第十四話 王の心臓、遭難者二人 旧カミュナ帝国領
「んん……」
パチパチと枝のはぜる音がする。
体に心地よい暖かさを感じた。近くで焚き火がたかれているらしい。
「目が覚めたか」
彼女を呼ぶ声がする。低いそれは男のものだとすぐに分かった。
アリアローゼはゆっくりとまぶたを開ける。
ぼやける視界に人影が映る。焚き火の側に一人の少年が座っていた。顔つきからして年の頃は自分と同じくらいだろうか。瞳は黒く髪も黒い。そのうえ黒衣をまとい履き物まで黒という徹底した統一ぶり。もし彼が自分に背中を向けていたら焚き火のせいで生じた影だと誤解したに違いない。
アリアローゼはとっさに体を起こそうとして体にはしった痛みに顔をしかめた。耐えきれず再び横になってしまう。そこで自分が柔らかな布の上に寝かされていたことに気づいた。
と、少年がすっと立ち上がる。その背は意外なほど高かった。
漆黒の瞳がアリアローゼをじろりと見下ろしてくる。焚き火に背を向けた彼の顔には暗く深い陰影がついている。抜き身の刃のように鋭い敵意を感じた。こちらを値踏みするような視線をまともに受けたとき----、
脳裏にある光景がフラッシュバックする。
飛び散る誰かの血と怒号。上がった火の手を踏み越えやってくる白い肌の捕食者。
痛いほど引かれる右手、倒れていくかつての知り合いたち。
惨状に釣り合わぬ笑い声。破壊を愉しむ、黒い翼を生やした男。
「あ……」
瞳が恐怖に見開かれる。
殺されると思った。体中から血の気が引いた。
男が一歩を踏み出す。それだけで彼女の自制心は粉々に砕け散った。
「いやです! 来ないで!」
男の歩みがぴたりと止まる。
その間にアリアローゼは半身だけおこして後ずさりをする。すぐ背中が壁にうちあたった。しかしそのことにすら気づけない。足が土を蹴り手が土を押しのける。後退しない後ずさりは続けられる。
「怪我の具合を確認したいだけだ。恐れるな」
男の声にびくりと反応する。体が芯から震える。歯のカチカチと鳴るのが止められない。息も荒い彼女の瞳から大粒の涙がこぼれおちた。
「エリシャ……リシャ……」
「…………」
震える少女をしばし見つめたのち、男は踵を返す。
彼はもといた焚き火の前に再び腰を下ろした。頬杖をつきながらそっけない声で話しかけてくる。
「先に質問しておく。落ち着いたら答えてくれ。で、あんた名前は?」
☆ ☆ ☆
別に好かれようなどと思っていない。だがここまで怖がられるのは予想外だった。
(厄介な荷物を拾ったかな)
シュナは一つため息をつく。
問題の少女は震えていた。彼女は洞窟の壁際に腰を下ろしたまま自分の膝に顔を埋めている。いまだシュナと口をきこうとせず、だんまりを決め込んだままシュナを無視し続ける。
年の頃はシュナより少し若いだろう。驚くほど綺麗な顔立ちの少女だった。長く伸びた髪は青空と雲を混ぜ合わせたような澄みきったスカイブルーの色で、瞳も同じように青い。
目につくのは装身具だった。胸に下げたペンダントは宝石を散りばめた一級品で、イヤリングや髪飾りも銀細工の代物だ。衣服だって安くはないはずだ。素朴な貫頭衣ながら上等の素材が使用されているように見える。
(貴族、か)
耳をすませばかすかにえづきが聞こえてくる。少女は泣いているようだった。それだけでなく、しきりにエリシャエリシャと名前をつぶやいている。
シュナは座っているのが窮屈になって体勢を崩そうとする。と、生じた衣擦れの音に反応した少女がさっと顔を上げた。その目つきはまるで化け物を見たそれだった。
さきほどからこれの繰り返しだった。おかげで身じろぎ一つに罪悪感を覚える始末である。当然、怪我の状態を確認などできない。
(誰かを……なくしたか)
別離とトラウマ、それも男の仕業のように思える。シュナはカエデのことを思い出す。
(あいつら元気かな。無事だといいけど……)
洞窟の天井を見上げる。何もない虚空に仲間の顔を描いてみる。
気になるのは隊員の安否だった。自分が転移に巻き込まれたのは理解している。体の前面だけを削がれるように持って行かれたらしい。細胞活性のマギカがなければ死んでいただろう。
(あの男……)
結局、翼の生えた男の行方は知れない。転移の術式が不完全だったらしく、シュナと男は別々の場所に転送されたようだった。
(だが方角くらいは同じはず。となるとあの男、カミュナ帝国の内陸部に逃げ込もうとしていたことになる。サヴァンの生息地に自ら? 理由があるはず。なぜ、あいつはいったい……)
シュナはかぶりをふった。
(いや考えても仕方がない。その場の思考に沈むのは俺の悪いくせだ。次に会ったら確実に殺す、今はそれでいい。それよりも……)
現在位置はおそらく旧カミュナ帝国のどこか。まだ正確な位置は把握できていない。周囲を探索しようとしてすぐに目の前の少女を発見してしまったためだ。不慣れな治療と安全な場所までの移動で大分時間をくった。すでにとっぷりと日が暮れてしまっている。
(あいつら、待っててくれるかな)
シュナの表情に穏やかさとわずかな気落ちが同居する。
(そうだな。早く帰りたい)
ミリアへ、仲間の待つ場所へ。
(でも、この女の子も一緒となると……)
シュナの脳内にぐるぐる考えが巡る。
少女を連れた旅は困難を伴うだろう。まずマギカを使用して高速移動することができないため、帝国内を徒歩であてもなく彷徨うことになる。睡眠の問題もあった。シュナはマギカが持続する限り不眠不休で動ける。しかし少女は休息を必要とするだろう。徒歩に加えて日没後の休憩。これらに伴う移動速度の低下はサヴァンに襲撃の機会を与えることになる。
それだけではない。水と食料を確保しなければならない。シュナはマギカを使用することである程度は飲み食いせずとも生きていけるし、最悪そこらの野草や花、毒のあるキノコ、果ては木の幹などを食して生き延びることもできる。胃袋すら強化できる。彼のマギカの利点だった。が、目の前の少女を連れてはそうはいかない。どう考えても狩猟が必要になる。狩猟自体手間がかかるし、獲物を狩っている間に不測の事態が起こっては少女のことを守ることができない。行動の慎重さが求められる。
(あー、うー。どうすんの。めんどくせえ)
シュナは髪をぐしゃぐしゃとかき乱す。と、そこでシュナは気づく。
(食事といえば……)
シュナは少女の方に目を向ける。
少女はあいかわらず鬱ぎこんだまま----
(あれ)
少女がシュナの動きに反応しない。よく見ると少女は壁に背を預けたまま眠っていた。泣き疲れたのだろう。
シュナはわずかに表情を曇らせた。抱いたのは同情の念だった。
彼はおもむろに立ち上がる。少女を起こさないよう注意しつつ行動を開始した。
☆ ☆ ☆
アリアローゼははっと目を覚ました。頭をあげた勢いで後頭部を背後の壁にぶつけてしまう。痛みに涙がにじんだ。
(エリシャ……いません……)
体中にじっとりと汗をかいている。悪夢を見ていた。何の夢だったか、思い出したくもない。
と、アリアローゼは空気に妙な匂いが混じっていることに気づく。
あたりを見回す。洞窟の入り口付近で焚き火が焚かれている、それは先ほどと変わらない。ただ、今はその火をぐるりと囲むように木の棒が立ち並んでいて、木の棒には何匹もの魚が刺さっていた。
視線をずらす。黒髪の男と目が合った。彼は焼き上がった魚に食らいついていた。
男は口内のものを呑み込むとアリアローゼに話しかけてくる。
「少し、落ち着いたか」
その声をきっかけに記憶が甦ってくる。夢見心地から現実に引き戻されてしまう。体がガタガタと震えだす。サヴァンの襲撃、従者とはぐれたこと、死にかけた事実。
それでも先ほどに比べればいくらか落ち着いていた。心に生まれたなけなしの余裕は、目の前の男から情報を引き出せと、敵か否かを見極めよとささやいてくる。そのためには体から震えを取り除かなければならない。怯えていては対等な会話などできはしない。アリアローゼはごくりと唾を飲む。
彼女はひそかにマギカを発動させる。
「あなたは……誰ですか」喉から出た声は予想以上に低く刺々しい。
「俺の名前はシュナ=クレイだ。あんたの名前も聞かせてくれないか」
「アリア……、アリアといいます」
自然と出た偽名だった。
「アリア、か。いい名前だな」そう言いながら、男は傍らに置かれた木の枝を焚き火に放り投げた。「大陸の呼び名が由来かな。古代語で……母なる大地? そんな意味だったような気がする」
「…………」
「ところでアリア、体で痛むところはないか」
「痛みは……ありますが」
「どこだ。場合によっては手当を」シュナが立ち上がろうとする。
「近寄らないで」
アリアが低い声で言い放つ。怪我の確認などという口実で男に近づかれたくなかった。言葉こそ交わしても警戒を解くつもりはない。
「男嫌いか。そいつは人生を損してるぞ」
「あなたには関係ありません」
男は髪をかき上げながらため息をついた。ほっぺの傷跡がアリアの目を引く。
「確認だけさせろ。痛むのはどこだ。外からじゃ分からない怪我もある」
「足を軽く挫いただけです」
「本当に?」
アリアはこくりと頷いた。
「ん、それだけ聞ければいいさ。ま、なんだその。よかった。本当に……」
男の表情がはじめて緩む。
アリアはその表情に魅入られた。優しい笑みには見覚えがある。従者のエリシャが自分を見る際にいつもそうした表情をしていた。ただ、男の表情にはエリシャの顔に写らないものがあった。
(悲しそうな、顔……)
どこか遠くに思いをはせるような、今はなき過去を振り返るような……
ふと胸が締めつけられる。疑いを解かないことへの罪悪感がつのる。
アリアはそっと目を伏せた。
(ううん。騙されはしない……)
簡単に信用するわけにはいかない。
表情は人を陥れる武器に化ける。彼女はそれを知っている。そう教えられている。
☆ ☆ ☆
(うめえ。この魚、うめえ)
シュナは焼き魚に食らいつく。口を動かしているのはシュナ一人だ。さきほどアリアに「魚だけど、食う?」と勧めてみたところ知らんぷりをされてしまった。
アリアの方を盗み見る。
彼女は相変わらずシュナのところに近づこうとせず、壁に背を持たれてじっとしている。
(表情、変わったよな。あからさまに)
引き締まった、というより攻撃的になった。シュナに対する口調や態度からも怯えが拭い去られている。変化したのは二度目の目覚めからシュナと初めて口をきくまでの間だった。
(二面性があるのか。恐怖の針が振りきれて逆に冷静になったか)
風が洞窟に吹き込んで焚き火の炎がはためく。シュナは洞窟の外をうかがった。闇夜に閉ざされた視界に光はなく、木の葉が焚き火の明かりを反射するだけだ。空はどんよりした雲に覆われていた。
夜風はしめった匂いがする。もうすぐ嵐が来るかもしれない。
と、アリアが声をかけてくる。
「シュナ、さん。私はどうしてこの洞窟にいるのでしょう」
シュナは目をぱちくりとする。
「覚えてないか。あんた、ジラの群れに襲われてたんだよ」
「ジラ?」
「狼に似たサヴァンのことだ。人の声がするから近づいてみたら、丁度アリアが斜面から転げ落ちていた。あんたが木の胴に派手にぶつかったときは肝を冷やした」
「転げ、落ちて……。そうです。私、獣に追われていて……」
アリアは地面を見つめながら記憶を探っている。
「そいつがジラだ。それで、俺がジラを追い払って、アリアをここまで運んで手当てした」
「そう……ですか。ありがとうございます。命を救われました……」
そう言うアリアはシュナと視線を合わせようとしない。
(信用されてねえなあ……)
「シュナさん。この場所は、どこ……なのでしょうか。ここにお住みなのですか」
「まさかだろ。……ここなあ。サヴァンがいるし、カミュナのどこかなのは確かだ。恐らく帝都バリアから東側に進んだ場所だろう。それくらいしか分からない」
「正しい位置は分からないのですか」
「ああ。俺は転移に巻き込まれてここに飛ばされたから」
アリアが驚いたようにシュナを見てくる。
「転移に……私もそう……」
シュナはアリアの話を聞いていなかった。
シュナは洞窟の外に視線を走らせる。腰がわずかに浮いていた。
彼の耳がぴくりと動く。瞳がすっと細められる。
「アリア、少しここでじっとしていてくれ」
「な、何か」
「サヴァンが出た」
「え」
「焚き火を強めるぞ。サヴァンは火を毛嫌いする。アリアは洞窟の奥に隠れていろ」
シュナは焚き火にありったけの薪を放り込む。火が強まり、火炎が胸の高さまで伸びあがった。
「アリア、洞窟の奥に……」
シュナは口を開けたまま静止する。
出会ったばかりのアリアがそこにいた。今にも死にそうな蒼白な顔をして、二本の腕を華奢な体に回して震えている。「いや、いやです……」と小さなつぶやきがシュナの耳に届いた。先ほどの冷静さは張りぼてだったのだろうか。
「アリア、聞いているか」シュナはアリアの側に歩み寄る。「あまり悠長なことはしてられない。洞窟の奥の方に隠れてくれ」
「リシャ……リシャ……」
「アリア!」
大きな声が洞窟の内部にわんわんと反響する。少女の体がびくりと震えた。アリアは恐る恐るシュナのことを見上げてくる。
シュナは地面に膝をつくとアリアと目線の高さを合わせた。吸い込まれそうなほど美しい蒼の瞳。今は涙に濡れている。
「思い出せ。俺はサヴァンの群れからお前を救い出したな」
「…………」
「俺には奴らを撃退する力がある。だから、今回だって何も心配はいらない」
「で、ですが……」
「何度でも言う。俺には力がある」シュナはアリアの肩に手を置いた。「お前がどんな経験をしたのかは分からないが、それでも、もう怖がらなくてもいいんだ。俺が必ずお前を守る」
アリアの目が見開かれる。
アリアの震えがわずかにおさまったのが、彼女の肩に置かれた左手から分かる。
蒼の瞳はシュナをじっと見ていた。シュナもアリアを見つめていた。
しばらくして、彼女の震えが止まった。
瞳はまだ怯えにゆらいでいるが、それでも十分だ。
「嘘です……。信じられません。人はすぐに裏切るのです」
シュナは優しい表情をしながらアリアの瞳を見つめ返す。
「今はいい。少しずつ、認めてくれたら嬉しい」
「…………」
「アリア、話は聞いていたな。とにかく洞窟の奥に退避してくれ。自力で立てるか」
アリアはこくり、と頷いてくれた。
「よし。何かあったときはこいつを吹きならせ。すぐ駆けつける」
シュナは上着のポケットから手のひらサイズのホイッスルを取り出すと、アリアの手に握らせる。
「シュナさん、その……」
「どうした」
「どうか、ご無事で……」
「ああ、手間はそれほどかからない」
シュナはアリアを背後に残して洞窟の入り口に向かう。振り返ることなく、一直線に。
漆黒の瞳に優しさは宿らない。
サヴァンはすでに洞窟を取り囲んでいるだろう。薪をくべられた焚き火に手をこまねいているのか、襲いかかってこない。低いうなり声だけがシュナの鼓膜を震わせる。
(同じくジラ。夜を待って、昼間の報復か。都合がいい。逃げてもどうせ追ってくるんだろう?)
シュナはうっすらと笑う。
激しい憎しみが体を支配していた。
燃えさかる焚き火がシュナの行く手を遮る。
無事を祈られたときには思わず吹き出しそうになった。アリアに、そしてサヴァンにも申し訳なく思うが、シュナはこの襲撃になんの危機感も抱いていなかった。
狩人を気取った獲物がやってきただけだ。
「俺がサヴァン数十に負けるものかよ」
シュナの足が焚き火をまたぐ。肌を焼く熱などものともしない。
黒い背中が猛火の中に呑み込まれていく。
洞窟を出た瞬間、強い風が顔面を撫ですさり、そしてジラの一匹がシュナに飛びかかってきた。
体長一メートル五十、体高一メートルの巨躯が矢のような速度で接近する。
シュナは右の拳を腰の左に引き寄せ、右足を前に踏み出す。
右足が地面に着地した瞬間、右手をななめ上に超高速で振り上げる。
まるで居合い斬りのような動作、拳の軌道上にあったジラの顔面に裏拳が炸裂する。
バキリという嫌な音を伴ってジラの体が空高く打ち上げられた。
鳴き声すらあがっていない。即死だった。
別の個体がシュナに近づく。ジラはなかなかに俊敏な動きでシュナの左足に噛みつこうとしたが、直前にシュナが左手を振り落としてジラの頭部を力尽くで押さえつける。ジラが必死に暴れる。地面に磔にされて身動きの取れないジラが----突如その活動を停止する。
シュナはジラの頭部から手を離そうとする。左手に異常が起きていた。爪がナイフの刃のように直線上に伸びている。赤黒い液体の付着したそれをシュナは一気に引き抜いた。
ジラの頭部に五つの穴が開いている。活性化された爪はジラの脳髄をかき乱し、舌を貫通し地面まで到達していた。
「皆殺しだ」
シュナの姿がかき消える。空気がうねりをあげる間もなく、群れの先頭にいたジラが弾丸のように吹き飛び背後の樹木に叩きつけられた。間髪入れず、その隣にいたジラの首から上が引きちぎられて宙を舞う。
シュナは敵陣のど真ん中に立っている。また一匹、彼に飛びかかったジラが血煙を上げて屍と化す。
シュナの視線に威圧されたジラが一匹、逃走を企てたが----
ゴッッ!!
突如、ジラの退路を断つように紅蓮の炎が立ち上る。樹木に引火した火炎は洞窟の近辺をぐるりと囲む。火に近づけぬジラは逃げることも叶わず、さりとて背後に迫る黒衣の少年に立ち向かえるわけでもなく……。
シュナは笑っていた。どこか子供のように、玩具で遊ぶ子供のように。
悪夢の幕引きは早かった。
ジラが余さず死体になったとき、戦闘開始から二分も経っていなかった。