第四話 雨中の黒影 ジルカ山麓からヘルガニア平地へ
登場人物とマギカを簡単に紹介します。なお、マギカは暫定的な設定です。
人物名の横にマギカを記しています。
ダルマ班
ダルマ 『心身掌握』
シュナ=クレイ 『爆炎』『活性細胞』
フラメル 『特化型念成』
シチリカ 『暴風』
フランチェスカ なし(治癒系精霊術のエキスパート)
ツムギ班
ツムギ=イエスマン 『念動力』
カエデ 『飛翔』
ヒジリ 『絶対不断の魔糸』
ルズク=エルキット 『特殊念動力』
ハーメル=ハングラス 『投擲術』
ゆっくり深呼吸をすれば冷えた空気が泥の匂いと混じり合って鼻孔に入ってくる。
霧のようだった雨は次第に勢いを増し、今や滝と見まごうような土砂降りに転じていた。視界はすこぶる悪しく、数メートル先の景色がぼやけて見えるほどだ。
アザブラ傭兵団はジルカ山脈の峠を越えてゆるやかな下りにさしかかっていた。つい先ほど抜けたばかりの岩だらけで急な峠道に比べれば優しいものだが、それでもやはりぬかるんだ山道は歩くには神経を使う。人を乗せた荷車を牽いているとすれば尚更だ。
マギカのおかげで体は疲れ知らずとは言え、シュナも精神的な疲弊がたまってきていることは否めなかった。サヴァンの勢力下であってもいいので早くヘルガニア平地にたどり着きたいというのがシュナの本音である。
「シュナ、シュナ。大丈夫ですか」
班長のツムギが声をかけてきた。荷台の方を振り返ると、黒塗りの鎧がしずくを垂らして鎮座している。シュナの方に向けられたヘルムの下にはきっと心配する顔つきが隠れているのだろう。
「俺は大丈夫だ。体は疲れていない。もう少しいける」
「しかし……。やはり大分重たいのではないですか」
ツムギがシュナの負担を心配するのは何も悪道を進んでいるという理由だけではない。
シュナは振り返ったまま、黒い鎧から視線を外して焦点を荷台の奥に移動する。
「まあ無い方がいいけど、そうも言ってられないだろ。さっきに比べれば下りもゆるいし大丈夫だ」
アザブラの乗っている荷台の尻の部分に隊商の荷馬車が押しつけられていた。アザブラの荷台に接触している荷馬車の後ろにはさらに別に二つの荷馬車が連なっている。各々ロープできつく繋がれていて、その様子はまるで列車だった。先ほど抜けた峠道はきつい坂道が延々と続いているため馬車で牽くことは断念せざるを得なかったのだ。そこで当初の予定通りシュナが全てを引き受けたわけである。ちなみに馬車を引いていた馬は御者に操られて荷馬車の後ろからついてきている。
「旅はまだまだ続きます。場合によっては念動力のフォローを強化しますから、辛いときはいつでも言ってくださいね」
念動力とはツムギの所有するマギカのことである。物に力を作用させることができ、その効果が届く範囲も比較的広い。ツムギは荷馬車の重量を軽減化したり曲がり道で馬車の転回を補助する役目を担っていた。
「助かる。その言葉を聞いただけで楽になるよ」
「シュナ~、火強めてくれぬか~。寒いぞえ」
「シュナお願い」
今度の声の主は茶髪の少年と赤髪の少女だ。フラメル、シチリカ両名は厚着の代わりとして革製の鎧を着込んでいたが、それでも山間の冷気は体にこたえるようだった。そこで二人はシュナに頼った。体を寄せ合って震える二人の頭の上には一差しの傘が差してあり、二人の目の前には一塊の火の玉が浮遊していた。橙赤色の光を放つそれは雨のしぶきを物ともせずに燃え続けて彼女たちの体を温めている。
シュナが火の玉の火力を強くすると、二人の表情が少しだけ和らいだ。シュナに向けて感謝の言葉が口にされる。
すると二人に便乗してダルマが声をかけてくる。
「シュナ、こっちにもお願いしたいんだがな。いやほんと、春先から冬に逆戻りしたみたいだ」
「あんたにはもったいないよ。筋肉があるんだろ」
「筋肉だって裏切ることはある」
「知るか」
流石のダルマもこの気温では自己流を貫けなかったようだ。おとなしく半裸は諦めてシチリカたちと同様に革鎧を装着している。
「カエデだって一人で斥候やってるんだ。大の大人が弱音を吐くな」
「ぐぬぬ……」
ダルマはがっくりとうなだれたが、気を取り直したのか違う話題をシュナにふってきた。
「カエデ大丈夫かな。シュナ、カエデの様子を探れないか」
シュナのマギカは聴覚や嗅覚を強化できる。それを見込んでの頼みだったのだろうが、シュナは首を横に振った。
「すまないが無理だ。雨のせいで音も匂いも散っているから。まあ定時連絡は入っているし心配ないだろ。サヴァンが通過したせいか知らないが獣もいなくなってるし」
「そうか。カエデを信じるほかないか」
「その通り」
それを最後に会話はとぎれた。ざー、と雨の立てる音だけが鼓膜を振るわせる。
叩きつけるような降雨の中を荷車は進んでいく。
「うー……、寒し」
鬱蒼と茂る森の中を移動する人影があった。一つに束ねられた金髪が首の後ろで揺れている。切りそろえられた前髪は雨にうたれて額に張りつき、若葉色の瞳もいつもの活気を宿していなかった。
少女はアザブラの斥候役を務めていた。名前をカエデといい、悪戯や人をからかう事が趣味という変わった性格の少女である。背中に銀色の槍を背負い、防寒対策としてマントを重ね着している。
「寒いし、暇」
鬱々とする気分を追い出すつもりでついたため息は、寒さのために白い靄となって彼女の口からたなびいた。カエデはぶるりと身震いすると、手の中に収まっている物体に目を下とした。
手の中にあったのはコンパスと呼ばれる円盤形の物体だ。外見はまるで懐中時計だが機能はまったく異なる。時計が長針、短針、秒針を持つのに対して、コンパスは長さの違う四つの針を持っていて、それぞれが別々の方向を指し示している。針が示すのはサヴァンの居場所である。
サヴァンが異なる方角から同時に接近してきたときは針が大きく振れてしまうため針の振れ具合から経験則で敵の居場所を読み取るほかないが、それでもサヴァンが近づいてきていること自体は察知できる。その有用性を認められ、開発されてから二月と短い合間にサヴァンと戦うものたちの間に急速に普及しているのだった。
「進路方向、異常なしと……」
カエデは気のない声でぽつりとつぶやいた。彼女の周囲には誰もいない。聞いてくれる人間などいないのだから脳内で確認するだけでいいのだが、それでも声に出して復唱してしまうのはやはり人恋しいからだろう。寒さと孤独はたしかに彼女の心をむしばんでいた。
「……寂しい。ん?」
カエデは眉をひそめた。コンパスの針がゆっくりとと回転しだし、やがてピタリと停止して一つの方角を指し示したのである。近くにサヴァンがいるようだった。針の回転速度が遅かったことからして数は少ない。少なくともアザブラの脅威ではないだろう。
「あー、どうしよう。ちょっと遠いかなー……」
カエデの任務は二つあり、一つは進路方向にサヴァンの軍勢がいないかコンパスで確かめること。もう一つは障害物や災害によってアザブラの進む街道が通行不能になっていないか調査することである。
今回サヴァンが確認された方角の先は薄暗がりに包まれた森の中で、街道からは大分外れている。
カエデは憂さ晴らしにサヴァンを狩ることを考え始めていた。実際、これまでも斥候の任務中に独断で数体のサヴァンを狩ってきていた。だが今回のサヴァンは森の深いところにいるようで、これを狩ろうとすればアザブラの本隊からかなり離れてしまうことになる。
カエデの中でしばし危機意識と好奇心がせめぎ合う。
そして……、
カエデはにやりと笑った。
「うん。このまま運動しないと凍え死ぬんだもんね」
好奇心に軍配があがったようだった。
「決めたからには手早くいかなきゃ」
サヴァンを狩るのに時間がかかりすぎるとアザブラに追い抜かれてしまうかもしれない。この件がばれてしまうと任務を放棄したと言われて班長たちに大目玉をくらうおそれもある。
カエデは軽くストレッチして冷えた体をほぐしていく。体が十分温まった後で、彼女はすっと目を閉じて意識を集中した。
数秒もしないうちにカエデの体がふわりと浮き上がった。カエデの持つマギカは『飛翔』である。空中を自在に飛行することができ、出せる速度もかなりのものだ。
カエデは宙に浮いたままサヴァンのいる方角へ移動を開始した。うきうきとしたカエデの気持ちを表すように、束ねられた後ろ髪が忙しなく尻尾のように跳ねている。飛べる彼女にとって茂みや木の根などは障害物たり得ない。カエデの行く手を遮るものはなかった。
――――カエデは首をひねっていた。カエデは今もマギカを発動したまま森の中を突き進んでいる。
不自然なのはサヴァンの動向だった。コンパスを見る限り敵はカエデに気づいているようなのだが、なぜかカエデに背をむけてずっと逃げの一手を打っているのだ。通常のサヴァンなら好物の人間を見つけ次第、私の脳は胃袋ですと言わんばかりに襲いかかってくるのだが……。
(もしかして手負いなのかな……)
実際、サヴァンの足取りは時間と反比例して遅くなり始めていた。サヴァンが怪我をしているならば納得がいく。勝ち目のない戦いを避けて逃げたはいいが、とうとう体力が尽きたということだ。
(死にかけだったらつまらないなー……)
未だ姿の見えない敵を追いかけてカエデはさらに加速する。
・
・
・
近い。
カエデは飛行速度を落とした。背負っていた銀色の槍を手に持って臨戦状態に入る。
周囲を警戒しながら問題のサヴァンを探す。コンパスによればサヴァンはもう間近に迫っているはずだった。しかしサヴァンの姿は確認できない。茂みに隠れているのか樹木の影に潜んでいるのか。
(ここだけど……。いない……どういうこと)
コンパスが指し示す場所は一本の樹木の根元だった。少し左右に動いても針がそこを指し続けるので間違いない。しかし、その根元にサヴァンらしき影は見あたらないのである。
もしかしてコンパスが壊れているのか。
そう思ってカエデが手持ちのコンパスに視線を落とした――――
そのときだった。
ガチャリ
そんな錠の落ちる音が空気を振るわせた。
「?」
カエデは目をぱちくりさせた。
カエデの腕に冷たい何かが押し当てられていた。よくよく見ると彼女の手首に鉄製の手錠がはめられている。その手錠には同じく鉄製の鎖がつながっていて、鎖のもう片方の先は地面に鎮座する鉄球につながっていた。
「……?」
カエデは不思議そうに首をかしげた。
(なに、これ)
「雌狩りは成功したな」
「首尾は上々です」
男の声だった。いつの間にかカエデの隣に二人の男性が寄り添っていた。あまりに自然に現れたのでカエデは驚くことすら忘れてしまっていた。ああ男がいるんだと、そんな認識だけが頭に浮かぶのみである。
「あの……、これなんですか」
カエデが手首を掲げればチャリチャリと鎖のすれる音が伴う。
男たちはカエデの場違いな質問など聞いてはくれなかった。
「少し若いがうまそうな女である。愛らしい声でなきそうだ」
「私の好みではありません。品性が足らない。それよりも早く眠り薬を」
「え……、え?」
☆ ☆ ☆
一難去ってまた一難とはこのことだった。
(せっかく下り坂が終わったと思えばこれだ。うんざりする)
ついたため息があまりに長かったので肺がすっかり空になる。だがそんなことをしても気分は晴れない。
「シュナ、シュナ。いいですよ、引っ張ってください」
ツムギの合図にうなずいてからシュナは足に力をこめる。止まっていた荷車が前進し、後ろの荷馬車も追随して動き出す。
地面のくぼみに嵌まってしまった車輪を脱出させる作業だった。ツムギが念動力のマギカを使って車体を水平に保っている間にシュナが牽くという簡単なものである。別にシュナが力業で引っ張っても構わないが、無理に脱出させようとすると車輪が壊れてしまう可能性がある。リスクを潰すために選ばれた措置であった。
「こ、ここら一帯は、はーはー、特にひどいですね、はー。どこもかしこも、まったく穴ぼこだらけです。ぜーはーぜーはー」
道に見られる穴の形はよく見ると巨大な獣の足跡がほとんどである。十中八九サヴァンの手によるものだった。先日イビリアに侵攻してきたサヴァンの軍勢が今の道を通ったということだろう。
「手間かけて悪い、ツムギ。水たまりが多いせいで見分けがつきにくいんだ」
それだけではなかった。現在アザブラの通行する道は馬車一台がようやく通れるような道幅なのである。すぐそばの路傍には樹木が生えているため、くぼみを回避しようとして小回りをきかせるのもやっとという有様だった。獣道と言って嘘はない。
「い、いえいえ、このくらいなら、はあはあ、お茶の子さいさいです。ぜえぜえ、どんどん頼ってくださいね」
ガシャンと音がした。鎧を着たツムギが手で胸を叩いたのだ。
「無理するなよ」
ツムギのマギカ『念動力』は自分の体から距離が離れるほど作用させられる力が小さくなる。無理に力を出そうとすればその分だけ気力の消耗が激しくなる。本来は馬車くらい物体を浮かせるのならそこまで消耗しないのだが、今は車輪が穴にはまるたびに何度も何度も浮かせていたので疲弊してしまっていた。
いつだって大事そうに背負っている黒塗りの大剣も荷車に横たえられている。
「わ、私ぃ、班長ですしぃ……はあ、はあ」
「ああ、分かったから息を整えてくれ」
空は炭を溶かしたような暗雲に覆い尽くされ、雨脚は天井知らずに強くなる。遠くで雷鳴が轟いていた。筋のような稲光が雷鳴と共に雲の底面を走るたび、悲鳴にもならない小さな声が雨音の中に吸い込まれる。シチリカかフラメルか。最初のうちは声をかけていたシュナも今では振り返りすらしない。
アザブラの荷台に言葉はなかった。体の芯まで冷え切って誰もが話す気力さえ失っていた。
と、その沈黙を破るものがいた。
「ダルマ、あの」
「なあ、ダルマ」
ツムギとシュナが同時に声を上げた。二人の視線が交差するが、シュナがツムギにゆずった。
「ダルマ、カエデからの定時連絡が入っていません」
荷台にいた団員の視線がいっせいにツムギへと向けられる。
「連絡が入らずどのくらい経つ」ダルマが問いただす。
「十分近くでしょうか。こちらからも催促の信号を送っているのですが、いっこうに返事の来る気配がありません」
「……連絡を忘れている可能性は」
「ない、と思います。あの子、斥候の任務中は寂しいと言って定時連絡以外にも信号を送ってくるんですよ。それが……」
「分かった。そうだな……」
ダルマは腕組みして目を閉じていたが、やがてシュナに声をかけた。
「シュナ、すまないがもう一度だけカエデの様子を探ってくれないか。ついでに周囲の状況調査も頼みたい。……おい、シュナ?」
シュナは返事をしなかった。シュナは荷台の進路前方を向いたまま固まっている。
ダルマが眉をひそめ、もう一度シュナの名を呼ぼうとしたとき、
突然シュナが振り向く。
彼は鬼気迫る表情で何ごとか叫ぼうとした――――のに、
その警告は言葉にならなかった。
ヒュッ、と空気を裂く音がして、
雨を切り裂いて飛来した弾丸によってシュナの頭部がはじけ飛んだ。
作り物めいたその光景を誰もが信じられなかった。
少年の頭がザクロのように炸裂し、噴き出した真っ赤な鮮血が宙を彩る。
脳漿をまき散らしつつ、衝撃で飛ばされた少年の体が泥の中を転がっていく。
(ちく、しょう……)
それは第一波にすぎないとシュナは知っていた。
だから彼は意識のとぎれる最後まで必死に口を動かし続ける。だが声にならない警告はただ一つの事実すら伝えられない。
シュナは意識の内側で叫び続けた。
ダルマ、囲まれてる……