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ウィークエンドシトロン  作者: 飛由ユウヒ
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拝啓、名も無き仕事たちよ

 わたしの職場は最高だ。抱かれたくもない男に飲まされたウォッカくらいに。

 シュレッダーに吸い込まれていく雑紙を眺めながら、北春(きたはる)はそんなことを考えていた。

頼まれた紙は段ボール一箱分に上る。指先の感覚で八枚ほどめくり、そこからさらに二枚を加え、挿入口へと押し込む。するとモーターの駆動音はわかりやすく元気を失くし、半ばで力尽きた。北春はため息をつく。

上司はこの業務を何分で終わる計算でいたのだろうか。そもそもこの仕事は業務時間には含まれているのだろうか。あるいは、嫌がらせでしかないのか。

「北春、これも頼んだ」

 積まれた紙の上に束が落ちる。紙の山はバランスを崩し、床に広がっていく。その一部始終を、他人事のように眺めることしかできなかった。胃を締め付ける痛みに、なるべく無関心でいるように努める。が、叶わなかった。北春は眉を寄せる。

「あの、自分でやってもらえませんか。もう一台ありますよね。シュレッダー」

「なんだよ。ついでにやってくれたっていいだろ」

 上司は、まるで思春期の娘でもいさめるように答えた。

「そうなんですけど、わたしも自分の仕事があるんで」

「あのなぁ、お前だけじゃない、みんな忙しいんだよ。大体、いつも掃除ばかりやってるじゃねぇか。お前みたいに暇じゃないの」

 そう言い残した上司は、見晴らしのいい窓際のデスクへと戻った。その後ろめたさもない背中に腹が立ち、あからさまなため息を投げつける。そこには虚しさしか残らない。北春は散らばった書類を拾う。昼休憩を告げるチャイムが意地悪に鳴り響いた。


「ほんとムカつく。あの、クソ上司」

 北春は愚痴を吐き捨てると、煙草の先を赤く灯した。唯一の同期である茶坂(ちゃさか)が、今日も荒れてんなぁ、と笑う。

 帰りのバスを待っていた。都心に繋がる大通りは渋滞しやすい。定刻通りに来なくても、今さら誰も咎めたりはしない。

鮮やかに並ぶテールランプに目を細める。ひとつ先の信号機を眺めながら、北春は午前中の出来事を話した。

下手に共感をするでも、かといって持論を挟むのでもなく、茶坂はただしっとりと相槌を打っていた。そして、区切りがついたタイミングで、嫌な上司だな、とこれまた毒にも薬にもならない反応を示す。彼は自分が聞き役であることを、かなりわかっている。

「掃除ばかりやってるんじゃない。掃除もろくにしてないから、わたしが代わりにやってあげてるの。大体、仕事の効率を上げるための掃除でしょ。自分が世話をされていることに気づかないなんて、ほんと哀れ」

「自分のことくらい、自分でやれよな」

「いっそのこと、一ヶ月くらい有給取っちゃおうかな。そしたらありがたみに気づいてくれるかもしれない。――いや、たぶん、わたしなんかが一ヶ月休みを取ったことと、不在中に職場が汚れたことを、復帰後まで根に持つかも」

「それは気の毒だ」

 携帯灰皿に灰を落とす。なにが楽しくてこの仕事を続けているのだろう。自虐的に微笑みながら、なにやらくぐもった音が聞こえてくることに気づく。目の前のセダンからオーディオの音が漏れていた。運転する男性は、口を軽快に動かしている。

「まだ入社二年目の下っ端だからしょうがないのかもしれないけど、わたしが上司だったら、身の回りのことくらい自分でやるように教えるわ」

「北春は良い上司になる」

「ありがとう。出世するまで続けてたらの話だけど」

 腕時計の針に目を落とす。車の行列の先に、大きな四角い箱は見当たらない。

茶坂もそのことに気づいたのか、「最近あったことなんだけどさ」と、時間を埋めていく。

「こずえにすっげー怒られたんだ」

 へぇ、と北春は気の抜けた返事をする。

「トイレットペーパーの芯だけ残ってる。なくなったらすぐに補充してって」

「それはあんたが悪いよ」

 ふたりがケンカをしている姿を想像して笑みをこぼす。

同棲を始めたばかりという茶坂の毎日はハプニングの連続だ。北春は事あるごとに、茶坂のぼやきを聞かされていた。それでも彼の口から悪意は感じたことはなかった。怒られたと言いつつも、愛おしく思っているのがわかる。

「北春は『名も無き家事』って知ってる?」

「ちょっと前に流行ってたね。裏返ったシャツを元に戻すとか、夕飯の献立を考えるとか」

 その情報を北春は昼のニュース番組で知った。とある企業が提唱したものらしく、男女による家事に関する認識のズレが当時話題となっていた。

 怒られたのはトイレットペーパーの件だけじゃないのだろう。北春は密かに思う。詳しく聞いてみたい気持ちにとらわれながらも、それで? と続きを促す。

茶坂は頭を掻いた。

「そういうの、仕事にもあると思うんだよね。名も無き仕事って言うの?」

「名も無き仕事かぁ。確かにあるかもね」

北春は噛み締めるように言った。そして、上司の雑紙を処分することも? と心の中でつぶやく。あえて言葉にしなかったのは、待っていたものが現れたからだった。もう一度、時計に視線を落とす。すでに五分は超えていた。北春は煙草を携帯灰皿に慌てて押し込む。

「想像してみろよ」

 言いながら、茶坂は手を膝に置き、ゆっくりと腰を浮かせる。ふと、口角がいやらしく吊り上がっているのが見えた。彼の言葉を待つ。

「北春の上司はさ、たぶん奥さんに怒られてるぜ」

 北春は声を出して笑った。その想像はあまりに容易にできてしまった。思わず、かわいそう、と同情する。

「そう、かわいそうなんだよ。北春の上司は」

 バスが停まる。空気が抜けるような音と共に扉が開き、ぞろぞろと人が出てくる。北春はステップに足を乗せた。後ろを振り返る。おつかれ、と茶坂は手を挙げた。

「おつかれ」

 そう言い残し、空いている席を見つけて腰を下ろした。窓越しに茶坂の姿を探すと、彼はすでに反対方向へと歩き始めていた。なにも語らない背中に対して、あんたは愚痴ないの? と問いかける。

 バスの中で北春はかわいそうな上司について考えた。できる限り、多く。

料理が出来上がるまでソファーで体を休める上司。ワイシャツと靴下を洗濯機に入れたにも関わらず、洗濯機を回さない上司。箸や茶碗の用意をしない上司。食べ終えた食器をテーブルに残したままの上司。浴室の排水溝のぬめりに気づかず、浴槽にお湯を溜めて満足する上司。明日着るワイシャツにアイロンをかけない上司。明日も仕事だからと言って早々に寝る上司。上司、上司、上司――。

その妄想のひとつひとつが、北原の心を軽くしていく。


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