に落ち、空には青白い光を放つ月が顔を覗かせている。暗闇に包まれた演習場の中で、分隊舎の周りだけは非常灯が灯っていて明るかった。
カナメはホノカを抱えたまま、格納庫脇にある小さな入り口へ入った。ホノカの目の前に『白鷹』の白くて大きな機体が見える。それを見た瞬間、なぜか彼女は心の中に「ああ、帰ってきたんだ」という言葉と共に、なんとも形容しようのない安心感が浮かび上がってくるのを感じた。
「2階の待機所に行こう。」
彼はそう言って、後ろを歩いているエイスケを振り返った。
「はあはあ、やっと着いたか。マギホもこれだけ数があると、かなり重いな。まったく、やれやれだぜ。」
汗まみれになったエイスケが荒い息を吐きながらぼやく。その言葉でホノカはいつの間にか、カナメの胸に自分の体を完全に預けてしまっていたことに気が付いた。
彼女は慌ててカナメの顔を見上げると、早口で彼に話しかけた。
「ご、ごめんね新道くん。重かったでしょう? 後は自分で歩けるから。」
彼女の言葉にはにかんだように微笑みながら、カナメは小さく頭を振った。
「ううん、全然重くないよ。僕、今でもよく妹を抱えてるんだ。ホノカさん、僕の妹より全然軽いよ。」
思いがけない彼の言葉で、ホノカの思考がぐるぐると回転する。彼女が言葉に詰まっているうちに、カナメは彼女に言った。
「階段歩くのまだ危ないと思うから、このまま上まで運ぶね。」
そう言って微笑むカナメの左目を、ホノカはじっと見た。その時になって彼女は初めて、カナメが自分の焼け爛れた右半面を彼女に見せないよう、頭を左向きにして抱きかかえていたことに気が付いた。
カナメがゆっくりと階段を上る間、彼女はふわふわする気持ちのままで彼の左半面を下からじっと見つめた。
今までよく見たことなかったけど、新道くんって意外とまつ毛長いや。それにとっても優しい目をしてる。
声も高いし、顔だちも女の子みたい。でも細い体つきなのに意外と力がある。やっぱり男の子なんだ。
それにしても、新道くん、妹さんいるんだ。私より体が大きいって言ってたけど、妹さんっていくつなのかな。
ちょっとだけ、新道くんの妹さんが羨ましいや。私も新道くんみたいなお兄ちゃんがいたらよかったなあ。
顔を赤らめ、目を白黒させるホノカ。彼女の混乱した頭の中ではそんな取り留めのない言葉が、次々と浮かんでは消えていった。
2階の待機所に着くと、カナメはホノカをそっとその場に立たせた。彼女がちゃんと立てるのを確認してから、彼は優しく気遣うような口調で彼女に言った。
「ホノカさん、疲れたでしょ? 奥の浴室でシャワー浴びておいでよ。着替えはもうじきマリさんが届けてくれると思うから。その間、僕ら二人は隊舎の外に出てるね。」
そう言って待機所を出ようとする二人を、ホノカは慌てて引き留めた。
「う、ううん大丈夫! 外はもう暗いんだからそこにいて!」
「で、でも・・・。」
彼女の言葉に、カナメは少し恥ずかしそうに俯いた。それを見た瞬間、彼女自身にも思いがけない言葉が口をついて出た。
「わ、私も誰かが側にいてくれた方が安心だから。」
彼女が呟くようにそう言うと、カナメはハッとした顔で彼女を見た後、小さく頷いた。
「分かったよ。待機所で待ってるね。何かあったらすぐに呼んで。」
「・・・ありがとう新道くん、丸山さん。」
彼女の言葉にカナメが顔を真っ赤にして頷く。そんな彼の様子を見て、エイスケは露骨に顔を顰め、追い払うように彼女へ向けて手を振った。
「ああ、早く行ってこい。新道が風呂場を覗きに行ったら大声で知らせてやる。だから安心しろ。」
「ちょ、ちょっとエイスケ!?」
エイスケのからかいにあたふたするカナメの様子を見て、ホノカから笑みがこぼれる。
してやったりという顔のエイスケと苦笑するカナメを残し、ホノカは女子更衣室に併設されているシャワールームへ向かった。
更衣室で制服を脱ごうとした時、ホノカは自分の体が汚物まみれだったことにようやく気が付いた。
私、こんな体でずっと新道くんに抱えられてたんだ!
彼女は恥ずかしさのあまり、思わず両手で顔を覆いその場にしゃがみこんだ。
彼女はその恥ずかしさを打ち消すように手早く服を脱ぐと、それを洗剤と共に洗濯機に放り込んでボタンを押した。勿論、洗剤を計るゆとりなどないから、完全に目分量だ。
服を脱いだ自分の体からは、汚物のすえた匂いがする。彼女はそれを消すために慌ててシャワー室に飛び込んだ。
石鹸を泡立てて体を洗い、温かいお湯を浴びる。体から漂う匂いが消えるにつれ、強張っていた心と体が次第にほぐれていった。思わず「ほうっ」と大きな息を吐いて、ホノカは自分の薄い体に目を向けた。
幼い頃から体が弱かった影響から、自分でも呆れるくらいの幼児体型だ。そしてその幼い体には、手足の先を除くほぼすべてに赤黒いアザやヤケドの跡が残っている。
私の体ってこんなにひどい状態だったんだ。
ヤスエたちに暴行を受けるようになって以来初めて、彼女はまじまじと自分の体を眺めた。
これまでは寮でシャワーを浴びてもこんな風にゆっくり体を見ることはなかった。以前から自分の体型にコンプレックスがあったから、もともと彼女は自分の体を見るのが好きではなかったのだ。
さらに暴行を受けるようになってからは、他の寮生にできるだけ裸を見られないよう、人気のない時間に手早く入浴していた。着替えの時などにも、彼女は出来るだけ自分の体から目を背け続けた。傷を見ることでそれを受けた時の痛みと屈辱が蘇ってくるような気がしていたからだ。
光の精霊が作り出す優しい明かりに照らされた、傷だらけの体。その傷を洗い流すように温かいお湯が流れ落ていく。その様子を眺めているホノカの目から、自然と涙が溢れ出した。
彼女の細い肩がひくっと震える。それは程なく押し殺した嗚咽へと変わった。
彼女はその場に蹲り、自分の体を守るようにぎゅっと膝を抱えた。頭上から温かいお湯がホノカを包み込むように降り注ぐ。
優しい雨音のようなその響きが浴室に満ちる。やがて彼女は静かに、しかし次第に声を上げて泣き始めたのだった。
読んでくださった方、ありがとうございました。




