第二話 アザブラ傭兵団 イビリア出発
太陽もそろそろ真上に上がるかという時刻、街門の近くでたむろする少年がいる。黒髪黒目、同じく黒衣に身を包み、黒のブーツを履いている。色使いがあまりにくどすぎて、よもや影が浮き上がっているのではと思わず二度見する通行人があとを絶えない。
その黒づくめの少年、シュナ=クレイは手頃なサイズの岩の上に腰を下ろしていた。頬の裂傷あとをぽりぽりとかきながら、彼は大きくため息をつく。
そんな彼の周りをぴょこぴょこと忙しなく跳ねる赤い髪があった。
「ごめんね。ねえ、ごめんねってばぁ……」
「シチリカ、俺はあんたに怒っているわけじゃないんだよ。俺は団長に怒ってるんだ」
「じゃあいい加減に目を合わせてよ、ねえシュナ」
「……日を改めろ」
「やっぱり怒ってるんだ。いいもん。もうシュナなんて知らないんだからっ」
怒りで顔を真っ赤にしたシチリカは頬を大きく膨らませると、回れ右をしてシュナの元を去っていく。
シュナは無言でその背中を見送っていたのだが、彼女は五歩もしないうちに振り向くと、
「なんで引き止めてくれないの~っ」
シチリカは目尻に涙すらにじませて非難の声をぶつけてくる。
(めんどくせえ……。ほっといてくれればいいのに)
シュナは額に手を当てて嘆息した。今日はこれで何回目だろうか。
「不機嫌だってことだよ、シチリカ。俺はいらついているんだ。分かったら俺の周りを犬みたいに駆け回るのはよしてくれ。余計に気が立つだろうが……」
「目、合わせてくれたらやめる」
シュナはシチリカの顔をちらっと眺めた。
「これでいいな、な?」
「そ、そんな親の敵でも見るみたいな目つきでいいわけないじゃないっ」
「あんたなあ……」
「おいシュナ、火がおろそかになってるぞえ。もっと集中しろい」
シチリカとは別の声がシュナの名を呼んだ。シュナは声のした方向を流し見る。
鉄の棒で支えられた金網、つまりは簡易的な肉焼き器の前に、座り込む小さな体があった。茶色い髪をした少年なのだが、シュナよりももっと幼い。年齢は十歳に届くかというところ。膝下まで届くチェニックもどきは少々特殊な繊維で織られた特注品で、腹回りにはベルトを巻いている。履き物は革のブーツ。
「フラメル、年上に対する横暴な口調、やめろ。その肉消し炭にするぞ」
「それは困る。シュナの金細工を彫るがごとき繊細な焼き加減、これを堪能せずしてなんとする。だいたいだ。貴様が昨晩、命令を無視して街のサヴァンの退治なぞに出向かなければ、僕だって祭りに混じれたのだ」
「う……。悪かったよ、消火活動ご苦労様だ。分かったからまずヨダレをふきな」
「イビリアの街まるごと消して回ったからな。水のマギカもカラカラじゃ。流石にひからびるかと思ったわい」
フラメルは垂れただ液を服の袖でぬぐいつつ、金網の上でジュウジュウと汁を滴らせる肉に夢中だった。拭いたそばからヨダレがあごを伝っている。シュナは顔をしかめた。
金網の下には木々などの可燃物は見あたらない。だが火は燃え続ける。シュナがマギカで肉を焼いてあげているのだった。
「フラメルあんまり顔を近づけるな、焼きにくいだろうが」
「ごっくん。まだかシュナ、もういいんじゃないのかえ……」
「ああ、手前のはもう良いぞ。火傷しないようにな」
「うん。……うんめぇの! はぐっはぐっ」
「がっつくと喉に詰まるぞ」
「うぐ!? ぐっぐぐ……」
「言わんこっちゃない。肉は逃げないよ、落ちついて食いやがれ」
咳き込む少年の背中をバシバシと容赦なく叩きながら、シュナはまたため息をついた。
「ケホッケホッ……マジ死ぬかと思った。おいシュナ、その書類ってやつはそんなに大事なものだったのかえ」
「あったり前だ。サヴァン誕生の秘話だぜ。奴らの生態に迫れるかもしれなかったってのによ……ったくあのクソ団長……何が『これは重要な機密文章である』だっ。情報を独占しやがって……! 馬の尻なで回して馬脚をくらう夢を見ろ!」
「もちゃくちゃもちゃくちゃ。シュナ、貴様の話を聞いたシチリカがますます気を落としているぞえ。由々しき事態じゃ」
見れば、シチリカが少し離れた場所に座り込んで、地面の草をむしりつつ「シュナに嫌われた……ひぐっ、シュナに嫌われた……」と呪詛のようにつぶやいていた。
「いじけておる。シチリカは人に突き放されるのを得意としないからのう」
「はあ……」
「ああいう手合い、ほっとくとな、ぐれるぞ。寝首に刃が飛んでくる」
「返り討ちにすればいい」
「シチリカはシュナのことになるとバカになる。そいでシュナはもともとバカだ。ここは一つ、僕が話をつける。だからシュナ、焼き肉追加ね。貴様のなし得る最高を提供せよ」
「頼んだよ。じっくり焼いといてやる」
フラメルは急ぎシチリカのそばに走り寄ると、彼女になにやら耳打ちを始めた。シュナは耳を澄ましたがよく聞こえない。
シュナはマギカを使って聴覚を強化しようかとも思ったが、その考えは早々に打ち切らねばならなかった。
「よう、たき火代行」
アザブラ傭兵団の一人がシュナに声をかけてきた。大柄な男だ。隆々とした筋肉が全身を覆っており、背中には戦斧を背負っている。肉体だけが我が誇り、とは彼の格言である。
彼は上半身に何もはおっていなかった。いつものことなのでシュナは気にしない。
「ダルマか。春先とは言え、何も着なくて寒くないのか」
「着てるだろう、筋肉を。ていうか、ふくれた面してんなあ。怒りの矛先は団長か、わっはっは」
「何しに来たんだよ、暇つぶしなら帰ってくれ」
「そう邪険に扱いなさんな。お前の嫌いなディー団長からのお達しだ。半刻後に移動するぞ。街門付近に集合。行き先は南、ミリアの港だ。加えて、なんと隊商の護衛が舞い込んでいる。まあ、行きがけの駄賃だな」
「……へえ、珍しい。てか昼間に出発? 急な話だな。アザブラの連中、二日酔いでまだ使い物にならないだろ。……またサヴァンの軍勢が出たのか?」
「いや、そうでもないらしいんだが……。急なのはまあ、いつものことだろう。どのみちここイビリアにいても仕方がないしな」
「サヴァンじゃないのか……。じゃあ、またあいつの謀か。ディー=スペルマ、何考えてやがる。毎度こそこそ気にいらねえ」
ダルマは肩をすくめた。彼は首が短いため、盛り上がった肩の筋肉が頬までせり上がるというなんとも奇妙な図になる。
「言ってやるな。アザブラ傭兵団がまとまっているのはディー団長の手腕があるからこそだ。じゃなきゃ俺らみたいなマギカ頼みの荒くれ集団、とっくの昔に内部崩壊してるぜ」
「知るかって話だ。くそっ、俺はこの手でサヴァンを皆殺しにできるって聞いたからアザブラに入ったんだ……それを小間使いか何かみたいに……」
「ダメだぞダルマ、今日のシュナは不平不満しか申さぬからの。僕も手を焼いておったところだえ」
いつの間にかダルマの目の前にフラメルが立っていた。フラメルは「今日もダメじゃ。胸筋にみごと阻まれてダルマの顔が見えぬ……」と言って落胆している。フラメルの日課だった。足下からダルマの顔が見えたら背が伸びた証、というわけだ。
「おうフラ坊、昨日は大活躍だったそうじゃねえか。火消しご苦労」
「貴様のへたくそな歌は街壁の内側まで響いてきたわい。ありゃ、獣の遠吠えと大差ない」
「即興で歌わされたんだ。勘弁してくれ。……とまあ、そんなとこだ。シュナ、買い物がしたいなら今のうちだ。商人達ががなるからあまり遅れないでくれよ。ああそれと、住人に捕まると面倒だから、街に行くならフランチェスカに偽装術をかけてもらえ」
「心配ないんじゃないか。どうせここの住人はウィザードが怖くて近寄ってこないだろう。現に今だって話しかけてくる奴はいないし」
「いろんな意味を含めた保険と考えてくれ。リスクは潰さなければならないんだ」
「……まあ、了解。ていうか、もう店が開いているのか?」
「人間は強いよな。じゃあな、俺は丘の上で死んでる飲んべえどもに活を入れてくる」
ダルマが去って行く。大股な彼は歩くだけでも十分早い。
みるみる小さくなっていく男の後ろ姿を眺めながら、シュナはフラメルに移動のことを伝えてあげた。
「――というわけだ。ちょうど手持ちの干し肉が無くなっててよ。買い足しに行くぞ、付いてきてくれフラメル」
「もちゃくちゃもちゃくちゃ、肉を食い終わってからの」
「早くしてくれ……。あ、そういえばシチリカはどうしてる?」
「ああ、うまくいったぞ安心せい。魔法の言葉を使ったからな。跳ね馬さながらのステップを披露しながら街門をくぐっておった。共連れにフィフィがついて行ったが、心底面倒くさそうな顔をしてたぞえ」
フラメルは新しい肉に串を突き立てる。
「……ところでシュナ、なんでシチリカに冷たく当たったん?」
「ん?」
「目も合わせんかったろ。そりゃ、昨日シュナに無理矢理飲ませたあげく、眠りこけたシュナに断りなく書類とやらをバッグから取り出し、勝手に団長に手渡した。傍目から見たらシュナが怒るのもうなずけるがな。……シチリカ、シュナのこと本当に心配してたんだぞ。人間を火葬して落ち込んでるみたいだったって……。今朝だって、シュナがローデリヒの埋葬するって聞いて、墓地までついていったろ? ……シチリカのこと嫌いになった?」
「ああもう、フラメルよしてくれ。分かってるんだよ、そんなことは」
シュナは頭をがりがりとかきながら、尻の下の岩に二度三度ブーツのかかとをぶつけた。
「シチリカはどうせ気分転換とか言って俺の事励まそうとしたんだろうさ。バッグを開けるなんざ日常茶飯事、書類は気になって読んでみたもののリーブル語で書いてあるから読めない。そういえばシュナってリーブル語は話せても読めない人だったな。じゃあ、どうせディー団長あたりに翻訳を頼むだろう。よし、だったら私が持って行ってしまおう、こんなところだろう」
「じゃあ……」
「分かっていても怒りがわくんだ」
あいつが余計なことしなければ今頃は……ああ、くそ。シュナは一際強く岩にかかとを打ちつけた。
「こればかりはどうしようもない、俺の性なんだよ。そんな状態でシチリカと話したら心ない言葉ぶつけちまいそうだ。で、あいつそっちの方がもっと気にするだろ。シチリカのことが嫌いになったわけじゃないんだ。明日あたり俺から謝るから、今日は許してくれ、な」
シュナがそこまで言い切ると、フラメルは安心しきったように破顔して、小さい口に次々と肉を放り込むようになった。
「くく、なあんだそうか。かっかっかっ。そんな方法でしか感情を抑えられぬ貴様は子供じゃっ」
「るせっ。……あ、思わずマギカが暴走して肉が……」
「あああああああああっ!? なんとするうううううううううっ!!」
☆ ☆ ☆
「干し肉だけでいいのかえ。フルーツとかは? 焼き菓子でもいいが……」
灰色の上着を着たフラメルがシュナにおねだりしている。フラメルがぴょんぴょん跳ねるたびに、頭にすっぽりかぶったフードがずれ落ちそうになる。シュナも同じく灰色の上着を着用し、フードをすっぽりかぶっていた。
「俺が欲しいのは携帯食だけだ。腐るものは買わない。欲しいのなら自分で買うんだな」
「シュナのけちんぼ。マギカがあるからミリアまで飲まず食わずでたどり着けるじゃろ」
「バカ言え、んなにマギカを酷使できるか」
「しかしなあ、ここの市場、暴利だぞえ。僕の小遣いじゃリンゴ2つで精一杯。腹の足しにならん」
「物価、あがってるな」
「これもサヴァンのせいかの」
「主原因だろう。街道にやつらが出没するせいで商人も身動きがとれないし、それ以前に穀物の種たる農民を食い荒らしてるからな。放棄された農作地も多数、奴隷は飽和状態、難民は数を増すばか、り……っ。あ、ああ、いけない、高ぶってくる。っは、殺すぅ……」
シュナは突然立ち止まると、両腕を自分の胴に巻きつけてカタカタと震えだした。顔面が醜く歪み、口角が歪につり上がる。無意識にマギカが行使され、彼の周囲の大気が夏の日の陽炎のように揺らめいた。
彼が立ち止まったのはイビリアの街にいくつかある大通りの一つで、決して少なくはない人通りが彼をさけて流れていく。その姿はあまりに特異だった。
「シュナばか、あまり目立つな。フランチェスカの精霊術も万全じゃないぞえ」
「は……、すまない」
我に返ったシュナはフードをいっそう深くかぶった。住人がシュナ達に気づく気配はない。イビリアの街をサヴァンから救ってみせた英雄に人が群がらないのは、住人があまりに無関心だから、というわけではなく、シュナ達が『精霊術』で自分たちの見かけを偽装しているからである。
「まったく。僕がいなかったらどうなっていたか。シュナ、迷惑料として果物一つ」
「抜け目ねえな……」
「あそこあたりでいいや」
フラメルが露店にかけていく。シュナも雑踏をかきわけてその背中を追おうとした。
(ん?)
シュナは再び立ち止まった。うなじのあたりが妙にざわつく。背後に誰かの視線を感じた。
とっさに振り向いて周囲を確認する。だが、視界にはごみごみした町並みと人が織りなす光景が広がるばかり。
「…………」
「シュナ?」
「ああ、待ってろ、今行く」
フラメルが品物を選んでいる間、シュナは何気なく露店の主に話しかけた。
「なあ婆さん、俺が誰に見える?」
露店の主は胡乱げな顔でシュナを一瞥した。
「お前さんみたいなのは最近ようく見るよ」
「え?」
「自分が誰に見えるかって聞いてよ、そのあとでそいつは大層な貴族の名前を自称するのさ。サヴァンに襲われ落ち延びたって設定までこしらえてな。たいていが食うに困った素寒貧。ぼろっちい服装を指摘すると、今度は盗賊の追いはぎに遭ったと言い返してくる。けっ、あんたも冷やかしなら散った散った、商売の邪魔になるだよ」
「そういうことを聞きたかったんじゃないんだがなあ……」
☆ ☆ ☆
「遅いぞ、シュナ。今回はアザブラ傭兵団の心証に関わるんだから」
「悪いなダルマ。フラメルがだだをこねたんだよ」
「な、嘘つくなシュナ。貴様が往来で暴走などするから要らぬ時間をくったのじゃ」
「仕方ねえやつらだ。おいシュナ、人車の操縦を頼むぞ」
「え? 今回の当番はビーモスのはずだろう。……あれ? そもそも団員少なくないか? ほかの班の連中はどこに行った?」
アザブラ傭兵団は人員二十九名で構成されている。団員は五人一組の五班に分けられ、各班は一人の班長のもとに統制される。残る四人はアザブラ傭兵団の団長であるディー=スペルマと彼の直属の部下三人だ。
現在、傭兵団は街門のすぐ内側に集合しているわけだが、シュナが見る限りその場にいる傭兵団のメンバーは彼を含めて十名。つまり二班しか集まっていないことになる。
「隊商の護衛は俺らダルマ班とツムギ班が担うことになってる。ディー団長ほか二班は急ぎの用があるらしく、ルッテリアのマギカでミリアの港に転移済み。チャチャ班は別件の任務のため俺らとは別行動になる」
シュナのこめかみにビキリと青筋がうかんだ。
「ディー……。面倒ごとだけ押しつけやがって……、自分は精鋭をはべらせて安全圏で茶をすするわけか」
「お仕事だよ、お仕事。シュナ、団長には責務があるんだ。アザブラ傭兵団を導くっていう責務がな」
「見上げた忠誠だよ。ダルマ、あんた騙されてるよ。ディーは傭兵団なんて駒の一つとしか考えてないぞ」
「団長としての必要に迫られてそう考えているだけだ。常に理性的でなければトップは務まらんのさ。さあ、これ以上の減らず口はなし。人車の操縦をだ。ほれ、行った行った」
ダルマはシュナの背中をばしばし叩く。
「痛い、痛いっつの。分かったから叩くな。……ダルマ班長、一つだけ。昨日の今日だ。細胞活性のマギカがどのくらいもつか分からない、休憩は入れさせてくれ」
「無論予定に組み込んである。頼んだぞ」
商人達と打ち合わせがあると言って、ダルマが去って行く。
「今日はシュナの運転か、こいつはついてる。ビーモスの運転は荒っぽくて好きになれんからの」
フラメルがほっとした顔で話しかけてきた。シュナはなんともなしにつぶやいた。
「鬱憤たまってるし久しぶりに爆走するかなあ」
「冗談よせやい」
☆ ☆ ☆
街門の周囲にイビリアの住人が群がっている。千人近くはいるだろうか。門の内側に集まったアザブラ傭兵団の面々が出発するというので、その見物にやってきたというわけだ。野次馬である。
あたりは奇妙な静けさに満ちていた。これだけの人が集まっていながら、耳を澄ませば隣人の息づかいすら聞こえてしまうほどに皆そろって沈黙を貫いている。
「見えない、見えないよぉ」
張り詰めた空気が漂う群衆の中で、一人の少女が背伸びをしたり飛び跳ねたりしていた。年の頃は7つか8つ。前方にいるらしいアザブラ傭兵団の様子をうかがおうとしているのだが、周りの大人の背中が邪魔でまったく見えない。
諦めかけたそのとき、彼女の視点がぐいっと上昇した。驚いて後ろを見ると、よく知る顔が間近にあった。
「お父さんっ」
「フェミ、危ないから人混みに入るのはいけないと言ったはずです」
「ごめんなさい」
「……少し前に行きましょうか」
父親は娘をしっかり抱き抱えると、群衆をかき分けながら前に進み出した。すぐに最前列までたどり着く。そこから先へは進まない。傭兵団を取り囲んだ群衆は、一定の距離をとったままそれ以上近づこうとはしないのだ。まるで見えない線が引かれでもしたようで、父親もあえてそれに逆らおうとはしなかった。
「あ、シュナだっ」
娘が指さした先で、一人の少年が歩いていた。全身に黒づくめの衣服をまとい、髪も目も黒色ときた。まるで人型の影が浮き上がっているようである。
「お父さん、シュナだよ。ほら、昨日お話ししたあの人。もっと近づこうよ」
「だめです」父親は首を横に振った。
「え、でも……。シュナ、行っちゃうよ。フェミ、シュナとお話ししたいよ」
「だめです」
二回目の言葉は有無を言わせぬ断固たる意思を感じさせた。
娘は自分がわがままを言っているのだと理解し、それ以上騒ぎ立てようとはしなかった。その代わり、父親に疑問をぶつけてみる。
「お父さん。どうして皆、近づこうとしないの? 助けてもらったこと、忘れちゃったの?」
「いいえ。住人はむしろ、感謝を伝えたがっています。だからこうして集まったのです」
「でも、じゃあなんで?」
「彼らがウィザードだからです。心の底でウィザードを恐れているから、イビリアの住人はここで立ち止まったままなんです。お母さんによく聞かされたでしょう。おとぎ話の中に出てくるウィザードの恐ろしい悪逆を。あれはね、半分は本当にあったことなのですよ。ウィザードを恐れることは、なかば人の知恵でもあるんです」
「そうなんだ……」
「彼らは世に混乱をもたらしてきた。古き時代から刻まれてきた恐怖はたった一日でなくなるものではないんです。それがたとえ街を救った英雄であったとしても……」
「でも、昨日は」
「昨日は特別でしたからね。皆浮かれていた。それでも、傭兵団に話しかけていたのは財力を持った商人達であって、ほとんどの住人は遠巻きにそれを眺めているだけでしたよ」
「…………」
「覚えておきなさい。マギカが生み出すのは畏怖の念、そして対等ではない関係。行きすぎた力は人間を孤独にするんです」
そのとき、群衆の間にざわめきが走った。住人は傭兵団の方を指さしながら、ひそひそと声を交わし合っている。彼らが驚いたのはアザブラ傭兵団の移動手段についてだ。
傭兵団の面々は、四つの車輪がついた荷車のようなものに乗り込んでいた。そこまでならまだ分からなくもない。奇妙なのはそこから先だった。荷車の前方には牽引するのに使うコの字型の鉄棒が取りつけられているのだが、それを握っているのがシュナなのである。傭兵団の九人が乗り込んだ荷台を彼一人で引こうとしているのだ。
近くにいた若い男達の会話が娘の耳に入ってくる。
「噂は本当だったんだな」
「噂?」
「ウィザードは動物に嫌われるって噂、知らなかったか? ウィザードが近くにいると馬が嫌がって暴れるから、やつら馬車を使えないんだよ」
「へえ。てか、あの黒づくめ大変だな。すげえ重労働じゃん」
「そうでもない。あいつマギカで怪力が出せるから。昨日は石の壁ごとサヴァンをぶち抜いていたよ」
「化け物かよ……、とことん常識から外れてやがる。俺らの代わりに戦ってくれたわけだし、悪い奴らじゃないんだろうけどな……。サヴァンとの戦線を何とか維持してくれてるのもウィザ-ドの連中だって聞くし」
「そりゃなあ……。でもさ、助けてもらって悪いけど、やっぱおっかなくて近づけないよ……」
娘は聞き耳をたてながら考えていた。父親の横顔を見やる。
(お父さんが私をここに連れてきたのはなんでだろう)
ウィザードが本当に危険なものならば、親とは普通、子供を遠ざけるのではないだろうか。
お母さんの語る話じゃウィザードはいつも悪者だったけど……。
娘は考え抜いたあとで、一つの結論に達した。
「ねえお父さん。フェミね、昨日シュナとお話ししたの。シュナ悪い人じゃないよ。すごく優しかったもん」
「そうですか。……実は父さんも、昨日彼らと少し言葉を交わしました。ほんの短い時間ではありましたが、特にダルマという男はなかなかの好漢でしたね」
「お父さん、人には優しくしなさいって、いつもフェミに言ってるよ。それと、人を見かけだけで判断しないようにっても言ってる」
「そうですね」
「お父さん、フェミ、シュナにありがとうって言いたいの。いい?」
父親は娘の頭を優しい手つきで撫でた。
「うん。あの人たちに見送りの言葉をかけてあげなさい」
「シュナーっ!」
突然響いた大声に人々の視線が集まる。娘は気にせず黒づくめの少年に視線を注ぎ続ける。
シュナが驚いたようにこちらを見てくる。
「シュナーっ! 助けてくれてありがとーっ! 昨日はほっぺの傷、ほじくってごめんねーっ!」
娘は一つ息を入れる。
「また会えるよねーっ! 待ってるからねーっ!」
娘は言葉をきって反応を待った。
少年はしばらく困ったように視線を散らしていたが、やがて穏やかな笑みを浮かべると、顔の近くで控えめに手を振ってくれた。
娘は破顔すると大きく手をふりかえした。
それが引き金となった。
住民はうちに秘めた想いを次々口にし始めた。
「ありがとう! イビリアを守ってくれて!」
「息子を助けてくださりありがとうございました!」
「サヴァンに襲われて死んでなかったとは驚きだ! また日の光が見れるとは思わなかった! 感謝する!」
「ダルマーっ! また歌聞かせてくれやーっ! 練習しとけーっ!」
「シチリカちゃーん! いろいろ磨いて待ってるからーっ!」
声はみるみる重なり合っていき、やがて大歓声となってアザブラ傭兵団を包み込んだ。
「イビリアの皆さん!! お伝えしたいことがあります!!」
住民の声がにわかに静まる。突然上げられた大きく通った声はダルマのものだった。彼は荷台の上で立ち上がると、大きく腕を広げて住民全てに語りかける。声が空まで響き渡る。
「私たちアザブラ傭兵団はウィザードの集団であります! ウィザードは力を持っている……、皆さんがウィザードを恐れるその気持ち、十分に理解できます。……しかし忘れないで欲しい! ウィザードになる以前は、私たちもあなたたちと同じくマギカとは無縁の存在であったことを! そして今、こうしてマギカを手にした偶然に私たちは感謝する! 私たちは弱きのために力を振るおう!! マギカとは!! 悪辣なるサヴァンを撃滅するべく天から授けられた人類の武器であるのです!!」
地を振るわす大歓声がわき上がる。熱気が最高潮に達したそのとき、ダルマは拳を力強く振り上げた。
「サヴァンを恐れるな!! 反撃ののろしはすでに上がっている!! これまでの非道なウィザードとは断じて違う!! 私たちは悪魔に魂を売り渡しはしない!! 今一度サヴァンが人の里を襲うのならば牙をもってそれを制そう!! 止まらぬ涙を笑顔に変えてみせよう!!
今ここに宣言する!! アザブラ傭兵団は人民の味方である!!」
「ばんざーい!! アザブラ傭兵団、ばんざーい!!」
「ばんざーい!! アザブラ傭兵団、ばんざーい!!」
イビリアの街壁が崩れんばかりの大歓声だった。人の熱気と声の振動が体を打ってくる。
その間中、娘はずっとシュナのことを見ていた。
ダルマがちらりとシュナの方を見て、小さくうなずく。シュナもうなずいた。
(行ってしまうんだ……)
娘は悲しみに襲われて下を向いた。幼い彼女にとって、別れとは人と会えなくなること、それ以外のなにものでもない。だからこそ純粋に別離を悲しめるし、その悲しみは一層深いものとなる。
(せめて笑顔で送りだすんだ……)
娘が涙をこらえて顔を上げる。
その瞳が大きく開かれる。
シュナが娘の方を見ていた。優しい目をした少年の口が言葉を紡ぐのがわかる。
声は届かなかった。それでも娘には理解できた。
――またな、フェミ
荷馬車の上の御者が馬の尻を叩いた。馬のいななきが聞こえる。シュナたち傭兵団の荷車が先行し、隊商の荷馬車があとに続く。
サヴァンによって無残に破壊された街門の横で、門番の衛兵が槍の柄尻を地面について通行許可を出した。傭兵団が隊商を引き連れて街の外に出る。
住人の熱気は冷めやらず、街門が破壊されていたこともあって、彼らは波のようになって傭兵団を追ってきた。御者が興奮した馬を収めるのに四苦八苦している。
人がまばらになりやがて完全にいなくなるまで、二キロ近くは進まねばならなかった。
☆ ☆ ☆
娘は父と手を繋ぎながら家路についていた。通りは閑散としている。人が皆、傭兵団を追って街の外へ出てしまったからだ。
大通りを曲がって人通りのない路地に踏み入る。路地を少し進むと、娘が歩みを止めた。娘はうつむいてしゃくり泣いていた。
父親は膝を曲げてしゃがみこむと、娘に優しい声音で問いかけた。
「あの少年との別れが寂しいのですか」
娘は一度首を縦に振ったあと、今度は首を横に振った。
「あの、あのね……」
「うん。聞きますよ。言ってごらん」
「フェミ、変なこと言うから……怒らない?」
「うん。大丈夫ですよ」
「……お父さんの遺影を見てるみたいだったの」
父親はさすがに言葉をなくして、しばらくした後で仕方なく娘の頭を撫でた。
「どういうことですか?」
「さっき出発するときね、シュナ笑ったの。裏のひー君みたいなニシシッって笑いとか、けいちゃんみたいな人を馬鹿にする笑いじゃなくてね……。あの優しい目つき、お父さんの笑い方に似てた。見てると人を安心させるような笑い」
「そうですか」
「……でも、そこには悲しみが混じっていたの」
「悲しい笑い、ですか」
「うん。見てると胸を締めつけられる笑いなの。フェミ分かる。シュナ、遠くの世界からフェミを見てた。そばにいるのに、溶け合ったり混じり合ったりしない、フェミが絶対に手の届かない場所で笑っている。だからね、お父さんの遺影を見てるみたいだった」
父親は娘を抱きしめた。
「フェンデミーナ、お前は賢くて鋭い子です。あの少年の気持ちを見抜いてしまったのですね」
「フェミ、シュナのこと悲しませちゃったのかな。あんなこと言わなければ良かったのかな」
「違いますよ、フェミ」
父親は娘の肩に手を置いて、彼女の顔を正面から見つめた。
「彼が悲しんだわけは、彼が選んだ生き方に関係しているんです。フェミ、これはダルマから聞いた話ですが……あのシュナという少年は、サヴァンによって家族を殺されているのです」
「シュナ言ってた。だからサヴァンに復讐するんだって」
「そう。彼には復讐の動機がある。でもね、それが彼の全てじゃない。彼にはもう一つの道がある。それはフェミ、お前のような無垢な子供を悲劇から守り抜くことです。家族を殺されたその日、彼は身を焦がす怒りのただ中でそう誓ったらしいんです」
罪なき存在がサヴァンに殺されるのは、どう考えても不条理だから……だから、俺が守ってみせる。
「だったらシュナは誓いを果たしたんだよ? なのにどうして悲しい顔をするの?」
父親の表情がかげった。
「それは……それはね。サヴァンをいくら殺そうが、家族は帰ってこないから、ですよ。復讐をとげても、お前をサヴァンから守っても、シュナが失ったものは戻ってこない。そんなことで彼の孤独は満たせない。彼の悲しみは癒えないのです。……彼は妹を溺愛していたと聞きましたから、おそらくお前を見ていて家族のことを思い出したんでしょうね。もう二度と会えない人のこと、自分の行動の空しさを……。だからお前の無事を喜ぶ笑みの裏側に、悲しみが透けて見えたんです」
「そんな、ひどい! シュナは皆のために戦ってるのに、そんなのってないよ! 家族のいないまま、ずっとひとりぼっちだなんて!」
「残念ながら、それが彼の選んだ道です」
「じゃあ、フェミがシュナの道に付きそう! そうしたらシュナ、一人じゃなくなるもん!」
父親は首を横に振った。
「シュナは傭兵でお前は子供。足手まといになるだけです。お前も、そして私も、彼に感謝することしか出来ない」
娘は絶句して、やがて本格的に泣きだした。
「分かるんだから。えぐっ、このままじゃ、ひぐっ、シュナ、壊れちゃうんだからぁ……」
「確かにね。人助けは結果であり『事実』に過ぎない。心にぽっかり空いた『存在』は『事実』では埋められない。だから、彼はいつまでも空虚のままなんでしょう。でもねフェミ、安心しなさい。彼には仲間がいたでしょう」
「なかま……?」
「そうです。彼にはアザブラの仲間がいる。きっと仲間が時間の助けを借りて、彼の失ったものの場所をゆっくり埋めてくれるはずです」
「…………」
「シュナは大丈夫です。お前がしようとしたことは彼の仲間がやってくれます。分かりますね?」
「……はい」
父親は娘の頭をくしゃくしゃと撫でてやった。愛情といたわりの気持ちを込めて。
「シュナに対して、フェミは今の自分にできる最良のことをしました。それは父さんが保証します。……さあ行きますよ。うちに帰りましょう。母さんが待ってる」
父親は娘を抱きかかえると、そのまま路地を進み始めた。
そして家も間近にせまったとき、いつしか泣き止んでいた娘に父親は聞いた。
「フェミ、お前がシュナについて行くことで彼を助けられなかったのは、サヴァンと戦う力がなかったからです。恐らく、お前のその弱さはどうあがいても克服できない。お前はどうしたって女の子で、ウィザ-ドでもないから。……それでも、今後シュナのような境遇の人間が現れたとき、助けたいと思いますか?」
「もちろんです」
「フェンデミーナ、ならば大きくなりなさい。その優しさを胸に秘めて。お前はサヴァンに対して無力でも、人に対しては無力じゃないんです。この言葉を忘れないでください」
娘は少し考えた後で、しっかりうなずいて見せた。