5 意外なクラレンス
家庭教師を呼んでの勉強会のない日に、バーベナは思い出せることを手帳に綴っていた。
10歳の誕生日にバーベナ・ルイスナム以外の自我に目覚めてから、思い出せることはすべてこの手帳に書き込んできた。
相変わらずゲームの内容以外のことは思い出せないのだが、『とき乙』は何周もやり込んだゲームだったので2年経った今でも新たに思い出すことがあった。
今朝、バーベナが思い出したのは、3周目の隠しイベントだった。だが、そのイベントはダリアとコートが一緒にパイを食べていないと起こらないものだった。
『パイを食べるスチルを手に入れると、コートとお揃いのお守りが手に入るんだった』
だから魔道具店があったのかと、バーベナは納得した。1年後に王立図書館で再会したコートとダリアが、同じデザインのお守りを身につけているスチルがコートルートにある。あの時、二人はお守りを買わなかったから、そのイベントは起こらない。と言うことは、そのハズレのスチルも手に入らないのだ。
『クラレンスとコートって、珍しい組み合わせだったのよね』
図書館でコートとダリアが出会わないと、義妹と同じものを持っていることをクラレンスが問いただすイベントが起こるのだ。背の高い本棚の陰で、クラレンスに壁ドンされるコート。
「……見たかったわ」
「何をご覧になりたいのですか?」
思わず呟いたバーベナに、ハリエッタが尋ねた。
「昨夜は素敵な夢を見ていたの。その続きを見てみたいって思ったのよ」
「まぁ、どんな素敵な夢でございますか?」
「秘密よ」
つんと顎を出してみせるバーベナに、ハリエッタは微笑んだ。
10歳の誕生日から、バーベナはそれ以前の我儘で傲慢な少女ではなくなっていた。
勉強や作法も学ぶ気がないように思われていたが、今では自分から率先して取り組むようになっていた。
12歳にしては言動がやや大人びているかもしれなかったが、その姿は美しい所作も相まって天使のように愛らしかった。
「あ、お嬢様。言い忘れておりました。明日、ダリア様がいらっしゃるそうです」
「明日は勉強会ではないと思うけど」
家庭教師を呼んでいない日には、ダリアがバーベナを尋ねることはあまりなくなっていた。
「お嬢様を図書館にお誘いになりたいそうです」
バーベナはハリエッタの言葉に目を輝かせた。
「王城の図書館に?私、初めてだわ」
王立図書館は貴族の子女に開かれた施設だった。
王城に隣接した王立の学園と同じ敷地の中にあり、入学前でも12歳以上になっていれば図書館を利用することができた。
さらに、王立図書館には、魔法用の実験室があった。
まだ魔力が安定していない者の練習のためや、初めての魔法を試すために使われる施設があるのだ。実験室付きの職員に魔法の内容を伝え、それに危険性がないと判断されたらそこで魔法を試すことができるのだ。
「クラレンス様がご一緒なようですから、心配ございませんね」
学園に入学する年になれば、貴族の令嬢たちでも付き添い無しに通学が可能になるが、バーベナたちはまだ侍女や護衛の騎士、もしくは父兄と一緒でなければ出かけることはできなかった。
ダリアのように裕福でもない男爵家は子供用の使用人を雇うことができないため、比較的子供だけでの行動に慣れていたが、バーベナはそうはいかなかった。
公爵家の後継者のために再婚を勧められたバーベナの父は亡き妻アネモネを忘れることができず、未だに後添いを持つことができていない。この王国1番の家系はバーベナただひとりだけが後継者なのだ。何事もないよう、真綿に包むように大切に育てられていた。だから、もしも昨年の街場への外出が公爵の知るところとなったら、バーベナはダリアとの交友を止めれてしまっただろう。
ダリアもバーベナの立場は理解している。
だから、二人だけで出かけたいと言われてから、彼女の属性である光の魔法での護身術を密かにマスターしていた。コートの養父を倒したのも、バーベナにかけた結界も、ダリアが真剣に学んだものだった。
バーベナも昨年の外出の後で、自分の行動の意味を考えるようになっていた。
10歳の誕生日に別の人格に生まれ変わったようなバーベナだったが、この2年間で自分の立場は理解していた。
『本当は我儘で傲慢ないじめっ子にならなくちゃいけないんだろうけど……』
だが、バーベナは国外追放や公爵家の取り潰しなどには遭いたくなかった。ただ、大好物のハズレスチルを集める事だけが、今のバーベナの目標だった。
最近ではハズレスチル集め以外にも、ダリアたち令嬢との時間もバーベナには大事なものになってきていた。『とき乙』以外のことは思い出せなかったが、バーベナは何となく別の世界の自分には親しい人がいなかったように感じていた。ゲームにあれほどのめり込んだのも、一人だけの楽しみに耽る他はなかったのかもしれないと思っていた。
翌日、父の許可を取ったバーベナはダリアとともに王立図書館に向かった。
お守りのイベントを見ていないので、コートとクラレンスのイベントは見られないとバーベナは諦めていた。だが、初めて行く図書館も実験室も、バーベナには楽しみだった。
『クラレンスは入学と同時に学年で首位になるのよね。こうして普段から勉強だってしてるはずよね』
同じ馬車に揺られ、バーベナはクラレンスの冷たい美貌に見惚れていた。
『…氷の女王様……』
クラレンスとシンのスチルで、放課後の密会があるのだ。その時、騎士のように跪いたシンがクラレンスをそう呼ぶ。
「バーベナ嬢は氷の属性と聞いたが」
急に話しかけられて、バーベナは驚いてしまった。
クラレンスはどのルートでもアーロン以外にほとんど興味を示さない。
ヒロインのクラレンスルートでも、彼の卒業間際に無理矢理婚約させられたカメリアにダリアがナイフで襲われたところを助けるまでは一切恋愛要素はなかった。
他のルートでは兄弟の仲も悪いことが多かった。生徒会に勧誘されるくらい優秀なダリアでさえそれなのだ、ゲーム内のバーベナはクラレンスにとってアーロンにたかるハエくらいの認識しかないようだった。
「はい。……氷の属性が強く出るようです」
バーベナが少し戸惑いながら答えると、
「そうか、俺も氷の属性が強く出ている」
思いがけないことを言われた。
ゲームのクラレンスは氷の魔法をよく使うので氷の女王などとシンに言われるのだが、全属性を使いこなせる魔法のエキスパートのはずだった。
「お兄様はどの属性も上手にお使いになれるでしょう?」
ダリアもクラレンスの言葉が意外だったようだ。
「どれも使うことはできるが、意識をしなくても氷の魔法は使うことができる」
「まぁ。お兄様はどの属性も簡単にマスターしてしまわれたと思っていましたわ」
「俺にも得手不得手はある。特に聖属性や光属性は得意じゃない」
兄妹の普段の会話のやり取りのようなものを聞いて、バーベナは驚くのと同時に少しほっとしたような思いがしていた。
騎士を剥奪された家の子供だったダリアを、その容姿の愛らしさと珍しい光属性に特化した魔法の力に目をつけたポート男爵が引き取った。一人息子のクラレンスでさえ独学で勉強しなければならない経済状態で、ポート男爵はダリアを小間使のように使うつもりでもいたらしかった。
シンルートのダリアが、クラレンスの為に雨の中を忘れものを届けるイベントがある。傘も渡されず、濡れ鼠のダリアをシンが馬車で送ってくれるのだ。このイベントを起こさないと、シンが忘れものをしたクラレンスに自分の教科書を貸すイベントを見ることになる。
『雨の中で二人が一つの傘の中にいるのよね……』
バーベナがうっとりと思い返していると、クラレンスがダリアの名を呼んだ。
魔法の話をしていたダリアとクラレンスだったが、急に彼がダリアの言葉を遮った。
「なんでしょう、お兄様」
「その言葉遣いだ」
何を問題にしているのか、バーベナはわからなかった。兄妹と言えど、家督を継ぐ嫡男に対してダリアの対応は間違っていない。
「お前は公爵令嬢のバーベナ嬢を呼び捨てにし、気軽な口調で話しているではないか」
バーベナはあまりにも意外なクラレンスの言葉に、びっくりして手にしていた小さなバッグを取り落としてしまった。
「バーベナ、大丈夫?」
だが、バラの刺繍とレースに飾られたそのバッグは、馬車の床につく前にダリアに拾い上げられていた。
「それだ」
バーベナを気遣う様子だが、如何にも打ち解けたように話す義妹にクラレンスが言った。
「俺にもそうして話せばいい」
ダリアがバーベナと気軽に話せるようになるまで、3ヶ月以上の時間がかかっていたのをクラレンスは知らない。
急にそう言われても難しいと言うダリアに、
「ならば、今日の実験の手伝いはできない」
と、クラレンスが冷たく言い放った。
「ずるい!お兄様!約束がちがうでしょ!」
慌てて言うダリアの口調に、クラレンスは唇の端をあげて笑って見せた。
「それでいい。ちゃんと実験の手伝いはしてやる」
『さすが氷の女王だわ』
クラレンスの手管に、ダリアもくすりと笑ってしまった。
「今度こそ、約束よ、お兄様」
ダリアも観念したようで、バーベナに話すような口調でクラレンスに返した。