ベースの僕とギターの君と
空が青い。
やや薄暗い準備室の中は、僅かに入ってくる陽光に照らし出されて塵が淡く光る。非規則に動くそれが鼻に近づく度に鼻水が重力に従い流れる。埃で白く染った棚の1番の下の列に懐かしいそれは放置されている。光がそこにしか当たらなかったせいか、ある1部分だけが脱色したそれを方に背負うと重くも軽くもないそれの重さを背負うことは出来なかった。
鼓膜が大きく揺れた。大きくしならせた腕が自らの意志と関係なく動く。何度も何度も手が覚えると形容されるまでに弾いたフレーズは日常のワンシーンとして違和感なく溶け込む。自然と体が揺れ動く。心が、体が待っていたかのように、音楽と調和する。そんな感覚が確かに、あの日から続いていたのだと確信した。
その日、空は晴れなかった。空は、おおよそ雨が降るだろうと誰でも理解できるほどの、曇天で、現実か妄想か分からない水滴が絶えず頭に落ちてくる。傘の柄を指先でクルクルと回しながら
揺れる電線から一粒の雨がたしかに降ってきた。
「雨は降らないって言ってたのにな。」
誰に聞かれるでもなく、独り言を呟く。昨日疲れた顔で原稿を、読み上げていた気象予報士の顔が頭から離れない。大通りを歩くうちにいつの間にかこれから同級生となる人々は増えていた。
ふと一人の顔が見えた。これからの未来への不安と期待が入り混じった顔が見える。どう反応すれば良いのか、僕の脳は教えてくれない。
ようやく視界に建物が映る。錆び付いた鉄製の校門が目の前で静かに開いた。目の前に落ちた雨粒が、飛び散って顔に当たった。鉄の匂いが鼻に伝わってくる。校門と傘が擦れて嫌な音がした。
「よって諸君がこれからの日本を背負う人間になることを願うばかりである。」
まばらでやる気があるとも思えない気の抜けた拍手が響き渡る。定型文ともいえる校長の挨拶を、笑顔で聴く能力はもはや僕らにはない。入学式という他人行儀でしかない無意味な儀式が始まってから早くも40分。貧血気味の僕にとっては、苦行でしかないのだが、それよりも「輝く高校ライフ」とやらを望んでいる周りの方が、退屈しているようで。それを見る僕の喜びも並大抵のものではなく、それとこれとで全ては相殺されているのかもしれない。ふと下を向いていた視線を斜め前にやると、こちらの方を向いた視線がひとつ。目があった。髪はやや茶色がかっていて真っ直ぐ長い。顔は平均よりもやや上であろうか?いや。それは僕が判断する分野ではないと思い直す。僕が認識すべきは、明らかにどう見ても異性と思わしき人物が僕のことを見ている。ただそれだけだ。視線があったことを、僕より少し遅れて気づいた彼女は現実に帰され、視線を泳がせながら確かにこちらを見て笑いかけた。心臓が鼓動を早める。目の前の景色が回りだし、視線が泳いでいるのだとようやく分かる。こういう時は、笑い返すのが定石なはずだが、顔が固まって動かない。背中と首に妙に強く無駄な力が入る。呼吸の音が鼓動と混ざる。ようやく我に返るとできるだけ小さく笑い返す。笑えていたのかさえ分からない。彼女は、僕と視線を合わせて何かを呟いた。何故か、
「また後でね」だと分かった。何故だろう?クラス発表は入学式の後。同じクラスになるかさえ、
まだ分からないというのに。不思議な人だ。と僕は思った。それよりこの無益な式典は早く終わらないものか。
以前訪れた時と同じようなコンクリートの校舎は、妙に肌寒く時々背中に悪寒が走る。先程あったクラス発表のあと向かうべき部屋は、フロアの反対側、階段から一番遠い教室であった。一年生の教室は校舎の最上階にあるので、必然的に僕の教室が一番辺鄙な所にあるわけで。文句を言っても仕方が無いのだがもう一つ階段を作るなり出来ただろう?と言いたくなる。愚痴を脳内で吐いては消し、吐いては消しを繰り返しながら僕は、目的地が目の前だと悟った。昔ながらの横移動式のドアの真上には、角の丸まった如何にも年季が入っている出っ張りに真新しいシールが貼られていた。木製の扉を重々しく開けると、忌々しい熱気と騒がしい喧騒が僕を出迎えてくれた。さも愉快そうに話す存在が一人、二人、三人……無言で机に突っ伏す存在が、一人、二人、三人、四人。見るのが何度目かも数えたくない社会の縮図を横目に部屋の黒板の前へと歩く。ふと一人と目線が合う。如何にも陽気なキャラクターを演出している雰囲気と、瞳。これまた何度目かも分からない僅かな哀れみの視線を冷淡な視線で返す。
「何こっち見てんのよ?」
「知らね?。そんなこと言われたってあんたにはかんけいないだろ?」
できるだけ素っ気なく返す。こういう場面で興味を持つような態度をとってはいけない。いつか、後悔する日が来るだろうとだけ言っておく。人間関係を余計に広げることは無駄な時間を浪費することでしかない。無意味と言う言葉より無意味だ。
「ふーん。そうですか。」
大人しく引き下がってくれたことに少々驚いたが
そういうものだと思えば、なんでもない。今にもそこが抜けそうな教壇の上を歩き自分の席の位置を確認する。中央からやや左に離れた奥の席。一人静かに過ごすにはもってこいの席。人が群がりやすい。つまり、陽気なキャラクターを装う者が多いのが、右斜め前。その逆に行くほど人が群がりにくいとすれば、必然と一番静かなのは左後ろに決まっている。騒がしい人の群れをできるだけ無表情で通り抜けると、独り身の楽園までたどり着いた。ここで一年間僕の自由は保たれた。そう思っていた。やや骨組みが錆び付いた机に突っ伏すと、教科書を入れるための軽いバッグから文庫本を二冊取りだした。数え切れぬほど読んだ文章に今更なんの感動も得られないが、暇つぶし程度には機能する。ありがたい。一通り気に入っている場面を読み終えた頃。
「暇つぶしはどう?」
「最高だね」
問いかけられたその質問に僕は反射的に答えてしまった。誰かから声をかけられ答えてしまったことは、その人にとって「自分に興味を少しは抱いている。」と解釈される。と言って今から素っ気ない態度を取れない 。
待てよ。ふと僕は気づいた。この低めの淡々とした声。急いで後ろを振り向く。茶色がかった真っ直ぐな髪。さっき見たばかりの笑顔。
どうしてだ?どうしていつもこうなる?
「よろしくね」
軽いノリで呼びかけてきた彼女に、逆らう知恵を僕は持っていなかった。残念。
無念。また来年。とならないのが、本当に虚しい。心の中になんとか平安を取り戻そうと、深呼吸を繰り返すも、ただただそれは息を吸って吐く動作を超えず、それ以下でもそれ以上でもなかった。僕の心がタイタニック号が沈むとき以上に揺れているのに、その張本人はどこ吹く風。新しい家を不思議がる幼女のような顔をして、僕を見つめている。きっと彼女の頭には10秒以上前の記憶を自動的に削除する出来の悪いRAMしか装備されていないのだろう。諦めろ。僕。
「何さっきからもがいてるの?」
「全ての元凶が僕の目の前にあるって。全世界の誰でも分かるはずだ。」
少々の怒りを加えながら声を振り絞って言った。
「残念だね。その定理は私っていう反例がある時点で偽だよ。よってかく証明終わり。QED!」
やけにハイテンション。ついていけない……
あれ?僕の言葉まで砕けていないか?いるよな?
いるよな!?つまりは、15年かけて築き上げて来た僕の言語体系が?一人の少女によって壊されようとしていると?そしてもう少女の術中にはまってしまっていると。最悪だ。もがくほど嵌まっていく泥沼に嵌まって自分を脳内で加工処理して上映しても全く笑えない。笑い飛ばすことさえ出来ない。夢だよな?夢なんだよな?だからこんなに
僕が壊れてるんだよ。そろそろ起きて僕を待つ静かの入江に帰らなければ。
「一人自問自答しても無駄だって分かってるでしょ?貴方は逃げられないし逃げることを出来ないの。往生際が悪いねぇ。」
大凡小悪魔風な喋り方を装っているが、言い切れないほど穴がそこにあるのは明らかで。それを指摘すれば帰れると分かっていたはずなのに。
何故か。僕の口は動かなかった。口が動くことを拒否したのではなく。脳が。理性が動かせることを拒否した。偶然か。はたまた必然か。
沈黙は金。雄弁は銀。というが、言わないのも如何な物か。その事実がこれ程までに面倒なものだとは。僕は何も知らなかった。運命とはそういうものか。僕は生まれて初めて今、そのように感じている。
「逃げられないんじゃなくて。逃げないんだよ。
全くそういう性分でね。」
「それなら都合が良いね。私にそんな口聴いた人は見たことないのよ。蛮勇なのか、器が広いのか知らないし、興味もないけど。私と話したからにはどうなっても知らないから。覚悟しときなさいよ!」
お決まりの言葉で締めて来た彼女に。
何故か胸がざわめいた。
高校生活始まっての放課後。初めてだからと言って、特別なものな訳では勿論なく。意味を持たないものに無理やり納得できない「特別」を持たせるから物事の本質が見えなくなるのだと、訳のわからないことを虚に考えつつ、時間は等しく流れる。頭の中を繰り返し繰り返し先程のホームルームとやらで教師が言った一言がよぎる。
「皆さんは、高校生になり大学受験へと一歩ずつ近づいています。あと青春をエンジョイできるのもあと二年です。悔いのないように部活なり青春なりを楽しんでくださいね。というわけで部活への入部届けはあと10日です。早めに出して下さいね。お願いします」
背が女性にしては高い平均顔の教師ははっきりとした甲高い声でそう言った。
「部活選びか」
誰にも聞こえないように小さな声でそう呟いた。部活。それは確かに人生の青い春とやらを使用するための最良の手段なのかもしれない。しかし、人間関係を広げることが目的とされている部活は
人間関係を広げたくない僕にとっては、邪魔なものでしかない。まさに目の上のたんこぶである。中学に入った時も、部活動に必ず入らなければいけないという、忌々しい規律を耳にしたあと迷わず入部希望調査用紙に「帰宅部」と書いた。教員にふざけているのかと一蹴されても粘り強く主張し続け教員に呆れ顔で部員一人の「帰宅部」の存在を認められたが、今はそんな気力もない。権力に逆らうのは無駄で、権力にごまをすりつつ、上手くかわすのが定石だと知っている。要するにこの学校で半ば廃部状態であり活動日が一番少ない部活を選べば良いということだ。楽だろう。これを法の穴を掻い潜るという。まぁ冗談だが。妙案を思いついた僕の顔はきっと満足そうであったことだろう。まだ何も自分の持ち物が入っていない
机の中から、先ほど渡された部活紹介の冊子を取り出す。右上がステープラで止まっているそれを
机の上に投げる。教科書の四分の一ほどの大きさの冊子を開くと丁寧、雑構わず書かれた各部の紹介文は素っ飛ばし下の方の欄の活動予定日という欄にだけ見ながら冊子の終盤の方に書かれていた
週一で活動している幾つかの部活動を見つけた。
そのどれも手芸部、料理部、茶道部などの大凡男子には人気がなく女子しか部員がいないだろうと思われる部活動ばかりで、とてもコミュニケーション能力ゼロの僕が居られるような所ではない。
世の中そんなに上手くはできていないのだな。と当たり前のことを今更思い出しつつ、
「どうするかな」
と少し大きめの声でそう呟いた。
後ろの席の少女が不気味に笑っていたことに
気がつかずに。
僕がどれだけ悩もうとも明日は必ずやって来る。覚えておいたほうが良いだろう。いつか必ず頼りになる。間違えないだろう。昨日から今日にかけて時計と睨み合いながら時間を無駄に浪費したことは、言わずとも分かってもらえるだろうと思う。角が折れ曲がりくしゃくしゃになった入部希望調査用紙がやけに重い。部活紹介の冊子を端から端まで眺めたが、僕の希望にあう部活は一つたりともなかった。残念である。すでに通い慣れたと感じる通学路をすたすたと歩きながら、教師に話す言い訳の原稿を頭の中で組み立てる。
「提出が遅れてしまいすみませんでした」
「高校生活に直接影響を与える事柄なので、安易に選べず自分でも納得が行くまで時間がかかってしまいました」いいぞ。いい感じだ。流石クラスの反省文執筆代行係をやっていただけある。
中学生の頃。僕のいたクラスは他のクラスにも増して反省文を書く枚数が多かった。先輩方から代々出回っているシチュエーション別の反省文のパターンを使いきってしまい、途方に暮れていた。生徒というのは反省文を書くのが一番億劫なのだ。わかってもらえるだろうと思う。そこでクラスメートに頼まれ、僕が新しい反省文のパターンを作ることになっていた。大人というのはいがいに不真面目なもので、反省文の内容が顧みられる事は、ほとんどないのだ。そうだろう。
という訳で言い訳の仕方には、昔とったきねづかでは無いが自信がある。きっとこれで誤魔化せるだろう。
「以上が入部希望調査用紙が未提出になっている人です。早めに出してくださいね」もう慣れてしまった担任の声。しかし、今僕の名前が呼ばれる事はなかった。何故だ。左手にある入部希望調査用紙に手汗が染み込んでいくのが分かる。体が芯から冷めていく。きっと呼び忘れているのだろう。そうとしか考えられない。
そんな僕の淡い期待もすぐに打ち破られた。ホームルーム終了後。黒板に貼られていた紙には、誰がどの部活に入ったのかが書かれていた。プライバシーの観点からどうなのかとも思うが、とにかくその紙には僕の名前がはっきりと書かれていた。桜井という名字は意外に見つけやすい。そのため僕は心の準備もままならないまま現実という壁の前に突き出された。僕の名前の横には大きめの字で「軽音部」と書かれていた。
僕にはその意味が分からなかった。
「は。だから今なんて言った」
「だからわざわざ部活を決められない優柔不断な
あんたのために筆跡を真似てまで偽造書類を作ってあげたんだから感謝しなさい」
「ここで感謝したら僕が余程の宇宙人だと思われるだろ」
「え。宇宙人じゃないの」
「きっと君の思考回路を研究する学者は百人を下らないだろうね。どういう頭してんだか」
「ありがとう」彼女は少し恥ずかしそうだった。
「いや。褒めてなどいないわ」
「そんなに恥ずかしい」
「語尾を上げろ。疑問文だと分からん」
「言っている意味が分からないわ」
「君には難しすぎたようだね」
「そうね。それじゃよろしくね」
「了解。ってなんの話ししてたんだか」
「まだ何かあるの」
「危うく本題を忘れる所だった」
何が悲しくて僕が軽音部に入らなきゃいけないのだろう。僕にはさっぱり意味が分からない。
「だからなんで僕が軽音部に入らなきゃいけないんだよ。全く意味が分からないわ」
「現在軽音部の部員は五人なのそれで一つ上の先輩三人でバンド一つ。そして私とあと一人で二人。だけどベースとヴォーカル担当がいないの。
あんたベース弾けるでしょ。それで昨日から部活選びに苦心してるあんたのために軽音部に入れてあげたの。感謝しなさいよ」
「何度も言わせるな。僕は一言も軽音部に入りたいだなんて言ってないぞ。ここにも書いてあるだろう」僕はそう言って入部希望調査用紙の左上小さな欄を彼女に見せた。
「入部には本人の同意が必要な事は当たり前である。本人も他人の誘いに安易に乗らずよく考えてから入部するように。また不用意に他人を部活に誘わないように。は。何言ってんのか分からないし、私が知らないルールはルールじゃないのよ。
私がルールだと言わない限りルールにはならないのよ。こんな補足は無意味よ」この女には一般常識が通用しないようだ。
「てか。なんで僕がベースが弾けるって知っているんだよ。誰かの前でベースを弾いたことなどないぞ。お前。僕の私生活まで把握してるって。馬鹿か。ストーカーっていうんだぞ」彼女はどれだけ僕の人生を狂わせば気が済むのか。こんなはずじゃなかった。そう思わずにはいられない。もういいや。これもまた人生。どこかの動画で聞いた一言を脳内再生しつつ僕は言った。
「もういいや。とりあえず宜しくな。そういえば君の名前を聞いてなかったね。」彼女はにっこりと笑った。これから先頭から離れなそうだ。
結局僕が連れてこられたのは、増築を重ねて迷宮と化した旧校舎の最上階だった。この教室まで来る途中あまりに廊下を曲がる回数が多すぎて、よからぬ所へ連れて行かれて、よからぬ事をさせられるのではと思い込んで。いつ廊下の端から連続強盗殺人犯が出てきてもいいようにと、対応策をシュミレートしていた。所がどっこい。連れてこられたのは廃校になった高校の埃が被ったうす気味悪い教室ではなく、ごくありふれた音楽室だった。とくに怪しげな雰囲気を出すでもなく、ただそこにぽつんと立っているような具合。拍子抜けするには時と場合が釣り合わな過ぎるが、日常を平和に過ごしたい身分としては、「長い髪の少女に、自分の意味と関係なく廃部寸前の、しかも名前しか知らない軽音部に入れられるイベント」が降りかかっていること自体が不本意なのだが。僕の日常を返してくれ。切実な思いは届くはずもなく。ただ虚しく「脳内一人劇場」で密かに上映されただけだ。第二音楽教室と書かれたこちらは埃が多少被ったプレートを横目に入れつつ、錆びかけた鍵が刺さったままのドアを押し上げた。
「こんにちは」一人芝居になり得ることを覚悟しつつわざと低目の声で呟いた。どうせ先に入った彼女は僕の言葉になど答えないだろうし、廃部寸前と言うことは部員の先輩は余程やる気が無いだろうからきっと部室にいないだろうという推測を一瞬の間に済ませる。すると。
「君が彼女の言っていた新人くんかな」彼女よりはややハイトーンな声が耳に入る。目を上げると
なんと白い髪。しかもツインテール。丸顔なのが少し残念だが、それが気にならないほど独特なニュアンスがある。好き好みはあるだろうが、僕は嫌いではない。僕は答えた。
「はい。櫻井って言います。これからよろしくお願いします」
「しかもベースが弾けると言うことで。ベースは
いつも足りないからな。とてもありがたい」この軽音部は全てのパート、言ってしまえば部員が圧倒的に足りないだろう。というツッコミを初対面の先輩にする気には流石にならなかった。
「言ってしまえば自分の意志で入ったんじゃないですけどね」僕は彼女に気づかれないように先輩にアイコンタクトした。先輩の少し青がかった目が一瞬哀れみのような表情で満たされたような気がした。やっぱりね。と言いたかった。
「それで」彼女に聞こえるようにわざと大きな声で呟いた。
「ん。どうしたん」なんてことない顔で低い声が部屋中に響き渡る。
「あのヴォーカル担当の人は見つかったん」語尾をいつもよりも上げつつ言った。彼女は怪訝そうな目で僕の顔を眺めつつ「何を言っているの」とでも言うようなとぼけた顔をする。
「これからあんたと探すんじゃない」
僕にはそれが日本語ということが、分からなかった。
「は。どう言うことだよ。ヴォーカルは既にいるんじゃなかったのか。君はそう言ってたよね。ねぇ。嘘つくのは良くないぞ」僕は機関銃のように言葉をまくし立てながら言った。すると、彼女は何くう顔でぽつりとしかし、確かに言った。
「私は、ヴォーカルとベースを探してるとは、言ったけどヴォーカルが見つかったとは言ってないたと思うけど。お分かり」少し見下すような口調で言った。
「そうだっけ」まずい。思い出せない。これは一本とられたかもしれない。不覚。ヴォーカルが見つからない。それも彼女の強引な方法でだ。彼女はヴォーカルはバンドの顔であるから安易に決められないと思ったのかもしれない。意外に彼女は真面目なのかもしれない。しかし、僕も折角やる気になったばかりなのにこれでは空回りするばかりだ。そうなればやはり……
「手伝いよ。ヴォーカル探すの。誘われたからにはしっかりと仕事をこなさないと気持ち悪いし。
仕方なくだからな」くそ。もろに本心が出てしまっているではないか。頭の中をあらぬ思考が目まぐるしく回る。
「へぇ。意外にやる気があるみたいだね。まぁ当たり前か。こんな美少女に囲まれて青春を謳歌できるんだもんね。そりゃ嬉しいに決まっているか。そうだそうだ」勝手に疑問を抱いて勝手に自己完結。口を突っ込まなくて済むのでありがたいと言えばありがたいのだが。あらぬ思考を彼女が今度はしてるというのなら話は別だ。
「そういうことじゃないんだぞ。別にお前がいることしか知らなかったんだからな。そもそも今たまたまこの部屋にいるのが女子二人ってだけだろ。美少女に囲まれているって言いすぎだろ」刹那。頭の中に考えたくもない一つの可能性が浮かんだが即座にあり得ないと一蹴。部屋の向かい側にいる彼女は不気味な笑みを浮かべながらはっきりと言った。
「まぁこれからどうなるかな。分からないね君には。見てなって。君に不利なことはないだろうからさ」
「語尾だけ弱いのが気になるな。君に強引に軽音部に入れられた時点で僕に不利なことだろうが」
「恥ずかしがったって無駄だよ。君が心の中で思っていることを言ってあげようか」しばらく口を開いていなかった先輩が口を開く。馬鹿らしいとしか今の僕にはいえなかった。
「なんで僕が今言いたいか当てられたら僕の所持金全部あげますよ」
「お。気前がいいね。分かった。君が今言いたいことは……」先輩の言葉はそこで止まった。瞳が不安定に揺らぐ。その視線はぐるぐると部屋の中を徘徊し見ているこちらが目が回りそうである。「あれ。何かを考えたはずだったのに。不思議だな。思い出せないね」その口調は純真そのものでわざとらしい皮肉の意味合いが込められていない。全く何も分かってない人だな。と心底痛感させられる。そもそもこのゲームは正解不可能なものであり、それはもちろん数多もある言葉の中から常に不安定な対象者の思考を読み解くことは不可能であるから。かつ、もし対象者の思考を読み解けたとしても即座に「答え」を変更すれば良い訳で。このゲームは厳密にいうと「プレイヤー」自身がかもにあたり対象者がそれを嘲笑うという構図。どこかで見たような感じがするが、それは放っておこう。という思考に浸っていたのだが、もしかするとまだ先輩は考え込んでいるのかもしれないと思い意識を五感に振り直す。何度見ても胸がざわめくツインテールの白い髪は所持者の精神状態を言い当てるかのように乱れていた。
「考え込みすぎて髪が乱れてますよ」
「おっ。ありがとな。何かと髪が長いと管理が大変でね。君も彼女を持つなら短い髪の子をお勧めしよう。何かと大変だからな」
「余計なお世話ですよ。どうせ僕に彼女なんて一生できないでしょうからね」その刹那二人の顔が嘲笑を抑えるかのように若干歪んだような気がしたがこれも、放っておこう。櫻井の人生講座②、
余計な事は考えるな。ですかね。これ大事ですよ。何より今の自分に教えたい。
「それでヴォーカル担当どうやって集めるんですか。ビラ配り。ポスター掲示。いろいろ方法はありますけどどれにするんですか」
「君にもいつか分かるだろう。その日を楽しみにしてるといい。まぁ私たちが集めてしまうから君は心配しなくていいよ」
「そうですか。それじゃ好意に甘えて。僕はそろそろ帰りますね。これから少し軽い用事があるんで」いつの間にかそれは綺麗な茜色に染まり部屋に入ってきた光があちこちで乱反射して目が少し痛い。年季が入ったという具合の濃い色の壁の木材が今は落ち着いた色に見える。こうして一日で僕の心の平安は叩き壊された訳だが、こんな事は二度とあるまいと信じて静寂が支配する階段をゆっくりと降っていった。
翌日。授業が終わり速攻家に帰ろうとしていた僕は言わずもがな古ぼけた部室へと引きずられていた。
「なんだよ。いつか呼ぶから楽しみにしておけって昨日言われたような気がするんだが。何。いつかには翌日は明らかに含まれないと思うのだが」
「ごちゃごちゃうるさいやつね。私がいつあなたの常識でって言った。私の常識しかこの世界では通じないのよ。あなたが十五年間で築いてきた常識なんてこの世界の一人も信じてないのよ」
なんという暴挙だろう。常識なんで物はこの女の前には形なしらしい。エアコンがついていないせいで蒸し暑い教室で、こんなことを言われては脳がろくに働かなくて言い返すことすら出来ない。
「君たちには外見なんてものが無いの。これからの君たちの未来が危ぶまれるぞ」これでも僕は親切心で言ってあげてるんだ。なんて奴らだ。
「人生そんなもんよ。受け入れなさい」
「受け入れなきゃいけない状況にさせてるのは誰だろうね」
「さぁ。その人の顔が見たいな。きっととっても図々しい顔をしてるんでしょうね」他人事のように人を煽る彼女の顔に罪悪感などひとかけらもあろうはずが無く。言っても無駄だよ。という心の声をシャットアウトすることもできず。きっと僕の心は掻き回されるためにあるのだろう。と人生最大の諦めを抱きつつ椅子に腰掛ける。錆び付いた椅子の足の金属臭が鼻を刺激する。校舎の最上階のせいで不自然に喧騒から程遠い部室であるが、変人二人組がいるせいでそんな雰囲気もぶち壊し。視線を椅子の足から上げると、短い髪。癖毛とまではいかないが髪先が微妙にうねり、金属製の今にも壊れそうな眼鏡。僅かに既視感がするが、入学してからどこかで会っていてもおかしくない。この場合meet ではなくseeになる訳で。だが一度何処かで「見かけた」だけなので、この場合はmeetなのかとこじつけとしかいえない現実逃避から抜け出せず。僕に向けられた視線に気づくことが出来なかった。