プロローグ
その日、大塚 成は出勤途中だった。
近くの公立大学に通い始めて2年目となるが、そろそろ就職も視野に入れて活動を始めなければならない身の上だ。
就職氷河期と言われて久しい昨今、自分もその果てが見えない活動に身を投じなければならないことを考えると、憂鬱な気分になるが、とりあえず今日は講義もないのでアルバイトに勤しむ。
逃げだと思われるかもしれないが、就活に関して考えることは可能な限り先延ばしにしたかった。
青信号に変わった交差点で、自転車を軽快に走らせる。昼からの勤務なので、別に慌てて行く理由もない為、飛ばしたりはしない。安全運転が第一だ。
勤め先は個人経営の飲食店で、高校3年生の時担任だった初老の教師から紹介された。大学からも程近く、激安スーパーも目と鼻の先にある、成にとっては大層都合の良い立地のアルバイト先だった。
父子家庭の成にとって、激安スーパーというのは通いつめるべき戦場であり、毎日行われるタイムセールを歴戦の主婦達に遅れをとることなく参加する為には、すぐ馳せ参じられる環境に居られるということは、大きな意味を持っていた。勤務の時間帯によっては、夕方の値引きシールが貼られる時間帯にも突撃しやすく、賄いもついている。奨学生であり、バイト無しには学費と生活費に余裕を持たせられない成にとって、一食にかかる負担が軽減されることは、大層有り難かった。
良いアルバイト先を紹介してくれたものだと、今でも当時の担任には感謝している。
もう転勤してしまったが、その担任はどの生徒の相談にも親身に乗ってくれる、温かい人柄だった。3年で進路に悩んでいた成にとって、彼のクラスになれたことは何にも替えがたい幸運だったと思っている。
「あ、しまった」
考え事をしていたせいか、曲がるべき角を曲がりそびれてしまった。
習慣とは恐ろしいもので、高校当時住んでいた社宅から母校までの道のりを辿り始めている自分が居た。
父の転職を機に、せっかく大学に近いアパートに越してもらったというのに、わざわざアルバイト先に対して遠回りとなる道に足を踏み入れるなんて。
成は自分の迂闊さに呆れながらも、そのまま遠回りでバイトへ向かうことにした。
季節は秋。
頬を撫ぜる風は冷え、空気は乾いている。街路樹も秋の装いに色づき始め、青く澄んだ空は高い。
予定が何もなければ行楽にでも出掛けたい程の日だが、生憎予定が空いている日はどこにもなかった。講義以外の時間は片っ端からバイトか家事に当てている苦学生の成に、優雅なピクニックの予定など立てようもない。
のんびりピクニックを楽しんでいられたのは小学生までだ。あの頃は父も幼い娘に気を遣って休日に一緒に出かけてくれ、展望公園で弁当を広げるとか、自転車の練習に付き合ってくれるとか、親らしい行いをよくしてくれたものだ。
最近では顔を合わせるのは食事の時間くらいで、一緒に出かけなくなって久しい。
決して仲が悪いわけではなく、父も仕事があるし、成は成で勉強に家事にバイトに、することがあって忙しいのだ。
片親しかいないのが当たり前と思っている成にとって、家事をすることは全く苦ではなかったし、バイトも自分で決めて始めたことだ。
物心つく前には両親は離婚していたので、母の記憶が殆どない。
離婚の原因を父は語ろうとしないが、「もし母を名乗る女性が近付いてきたら、一切話しに応じずすぐ逃げるように」と言い聞かせられてきたので、余程嫌な思いをしたのだろうと推測出来た。
その為、わざわざ離婚理由を問いただそうとしたことはない。
大人の事情というやつなのだろう。
緩やかなカーブを抜けて、高校の通学路に差し掛かった時、成は両手のハンドルを強く握り、急ブレーキをかけた。
車道に横たわる人影が見えて、素通りするわけにはいかないと判断したためだ。
嫌な予感を覚えて、成は自転車から降り、その微動だにしない人物の元に駆け寄った。
服装は成が見慣れた母校の制服だ。成が着ていたのは女子用のブレザーだった為、路上の人が着ているものとは違うが。
辺りに血の痕がないことにホッとしつつ、成は少年の顔が見える位置に回り込んだ。
少年は歩道に対して背を向け、左半身を地につけ倒れこんでいる。
どこか具合が悪くて倒れたのか、それとも別の理由があるのか。
とにもかくにも早く歩道に移動してもらい、安全を確保したかった。場合によっては救急車を呼ぶべきとは思うが、まずは相手の状態を見てからだ。
もし少年が持病持ちだったとして、知らない病院に搬送されるよりも、掛かりつけ医の元に行けるよう手配した方がいい。声をかけて起きてくれるなら、それに越したことはなかった。
幸いこの道は車の通りが多い方ではなく、見通しも良い為、成が彼に注意を向けていても危険は少ないはずだ。
覗き込んだ相手の顔立ちは整っていた。
栗色の髪はスッキリと短く、すっと通った鼻筋に、長いまつ毛に縁取られ伏せられた瞼。知らない相手なのに、何故か親しみを覚える。どこか懐かしさを覚えて、暫し見入ってしまう。
しかしすぐに気付いてしまった。肌は全体的に土気色で、成のおよそ20年の人生の中で一度として見たことのないものだったが、その顔色は生者のそれではないと。
「ちょっと、大丈夫!?」
突発的に少年の肩へ手を伸ばした。
気のせいであってほしかった。
こんな日常の何でもないタイミングで、誰かの死に直面するなんて不意打ちもいいところだ。
何の心構えもないのに受け止めるのは、見ず知らずの他人とはいえ重かった。
叩いて反応があればよし。ただのドッキリであれば良いのにと期待しながら、成の心臓は嫌な音を立てて全力疾走し、一気に末端から血の気が引いていった。
『やっと会えた』
肩に手が触れた瞬間、それは聞こえた。
同時に、“何かがドロリと内側を伝って入り込んできた”。
「え?」
思わず手を離し、少年の顔を窺う。
先程と寸分違わない表情と顔色で、ピクリとも動いた様子はない。
目の前の少年が喋ったのだろうか。
しかし不自然なくらい反応を見せない事と、呼吸に伴い上下するはずの胸が全く動いていないことに気付き、成は認めるしかなくなった。
彼はもう、生命活動を停止しているのだと。
ゆっくりと周囲を見回す。
住宅街から抜けてきた道に人影はなく、辺りは閑散としたものだった。駅から距離もあるため商店の類いはない。少し戻ったところに駄菓子屋とタバコ屋はあるが、そこからこの場所まで声を張り上げるような者がいるわけもなく。
結局声の主は見つけられなかった。
しかしたった一言だけ耳にした、聞き覚えのない少年の声は、恐怖や警戒心を煽るどころか、ひどく成を悲しい気持ちにさせたのだった。
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「おや、今度は本当だった」
通報後すぐに駆けつけてくれた警察官は、そんな不思議な言葉と共に現れた。そして無線で応援を要請し、車の通りがないものの交通整理の準備を始める。
怪訝な顔をする成に、近くの交番勤務だという若い巡査は、三時間前にもこの場所に来るように、とイタズラの通報があったことを苦々しそうに語った。
「ここで学校の先輩がひき逃げされた、助けてくれってね。通報後すぐ来たけど、何もなかった。通報した本人も居なかったし、被害者もいなかった」
そうなんですか、と居心地悪い思いをしながら相槌を打ち、成はなんでこんな話を聞かされているのか考える。
探るような目でじっと見つめられ、何かの疑いをかけられているのではないかと思い至る。
「被害者の名前はオオシマ ナオというらしい。知り合いかな?」
「いえ、知りません」
即答したものの、名前の響きが近くて不謹慎にも親近感を覚えた。
ナオという名前は、もし自分が男だったら付けられる予定だったのだと、父から聞いたことがあった。
「この後何か予定は?少し話を聞くことになる」
促されるままバイト先に連絡を入れ、成は得体の知れない焦燥感と不安感を必死でやり込めるため、ギュッと目をつぶった。