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第十六話 無謀と希望 崩壊都市リオーネ

心の機微が書けず、挫折した模様

よく分からない描写で申し訳ないです。


アリア大陸の大ざっぱな位置関係について

↑北

        カミュナ帝国 ←       → 聖アーバラク国

        帝都バリア     |

イビリア      ・   ・     |

 ・           リオーネ  |   首都ナバロ

 ・                   |     ・

ミリア港               |


ちゃんと示せてるか不安ですけど、大体こんな感じ。

ずれがあったらごめんなさい。気づいたときに修正します。

制限上、たて横の縮尺が微妙に違います。ご容赦を

 シュナは黙々と歩く。

 天候は荒れに荒れていた。体を打ち据える雨脚は強さを増すばかり。ときおり地面のぬかるみに足を取られそうになる。

 荷馬車が幌馬車でなかったことが恨めしい。アリアは布束にくるまり固まって動かない。スカイブルーの髪からつま先に至るまで見事にぐしょ濡れだった。シュナはアリアに丸い形の壺を逆さにした状態で抱かせ、内部にマギカで火を灯して温めていた。それで暖は取れているだろうが、限界というものはある。一時は頭上に火力を集中させて雨粒を蒸発させることも考えたが、幾分消耗が激しい上サヴァンの襲撃があることも考えると得策ではない。

(屋根だ。屋根を作れば全てが解決する……)

 考えに入れておく。

 シュナはちらと背後を伺った。アリアの顔つきは目に見えて憔悴している。サヴァンに殺されかけ、得体の知れない黒づくめに連れ回される心労、治療に使用した精霊術の反動、夜を押しての眠れぬ行進。体力的に厳しいものがある。

(これ以上は……)

 距離は十分確保したと思う。ここまでサヴァンに出会わなかったのは僥倖と言える。

 正確な時刻は分からない。しかしもう相当の距離を進んだはずだ。

 それでもシュナは歩みを止めない。

 理由があった。それは自分たちが街道を進んでいるというもので、

(頼む。これだけ進めば一つくらい……)

 シュナは足に力を入れて上り坂を進む。

 予感はしていた。道を挟んでいた木々が姿を消している。森を抜けた感じがする。

 上り坂を登りきり、坂の頂点から景色を見下ろす。

 シュナの顔に笑みが浮かんだ。

 闇になれた目がとらえたのは、等間隔に植えられた数多の樹木。

「農園だ。やった」

 焦る気持ちをおさえて坂を下る。

 集落はもうすぐだ。雨だってしのげる。


  ☆  ☆  ☆


 アリアを乗せた荷馬車が農園を突っ切っていく。しばらく進むと男が声を上げた。

 アリアの意識が現実に引き戻される。と、遠方に大きな炎が出現して灯台の役目を果たしてくれる。

 裂かれた闇の中に農村が姿を現した。いや、規模的に言えば街と言ってもさし支えないかもしれない。

 街は積み上げられた石の壁に囲まれている。が、堅牢な防護壁もサヴァンを前には意味をなさなかったようだ。壁は所々引き裂かれたように崩壊しており、すき間から見える家屋群に明かりは灯っていない。

 目の前に広がるのは栄華を極めたカミュナのなれの果て、嵐の下にたたずむ都市の亡霊だった。


(…………)

 心に穴の開く音がした。

 アリアは声もなく呆けていた。


「エデンスローリー……」

 牽き手の男がこぼすようにつぶやく。彼の視線の先を辿ると、街壁にもたれかかったまま動かない巨大な影が見える。街に近づくにつれて鮮明になっていくそれは見覚えのある敵の姿だった。

 青白い皮膚をした巨人だった。街壁は六、七メートルもあるというのに、巨人の身長はそれをゆうに超えている。二人の見つめるその巨体は壁の上端に胸を押しつけた姿勢で事切れている。その背中から三本の棒が生えていた。目をこらせばその先端が鈍くきらめいている。

「投射砲を流用したのか。槍は急造で、よく……」

 更に接近すると、小型のサヴァンが数十数百と地面に転がっているのが視界に入る。どれも矢に貫かれて絶命している。

「……アリア、どうする」

「……大丈夫です」

「人の骸もある」

「初めてじゃ、ないですから……」

「……分かった。これから雨宿りできそうな場所を探す。目を閉じていた方がいい。こうした光景は心に残すと毒になる」


  ☆  ☆  ☆


 崩壊した街門をくぐり抜ける。散乱する瓦礫を蹴り飛ばしながらシュナはあたりに目を向ける。

 マギカの明かりを鬼火のように浮遊させながらサヴァンの影を探す。

 街は死んでいた。人気の無い街路には損傷の激しい死体がいくつも転がっている。立ち上るはずの死臭は雨で緩和されているが、マギカで嗅覚を強化しているシュナには十分きつすぎる。

(籠城して、戦ったんだ。逃げる間もなく……、いや、街を捨てられなかった、か)

 街壁の裏手には半壊した櫓や昇降用のはしごが目立つ。壁の上から矢を射て応戦していたらしい。粗末な鎧をまとった死体も珍しくない。

(最初は戦えていたんだろう……)

 よく耳にした話だ。まず、街に足の速い小型のサヴァンが大挙して押し寄せる。小型のサヴァンは人こそ喰らうが所詮は肉食の獣と大差なく、武装した一般人なら簡単に撃退できる。こうした襲撃が繰り返され、人は慢心し、そして街の周囲にぶちまけられたサヴァンの血が濃さを増していく。

 シュナは街壁に目を向けた。崩れた壁にもたれかかった巨人の腕が壁の内側にだらりと下がっている。エデンスローリー、大型サヴァンの一種。この街は典型だった。血の匂いが大型種を招き寄せ、大型種が街壁を破壊し、逃げだそうとしても逃げ出せぬ状況に追い込まれて陥落する。

 赤黒く染められた路上を進む。シュナは道を左に折れた。左に折れねば街の中心部に行き着く。おそらく教会なり集会場なりが存在するだろう。救いを求める人間が最後に逃げ込む場所……。中を見たいとは思わない。

「カミュナは……」

 アリアがぼそりとつぶやく。

「カミュナは……本当に崩壊したのですね……」

 シュナの足が止まる。

 それも一瞬のことで、再び車輪がガタガタと回り出す。

「ここにしよう。アリア、もうすぐ温かい寝床につけるから」

 シュナは適当な家屋を選び出すと閉じきった扉に手をかけた。扉には鍵が掛かっていない。

 扉を開け放つ。カビと埃の香りが鼻腔をくすぐる。死臭はしなかった。 

「アリア」

 シュナは荷台の上のアリアに声をかける。下りろという意味を込めて。

 しかしアリアは動かなかった。

「アリア?」

「ごめんなさい……。今、下ります……」

 アリアがふらふらと立ち上がる。頼りない歩き方だった。

 心配したシュナが荷台に飛び乗り、活気のないアリアに手を差し出そうとして、

 その手が握られる前に、アリアがシュナの胸に倒れ込んでくる。雨に濡れたひたいが顎にぶつかり、そしてシュナの胸をずるずると滑り落ちていく。

 慌てて少女の背中に手を回した。力の抜けた体を抱きとめながら、崩れ落ちたアリアの膝の裏に左手を回し、右手で背中を支えて小さな体を抱きかかえる。

 家主を失った家は沈黙のままシュナ達を迎え入れた。大きな屋敷だった。二階立てで部屋の数も多そうだ。床には絨毯が敷き詰められ、床から上がってくる冷気を和らげてくれる。

 シュナはリビングらしき部屋に足を踏み入れると、置かれていた豪華な作りのソファーにアリアを座らせる。

「乾いた布を探してくる」

 シュナはそう言い残して屋敷の探索に向かう。

 すぐに洗面所を見つけた。そこは脱衣所も兼ねているようで、棚の上にはタオルがいくつも置かれていた。奥は浴場になっているのだろう。凝った作りの水道も発見したが、試しにレバーを下ろしても水は出てこなかった。地下水をくみ上げる精霊術機構が停止しているようだ。そういったものは軒並み停止していると見て良いだろう。管理されていないのだから当然だが、逆に言えば術式を再起動させれば生活基盤が復活する可能性がある。

 シュナは比較的清潔そうなタオルを二、三枚引っ張り出すとアリアの元へ急ぐ。

 ソファーに座ったアリアの小さな頭にタオルをかぶせ、自分の頭部もタオルでごしごしと拭く。と、アリアの腕がゆっくり持ち上がってタオルに添えられる。アリアはシュナに倣って緩慢な動きで頭部を拭き始めた。瞳に光は無く、心がどこかへ吹き飛んでしまったような表情をしている。

「すみません。取り乱して、頼りきりで、私……」

 ぼそぼそと紡がれる感情のない言葉。その事務的な響きが彼女の心情を表していた。

 頭部からタオルがずれ落ちて膝の上に広がっても、アリアは気づくことなく髪をなで続けている。

 シュナがタオルを拾い上げてアリアの頭を拭いてやる。頭部から頬に垂れる水滴をぬぐおうとして、その中に二筋の涙が含まれていることに気づく。

 少女は泣いていた。目を開けたまま、虚空を見つめて泣いていた。

「私、馬鹿です。楽観的でした……。エリシャに……従者に会って、そうしたら全部、解決するとばかり……。馬鹿です、馬鹿ですほんとうに……」

「…………」

「言葉を、従者の言葉を信じていました。今に、援軍が来ると。カミュナの栄光はもう間もなく、復活すると。言い聞かされて、それ以外の言葉を聞こうともせず、耳を塞いで、すがっていて……」

「…………」

「カミュナは、崩壊したのですね。私の祖国は、もう、失くなってしまったのですね……」

 シュナは固まるほかなかった。

 下唇をきつく噛み、何かを堪え忍ぶような面持ちで、眼下のアリアを見すえる。

 自分を見ているようで、だからこそ彼女の気持ちが痛いほど理解できる。

 居場所を唐突に失い、見知らぬ場所で生きていく恐怖。

 心細さに仲間の姿を求めては悲しみがぶり返す悪循環。

(俺は……)

 言葉に意味が無いことを、シュナは経験として知っている。全てを失くした人間に対して唯一できることは、共感や励ましではなく、ただその身に寄り添って、身の回りの世話を手伝うくらいのものだと。

「こんな……こんな結末ならば、いっそのこと死んでしまえばよかったのです……。あのとき、あの場所で……。何一つ役立たぬ我が身など……消えて無くなればよかったのに……」

 シュナは思わず開きかけた口を無理につぐんだ。

(…………)

 シュナは床に膝をつく。

「アリア、帝都の外を見たのは初めてか」

 アリアは下を向いたまま頷く。

「今まで、どこかの都市に捕らわれていたんだな」

「第三、帝都に……」

「第三帝都か……」

 噂は聞いていた。周囲をサヴァンの軍勢に包囲されてなお、住民が生存し続ける都市があると。堅牢な防壁に加え、地縛型のマギカを宿した高ランクのウィザードが都市をサヴァンから守り、越冬に備えて蓄えられた貯蔵を切り崩して生き延びているらしい。サヴァンのテリトリー内に呑み込まれているため住民が脱出することは出来ず、外界へ情報を発信することが適わないために存在が確認されている数は少ない。

 カミュナの崩壊を知らずにいた口ぶりからして、アリアが暮らしていたのはかなり内陸に位置する都市であろうと見当を付けていた。サヴァン襲来の情報が伝わる前に籠城を強いられ、外界からの情報が早々に遮断されたのだろう。シュナの予想通り、第三帝都クオリアは帝都バリアにほど近い場所に位置する巨大な都市で、付近に鉱魔石の鉱山があるため精霊術関連の産業が発達していたと記憶している。

「第三帝都が陥落したか」

「つい、先日……」

「帝都から逃げる途中、従者とはぐれたのか」

 アリアは首を縦にふる。

「そっか。……すまなかった。野宿よりかは襲撃の可能性が減るし、物資も手に入ればと思ってたんだけど……。ショックだったよな」

 シュナは一瞬口をつぐむ。言うか言わざるべきか迷い、結局口を開いた。

「アリア、一つだけ、言っておく。カミュナの灯は消えてはいない」

 アリアの瞳がシュナをとらえる。

「俺もカミュナの出身だ。祖国が失くなる辛さは分かる。悲観するなとは言わない。ただ、全てが失われたわけじゃない。もう、戻らないものもあるけれど……」

「…………」

「アリア、カミュナ外周部の都市は今も残存し続けている。サヴァンの習性が知られるにつれ、人はサヴァンと効率的に戦うことができるようになった。そして今、帝都を奪還する試みが実行に移されようとしている。カミュナの民は自分たちの故郷を取り戻そうとしている」

「サヴァンと……戦うのですか。クオリアすら、落ちたのに……」

「ああ、そうだな。途方もないことかもしれない。馬鹿げたことに思えるかもしれない。だが、連中はそいつを信じた。そして俺も……」

「…………」

「正直、この言葉が慰めになるとは思えないけど……。それでもアリア、もう一度だけ、欠片だけの希望でも、信じてほしい。時間がかかる。それでも必ず、取り戻してみせるから。だからお願いだ。死んでしまえば、なんて、それだけは言わないでほしい。お前が生きていて、目を覚まして、俺、本当に嬉しかったんだ。だから……だからさ」

 シュナはアリアの頬に指を添えた。頬に流れた涙をぬぐう。

 鏡は無い。自分がどんな表情をしているかは分からない。ただ口調だけは優しく保ちながら言う。

「元気出せとは言えない。もしお前が誰かの死を悲しんでいるなら、なおさら。ただ、ときどき、潮が引くように悲しみの薄らぐときがあると思う。そうしたときに、もし帰る場所が分からなくて、孤独を感じるときがあったのなら、今の言葉を思い出してくれ。お前の笑顔を願う誰かがいるってこと。今はそれだけ、言っておく」

「…………」

 アリアの視線が痛いほどシュナを射貫く。

 沈黙が部屋を支配した。路地や壁を叩く雨の音がやけにすんなり鼓膜に響く。

 しばらくしてアリアは口を開いた。か細い声で、そっと、羽根すら飛ばせぬような息づかいで。

「あなたは、誰かを亡くされているのですか」

 シュナの目が伏せられる。

「ああ、家族と、かつての仲間と……全てを。俺はもう、繰り返したくない。だから、そのためなら、俺は……」

 憎しみに取り巻く暗い野望を、シュナは胸の奥に自覚する。

 体が強張る。呼吸がわずかに乱れる。

 アリアを真っ直ぐ見ることが出来ない。獰猛な感情が表情に出るのを取り繕えたかは分からない。

「……あなたの身が、滅びるかもしれません」

「死ぬより辛いことがある。そいつを天秤にかけたら、おのずと結果は決まってくる」

「…………」

 アリアはシュナから視線を外しながら、

「お強いのですね」

 そう言った。

「ごめんなさい。死んでしまえばと言ったこと、謝ります」

「初めから責めちゃいない。お前の気が少しでも楽になるとしたら、それでいい」

 シュナはアリアの瞳を窺う。面持ちは少し暗く、気持ちの整理はまだ付けきれていないようだ。ただそれでも、先ほどの絶望した表情に比べれば雲泥の差だった。

 ひとまず、ほっと胸をなで下ろす。

 それからこんな話を切り出してみた。

「アリア、その服装じゃ風邪を引く。寝室に女用の服がいくつか収められていたから、それに着替えないか。ついてきてくれ」

 寝室にアリアを送り込み、シュナは部屋の外で待つ。ただ待つのでは時間が無駄なので自分の体を乾かすことにした。手法は単純、自分の体を火にさらすのだ。マギカで調節してやれば衣服が燃えることもなく、熱風を作り出すよりも効率がいい。生地が傷むのは仕方がない、どうせ拾いものだ。

「きゃっ。な、なにやってるんです……」

 蒼い瞳がドアのすき間からシュナをのぞき見ている。

 全身にぬるめの炎を纏った姿が奇異に見えるらしい。

「着替えた?」

「はい」

「じゃあ、さっきの場所に戻ろう。暖炉があるし……。アリア、食事は食べられるか」

 アリアは控えめに頷いた。

 アリアをリビングに送り、自分は先ほど発見した地下室に向かう。

 予想に違わず、地下は食材の保管所と精霊術機構の統括所とを兼ねていた。ひやりとした空気が肌に気持ちいい。

 まずは地下水をくみ上げる精霊術機構を作動させる。むき出しの配管に刻まれた術式文字が光を帯びた。

 食材は保存食以外全滅していた。樽の中に収まっていた塩漬け肉をいくつか見つくろい、袋に詰められたままの小麦粉らしきものを棚から引っ張り出す。


  ☆  ☆  ☆


「駄目だ」

 シュナに料理の手伝いを申し出たらきっぱりと断られてしまった。

「炊事場は冷えるから。薬も精霊器具も、無駄遣いはしたくない。今日のところは大人しく暖炉の前で体を温めていてくれ」

 アリアは少ししょぼくれながらリビングに向かい、暖炉近くのソファーに身を埋めた。

 自分の膝頭に額を当てながら、アリアは物思いにふけっていた。

(すごく、いい人……)

 今日出会ったばかりの他人をここまで気づかってくれる。サヴァンの生存地で非力な女一人を引き連れることが、どれだけの苦労を背負い込むことに繋がるか。見捨てるのが普通だろうに。

(すごく、優しい人……)

 カミュナ崩壊の事実を突きつけられ、泣き崩れたときに見た、あの黒い瞳を忘れられない。多分、一生忘れられないと思う。男の瞳には嘆きとも絶望ともまた違う、暗くて深い凪の海が広がっていた。あの瞬間、月の浮かばない夜の海が己の全てを吸い込んでいくように感じた。自分の抱えた悲しみがまるごと呑み込まれていくような、そんな感覚が確かにあった。

 もしかしたら慰めの言葉をかけられたことへの小さな嬉しさとか、そういった情動がアリアにもあったのかもしれない。しかしそれ以上に、アリアの胸の内を満たしたのは純粋な驚きだった。

 男の抱えるあまりに深い悲しみを見たとき、アリアが気づいたのは、彼がアリア自身のことを悲しんでいるという事実だった。アリア自身のこと、アリアの周囲の人間、第三帝都の陥落……。男の悲しみには際限がなく、全てをありのままに悲しんでいるように思えた。そのあまりに深い悲しみを前にして、アリアはどこか自分が小さくなったような気がして、その感覚に身を任せていたら、胸に巣くった悲しみが潮の引くようにうすらいでいくのを覚えた。自分の抱えた悲しみが男の中に溶け込んでいく……。心の深く深くに根を下ろした、それは体験したことのないレベルの共感シンパシーだった。鳥肌が立つのを押さえられず、ただただ息を吐くしかない。

「あ、いい匂い……」

 炊事場の匂いがリビングまで漂ってくる。

 夕げの予感に刺激されたのか、アリアのお腹が鳴った。命の危機と隣り合わせの一日を過ごしたというのに、食欲を感じる余裕があるらしい。

 その事実を喜ぶべきか恥ずべきか分からず、アリアは頬を赤らめながら一人、困ったように笑っていた。


  ☆  ☆  ☆


「おいしいです」

「どうもです」

 シュナは湯気の立つ椀をすする。塩気のあるスープは平凡な味付けだった。ただ温かさが凍えた身にしみる。

 暖炉には赤々と火が燃えていて、くべられた薪がパチパチと音を立てていた。暖炉の前にはアリアが着ていたびしょ濡れの衣服が広げられている。シュナのマギカも合わさって、室温はとても暖かい。

 アリアはスープの中に入れられた団子を木匙ですくってふうふうと息を吹きかけている。小麦粉をこねただけの味気ない主食だ。

 シュナはコップに注がれた白湯に口をつける。

「シュナさん」

「どうした」

「敵は、サヴァンは……どこまでカミュナを掌握しているのですか」

「帝都バリアを中心に、帝国領の半分といったところだ。サヴァンの情報が出回って奴らに対抗できるようになったのがここ二月のこと。戦線の維持で精一杯だけど、それでも連中の侵攻は停滞している」

「そうですか……」

 アリアの表情が陰る。

「そう暗い顔をするな。手立てはある。今だって南方のお偉いさんを中心にして傭兵や他国兵をかき集めている最中だし、マギカが人から人へ渡り歩くおかげで主力のウィザードは減ることがないからな。もうまもなく戦力は揃うだろう。アリア、今はそれより俺たち自身のことを考えるべきだ」

「私たちの……?」

「そうだ。具体的には、旅の行く先を話しておきたいと思う」

 シュナは筒状に丸まった紙を台の上に広げた。

 紙上にはカミュナの地理が描かれていた。シュナが書斎らしき場所から持ち出したものだ。地図はすぐに見つかった。というのも、書斎はひどく散らかっていて、書類や書物などが散乱していたためだ。街が陥落する寸前に家主が荷造りでもしていたのだろう。

 地図の四隅をコップと食器で押さえながら、シュナは地図上の一点を指し示した。

「俺たちが今いるのは、ここ」

 シュナが指さしたのは第一帝都バリアから東に約五百キロメートル進んだ場所だった。街道のそばに位置しており、そこから東にもまだまだその街道は伸びている。現在位置の情報はシュナが書斎の書類を漁った末に見当を付けたものである。ただし間違っている可能性もあるので明朝に街を詳しく調べる必要がある。

「リオーネという街だ。聞き覚えはあるか」

「リオーネ……。あ、リオーネと言えば甘リンゴが有名です」

「はは、やっぱり。あれは絶品だよな」

「はい。練ったパイ生地に乗せて焼くととても美味しくて、旬の頃はお八つ時のパイが毎日の楽しみでした」

「……毎日?」

「はい? 毎日です」

 シュナは頬をかきながら内心が表に出るのをこらえる。

(嘘だろ。一年に二きれ食えたら良い方だぞ。ああ、そうか。貴族め……)

「あの、シュナさん?」

「悔しくない。話を戻すぞ。リオーネから伸びる街道は一本。それが東に少し進むと枝分かれして二本になる」

 シュナは指先をリオーネの街から地図上の東に向けてスライドしていく。

「街道の分岐点は、北向きのこちらを選ぶ。そこからはずっと街道沿いに進んで……」

 シュナは指をさらにスライドさせる。丁度、地図の右端まで。

 アリアの顔つきがみるみる強張る。

 彼女はスカートの裾をぎゅっと握りながら言葉を紡ぐ。

「アーバラクに……向かうのですか」

「そうだな」

 予想された反応だった。宗教国家アーバラクはカミュナ帝国と犬猿の仲で、帝国に対して過去に何度も異教徒討伐遠征や侵略行為を仕掛けてきた歴史を持つ。言わば敵対国である。近年こそ交易関係を取り持つまでには関係を修復したが、それでもアーバラクの本土に潜り込むと聞いていい顔をする帝国民はいない。

「シュナさん、カミュナの外周部には残存している都市がいくつもあるのではないのですか」

「もちろんだ。この旅の目標もそうした都市になる。けど、そこに直接向かうことは出来ない」

「理由をうかがっても……よろしいですか」

「ああ。サヴァンの存在が障害になる。まず一つ、帝都バリア付近はサヴァンの発生源と考えられていて、サヴァンの数も膨大だ。だからリオーネから西には向かえない。北の厳寒地帯は論外として、残るは南か西になるけど……」

 シュナは帝都バリアからアーバラクに向かい、三本の線を引いた。引くと言っても指でなぞっただけだ。

「ここに三本、『川』がある。アーバラクに侵攻するサヴァンの本隊だ。この『川』を全て渡るのははっきり言って自殺行為だ。いくら俺でも、流石に五、六度死ぬことになる。そしたらあんたを守れない」

「サヴァンがアーバラクに……?」

「ああ、知らないか。そうだ、サヴァンは人口の密集地を目指すから、奴らがアーバラクに足を向けるのは自然な成り行きだ」

「…………」

「正直、これでも運が良い方なんだ。この『川』の中州にあたる位置に転移していたらと思うとぞっとする。襲撃がジラ程度で済んでいるのもそのためだろう。アリア、このくらいでいい?」

 アリアは神妙な顔をして頷いた。

「基本、サヴァンとは交戦しない方針で行く。俺たちはカミュナの北沿いの街道を使用して、点在する街を辿りながら補給を行いつつ、アーバラクに入る。そこからは……」

 シュナは指で髪をすく。

「アーバラクの地理については明るい方だけど……」

 シュナの頭を悩ませるのはアーバラクが現在サヴァンと交戦中という事実だ。街道の治安状態に不安が残る。各国から集結中の盗賊まがいの傭兵に目を付けられたりすると厄介だ。ウィザードが混じっていたら手加減など出来ないし、アリアを人質に取られたら身動きが取れなくなる。異国からの難民に適用される法もないだろう。

(皆殺しにするしかない……。しかしアリアは……)

「アーバラクには……」

 と、アリアが口を開く。

「アーバラクには、竜を使用した飛行便が存在したはずです」

「飛行便……」

「あ、……お金ありません」

 アリアが肩を落とす。

「いや、資金についてはいくらでもめどは立つ」アリアが顔を上げる。「ただ……、翼竜は貴重な軍事力だ。サヴァンと交戦中の今、アーバラクが民間向けの運用をいつまでも許しているか……」

「そう……ですか」

 アリアがさらに肩を落とす。しょぼくれた様子がなんだか子供のようだった。

 人任せにせずにちゃんと意見してくれたことに嬉しさを覚える。

「アリア、利用できる可能性もある。利用できたら旅路を大分短縮できるし、考えに入れておこう」

「はい」

「そろそろまとめる。食事が冷めちまう」

 シュナは再び地図上のリオーネを指さす。

「今いる場所がここ、リオーネ。ここから街道沿いに、街を転々と巡りながらアーバラクを目指す。アーバラクに入ればサヴァンの脅威が無くなるから、なるべく隠密にアーバラクを南下して、カミュナの外周部の都市を目指す。いい?」

「はい」

「カミュナにたどり着いたら……そうだな。まずはアリアの従者を探そうか」

 アリアの目が地図からあげられシュナに向けられる。

「い、一緒に探してくださるのですか……?」

「ああ、ここで出会ったのも何かの縁だ。最後までつき合う」

「ほんとうに、ありがとうございます。なんとお礼を言えばいいのか……」

 アリアはソファーから立ち上がるとシュナに向けて頭を下げた。乾いた青い髪が下に流れ、右巻きの小さなつむじが見え隠れする。

「やめてくれ、いいよ。それより早く食べろ。食べたら口をゆすいで寝ろ」

 シュナは食器を手に立ち上がると、台所に向かう。

 アリアも食器を手に立ち上がる。

「あ、あの、手伝いますから」

 シュナは顔をしかめた。

「食べきってから、持ってきてくれ」

「え、あ、はい……」













 書斎のドアを後ろ手にパタンと締める。

 シュナはうーんと伸びをした。肩や首を回すといい音が鳴る。

 夕飯前に半端に調べただけの書類を読み直していた。結果分かったことは、やはりこの場所はリオーネという街だということ、この街の陥落の様子がシュナの予想通りだったこと。もう一つ、ここの家主が果樹栽培でそれなりに成功を収めていたらしいこと。

(隠し金庫があるかもしれない。明日、探してみよう)

 宝石や金銀などが入手できれば、のちのちアーバラクで換金できる。それが出来ればアーバラクでの旅路は幾分か楽なものになるだろう。竜飛行便が使用できるときはその資金にもなる。家捜ししているようで気分は悪いが、遠慮していては生きていけない。

 廊下には沈黙が舞い降りていた。シュナは廊下の先を見る。アリアの眠るリビングから暖炉の明かりが届いている。

 シュナは首をかしげた。そろそろ暖炉に薪をくべねばならないと思っていたのだが、予想に反して暖炉の炎は廊下まで明るく照らしている。

 シュナはリビングを覗いてみる。

 アリアがソファーに座ったまま暖炉の炎を見つめていた。膝を腕で抱えた姿勢のまま、置物のようにじっとしている。炎に照らされた横顔はひどく美しかった。憂いを帯びた蒼の瞳が静かに光を反射している。服の寸法が合わずはみ出した白い肩、柔らかい布で仕立てられた衣服の下で浮き彫りになった体のラインを見たとき、シュナは胸の中央が圧迫されるような奇妙な感覚を覚える。

(…………)

 シュナは足を踏み出した。

「眠れないのか」

「あ、シュナさん……。ごめんなさい。言いつけ、守れなくて……」

「謝らなくても。枕が変わると眠れないって奴か」

「それもありますけど……。その、まだ少し、現実感がなくて……」

 シュナは「ああ」と納得した。

「無理に眠ろうとしなくてもいい。どうせ明日一日はここにいるから、遅くまで寝ててもいいし」

「明日は出発しないのですか」

「もう少し旅の支度を調えたい。精霊器具を分解したり……、あとはパンとか焼けたらいいなと思ってる」

「パン。私、焼けます」

「そっか。じゃあ、明日はパン焼きを手伝ってほしい」

 シュナが朗らかにそう言うと、アリアもまた笑ってくれた。育ちの良さを感じさせるうっすらとした上品なほほ笑みだった。

 何となく打ち解けてくれたような気がしてシュナも嬉しい。表情には出すつもりはないが。

「じゃ、明日は働いてもらうから、今日はもう寝よう」

 そこでアリアは一瞬シュナから目を離して、そしてばっと勢いよく立ち上がった。

「あ、あの、シュナさん。どうしても、今日のうちに聞いていただきたい話があります……」

 シュナは無言で言葉の先をうながした。

 アリアはスカートをぎゅっとつまみながら言いずらそうに視線を右往左往させていたが、やがて意を決したのか、

「その、自己紹介を……しなくては……いけなくて」

「自己紹介?」

 思わぬ言葉にシュナは驚きを隠せない。

 しかしすぐ得心がいった。初めてアリアの名前を聞いたときは互いに心を閉ざしきった関係での会話だったし、そのときのしこりをアリアが気に病んでいるのか。もしくは貴族特有の礼儀作法のようなものかもしれない。

「ああ、分かった。アリア、俺はシュナ=クレイという名前だ。今年で十八になる。カミュナ帝国の出身で、故郷はリーガナムっていう地方の都市だ」

「あ、えと、そうではないのでして……」

「違うのか」

「その、私、シュナさんに謝らなければいけないんです」

 シュナが眉をひそめる。

「どうしてだ、アリア」

「アリア、ではないんです。それは偽名なんです」

 シュナは今度こそ得心がいった。出会い当時、カミュナの様子がどうなっているのかも分からない少女が、しかも名門貴族の出の少女が、こんな黒ずくめの盗賊じみた男に本名を明かすだろうか。

(警戒されて当然だなあ……)

「ごめんなさい……」

「別に気にしない。あのときのあんたを見てるし、その選択に間違いは無い。それで、本当の名前はなんて言うんだ」

 アリアは若干ほほを染めた困り顔のままモジモジしたあとで、

 ぎゅっと目をつむって、急に頭をばっと下げて、

 シュナに向けて握手のために右手を突きだして、

「私の名前は、アリアローゼ=リ=アシュエイト=カミュナといいます。シュナさん、これからの長い旅路、どうかよろしくお願いします」

「…………」

 シュナはたっぷり二十秒固まったのち、

「ああ、よろしく」

 そう言って彼は左手を差し出した。

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