7 コートの悲しみ
バーベナは小さなバッグから手帳を取り出して、そのページにクラレンスが映ったガラスを挟んだ。
「それは文字か?」
気配もなく背後に立っていたクラレンスが、バーベナの手帳を覗き込んだ。バーベナは驚いて飛び上がりそうになった。
「……これはカンマとピリオドか?」
慌てて手帳を仕舞おうとしたバーベナだったが、意外なほどクラレンスが興味を示してしまった。
「どこの国の文字だろう。見た事がないな」
「私が作った暗号です」
苦し紛れにバーベナが答えると、クラレンスはさらに興味を示した。
「……この同じ形は使われる頻度が多いな、言葉の頭がここだとすると……、先頭にくることが少ないな。助詞か?」
「クラレンス様」
なんのスイッチが入ってしまったのか、クラレンスはバーベナの手から手帳を取り上げてしまった。
「文脈を分けた箇条書きに見えるところは……、固有名詞か」
夢中になっているクラレンスの手から手帳を取り返そうとするバーベナだが、背の高い彼の手の中から取り返すことができなかった。
「クラレンス様!」
バーベナは本当にクラレンスが日本語を読解してしまうのではないかとハラハラした。
「お返しください。……乙女の秘密を覗くものではありませんわ」
「そうよ、お兄様、デリカシーがないわ」
ダリアにも責められて、クラレンスが謝った。
「すまなかった。だが、これをバーベナが考えたとしたら、すごいことだ」
実際に自分で考えたものでもない上に、クラレンスたちのハズレスチルや攻略法が書かれているのだ。読んで理解することはできないと分かっていても、自慢げに披露するようなものではなかった。
『クラレンス様なら、何かの魔法を使って読んでしまうかも知れないわ……』
「……それより、特許の申請はいかがでしたか?」
「うん。現物を添えて提出したから、すぐにも許可が下りるだろう」
「現物……?」
ダリアの顔色が変わった。
「お兄様!バーベナの映ったガラスを提出しまったの?!」
「ああ、動いているし、声も出ることがわかるからな」
何でもなく言うクラレンスに、ダリアは肩を落とした。持ち帰って何度でも観ることができると、楽しみにしていたのだ。
「お前はいつでもバーベナに会えるだろう」
いつでもと義兄は簡単に言うが、勉強会がなければそんなに簡単に会うことはできないのだ。
王立学園に通うようになれば、身分よりも成績で分けられたクラスの方が優先されるが、現状は何の力も持たない男爵家の養女と、王家に次ぐ家格の公爵家の令嬢なのだ。ダリアが望んでもバーベナの家で了承しない限り会うことも叶わない。
それに、先ほどから義兄がバーベナを呼び捨てにしていることもダリアには気になった。自分が何年もかけて親密になったバーベナと、こんなに簡単に仲良くされては面白くなかった。
「そうね。今日はダリアが誘ってくれたから、次は私がダリアを誘うわ」
ダリアの遠慮を察したわけではなかったが、バーベナがそう言うとダリアの顔に笑みが浮かんだ。
バーベナはダリアに今日のお礼をしたいと思っていた。記録のできるガラスもそうだが、クラレンスと気軽に話すことができたのも嬉しいことだった。
「本当?バーベナ」
「ええ。勉強会のない日に、一緒に出かけましょう」
二人きりでは無理だろうが、バーベナはまたダリアと街に行ってみたかった。小間物を扱う店や、流行りのお菓子のお店、そうした少女らしい外出をしてみたかった。
普段のバーベナは、屋敷に来る出入りの業者から買い物をすることがほとんどだった。ドレス一つとっても、オートクチュールの店がデザイナーや針子を連れてきて1日がかりで採寸したりデザインや生地を決めたりしていくのだ。
最近はアネモネの少女時代のドレスを着ることが多かったので、バーベナはそうしたことに時間を割くことが減っていた。10歳の誕生日に別人になるまで、バーベナはその時間を一番の楽しみにしていたが、今のバーベナは家庭教師を呼んでの勉強会で、ダリアたちに会うことの方が楽しかった。
「楽しみだわ!」
嬉しそうなダリアを見て、バーベナも嬉しくなった。
以前のバーベナにはいなかった友人が、今はこうして一緒にいる時間を楽しんでくれる。
『悪役令嬢じゃなくてもいいのよね』
もしかしたら、ゲームの補正からいつかダリアをいじめるようになってしまうのではないか、バーベナにはそれも不安だった。今はそうした兆候もなく、クラレンスまでゲームの中の冷徹な少年とは別人のようだった。
「そろそろ帰るか?バーベナをあまり遅くまで付き合わせてはいけないからな」
こうしてバーベナを気遣うようなことは、ゲームの中のクラレンスでは考えられなかった。『とき乙』のクラレンスは、本当に自分の出世とアーロン以外に興味を持っていないようだった。
クラレンスが実験室の鍵を返しに行こうとすると、小柄な人物がバーベナに近づいてきた。
その赤い髪は、バーベナにも見覚えのある物だった。
『コートだわ。どうしてここに?』
コートとダリアがパイを食べるイベントはなかった。だから、お守りに関してのクラレンスのイベントもないはずだ。
バーベナが不思議に思っていると、コートは小さく頭を下げた。
「去年、街で助けてもらって」
言いかけたコートを、クラレンスが遮って壁際に押した。
「お前は誰だ。ここにいるのは、公爵家の令嬢だ」
バーベナから離され、コートはクラレンスに追い詰められて壁に背を当てた。
「だから……去年、魔道具の店で」
コートが言いかけたが、クラレンスは聞く耳を持たないようだった。自分からも事情を話そうとしたバーベナは、ダリアが手の中に小さなガラス片を持っているのを見とめた。
「お前は公爵家以上の家格の者なのか?誰の取次もなしに公爵令嬢に話しかけていいと思っているのか」
まだ幼く見えるコートに、クラレンスは容赦なかった。
『そうだった……クラレンスは、権力思考が高いという設定だったんだわ』
ゲームの中のクラレンスは、自分自身が男爵家の人間でありながら、アーロンの片腕のとして生徒会の副会長をしていたり、成績優秀でスキップして最高学年の最優秀クラスにいることで、高圧的に振る舞うところも見受けられた。
だが、今の彼は本当にバーベナに危害を加えるかも知れない少年を問い詰めているだけのようだった。
「俺は、…ガイアス子爵家のコート・ガイアスだ」
コートはクラレンスに向かって名乗った。
クラレンスはすでに有名人で、彼の家が子爵家より格下の男爵家であることはコートも知っていた。
だが、その名前を聞いたクラレンスもダリアも、コートの予想したような態度にはならなかった。
クラレンスは驚いて口を閉ざし、ダリアは真っ青な顔になってコートをきつく睨みつけた。
「ガイアス……ガイアス子爵か」
クラレンスの声には非難するようなものが混じっていた。
「あなたがガイアス家の人間だったら、あの時助けたりしなかったわ」
震える声でダリアが言った。
「ダリア……?」
バーベナが心配そうにダリアの顔を観ると、彼女はバーベナの手を掴んだ。
「どうしたの、ダリア」
ダリアはバーベナの手を掴むと、そのまま歩き出した。
追いかけてこようとするコートを、クラレンスが突き飛ばした。体格差のせいでコートは尻餅をついた。
「俺の妹に近づくな」
クラレンスは呆然とするコートを残してダリアたちを追いかけた。
コートは立ち上がることもできずに、バーベナとダリアの背を見ていた。彼は、ただあの時義父に捕まらなくてすんだお礼を言いたかっただけだった。平民のような服装はしていたが、バーベナもダリアも美しく、コートの中に強い印象を残していた。
「………俺だって、好きでガイアスになったんじゃない……」
バーベナたちとは別の実験室から人が出てきたので、コートはのろのろと立ち上がった。
救済院から貴族に引き取られると聞いた時、コートは信じられない思いがした。嬉しかった。親の顔も知らないコートにとって、その時ガイアス子爵は自分を救ってくれる神様のように思えた。
だが、引き取られた日から、コートの希望は打ち砕かれた。
「……俺だって」
コートは拳を握りしめた。
行き場のない怒りに、襟足の毛が逆立ちそうに帯電してくるのをコートは必死に抑えた。