はなのいろ~番外壱『真夏の夜の遊女達』
夏の夜、暑くて眠れない人間同士がわざわざ集まって話すお題といったら、いつの時代もどの身分でもきっと変わらないだろう。
毎日代わり映えのしない接客に飽き飽きし、見世が変われば醜い女同士の嫉妬にも巻き込まれ兼ねない、此処吉原で日々暮らす女達も、連日茹だるような蒸し暑さに眠気も訪れない文月のある晩。
浜木綿が籍を置く、この妓楼の大部屋に、いつも一階で寝ている遊女達に混ざり、部屋持ち、座敷持ちの女郎全員が集まっていた。
草木も眠る丑三つ時とはよく言ったものだが、そんな真夜中に若い女達が雁首揃えて話し込んでいるのには訳がある。こんな時間に眠れないし折角の休みだから「今年もやろう」と言い出した一人の怪談好きな姉女郎の一言が発端だった。一人が言い出せば仲間内で広がるのはあっという間で、話好きな女郎連中は怖がりな妹女郎達の大部屋に無理矢理転がり込み、現在に至る。
先程まで行灯を囲み、皆で仲良く談笑に興じていたのだが、そろそろ頃合いだろうと姉女郎の誰かが言った。
それを受けて幼い禿の一人がやっぱりやめようと進言するも、それを聞き入れてくれる親切な女郎はいない。
「そういえば、ゆうは怖いものはないの」
隣に座っていた伊吹が、半ば呆れ顔で座っている浜木綿に尋ねた。
「幽霊よりか、辻斬りのほうがよっぽど怖いわいね」
浜木綿は幽霊を見たことはないので信じていないし、第一本当に居たとしても殺されるとは限らない。それに較べたら今江戸でも日常的に横行している無差別な辻斬りのほうがよっぽど怖いと浜木綿は思う。
「それに吾妻姉さんが毎年怪談話でする話っていったらいつも同じだし、いくら怖がりだっていい加減慣れるし」
「まあ、確かにね」
浜木綿の最もな切り返しに、伊吹も思わず納得して苦笑が零れる。そう。この妓楼で怪談好きは何人かいるが、今回も際しに言い出した吾妻という部屋持ち女郎は、毎年「取って置き」と銘打って『ある話』をし、可愛い新入り達を怖がらせて反応を愉しんでいた。
「普段は面倒見がいい姉女郎なのに、後輩の可愛がり方を間違えてるよね」
そうは言っても助け舟を出そうとはしない先輩女郎達はやはり、傍観を決め込んでその様を愉しむか、『取って置き』の前に散々怪談話を持ち寄って恐怖心を煽る手伝いをしている為、吾妻に便乗して悪乗りをしている方なので、こうなっては「今年もそんな時期になったのか」と諦めなければいけない。この妓楼は余所と違い嫉妬や虐めはないが、ある意味、姉さん方の逃げ場のない囁かな加虐心に泣きを見るのはこの妓楼に入ったさだめと言える。
さて、そうこうしてる間に大部屋内に幾つか燈されていた行灯の明かりが、中央の一つを残して全て吹き消された。
暗闇の中で所々、これから始まる話の恐怖心に既に怯えた娘達の悲鳴が聞こえた。それに気をよくした姉女郎達は、ぽつりぽつりとそれぞれが用意してきた摩訶不思議な話や、幽霊話、情報通の吉原の遊女達の間で流れているきな臭い噂話などを、より不気味に話始めた。
こうして始まった遊女達による真夏の怪談話だが、『百物語』までは流石にやらない。皆そこまで長く話を聞けるような気質ではないし、話たくてもそこまで話題が続かないのが現状だからだ。
とはいえ、話は五人目が語り終え、すっかり蒸し暑い大部屋の体感温度もひんやりとした頃合い。「そろそろ油を足さないと」と誰かが呟いた矢先、しんと静まり返った大部屋の襖を誰かがそろりと開けた。
思わず何人かの女達は短い悲鳴を上げ、その他の何人かはまさかと息を飲んだ。
暗闇ですっかり夜目が利かなくなった女達の視線が、すっと開いた襖に注がれる。と、僅かな明かりがもう一つ入ってくると共に、よく見た顔が明かりに照らされた。
「あれ、お邪魔だったかい。そろそろ頃合いだと思って油持ってきてやったんだが」
人の良さそうな中年の男は、寝不番として長年この妓楼で働いている長兵衞だった。聞き慣れた声が静かな部屋によく響き、息を詰めていた者は皆、内心で胸を撫で下ろした。
「なんだ、あんたか。脅かさないでくれよ」
「はは、悪い悪い。丁度いい頃合いだったみたいだな。一声かければよかったか」
言葉とは裏腹に、長兵衞はたいして悪びれもせず、驚かせた事に嬉しそうに笑った。
「どうせ一声かけたって、それはそれで怖いだろうよ」
「全くだ」
こうして一時はすっかり和んだ場は、長兵衞が油を注して「程々にしろよ」と部屋を後にすると、六人目の女が咳ばらいをして再び重い空気が場を支配し始めた。
さて怪談話を始めてからはや一刻程経とうかという頃、十一人目の女が話終え、遂に最後の吾妻の番が廻ってきた。
待ってましたと、吾妻は嬉々として語り始める。
「これはこの妓楼に代々伝わる話で、あたしも死んだ姉さんから聞いたんだけどね。
この見世にも余所と同じように大階段の下に折檻部屋があるでしょう。あそこの壁には黒々とした血のしみ跡が残っててどれだけ掃除しても取れないのよ。その部屋では真冬の寒い雪の日になると、血を吐くように啜り泣く女郎の声が聞こえることがあるらしいの。
そこまでは吉原じゃ見世によくある噂でしょ。でも、その噂を信じてなかった女郎が昔その部屋に入れられたとき、朦朧とする意識の中で見たのよ…血の涙を流して死んだ赤ん坊を抱いた女郎が、好いた男を呪う言葉を繰り返して泣き続ける姿を。
この女郎は江戸で夜な夜な辻君を殺してた男が吉原に通い始めたときに馴染みになった女で、辻斬りだって知らずに好いて終いにはその赤ん坊まで宿してしまったんだけど。それがバレて折檻部屋に入れられた揚句、やっと出して貰えて男に赤ん坊が出来たから自分を連れて逃げて欲しいと頼んだ途端、斬られたって話よ。その女郎の妹女郎も、男が捕まって死罪になるのを見届けたあと慕ってた姉女郎の後を追って自殺したんだって。
それから姉女郎が死んだ日のような真冬の寒い雪の日になると、男に裏切られた姉女郎が産めなかった赤ん坊を抱いて「殺してやる」て泣き叫ぶ声があの折檻部屋から聞こえるようになったらしいよ。
おしまい」
吾妻が長い話を一通りとうとうと話し終わると、しんと静まり返った大部屋で誰かが「殺してやる」と妙に芝居がかった声で呟いた。勿論今は真夏だし、外は後一刻もすれば明け方になるので、変な気を利かせた一人の姉女郎の嫌がらせだ。
まんまと引っ掛かった何人かの娘が今にも泣きそうな声で「ひっ」と声を上げた。間近で響いたその気の毒な大きな声で、すっかり舟を漕いでいた浜木綿は目を覚ました。
「終わったん?」
欠伸を噛み殺しながら眠気眼を擦って尋ねた妹女郎に、隣で肩を貸してやりながら周りの反応を愉しんでいた伊吹は「嗚呼、今終わったとこさ」と苦笑した。
「確かに吉原ってそんな話が五万と転がってるもんだけど…吾妻のあの話って、あたしも最初は半分本気にしたけどさ、実はうちの折檻部屋って、年末の大掃除のときに見たけどしみなんて何処にもないんだよね。第一うちの妓楼は昔から甘いらしいから、そうなる前に親父や遣り手婆は手を打つし、刀は下で預けちまうから、万が一懐剣で刺される事はあったとしても辻斬りみたいにばっさり刀で斬られるなんてまず無理だからね」
「これ、後で姉さんに説明された時は流石に腹がたったもんだよ」と暢気に浜木綿に話す伊吹の声は小さく、教えてやらないといけない肝心の怯えた娘達には聞こえていなかった。
案の定、この後暫くはすっかり怯えた娘達は折檻部屋の前を早足で通り、その様を陰から面白そうに堪能した姉女郎達が漸く真実を教えてやると、臍を曲げた娘達の機嫌を必至に取る姉女郎達の姿が見られることになるのだった。
これもこの妓楼の昔から続く名物だというのだから、毎年毎年懲りもせず繰り返す物好きな女郎達も代々居たものである。
終。