第九話 夢見る少年、世界さえもこの手で
声が聞こえる。女の、鼓膜を引き裂くような金切り声が聞こえる。目を閉じなければ、目を閉じなければ……。そんな気持ちとは裏腹に彼女の瞳は状況を凝視し続けている。
視界はうごめく業火に占領されていた。火炎はしきりにのたうち回り、悪魔の手の如く触れるもの全てを灰に変えていく。明かりに満たされた室内で、駆逐されたはずの影がときおり思い出したように床を這いずる。そのさまが百足か何かを思わせた。
(どうして)
バキバキと耳障りな音がした。次の瞬間、轟音と共に灼熱をはらんだ烈風が彼女を激しく打ち据えた。隣室の天井が焼け落ちたらしい。舞い上がる火の粉、循環した空気を喰らって火の手はますます勢いを増す。
(どうして)
そのまましばらく、在りし日の幸せが目の前で朽ち果てていくのを彼女は呆然と眺めていた。どうするわけでもない、初めからどうすることもできない。彼女は涙すら流せなかった。未だに形だけは保った家屋とは違い、彼女の幼い心はとうの昔に砕け散っていた。
ボリリ、バキッ
--ぺっ、骨はまずい、あ……
物体がゴトンと重たい音を立てて床に転がる。光を無くした虚ろな視線が彼女の方に向けられる。
「母、上……?」
返事はない。と、床に転がったそれを白い足が踏みつぶした。
頭蓋の割れる音、鮮血がまき散らされる。
唐突に訪れる理解、目覚めという名の悟り。
彼女にとってそのときその瞬間こそが、世界の完全な崩壊と同義だった。
(誰を恨めば……いいのかしら。父上、母上、力なき私? いいえ……)
彼女がこちらを向いてくる。
彼女は彼に語りかけてくる。
(あなたは答えを知っている。目を逸らさないで、心の中に問いかけて……)
彼女のたおやかな手がこちらに伸びてきて----
その手が彼の頬に届く前に、彼女ののど元に化け物がかじりついた。
こぼれ落ちる大量の血液が彼女を赤く染め上げていく。
彼女の口から歪みきった笑い声が響いてくる。
瞳孔の開ききった死人のまなこは彼を見つめ続けていた。
(この怒り、顕現するの)
拒否感や恐怖など微塵も感じなかった。
彼は同情と共感を持って彼女を迎え入れようとする。
(私は忘れない。この痛みを、憎しみを。変えてみせる、この世全てを、私が、私自身がこの手で……)
だから、あなたも……
ねえ、忘れないで、忘れないで……
怠惰な体を揺すられる。どこか遠くから自分を呼ぶ声が聞こえてくる。
濁った水の中に浮かんでいる。まどろみが全身に絡みついてくるような……
「……ナ君っ、シュナ君っ」
シュナははっと目を覚ました。
視界いっぱいに少女の顔が映り込む。
「シュナ君、私、分かる?」
灰色の髪が風に吹かれている。
「フランヌ」
「よかった……」フランチェスカは脱力したのかシュナの胸に額を押しつけて小さく息を吐いた。
「フランヌ、本物か」シュナは少女の髪に触れてみる。砂塵にまみれた手触りがあった。「大事はないか」
「自分の心配してよ……」顔を上げた少女の視線には怒気と呆れが混在している。
シュナは体を起こそうとして、自分の体に布きれが掛かっているのに気づいた。濃紺のローブはフランチェスカのものだ。彼自身の黒衣は光熱で焼け焦げたので脱がされてしまったらしい。治療の邪魔だったのかもしれない。
「シュナさん、具合はおいかがですか」
「ルッテリア、シュナ君まだ起き上がったばかり……」
「悠長が過ぎます。このままではシャクホウさんがもちません。間違いなく人死にが出る」
シュナは声のした方向に視線を向ける。
光熱波の影響なのか全方位に土煙が立ちこめていた。その土煙に小さな影が浮かぶ。
現れたのは幼い少女だった。白い肌に翡翠色の瞳、見事な金髪は背中でゆるい三つ編みになっている。
年齢は十歳、身長は百三十センチに満たない。しかし少女の顔つきは年相応のあどけなさと乖離していた。どこか影のある瞳や水平横一本の口元にはむしろ大人びた印象を受ける。それは年若くして親離れを経験した子供によく見られる一種の達観だった。
「ルッテリアがなぜこんな場所にいる」
「問答はなしです。一方的に状況を説明します」
「どういう……」シュナは開きかけた口を閉ざす。
遠くで轟音がこだまする。生み出された莫大な衝撃が大地を揺らす。
(戦闘音……、あの男と交戦している?)
「あなたの力が必要です、お力添えを」
幼き少女ルッテリアは『転移』のマギカを持つウィザードである。
『転移』のマギカには様々なものがある。彼女の場合は基本的に人間を転移させることを得意としている。
朝昼晩に護衛部隊の様子を確認するのが彼女に与えられた仕事の一つだ。
「私は転移したとき丁度ダルマさんと鉢合わせました。空からあの女の人が落ちていらした頃です。再び転移してルズクさんたちと合流した時に空に巨大な構築陣が見えまして、光の槍が降ってくるものですから皆さんを一度遠方に転移させまして、今度はあの男の不意をついて構築陣の手前に転移で引きずり出しまして……、自前の精霊術で自分を燃やさせるのが一番良いと思いました」
シュナは開いた口がふさがらなかった。
よく見ればルッテリアの格好はひどい有様だった。縮れた金髪は所々炭化して真っ黒に染まっている。服装も破れや焦げ付きが目立っていた。光熱波のあおりをくったらしい。
「無茶やる奴だよお前は。……ん、じゃあ今戦っている奴は何だ」
「燃えなかったんですあの男。かなり良質な硬化の精霊術を使っています。かなりの被害は与えられましたけどそれもじわじわと回復されまして。応戦しているのは私が転移させましたチャチャ班の皆様です。……あらましはこのくらいにします」
ルッテリアがシュナのそばにしゃがみ込む。爆風にはためく髪、空気をはらんで膨らむ服……、しかし彼女の瞳は釘打ちされたように微動だにせずシュナを射貫いてくる。その表情は真剣そのものだ。
「シュナさん、あの男はいくつもの精霊術を巧みに使いこなします。先ほどのような大規模なものは連発できないようですが、それでも硬化の精霊術が厄介で、チャチャ班の皆さんでは男の硬化を貫くことが出来ないんです」
シュナの単純に破壊的な攻撃ならば通るかもしれない……。シュナはルッテリアに頷いて納得したことを示した。
シュナは立ち上がろうとして、自分が服を着ていないことを思い出した。
「ミリアから取ってきたんですよ」
ルッテリアが懐から新品の黒衣一式を取り出した。
急ぎ服に袖を通しながらシュナはルッテリアに問いかける。
「ルッテリア、一つだけ確認させてくれ。皆は無事なのか」
どうしても確認しておきたいことだった。ルッテリアは「転移させた」としか言っていないのだ。
「無事です」
「無事ならなぜ戦いが続いている。ダルマはどうした。心身掌握がいればこんな事にはならない」
「ダルマ班長は現在ミリアで治療を受けています。光の槍が荷馬車を焼くのを止めたかったみたいで……、私が転移させようとするのを拒絶して、マギカで男を操って光の軌道をそらしたんです。けれどそらした光が今度はダルマ班長を直撃しまして……」
「何やってんだあいつ……」
「ひどい火傷を負いましたが命に別状はありません。他の皆さんは軽傷で済んでいまして、今は別の場所で待機してもらっています。シュナさん、着ました?」明後日の方向を向いていたルッテリアがシュナの方を振り返る。
「ああ、感謝する。ルッテリア、敵は俺に気づいているか」
「いいえ、恐らく」
「不意をうてればいいんだけどな」
周囲はゆるやかな丘陵地帯だ。隠れる場所は多くはない。あるとすれば村の残骸だがそれも今は使えない。チャチャ班が誘導したのか戦闘がそういう方向に流れたのかは定かではないが、戦闘は村から幾ばくか離れた場所で行われている。
「ひとまず認知されないぎりぎりの範囲に転移します。シュナさんは遠見して敵の姿と戦い方を確認してください」
「了解だ」
「フランチェスカさんはフィフィさんに助力を。治療用の精霊器具は準備できてますね」
「え、……うん」
ルッテリアは二人の肩に手を置く。
転移のマギカが発動する。
一瞬にして三人の姿がかき消える。
「なんだあれ……」
丘の傾斜に腹ばいになったシュナが思わずつぶやく。丘の天辺から顔だけを出して戦闘の様子をうかがっているのだ。
「驚くのも分かります。何なんでしょうあれは」
シュナの隣で同じく腹ばいになったルッテリアが目を細めている。
戦闘は続いていた。土煙と轟音が支配するバトルフィールドに動く影は1つ、2つ、3つ……、敵を囲んでいるのはシュナもよく知るチャチャ班の顔ぶれだ。チャチャの命令の下で巧みに連携をとって交戦している。
敵は一人だった。気絶する直前にシュナが見た宙に浮かんだあの男に間違いない。
「何って、そりゃあ……」
その男の背中に黒い何かが生えている。
シュナはマギカの望遠でもう一度確かめてみるが間違いはなかった。
黒いものの正体は翼だ。無数の羽毛に覆われたカラスのような漆黒の翼。
それが男の背中に繋がっているのだ。
シュナはルッテリアの質問に正直に答えてみた。
「見たまんま、悪魔だな」
「本物でしょうか。言葉は私たちと同じなんですよ。対話に応じるつもりはないようですけど」
シュナの視線の先で、男に接近していたチャチャの一撃が翼によって阻まれる。どうやら翼は精霊術によって硬化と軟化をくり返されているようだ。それは立派な武器であり変幻自在の盾にもなる。
「少なくともあの翼は飾りじゃない。腕が四本あれば無論強くなる。おそらく精霊術で作り出されたものだろう。やつは精霊術士なんだ」シュナはそう言ってひとまずその話題を打ち切った。暫定的な答えの真偽はあれを無力化してから考えれば良い。
シュナは体を起こして地面に片膝立ちになる。
「ルッテリア、耳をかせ」
シュナがルッテリアに耳打ちする。戦闘の段取りを話している。
「転移は警戒されています、敵は四方に目を光らせていまして」
「一度後ろを取れればそれでいい」
「シュナ君」
シュナが首だけで振り返る。傾斜の下側に立つフランチェスカは片腕だけで自分の体を抱きながら視線をななめ下に向けていた。
「あの、戦う意味……あるの」
シュナは隣にたたずむ金髪の少女に目を向けた。ルッテリアのマギカを利用すれば戦闘から簡単に離脱できるのではないかと聞かれているのだ。
「駄目です、護衛任務は続いています。ここに荷馬車を放棄してはいけません」ルッテリアが正論で答える。
「それは、そうだけど……」
フランチェスカの瞳がシュナをとらえる。
「連発してこない保証、ない」
(一理ある)シュナは胸の内でそれを認める。
だが口から出るのは別の言葉だった。
「チャチャはディーの信者だ、敵を倒すまで絶対に退却しない。このままチャチャ班の面々を見殺しにはできない。それと……、いや、それだけだ」
「シュナさん、チャチャさんが……! そろそろ行きますっ。いいですねっ」
ルッテリアがシュナの背後に回って背中に小さな両手を添えてくる。
フランチェスカはシュナたちに背を向けて斜面の下にいるフィフィとシャクホウの元へ歩き出していた。振り返りすらしない態度、その背中を見るだけで彼女の考えは透けて見える。
「フランヌ、怒らないでくれ」
少女の足は一度止まった。
「仕事は……するから」
それだけ言い残して、やはり彼女は振り向かずに歩き去って行く。
「どういうことだ」シュナは指で頬をかいた。
そして、背後のルッテリアに向かって頷いた。
シュナは心に決めていた。
あの敵を見逃すことは出来ない。
仲間を襲われたという理由がある。ルッテリアがいなければ全滅していただろう。怒り……、それは彼の復讐の炎にいつだって黒い燃料を投下する。
ただ、それだけではないような気がする。
(なぜこんなにも……)
シュナの体を奮い立たせる一つの欲求があった。
時間はあまりにも短い。命を賭した戦いの最中に考えにひたる暇など存在しない。
シュナは胸の内に沸き上がった曖昧な感情の名前を知らなかった。
(奴を殺したくてたまらない……)
『どうして誰も護ってくれない』そうつぶやいた自分自身を思い出す。
護りたいから? 芽生えた仲間への信頼がそう思わせる?
……違う気がする。
確かなことは一つだけ、
(ああ、俺がやらなければならない……)
使命感から沸いて出る殺意の正体を掴めないままに少年は戦場に飛び込んでいく。
仲間が好きで、世界が嫌いな人間がごく普通に思い描く絵空事、
叶えられぬと知っていて、それでももしもと思ってしまう夢物語、
少年はまだ気づかない。己が何を望んでいるのか。
ただしかし、何かを望んでいることを自覚した。
それは変化だ。
あの日家族を失ったあの瞬間、彼は歪にひび割れて、
傷を癒やす間もなく生と死、幸と不幸の狭間に押し込められ、
そして今日、彼はどこか変わってしまった。
種は既に蒔かれていた。彼が気づかなかっただけ、目を逸らし続けてきただけ、
その芽吹きは必然。それは怒りを喰らい血の涙をすすって成長する。
花を咲かせ実をつけるかは定かではないけれど、今の彼には関係のないことだ。
黒衣の戦士は振り向かずに進むだろう。
胸の奥に静かに根付いた『根こそぎ潰す』という思考のあり方が彼の将来に、ひいては世界そのものに暗い影を落としているなど、今の彼が知るはずもないのだから……。