1 バーベナ目覚める
その時、バーベナ・ルイスナムは雷に打たれたような衝撃を受けていた。
今、目の前で起こっている出来事のすべてを、自分は事細かに知っている。
10歳の誕生日を迎え、バーベナは家族以外も招待した初めての誕生パーティを開いてもらっていた。10歳という年齢ながら、まるで熟女のような赤と黒を基調にしたドレスをまとった彼女は侍女に傅かれて広間を見下ろす階段上に立っていた。
「……なに、…これ」
バーベナは自分の体を見回した。真っ平らな胸元に深く切れ込んだ黒いレースのビスチェが滑稽なのだが、その首元に鶏の卵ほどの大きさのルビーが煌めいている。
『これって……とき乙のバーベナみたいじゃない?』
「バーベナお嬢様」
後ろに控えた侍女が、黙って立っているバーベナに声をかけた。叱られ慣れているようなその声音に、バーベナは一瞬苛立ちを覚えたが、愕然ともした。
『わたし、バーベナって呼ばれた……?』
バーベナが振り返ると、侍女は目をそらして俯いた。
「……ごめんなさい、気分が悪いわ。……部屋に戻りたいの」
声を掛けられた侍女は信じられないように目を見開くと、小さく頷いてバーベナを先導して自室に戻らせた。
部屋に戻ったバーベナは顎が外れるほど大きく口を開けてしまった。
『金色すぎる!秀吉なの?!』
急に頭に浮かんだ秀吉という名前に、バーベナはまたショックを受けた。
「ハリエッタ。何か飲み物を」
「かしこまりました」
ソファに座ったバーベナは、震える自分の手を握りしめた。
バーベナ・ルイスナム。今日は10歳の誕生日。ドレスも宝石も1年前から準備した特注のものだ。このドレスに袖を通した時には、こんな気持ちになるとは思っていなかった。自分の好み通りに仕上がったドレスに満足し、子供が付けるには大きすぎるルビーのネックレスも、同じようにルビーで作ったアゲハ蝶の髪飾りも、何もかも満足だった。
「……こわい」
金箔貼りのチェスト、赤いバラを生けた花瓶も金、テーブルも金、暖炉まで金色のこの部屋に映り込む自分の姿が痛々しく思えて仕方がなくなるとは思ってもいないバーベナだった。
「誰……」
バーベナの記憶はあるのだが、今は全く違った誰かの感情がこの体を動かしている。
「わたし……誰なの」
名前を思い出そうとしても、バーベナ・ルイスナム以外の名前は思い出せない。そして、趣味の悪い金色の部屋に映る姿もバーベナ以外の誰でもない。
「でも、……」
違うのは違うのだ。誰だかわからないが、この意識はバーベナではないと確信があった。
年齢も、自分が10歳の子供だとは思えなかった。
「とき乙の……バーベナ……」
はっきりと頭に浮かんだのは、自分の名前でも家族のことでもなく、『とき乙のバーベナ』だった。
バーベナは再び雷に打たれたような衝撃を覚えた。
わなわなと震えているバーベナに、ハリエッタが紅茶を淹れてきた。
「お嬢様、閣下にお知らせしたほうが」
バーベナの体調が悪いことを父に知らせたほうがいいかと尋ねるハリエッタに、ベーベナは強く首を振った。
悪いのは体調ではなかった。
強いて言えば、頭、頭に不調が現れているのだ。
バーベナの頭の中では、異常な速さで海馬の中の記憶がスライドのように映し出されていた。
可愛らしい金髪の少女、色取り取りの髪色の美貌の少年、豪華な聖堂のような建物、白い馬、尖塔が聳える白亜の城。
バーベナは理解した。
これは夢だ。
バーベナ・ルイスナム。侍女のハリエッタ。宮殿のように豪華な家。これは自分が夢中になっていたゲームの世界の夢を見ているのだ。
それはベーベナが必死に理性を働かせた思考に過ぎなかった。
彼女も理解していた。10センチもあるようなピンヒールを履いた足はズキズキと痛んで、ハリエッタの淹れてくれたお茶は温かかった。今まで、こんな風に温度や感覚のある夢は見たことがなかった。
ここは、乙女ゲームの中の世界だ。
バーベナは大きく息を吐いた。
どうしてそうなったのかわからない。だが、ここは自分でプレイしていたゲームの世界のようだった。
「……ハリエッタ」
黙って様子を見ていたハリエッタに声をかけ、バーベナは今日は急病だということにしようと思った。
「お嬢様。大丈夫ですか?」
心配そうなハリエッタの顔を見ているうちに、バーベナはあることを思い出した。
『このままでは、幼馴染スチルが手に入っちゃう』
バーベナが夢中になっていたゲーム『ときめき学園、花咲く乙女の恋と魔法』の世界では、ヒロインがイベントをこなすたびに固有のスチルを手に入れることができる。
バーベナの誕生日で、ヒロインは攻略対象の一人である少年と出会う。バーベナに苛められたところを助けられ、友達になろうと言われるのだ。
「……だめよ」
そのヒロインと攻略対象の『幼馴染』スチルを手に入れてしまうと、ハズレのスチルである『カーテンの陰』のスチルを手に入れられないのだ。
本来乙女ゲームはヒロインに自分を投影して、攻略対象と恋をするゲームだ。だが、バーベナはそうした通常のユーザーではなかった。イベントの失敗時に手に入る美少年同士の友情イベントスチルを目当てにゲームをしていたのだ。
「大丈夫……戻りましょう」
自分の誕生日のためにこれだけの人が集まっているのだ、スチルの為ではないと自分に言い訳して立ち上がったバーベナだったが、足の痛みにまた座ってしまった。
「お嬢様、やはりお医者様を」
「ちがうの、……靴が痛いの」
この靴を選んだのは自分だった。皆がやんわりと長時間履くのは無理だと言ってくれたのを、聞かずに選んだエナメルのピンヒールだった。
「……それに、このドレス……」
恥ずかしかった。
さっきまで大喜びで着ていたドレスが、バーベナには恥ずかしくてたまらなかった。
こんなドレスを着るのは、もっと大人になってからだ。
「このドレスがいやなの」
バーベナは小さかった。
10歳という年齢にしても、バーベナは小柄だった。ヒロインと並んだイラストでは頭一つ分小さかった。華奢すぎる体にぴったりと張り付くレース、長く引いたトレーン、そのために履いた10センチのヒール、痛々しい以外の何物でもなかった。
「お嬢様……ハリエッタにお任せいただけますか?」
ハリエッタはバーベナの前に跪いて尋ねた。
「アネモネ様のドレスがございます」
「でも、お母様のドレスは……」
バーベナの母は、彼女が6歳になる前に亡くなっていた。いくら若くして亡くなったとはいえ、バーベナがそのドレスを着るのは無理だった。
「アネモネ様がお輿入れの時に、子供の頃のドレスをお持ちになっていらっしゃいます」
ハリエッタはバーベナの母が嫁ぐ時に連れてきた侍女だった。
「ああ、ありがとう、ハリエッタ。お母様のドレス着てみたいわ」
嬉しそうなバーベナの顔に、ハリエッタは涙ぐみそうになるのを抑えて部屋を出て行った。
アネモネは辺境伯家の娘だった。
隣国との境を守る武門の娘であったが、バーベナの父であるルイスナム公爵が一目で恋に落ちたという可憐な姫君だった。そのアネモネの侍女であるハリエッタは、その娘のバーベナにも同じように美しい姫に育って欲しいと願っていた。
だが、彼女の期待は尽く打ち砕かれた。アネモネの存命中はそれほどでもなかったが、母を失って悲しむ娘を公爵はただただ猫可愛がりに可愛がって育ててきた。何を言っても叱られることも諌められることもなく、誰にでも傲慢な態度を取るようになったバーベナにハリエッタは悲しみを覚えていた。
だが、今日の、今だけのことかもしれなかったが、バーベナが自分の意見を聞き入れてくれた。それだけでハリエッタは今までの奉公が報われたように思った。
急ぎ足でアネモネの居室だった部屋に行ったハリエッタは、衣装部屋の中の小さなクローゼットを開いた。
そこには華やかな色合いの少女らしいドレスが並んでいた。
その中から彼女は淡い若草色のドレスを手にした。
最近の流行のものではない。レースの立ち襟、胸元の切り替えの細かいピンタックも、バーベナが常に追い求める最新のデザインではなかった。だが、ハリエッタはこれがバーベナの薄い紫色の髪や、夜空のように濃い藍色の瞳に似合うと思った。それにヒールの低いレースアップの白いブーツと、手編みのレースに真珠をちりばめたカチューシャを合わせて、彼女は大急ぎでバーベナの部屋に戻った。
「……素敵。お母様のドレス、可愛いわ」
痛みにピンヒールを脱いでいたバーベナは嬉しそうにハリエッタに歩み寄った。
「メイドを下がらせてしまいましたので、私がお支度を致しますね」
ハリエッタの言葉にバーベナは大きく目を見開いた。
彼女は母の代からの侍女だった。身支度を手伝わせるような相手ではない。
「ありがとう、ハリエッタ。……わがままを聞いてくれて嬉しい」
恥じらったように言うバーベナに、ハリエッタは胸が熱くなった。
今まで傲慢で我儘で、誰にも感謝など示したことのないバーベナの変わりようは不思議だったが、ハリエッタはアネモネが戻って来たような幸福を覚えていた。
ドレスを着付け髪を整え終わると、ハリエッタは涙ぐんでしまった。
「お嬢様、お綺麗です。……まるで奥様がいらっしゃるようです」
言ってからハリエッタは慌てて口をつぐんだ。バーベナはひどく勝気で負けず嫌いのところがある。たとえ母であろうと誰かと比べられて嬉しいはずはなかった。
だが、バーベナは鏡の中をうっとりと見て頷いただけだった。
『きれいね……。バーベナは顔だけはきれいだった』
自分のことながら、やはりバーベナの意識は他の誰かのように客観的な感想を覚えていた。
『こんな天使みたいな顔で意地悪だから、余計に嫌なキャラだって思ったんだ』
次第にバーベナではない意識ははっきりとして、思考もしっかりとしてきた。
「参りましょう」
ハリエッタに促されて、バーベナは立ち上がった。少しつま先は痛みを覚えたが歩くのに支障はないようだった。
先ほどバーベナが立ち尽くした階段の上で、彼女の小さな足は止まった。あの瞬間、自分が何をしようとしていたのかを思い出したのだ。階段の上で高らかに名を告げ、自分の誕生パーティを楽しむようにと言おうとしていたのだ。今までのように家族や親族、公爵家におもねるような者しかいなかったパーティと、今回のパーティでは全く招待客が違うのだ。王家に近しい者、同じ公爵家、地位以上に重要な国策に取り組む貴族の子女もいるのだ。
「……お嬢様」
「お父様を……お呼びして」
バーベナは一人で階段を降りることにも気後れしてしまっていた。
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
子供らしいその顔に、ハリエッタは笑顔を見せた。
『……勉強もお作法も嫌っていたバーベナはただ美しい人形のようだって言われてた』
自分の今の選択が正しいのかわからなかったが、ハリエッタの様子を見るとあながち間違いではないと思えた。
「バーベナ、どうしたんだい?」
「お父様」
バーベナは小さな手を父に向かって差し出した。
「おお。これはアネモネのドレスだね?今日のために作ったドレスはどうしたんだ」
父に問われてバーベナはなんと言って良いのかわからなかった。急に自分の頭の中に誰か違う人が入って、今までの行いが恥ずかしくて仕方がない。そんなことは言えなかった。
「閣下、失礼いたします」
ハリエッタがバーベナの様子に、差し出がましいとは思いながら口を挟んだ。
「お嬢様の今日の靴に不具合がございまして、御御足を少し痛めてしまわれたのです」
「そうなのか?靴職人を解雇しなければならんな。私の娘の足を傷つけるとは許されることではない」
バーベナは慌てて首を振った。
「違うの、お父様。……私にはあの靴はまだ早かったのです」
「バーベナ……、なんて優しい子なんだ。お前が靴職人をかばう必要などないのだぞ」
恥を忍んで言ったバーベナの言葉にも、父は誤解をするだけだった。
「お母様のドレスは私に似合いませんか?」
バーベナは問題のすり替えをすることにした。
「そんなことあるものか。素晴らしいよ。私が初めてアネモネにあった頃を思い出した」
婚約の打診のために行われた辺境伯家の誕生パーティでルイスナム小公爵は、人生最大の恋に落ちた。
「花のように儚げで、妖精のように愛らしく、鈴の音のような声で私の名を呼んでくれた彼女に、私は一目で恋に落ちてしまったよ」
懐かしむように自分を見る父の手を、バーベナは強く握った。
「これからはお母様のドレスをもっと着てみたいです。よろしいですか、お父様」
最後に小首を傾げたのは、わざとだった。
「もちろんだよ、バーベナ。私のお姫様。お前の望みはなんでも私が叶えてあげるからね」
上機嫌になった父に手を引かれて、バーベナは階段を降りた。