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セミたちが、こちらも叫び返したくなる程に、夏を叫んでいる。
Tシャツで汗を拭うことも諦めて、誰も居ないであろう五良神社の境内へと山の木に囲まれた階段を登っていく。さっきまでは五良市で開催される夏祭り及び花火大会の準備に駆り出されていたが(親が運営に関わっているせいだ)、屋台や仮設テントの設置から隙を見て逃げ出してきた。一時期は神社自体の取り壊しの話も出ていたとは思えないほどに五良神社のこの祭りは成長しており、今ではここ一帯で一番の大きさのイベントだ。それに伴ってスタッフの数が不足しているらしい。
溶けそうになる体をなけなしの気力で引き締めて、古ぼけた紅い鳥居をくぐる。神社の敷地に入った瞬間、圧迫するような夏の暑さが少し和らいだ気がした。敷地内はほとんど日陰だからだろうか。
それでも体からはひっきりなしに汗がしみ出てくる。放っておいて伸びた前髪が不快に湿気を帯びて散らばる。賽銭箱の隣に腰をおろして下を向き額や顎に汗が流れるのを感じていると、ふと虚しさに駆られた。
「……あぁーあ………」
何が悲しくて真っ昼間におじさん達に混ざって、夜にデートに来るであろうカップル達のお膳立てをしなくてはならないのか。高校二年。来年の事を考えると、高校生活最後の夏と言っていい。それが今まさに終わろうとしている。
足と足の間に汗を垂らすのをやめて、半分仰向けになるように後ろに手をついた。呼吸は整ったが、それでものしかかる空気は暑さで揺れて、ちらつく太陽に目はやられ、アス比が4:3だった頃のアニメみたく視界はガサついていた。
思わずアホみたいな願望が口から垂れる。
「…青春してえなあ…」
「しようよ」
横目で見る。
女物の薄紅の浴衣を着た女がなんの前触れも無く隣に座っていた。
「………」
「………」
流れる間を、セミが埋めていく。
顔を見ようとするが、なぜか目線がズレる。ピントがズラされる。この時点で、俺はある結論に至っていた。
「お前、誰だ」
「名前はもう意味が無いな」
「じゃあ幽霊の類なんだな」
「よくわかったね。どうしてそう思う?」
奴が着ている黒の浴衣に目を落とす。よくよく見れば、奴の輪郭は蜃気楼めいて揺れているようにも思えた。
「…着てる服が目線を外したら変わってる奴なんて、人間じゃないだろ」
「そうだねえ。いくらでも変えられるよ、好きな服に、好きな声に、好きな顔に」
不安定に輪郭が揺れる。そろそろ暑さにやられてしまったのかと思ったが、あいにくこの手の出来事は経験が無い訳ではなかった。
「この顔なんてどうよ?君の好きな顔だ」
顔が見れねえから意味ねえよ…と呟いたが、奴が誰の顔を模しているか、なんとなく察した。同時に少し不愉快だった。どうやらこいつは俺の心に依るモノらしい。
「その顔はやめろ。お前には似合わない」
きっとこいつはあの先輩の顔を模している。別に心に手を突っ込まれたのが不愉快な訳じゃない。俺が今まで見てきた超常の類のモノ一切を否定する彼女のその顔を、幽霊まがいが被るのが不愉快なだけだ。そもそも彼女に言わせれば、俺の見てきた超常のモノは全て俺の妄想らしい。こいつもそう、俺の妄想ってわけだ。
「あっそう。正直じゃないね…」
再び空間をセミたちが占領する。しばらく黙ってみたが、奴が消える気配はなかった。立ち去るにも立ち去れない雰囲気に、仕方なく話しかけてみる。
「…服装も変えられるんだろ。なんでさっきから浴衣ばっかりなんだ?」
その問いに、顔は見えないが奴がニヤけたのがわかった。
「なぁんでだと思う?」
「めんどくさ…知らねえから聞いたんだろ」
視界の右半分に妙な圧迫感が迫る。どうやら顔を近づけたらしい。
「青春、しようぜ」
俺は奴の方を見なかった。見ても顔は見れないからでもあるが、単純に動けなかった。夏の空気よりも熱い吐息がかかる程の近さに、俺はそう、ビビってしまっていた。こいつが先輩ではないとわかっていても、これが俺の妄想だとしても、体が固まってしまう。女子に慣れていない悲しい男の性である。
続けて奴が言う。
「だから、花火大会に行こうって言ってるんだよ」
「嫌だって言ったら?」
「君の体を奪う。どのみち君の頭の中には入らないと神社の外には出られないんだ」
気温がスッと下がった気がした。
自分の体温と全く同じ温度のしなやかな指が、首筋に触れる。今すぐ走って逃げ出したい衝動に駆られるが、危うくこらえた。この手の類は下手に動くと何が起こるかわからない。
「…お前は俺なんだろ。そしたら俺がその気になればお前は消えるんじゃないのか?」
「惜しいけど違うんだ。今は君の精神の幹を間借りしてるだけ」
首筋を指がなぞっていく。夏の暑さはどこかへ飛んでいってしまったようだ。
「君が私を頭の中に収めてくれさえすれば、君は頭の中で眠らされずに済むし私は神社の外に出れる。理解した?」
ぞぶり、と。
奴の指が俺の首の皮膚を突き破って沈み込んだ。
まずい。非常にまずい。もうすでに体の主導権は無かった。どんどんと奴は掌を沈み込ませ──そして。
「…あ〜ぁ。やめだやめだ」
ズボッと勢いよく手が引き抜かれ、体が震えて同時に体の主導権が戻る。
「うっ………」
「なるほどね。君の精神がそんだけ図太いから、今君の精神の幹に寄生してる私がこれだけしっかり顕現できてる訳だと」
「……何を、言ってやがる」
変に熱を持ってしまっている首をさすりつつ、荒くなった息を整える。飛んでいっていた夏がまたセミと共に戻ってきていた。
「端的に言うなら弾かれた。そういや、あからさまに普通じゃない私にあれだけ冷静に受け答えができるんだ。並大抵の精神してないね、君。なんかあった?」
「関係ねぇよ…」
と、会話を切り上げて段差から立ち上がる。これ以上この場に居てはいけないと経験上理解していた。が…
「ちょっと待ってよ」
奴がTシャツの背中の裾を掴んだ。緊張とは違う何かが心臓を跳ねさせる。歩みを止めた俺は、五秒ほど振り切ることも振り返ることもできずに固まっていた。
奴が言う。
「…まだ行かなくてもいいんじゃない?」
「いや、ここでまた世間話を始めるのもおかしいだろ。今意識乗っ取られかけたばっかりだぞ…」
「それはそうだけどさ。もう君の意識は乗っ取れないとわかったんだし…」
Tシャツを引く力が強くなる。
「君がこの神社から出たら、私は存在がまた保てなくなってしまう…」
「……そうかよ」
やっぱり夏の暑さでおかしくなっているのかもしれない。
俺は服を引っ張られるままさっきと同じ場所に座った。
………
夜、また階段を登り、打ち上がる花火を背に鳥居をくぐるが、もうそこに奴は居なかった。