独りぼっちはヒーローになった~猫と私と猟奇殺人
先程降り出した雨が梓の着ている紺地のレインコートを叩き始めていた。そして、それが梓の寒気を助長させていた。
オートロック付きの玄関を構える独身者向けの4階建てマンションが梓の住居だった。20件のポストが並ぶ玄関。埋まっているのは13件ほど。305号室が梓の部屋だ。共同玄関と梓が呼んでいる自動ドアのカギを開けると、エレベーターのボタンを忙しく押して、デジタルな数字を見上げる。四階からなかなか降りてこないエレベーターを待ちきれずに、梓はすっと階段へと足を向けた。
最近、野良猫がよく殺されているのだ。野良だけではない、時に飼い猫だってその手にかかった。「許せません」と悲しみと怒りを込めた声の飼い主に同情し、梓は一緒に泣いたりもした。
最初は大量のセミ、蝶などの昆虫から始まった。気持ちが悪いと噂が立ったが、世間はすぐにそれを忘れてしまった。夏が過ぎたころ、ネズミや雀の死体が目につくようになった。そして、鳩。カラス。毒殺の時もあれば、体を切られていることもあった。それから、猫の死体が発見されるようになった。もう、梓は怖くて仕方なくなった。
オートロック付きのマンションで良かった。そう思いながらも、怖いのだ。
警察が貼っただろうポスターには不審者にご注意ください、と書かれている。猟奇殺人は小動物から。確かに次は人なのかもしれない。警戒に越したことはない。
だいたい、どうして殺したがるのだろう。死体なんて気持ち悪いだけのものなのに。血なんて、生温くて臭くて、纏わりつくものだけなのに。断末魔の叫びなんて、気色悪いだけで恐怖しか感じられないというのに。
ゴゴギュ。
ドアノブに震える梓が鍵を差し込んだ。そして、ガチャ、という音とともに扉が開かれる。
足元に温かいものがやってきて、梓を慰め、安心感を与えた。それは梓の冷たくなった足に温かな『生』をもたらせてくれた。梓の手先足先は急な寒さで氷のように冷たくなっていた。
「ただいまぁ」
梓は思う。ふわふわの可愛い奴。彼女がいるから梓は生きていられるのだ。外なんかに出ず、ちゃんとお留守番をしているとはいえ、心配は尽きないものだ。
んふふ。
梓のその唇からは込みあげてくる笑みが零れ出ていた。それは例えるなら、安心感よりも充足感に近い笑みだった。
そして、今も梓の足元に絡まりながら、「おかえりぃ」と可愛らしい声を出すのが、梓最愛のネコ『りん』だ。
「りぃんぅ」
外では絶対に出さない甘ったれた声が梓の喉から湧き出て、撫でたくて堪らなくなる。しかし、今はぐっと我慢する。外の汚れを落としてからじゃないと。梓はレインコートを脱いで、見つめた後に溜息を付いた。
「お気に入りだったんだけどなぁ……。仕方ないかぁ。ねぇ、りん」
そう呟いた梓は、中折りにして畳まれた紺地のレインコートをそのままゴミ箱へと放り込んだ。
待ちくたびれたりんはその首に付けた鈴を小さく鳴らしながら、梓の穿いているジーンズで爪とぎををして、『早く』をアピールする。
「痛い痛い」
見つめ合うとりんの目が細められる。梓も「大好きだよ」とゆっくりと目を閉じて開いた。ちんと座ったりん。
「ちょっと待ってねぇ」
梓はレインコートを脱いだ時に付いたその水滴を手から落とさないように慎重に静かに歩いた。甘えたのりんもその足取りについていき、時折梓を見上げ、「にゃあ」と急かした。そして、シンクの前に立った梓は念入りに手を洗った。肘から下にかけて手首へと向かい、手のひら、指の間、手の甲、そして、爪ブラシで爪の中まで。梓は丁寧に泡を立て、何度も繰り返した。そして、全開にした蛇口から水が勢いよく流れ出た。冷たい水は梓に痛みすら感じさせるようになっていた。
暗い台所。泡が綺麗に渦を描き排水溝へ向かう。
ゴゴゴゴゴゴ
大量の水と泡を吸い込んだ排水溝が悲鳴を上げた。梓の手先はまだ寒さで震えている。
「りんりぃん」
しかし、綺麗になった手で、やっと梓は欲求を満たすことが出来た。
ふかふかの柔らかい体が梓の体にぴったりと寄り添う。そして、そのふかふかな体をそっと撫でてやる。喉を鳴らし、うっとりとするりんの目を見つめて、梓はまた「大好きだよ」と呟き目を閉じて、見つめ直した。あれだけ寒さを感じていた手に温もりが伝わり始めるのを梓は実感する。
こんなに可愛いのに。本当に小さなことだけで満足して、幸せ、を伝えてくれるものなのに。
いつのまにか梓はりんを少しきつく抱きしめていたようだ。居心地が悪いと感じたりんは『下りる』と梓から体を放した。梓はそれを優しく解き放して下ろしてやる。そして、「あずさちゃん、ご飯空っぽにゃの」と、梓が付いて来ていることを何度も確認するようにして蛇行しながら歩き出した。大丈夫だよ、ちゃんとついて行くから。梓は微笑み、それに応えた。
そうなのだ。りんがいて梓は自分を顧みることが出来たのだ。
職場は孤立無援。実家は遠い。しかし認められたい。
そんな梓を助けるかのようにして、呼び止めたのがりんだった。その声は小さく儚い物だった。
「にー」
その声に梓は涙を流していた。掌に収まる大きさの小さなものが、生きようとしている。それだけで梓の涙は堰を切ってしまい、止まらなかった。
最初はご飯を食べてくれなかったりん。何度も目やにを出し、熱を上げ、梓に心配をかけ続けたりん。警戒のあまりケージから出てこようとしなかったりん。
そのりんが今は元気に大きくなっている。瓶を開けて、カリカリのご飯をお皿に入れてあげると今ではしっぽを立てて寄ってきて、夢中になって食べてくれる。
お腹がいっぱいになるとパンパンになったお腹を見せて、ゴロゴロしてくれた時には、もう嬉しくて仕方がなかった。そうだよね、お腹がいっぱいになるって、幸せなことなんだよね。お腹がいっぱいになる。雨風を凌げる。暖かい部屋がある。一緒にいる人がいる。遊んでくれる人がいる。毎日の安心がある。
梓に幸せのなんたるかを教えてくれたのがりんだった。
だから、梓はただただ許せなかったのだ。たったそれだけの幸せすらも奪おうとする者が。だから、日々、ダイエットのための散歩と銘打って夜歩きを始めたのだ。
梓の身長は低く、童顔で、たいがいの人からは若く見られた。夜歩いていると本当に心配されて、お巡りさんに家まで送り届けられたこともあった。恰好の餌なんだと梓は確信した。
毒殺、斬殺、矢じりもあったよね。
あっ、でも毒は最後にあげるから。きっとすぐに楽になるでしょう?
そうだ、手、って切ったら楽しいの? しっぽはないから……。耳はちゃんと切り落としてあげる。
接着剤って目に入れるものだっけ?
ちょっと静かにしてくれない? あっ、そうか、これ目じゃなくて喉の奥に入れてもいい? あっでも、毒が呑めなくなるし、困るかぁ……。私って優しいでしょ? ……じゃあ、舌を切ってしまう?
ねぇ、内臓を取り出したら毒って効かなくなるの?
りんが美味しそうにカリカリ言わせていた。梓は幸せそうにそれを眺める。
「りんちゃん、もう大丈夫だからね」
うっとりとした梓に、りんが「にゃ」と顔を上げて返事をする。まるで『私はしあわせだよ』と言っているように梓には聞こえた。