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おのころ島の物語 イセと銅鐸(どうたく)

作者: 黒 昭

【おのころ人】


紀元前450年ころの話である。


日本には縄文人が住んでいた。


アヅミ人やイヅモ人、それに少数の大陸由来の人もいたが、日本に住んでいるのはほとんどがのちに縄文人と呼ばれる人である。




そこに今では弥生人と呼ばれる農耕民、オノコロ人が移住してくる。




オノコロ人は、かつてはベトナム付近に住んでいたらしい。潜水して魚をとったり、稲作を行ったりしていた。


他の民族に追われて北上し中国南部に住み着いたがここも追われて紀元前450年ころは今の上海に居を構えていた。


当時の上海は余山を中心とした三角州であり大陸とは地続きではない。


オノコロ人はこの三角州で稲作をし、沖合にある舟山諸島で潜水業を営んでいた。総勢四千人程度の少数民族である。




南の越えつと北の楚そに挟まれたオノコロは両方に貢物をしたり、役務についたりしていたが、両属するような民族はいずれ滅ぼされる運命にある。


それを避けるためにオノコロ人の指導一家であるオーオの若者、若オーオは新たなオノコロ人の逃亡先として日本を選んだ。




楚から九州までは一日でたどり着く。


若オーオはその近さを恐れて、オノコロ人の居住先を九州と近畿のアスカに分けた。


アスカに至るには瀬戸内海を行くしかない。瀬戸内は難所で九州からアスカまではゆうに一月を要するので楚が九州に上陸してもすぐにはアスカに至れないのである。




オーオ家は九州とアスカに分かれた。


数年にわたってオノコロ人のほぼ全員を日本に移住させた。




イセはこの移住団の第一期に、若オーオとともにアスカに着いた。




【イセの生い立ち】




イセはオノコロ島沖合の舟島諸島で生まれた。


両親は潜水業を営んでいたが、イセが七歳の時に大嵐にあって亡くなった。


親戚はたくさんいたが、親しい身内がいなかった。




両親を亡くしたイセはオノコロ島本島の巫女みこの社やしろに連れてこられ、巫女となった。




社の東側の海近くにのちに鳥居と呼ばれるようになった木枠がある。


柱が二本建てられてその上端を丸太でつないでいる。


上端の丸太の少し下にも二本の柱を結ぶ梁はりがある。形状としては今の鳥居と同じである。ただし色は塗られていない。




巫女の仕事は多岐にわたる。




日の出前に起きて体を清めたあと太陽の観測を行う。鳥居の西にある固定された椅子に座って太陽の上った方向を観測する。


鳥居の二本の柱の間から水平線を眺めているとやがて太陽が昇ってくる。


太陽は季節によって上ってくる位置が異なるが、二本の柱の間からはみ出ることはない。




太陽の上る位置を木簡に記録した後は、別の椅子に座る。


今度の椅子はちょっと高く作られていて座って海を眺める。


鳥居の上桟さんと下桟の間の海を見て、うねりの数を数える。


またうねりの大きさを観測する。


うねりの大きさや方向で台風が接近しているのがわかるのである。


これも木簡に記録する。




また、天を仰いで雲を観測する。雲はおおむね西から東に流れているが雲の種類や移動の速さを記録する。




そうした天候に関する観測記録を行う。




社は様々な事柄の記録所でもある。


コメの取れ高、魚の水揚げ量、オノコロの人口、季節ごとの災害などをわかる範囲で木簡に記録する。


記録するためには文字が必要であり、したがって巫女は文字を書けた。


また、産品の量を計算するための算木の技術取得も必須であった。




社は薬局でもあった。


様々な薬草を保管しており、栽培もしていた。時に薬草採取にも赴いた。




木簡への記録は紙と違って詳細に書き込めない。


それで細かなことは口伝となる。


老巫女は折に触れて若い巫女に話を伝える。


オノコロがずっと南にあったころの話や、最近の台風の被害や、そういった雑多な話を伝えるのも重要な仕事であった。




巫女はおおむね社で寝起きしていたが、強制であったわけではない。


家から通う巫女もいたし、農繁期には実家に帰る巫女もいた。


独身者もいれば既婚者もいるし、子連れの巫女もいた。




だいたい十人程度の巫女が様々な事務仕事を分担して行っていた。




イセは七歳から社に住み込んで巫女の仕事をしていた。


嵐で両親を亡くしたイセは波の観測には思い入れもある。


十五歳くらいの時には気象観測はイセが一番優れているといわれるほどであった。




【若オーオとの結婚】




若オーオはオーオ家というオノコロの指導的立場の家に生まれた。


オーオ家がベトナムあたりいたオノコロ人を移住に次ぐ移住によって上海まで移動させた。


そして今度は日本へ移住する。




紀元前450年、若オーオが二十五歳のときに共を二人連れて日本を調査した。


そして翌年からオノコロ人を何次にもわけて日本に移住させた。




まず一次として二百人を移住させた。


オノコロ人はみな日本への移住を望んだが、一次移住者は二百人の移住にとどめた。


この一次移住者には独身者はいない。


日本の先住民であるツクシ人やアスカ人とのいさかいを嫌った若オーオは、オノコロの独身者を選から外したのである。




当時、若オーオは独身者であった。かつて結婚もしていた。


が、嫁は出産時に命を落とし、子も育たなかった。




独身者は一次移住から外す、という規則を作った以上、若オーオも日本に行けない。それで当時十六歳であったイセと急遽結婚した。




イセは賢く、直であり、おとなしい。


若干、慎重すぎる若オーオはイセとならばうまくやっていけそうに思えたし、また、イセが巫女として優秀であることも指導的立場の若オーオには都合がよかった。




一次として二百人を引き連れて日本に渡ったが、二百人の内およそ百五十人は九州に住まわせた。九州への移住民は若オーオの兄である兄オーオが取りまとめる。




若オーオは、九州は楚からあまりにも近い、たった一日で楚から来ることができることを恐れ、五十人をひきつれてアスカに移動した。




アスカは奈良盆地にある。当時の奈良盆地には古奈良湖とよばれる湖があった。


この古奈良湖のほとりに田を作り稲作を始めたのは稲作にはちょっと遅めの五月くらいであった。




オノコロ人の移住にあって、もともとこの地にいた縄文人であるアスカ人とはさほどの問題は発生しなかった。


アスカ人は湿地には用が無かった。彼らは山の民である。


オノコロ人は逆に山にさほど用はなかった。木が必要であったりしたがアスカ人を怒らせるほどの伐採もしない。




若オーオはオノコロ人の乳児とアスカ人との乳児の間に許嫁いいなずけの約束を交わしたりして民族間の対立が起こらないようにしていた。


また、許嫁ではなくても義理の親子の縁組を推奨した。


アスカ人の子供の死亡率は高い。オノコロ人はアスカ人の子供を引き取って自分の子供として育てた。




こうしたアスカ人の子は、気ままにアスカ人の実親の元で生活し、またオノコロ人の親元でも生活する。




アスカに来てまもなくイセはアスカ人から台風のくる季節は主に夏であることを聞いた。




アスカの地は海から遠い。


波を見て台風を予測するにはアスカは不便であった。


それでイセは山を東に越えて今の伊勢市あたりに社を建てて夏の間だけ台風観測をした。


台風は東からやってくる、というオノコロ島での思い込みがあった。


イセは波を見て台風予測をしたがいつも外れていた。


台風は南からもきたし、西からも来た。




「わたしの大風おおかぜのみこみはちっとも当たらないね。」


と寂しく若オーオに告げた。


若オーオは「ここは初めての土地だしね。そのうちに大風の道もわかるようになるだろう」と慰めたが、台風の進路予想が当たるようになるにはそれから二千年以上の月日が必要であった。




【銅鐸どうたく】




イセはアスカに農業試験場を開いていた。


オノコロ人にとって初めての土地でありどのような作物が育ちやすいのかも分からなかった。




指導者である若オーオがイセに頼んで試験場を開かせた。


オノコロから持ってきたたくさんの種類の稲を植えた。


野菜も植えた。


自分自身の子の二人のほかにアスカ人の子供三人を養子として育てていた。そのアスカの子供の実親から手に入れた豆類やイモ、薬草なども試験場に植えた。


たまに手に入る中国大陸の作物なども栽培した。




それらの育ち方などを木簡に記録していく。


良いと思った作物はアスカだけでなく遠く九州にも送った。




試験場はイセの住居近くにある。山も近い。




いつもイノシシやシカが来て試験場を荒らしていくので、鳴子を置いてあった。


鳴子とは30センチ四方程度の板に、短く切った板や竹を何本かぶら下げているものである。


これを、試験場を取り囲む縄に適当な間隔をおいてぶら下げる。


夜などにイノシシがこの縄をくぐろうとして鳴子が揺れてカランカランと音がする。


その音を聞いたイセの犬たちがワンワンと吠えてイノシシが来たことを知らせてくれるのである。




犬は今の柴犬くらいの小型犬である。


縄文人にとって犬は友達でもあり家族でもあった。


イセもアスカ人からもらった犬を八匹ほど飼っていた。


この犬たちが試験場からイノシシやシカを追い払ってくれた。




若オーオはアスカと九州をいつも行ったり来たりしている。


あるとき若オーオが九州で手に入れた銅鏡を持ってきた。


イセへのお土産である。


銅鏡は錆びると青くなるが手入れをきちんとすれば真新しい十円硬貨のようにきらびやかである。




イセは物を欲しがる性格ではないので、銅鏡にもあまり関心を示さなかった。


が、ときおり鏡を出して手入れをしていた。




あるときイセはこのキラキラするのを試験田にたくさんぶら下げればスズメが寄ってこないのではないかと思った。


それで、若オーオに薄い銅板の短冊を手に入れるよう頼んだ。




イセは銅の短冊をスズメ除けとして田においてみた。期待するほどの成果は得られなかった。


最初こそスズメは警戒して稲穂をついばみに来なかったがなれると銅板のキラキラも気にせずに田にやってきた。




イセはそれでもこの短冊を気に入って改良した。




銅板を二枚を漆でくっつけて風鈴をつぶしたような格好にした。


上には輪を付け、つぶれた風鈴の中には石をぶら下げその石の下に竹の薄い板を取り付けた。


風が吹くとからからと音がする。


また風鈴自体が風に揺れてきらきらと光る。


高さ十センチほどの銅鐸どうたくである。




イセはこれを試験場のあちらこちらに竹竿をたてて吊るした。


また鳴子の代わりに、試験場を囲っている縄にもぶら下げた。




スズメはそれでもやってきた。


イノシシもシカもやってきた。


銅鐸は実用性よりもむしろ試験場を荒らさないでというイセの祈りを表しているようであった。




オノコロの村人は銅鐸をみてイセの思いを感じ取っていた。


縄文人であるアスカ人にとってもそれは同じであった。


アスカ人はイセの思いを銅鐸どうたくにシカやカマキリの絵を彫ることで表した。




若オーオは銅鐸製作を九州に行った折に銅製品を取り扱うアヅミ族に銅鐸の製造を頼んだ。




【アスカ人】




アスカ人にとってオノコロ人の移住はそれほど迷惑であったわけではない。


アスカ人は山に行って木の実をとり、イモを掘り、小動物やまれにイノシシやシカといった大型の動物をとる生活をしていた。


古奈良湖周辺の湿地帯はシカ狩りや水鳥狩りの場所であったがアスカ人が特に好む場所ではなかった。




オノコロ人と共存を始めたときに若オーオの勧めもあって子供を養子としてオノコロ人に預けたりしたし、幼い子の縁組もした。


オノコロの食事の方が、栄養価がたかく、また、中国由来の薬もあったので子供たちの生存率はオノコロとかかわった方が格段に高かった。




だけどもアスカ人は農耕にはなじまない。今まで通りに山に食料を求めた。


アスカ人はコメも食べなくはないが好まなかった。


オノコロ人の干し魚も好まなかった。


元来、人は衣食住に保守的である。


アスカ人は農耕を行わないかわりに自由な時間をたっぷりと楽しんでいた。


彼らの作る土器は実用性もあるけれどもそれ以上にオノコロ人から見ると無駄に凝って作られていた。


土器の周りは縄目の模様があり、土器の上の縁はいろいろな形で飾られていた。


アスカ人の服は彩色され家もいろいろな色で塗られていた。


鳥の羽で頭を飾り、遠くから手に入れたちいさな石や貝で首飾りを作るのが好きであった。




アスカ人は暇人らしく山に登ったり遠くまで旅行したりしていた。




イセはアスカ人にも優しかった。


それで、イセが伊勢にある社に行くときはアスカ人もついていく。


何をするでもなく、ただ犬たちを共にしてついていくのである。




アスカ人は伊勢の社近くにある鳥居をイセの許しをもらって朱に塗った。


それまでは無垢の木材であった鳥居が非常に目立つランドマークとなった。




アスカ人はまたイセの許しをもらって銅鐸に絵を彫ったのである。




【社やしろの鳥居】




オノコロ人の集落には必ずと言っていいほど社がある。


社には巫女がいて集落の出来事を記録した。


社横には食糧庫があってそこに食料を備蓄した。食料の管理は巫女の仕事で、飢饉時の分配案作成もまた巫女の仕事である。




大きな集落にはイセの作ったような農業試験場もあった。




たくさんの銅鐸を手に入れたイセは、周辺の試験場の巫女に銅鐸を配った。


そのようにして近畿一円に銅鐸は広がっていった。




イセは四十歳を過ぎたころから体調が思わしくなかった。


この時代の寿命はおよそ三十歳程度であった。




アスカ人は大好きなイセのために社の西に赤く塗られた鳥居を作った。


社からだと鳥居の先に湖が見える。


海に行けないイセに海に見立てた湖で少しでも元気になるようにとの思いがあった。




イセにとって、鳥居は波などの気象観測機器であってそれ以上のものではなかった。


しかし、イセを励まそうとするアスカ人の気持ちはうれしかった。




数年後、イセは息を引き取った。




近畿一円に銅鐸は広まった。しかし時代とともに試験場の重要性も薄まっていき同時に銅鐸も実用性をなくしていった。




鳥居はあちこちの社にも建てられて道行く人の道しるべとなった。遠い昔の話である。



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