日常(後編)
「なんつーかさー、こうして書くとやっぱり全員怪しく見える。ぱっと見、こいつではないな、っていう考えが浮かんでこない」
頬をぐにぐにもみしだきながら安吾が険しい顔でつぶやく。
「そうでもない。僕は僕が犯人じゃないことを知ってる。だからまずは僕の名前を消すことからはじめよう」
「そこに論理的な根拠はあるのかい?」
「僕と神のみぞ知る」
「却下」
「九条君は後回しでいい。それよりあんたら真面目にあと六人を考えなさいよ」
やたらと前髪をかきまわしながら水城がレンズ越しに僕たちを睨んだ。その手元には別のルーズリーフがあり、なにやら思考を整理するためのメモが書き散らされている。
「わりと本気で怖いからその目はやめてくれ。てか水城はなんか思いつかないのか?それ」
反駁の響きまじりに安吾がルーズリーフを指差す。水城もだいぶ悩んでいるようだからまだ何も進んでいないのだろう、浅はかな僕はぼんやりとそう思った。
「思いついたよ。最終回答は出てないけど、今のところ容疑者が三人消えた」
しかし、水城はあっさりとその問いかけにうなずいた。
「え。うそ…はやくね?」
思わず間抜けな声が出る。尋ねた安吾も虚をつかれたように口を薄く開いている。
「甲斐君と来生さん、あと梶原さんは除外できるんだよね?」
アホどもにはかまってられないという表情で、水城は藤宮に確認する。「ん」と藤宮は微笑んだ。それを見届け、水城はまだぽかんとしている僕たちに説明するべく事実が書かれている方のルーズリーフをシャーペンで叩いた。
「いい?まず甲斐君。彼はこの前提の範囲からすると真っ先に消える。なぜなら、彼は答案を盗んでも隠すことができなかったから」
僕と安吾はその言葉の意味を数秒考えて、二人ともほぼ同時に「あ」と声を漏らした。
「教室に入れなかったんだな」
横目で見た藤宮がうなずく代わりにパチと手を鳴らす。
「そう。その時間帯、B組は授業で教室を使っていた。仮に甲斐君が答案の入った封筒を持ちだせても、彼は教室に戻ってそれを自分の荷物に隠すことができなかった。分厚い封筒が四つもあればそれなりにかさばって目立つ。他の場所に隠すにしても誰かに見つかりやすくもなる。それに、十一時十分の時点でたぶん彼は手ぶらだったんでしょ。ここには犯行推定時刻を十時四十分から十一時半って書いてあるけど、考えてみなさいよ。あんたらだったら、先生が教室の外に出る可能性の高い最初の十分くらいは最低でも待つでしょ?その時間が一番サボりが見つかりやすいタイミングだもん」
そこで水城は一息ついた。
「たしかにそうだ。実際には動ける時間はもっと限定されてくる」
過去のあまり誇ることもできない経験を思い返して僕はふむふむとあごに手を当てる。
「ってことは、実際は早くても十時五十分からだよな。それに、授業の前半は小テストやら課題の答え合わせやらで先生が教室内をうろうろしてるから、廊下にいるところを窓から見られる可能性もある。だったら確実にいけそうな十一時以降って見た方がいいな。すると」
「甲斐には無理だな。時間がない」
安吾の言葉に続けて、ひとり言のように僕は言った。
「そう。甲斐君がいたのは南校舎一階。そこから理科準備室のある北校舎三階までは全力疾走したとしても五分はかかる。経験あるからわかるでしょ?」
僕らは無言でうなずく。南校舎にクラスがあった一年のころは、移動教室のたびに荷物を抱えて廊下を疾走していた。事前に移動の準備を整えて、他に何もせず、授業終了とほぼ同時に教室を飛び出して走ってもそれだけかかるほど南校舎と北校舎は遠い。
「騒がしい休み時間ならともかく、静かな授業中の廊下を全力疾走したらまずいのは当たり前。でもゆっくり歩いたとしたら片道で十分弱はかかってしまう。往復するだけで二十分。仮に彼が足音をほとんど立てず、誰にも見つからずに廊下を走って往復したとしても、やっぱり移動に十分はかかる。実際にはこんなことシュミレーションもしにくいだろうから、ぶっつけ本番でやったとしてそんなにさくさく動けるかどうか。準備室に行って答案を盗んでくるだけであっという間に十一時十分になる。彼には十一時十分から二十分のアリバイがあるから、当然答案は隠せない。その時まだ持っていたという可能性もなくはないけど、それはたぶんない。同じことが十一時二十分から十一時半までの十分にも言える。よって、甲斐君に犯行は不可能」
ほとんど息つぎもせず一気に言い終えると、水城は、ふう、と呼吸をした。
「すげー、水城あたまいー」
「さすが生徒会書記。数学七十二点」
「どこが。むしろこんなあたりまえのことに気づかなかった時点でダメでしょ。あと私の数学の点数は関係ないでしょ。次言ったら歩くたびに靴のかかと踏んでやるから」
はやしたてる僕らに悔しそうに水城は言う。負けず嫌いというか、向上心が強い奴なのだ。
たしかに理解してみればなぜこんな簡単なことがわからなかったか、とも思えてくる。だがどんな難問でもやり方を知っていてヒントさえもらえば誰だって解けるのだ。本当に頭がいいというのはそれを全部自力でこなすことだ。ちらりと視線を向けると、藤宮は素知らぬ顔で読書をはじめている。
「次。来生さんと梶原さんはもっと簡単」
「あ、これは俺もすぐ理解できた。次は俺説明したい」
授業中の小学校低学年のように安吾が勢いよく手を上げる。僕と水城が注目すると、安吾は長めの前髪をわざわざ真面目ぶった七三分けにしてから話し始めた。
「まず来生。来生はD組だよな?そして俺らの学年の教室が並んでるのは西校舎の一階。教室の並びは四校舎の連結点の中庭に対して奥から順にD,C、B、Aだ。で、そこから北校舎三階に行くには三つのルートがある。一、A組横の階段を三階まで上って渡り廊下を通る。二、中庭を抜けて北校舎一階まで行き、階段を上る。三、屋外に出て西校舎の外を回る。だけど、あの時来生にはこの中のどのルートも使えなかったんだ。まず一。柊、その時間のB組の授業なんだった?」
「英語」
僕はルーズリーフの文字を指す。
「そうだ。で、さっき話してたけど、その時間はうちのクラスの奴が廊下にほとんど開始から終了までずっと立ってたんだ。だけどそいつは何も言っていない。さすがに人が大荷物抱えて通り過ぎたら記憶には残るだろ。つまり、あの時間に廊下を通った奴はいなかったことになる。二は、教室を出て中庭から回ろうにもそこは職員室のすぐ前だ。まず選ばないだろう。横切るにしても地味に広いからな。三は、靴を履いて校舎の外を大周りに行こうにも授業中の教室の前を通ることには変わりない。しかも外側の窓は曇りガラスじゃないからはっきりと姿を見られてしまう。問題外だ。よって、来生が犯人である可能性はまずない」
藤宮の様子をうかがって安吾は続ける。
「次に梶原。これがたぶん一番単純だ。東校舎は構造上階段が二階までしかない。うちの学校の意味不明な構造の一つだが、このせいで相談室から北校舎に行くには三階の渡り廊下を通るか西校舎一階まで下りて校舎を回ることになる。まあ普通前者で行くよな。でも、梶原は移動以前に相談室から出ることができないんだよ。いや、出たらわかってしまうんだ。だって、相談室のドアにはウィンドドラムが下がってるんだから」
僕は来訪者の存在を告げるたび涼やかに遠くまでよく響くウィンドドラムの音を思いだす。相談室に誰かが入ったことを先生が保健室にいながらにして把握するために設置されているそれは、当然、ドアを閉め切っていようが古いエアコンががなりたてていようがよく聞こえるのだ。
「熟睡してたっていう新里はともかく、隣の保健室にいた日吉はそんなに深い眠りに落ちてたわけじゃなかったみたいだよな。経験上わかるんだが、あのウィンドドラムの音は閉め切った保健室で寝ててもよっぽど熟睡してないかぎりうるさいくらいはっきりと聞こえる。だったら、梶原が外に出たなら日吉はその音を聞いてるはずだよな?その時相談室には梶原一人だったんだから。でも日吉は何も知らないらしい。てことは梶原は出なかったんだろう。だから梶原も犯人じゃない。よって、甲斐、来生、梶原は容疑者から消える。QED」
最後のその言葉を言うことだけが目的だったというように安吾は厳かに宣言した。
「はい。ってことであと容疑者は九条君も入れれば四人なんだけど」
水城はあくまで自然に主役を安吾から奪還した。そう言いながら安吾の手にシャーペンを突き刺しにかかっていたように見えたのは、調子に乗っていることへの嫌がらせではなく疲れた僕の精神が見せた幻覚だと思いたい。
「九条君にも犯行は無理。なぜなら盗めはしても隠せなかったから。A組の九条君が答案を隠すなら部室しかない。それもあの部室に物を隠せる場所なんて限られてる。だけど部室はその時間抜き打ち検査に入られてる。検査は十一時二十分くらいだったらしいけど、その前に九条君が答案を盗んで隠したとしても発見されてたはず。だから九条君も容疑者から外れる」
心なしかさっきよりベンチの端に追いやられている安吾がテーブル越しにささやいた。「無罪無罪って叫ぶより理路整然と話された方が説得力あるな」と。「理系は言葉で説明するのが苦手なんだ」と僕はうそぶいた。そのやり取りを聞いてか視界の隅で藤宮が声を立てずに笑う。
「残るはあと三人。こっから先がね」
いったん休憩ということで、安吾はテーブルに突っ伏し、水城は眼鏡を外して拭きはじめた。現時点でほとんど発言していない僕は動きのにぶい頭を叩いて考えをまとめようとする。いくら頭が悪いと認めることにためらいはないと言っても、解くと決めた問題に解答も出さず答え合わせを待つほど僕はあきらめがよくない。ルーズリーフを眺めて目を細めていると、藤宮が近寄って来た。
「なあ、なんかヒントない?四人まではよく考えればわかるけど、あとの三人はどうすればいいんだかさっぱりだ」
「ヒント、ねえ」
頬を両手で挟んでルーズリーフを見下ろしながら藤宮は視線を流して考え込む。
「そもそも藤宮はどういう風に考えたんだ?やっぱり消去法で可能性のない奴を消していったのか?」
「んーん」
ふるふると藤宮は首を振る。
「何て言ったらいいんだろう。さっきあたし、材料は出揃ってるって言ったじゃない?それはそうなんだけど、あたしと皆とではたぶん根本の着眼点からして違うのね。百合ちゃんと志摩君は、用意された条件の中で考えうることだけ考えてるでしょ?だけどあたしはそうじゃなくて…うーん。無理矢理説明すると、そのルーズリーフに書いてないことの可能性に注目したわけ。そしたら一発」
「書いてないことの可能性?」
「そ。そこに書いてあることは正しいし、たぶんそこに書いてあることだけでも正解には行き着く。だけど、そればっかりを見てたらなかなか先には進めない。もっと高い位置から全体を見渡してみる必要があるんだよ。あたしが出せるヒントはそれくらいかな」
「高い位置から、か」
「たぶん、九条君はあたしと思考回路似てると思うよ。だから『こうでしかない』っていう発想からも抜け出しやすいはず。あとねー、九条君、さっきからほとんど推理を披露してないでしょ?」
藤宮は横目で意地悪く笑う。
「頭がよろしくないもので……」
僕はがくりとうなだれる。
基本が同レベルの安吾や水城が相手ならいいが、藤宮のように本当に頭がいい人間に言われると心理的ダメージが大きいのはなぜだろう。事実を再確認させられるからだろうか。
「ああ。別に意地悪で言ったわけじゃないから気にしないで。そういう意味じゃなくて、九条君はその分先入観なく最終面にたどりつきやすいよね、ってこと。ラスボスを倒すのに経験値は重要だけど、それまでのボスの傾向からこういう奴がラスボスだと思ってたら足元すくわれた、ってことあるじゃない?九条君はその危険性が低いから」
「いきなりラスボス倒せるってこと?僕は藤宮みたいな伝説の勇者じゃないよ。せいぜい村人Aだ」
「あたしだって伝説の勇者じゃないよ。あたしは黒魔導士」
「悪役じゃねーか」
「ははは。すべてを見通す力がある者はたいてい悪役だよ」
「自分で言っちゃうか。でも、そんだけ頭いいって憧れるんだけど」
「なんでよ」
「いや…。自分にないものだからじゃないか?」
「ふーん。そういうもんですかねえ」
藤宮は、かっくんと、首が落ちるのではないかというほど大きく傾けて、「でもねー」と薄笑いを浮かべながらつまらなさそうな声で言った。
「なんでもかんでも考えずにわかっちゃうってね、面白くないんだよ、やっぱり」
「…………藤宮は、」
「なーに、話してんの?」
突然、藤宮の横から水城が顔を出した。いつの間に近づいていたのだろう。ぼんやりしていた僕はビクンと肩を揺らす。
「え、なに。九条君なんでそんな動揺したの。やましい話?やましい話なのか?九条君の分際で。あんた、私の儚になにをしやがった」
藤宮の肩を引き寄せながら水城がギロリと僕を睨む。
「なにも。ちょっと雑談してただけ。百合ちゃん、もう休憩は終わり?」
「うん。あんま長くなると謎とき自体に飽きちゃいそうで」
「そう。じゃあ、はじめたら?志摩君、仲間はずれでかわいそうだし」
自然な手つきで水城の腕を引きはがし、藤宮が示した先には、唇をとがらせてこっちを見ている安吾がいた。
「柊のバカ!裏切り者!」
「僕がいつ君を裏切ったって言うんだ」
「あんた、ぶりっことかもう流行らないから」
すねる安吾につっこみながら僕と水城は再開のために席に着く。藤宮はと言えばそれっきり黙りこみ、読みかけの文庫本を開いてまた自分の世界に没入した。
「じゃあ、再開しますか。早速だけど、なんか思いついた人は?」
「あ、水城。ちょっと確認したいことあんだけどさ、新里、金曜に早退しなかったっけ?あと、四時間目に先生は保健室に戻ってたかどうかも」
「え?ちょっと待って。えっと………あ、うん。そうだわ。新里君は四時間目はじまってすぐに早退してる。先生は三時間目の休み時間から戻ってた。奈々ちゃんが三時間目終わった後すぐに怪我の手当てで保健室行ったって言ってるもん」
安吾の問いかけに水城は奈々ちゃんとやらからのメールを確認して答えた。
「そっか。やっぱりな。じゃあ、新里は犯人じゃない」
「どういうこと?」
「なんでだ?」
今度は僕と水城が疑問符を浮かべる番だった。安吾は自分自身にも理解させるようにゆっくりと話す。
「いいか、新里はB組だ。甲斐や柊と同じ理屈で答案を教室に隠せない。となるともし新里が犯人なら、盗んだ答案は少なくとも三時間目の間は肌身離さず持ってたはずだ。で、新里が早退したのは四時間目はじまってすぐだ。ってことはクラスの誰かが荷物を準備して保健室まで持って行ったんだ。ちょうどうちのクラスの四時間目は理科だったし、通り道だからな。それはいい。だけどな、だったら、新里はいつ封筒を荷物に紛れこませることができたんだ?」
「あ」
「なるほど」
「もうわかってるだろうけど、早退する奴っていうのは荷物が届いたらベッドを空けるためにソファーに移動させられる。ベッドは数が少ないからな。仮に荷物が届いてすぐにかばんに答案を仕舞おうにも、普通かばんはベッドまで運ばれずにソファーに置いて行かれる。封筒はそれなりに量もある。持っていることを誤魔化せるものじゃない。来室した時には持っていなかった荷物なんかをベッドから下りる時に持っていたら明らかに変だろ。しかも先生まで側にいるんだぜ?つまり、答案を隠せなかったという事実から新里はシロだ」
僕は数学の問題の別解を読んだ時のような気分で息を吐いた。
「そうだよな。盗めても隠せなきゃ意味ないし、移動できなきゃ盗めないんだもんな。前提を見直すことも大事だな」
あれほど藤宮に「視点を変えろ」と言われているのに、どうも僕はそれができていなかったようだ。藤宮は僕と自分を似た思考回路だと言ったが、僕にはとうていそうは思えない。
「とうとう二人にまで絞られたね」
名前のほとんどに線の引かれた容疑者一覧を見ながら水城が感心したように言う。
「犯人はどっちか、か」
安吾が藤宮に確認するように言うが、藤宮は何も言わず、相変わらず悠々と読書を続けている。
二人のうちのどちらかには犯行が不可能なことを証明すればいい。言葉にすれば簡単だが、そんなに簡単に証明できないから二人は残ったのであり、推理会議はそこから進まなくなってしまった。
「あー、わかんねー!」
テーブルにぎしぎしと体重をかけて安吾がだだっ子のようにわめく。その声の大きさに、少し先で遊んでいた小学生たちがおびえたような顔でこっちを見た。
「志摩君うっさい。てゆーか、もう二時間も経ってる。明るいから気づかなかったけどぼちぼち夕方じゃん」
メモだかなんだかわからない書きこみだらけで真っ黒になった何枚目かのルーズリーフを白紙と交換しながら水城がうんざりとした顔で言う。さすがの氷の視線も疲労で威力はだいぶ落ちている。
「二人とも、もう降参?」
読み終わったらしい文庫本をかばんに仕舞いながら、藤宮が微笑む。
「私はもう無理。頭パンクしそう。ってか儚、塾の時間大丈夫?」
「やだ!俺はまだあきらめない!降参は武士の恥だ!」
水城と安吾は同時に答えた。見事に対照的な答えだった。
しかし、安吾は武士だったのか。初耳だ。新撰組なら士道不覚悟でとっくに切腹を命じられている程度の浪人だろうが。
不必要に大きな安吾の声がうるさかったのか、藤宮は少し顔をしかめたが、すぐに微笑を浮かべる。
「時間は別に平気。なんならサボってもいいし。じゃあ、百合ちゃんは降参で、志摩君はまだ頑張るのね。志摩君、なんか思いついた?」
「なんにも!」
「あはは」
そして藤宮は無言でぐるぐると考え込んでいる僕にささやいた。
「間違い探しじゃなくて、正解探しをやるんだよ」、と。
発想の転換。
前提条件を疑う。
共通の疑問点に注目する。
見えないけれど考えられることはある。
僕は目を閉じてその言葉たちの意味を考える。
そう言った藤宮の思考展開を理解しようとする。
間違いではなく、正解を探す、というその意味。
どうすればこの式に正しい答えを導けるのか。
なにか間違いはないか、見落としはないか、勘違いはないか。
そして、本当に唐突に、結論にたどりついた。
それは推理というよりはひらめきと呼ぶに近いものだった。なぜなら僕は思考の結果として犯人を特定したのではなく、犯人を特定した後でその方法を理解したのだから。
「わかった」
そう言った声はとても小さかった。だから僕はもう一度声に出して確認する。
「わかった」
まず最初に藤宮が僕を見た。そして水城、彼女にはたかれて安吾が顔を上げる。三度目に、僕ははっきりと言いきった。
「犯人が、わかった」
◆◆◆
「僕たちは、根本的に勘違いしていたんだ」
三人の視線を受け止めながら僕は言う。
「藤宮は僕たちに提示されたこの条件でも真相にはたどり着けるって言ったけど、それは半分は正しくて半分は間違っている。だって、この条件に当てはまる奴なんて七人の中には誰一人いないんだ。逆に言うと、藤宮の考え方なら犯人になれるのは一人だけだ」
「それって、半分どころか完全に間違ってるってことじゃねーわけ?」
僕の言葉の矛盾にすかさず安吾が反応する。けれどその声は普通よりも小さめで、藤宮と合わないようになのか視線は僕の手元に落されている。
「いいや。藤宮は嘘はついてない。本当のことも言ってないけどね」
「そうね」
藤宮は表情筋ひとつ動かすことなくあっさりとうなずいた。
「でも、じゃあ、どういうことなの?それじゃ九条君はどうやって犯人を特定できたわけ?儚はともかく、九条君の持ってる情報は私たちと同じなのに」
水城がお手上げだ、というように両手を左右に開いて言った。
「そこなんだよ。僕らはその情報にばかり注目していた。藤宮が言ってただろ?発想の転換が必要だ、って。僕らは情報の表面ばかり見すぎてたんだよ」
基本的には与えられた情報量は僕らも藤宮も変わらないはずだ。けれど藤宮は即座に真相にたどりつき、僕らは大きく遠回りをさせられた。それは基本的な頭のよさというよりも、思考の形成過程の違いなのだろう。
「とりあえず、まず、なんで他の二人に犯行が不可能か説明するな。まず日吉。これは、『隠せなかった』からだ。仮に授業を抜け出して保健室に行く途中で盗んだとして、普通はそれをどうするか?今まで検討した奴らみたいに教室に隠しに戻るよな?でもB組前の廊下には立たされていた奴がいて、教室に行くにはその前を通らなければならない。今までにわかってることからこれは当然無理だ。保健室を抜けだしたとしても、後でどうやって保健室から見とがめられずにそんな大荷物を運び出すのかが問題になる。終わり。次に橘だが、これはもっと簡単だ。橘が理科室に行ったのは十一時二十五分だったんだよな?で、橘はかばんを抱えてそのまま来た、と」
「あー!」
水城が大きく目を見開いて叫んだ。わかったようだ。隣の安吾がおびえと困惑を浮かべて横を見たが、僕はかまわず続ける。
「見ての通り、時間割は下から順にローテーションしている。つまりA組の二時間目にB組の一時間目の教科、B組の二時間目にC組の一時間目、C組の二時間目にD組の一時間目、D組の二時間目にA組の一時間目、という法則がちゃんとあるんだ。で、その理屈通り橘たちC組の次の授業は体育だった。今の体育は男女ともにサッカーだ。グラウンドは北校舎の目と鼻の先にある。だけど僕らの靴箱は教室のある西校舎一階だ。着替えを持って行っていても体育館の更衣室で着替えて、いちいち教室まで靴を取りに戻るのはめんどくさいし手間がかかる。そこで移動教室の次の授業が体育の時には、僕らはあらかじめ運動靴に履き替えて校舎の外を回ってから移動するよな?靴は一階にそろえておいて。さて、ここで疑問なんだが、なぜ橘はいったん教室に行ってかばんを置かずにそのまま理科室に来たのか?それは、橘が昇降口には向かわずに校門から直接北校舎に来たからじゃないかと考えられる。となると、橘が犯人なら、彼は一度北校舎一階で靴を脱ぎ、他の教室から誰かに見られるリスクが高いにも関わらず三階と一階を往復した上でまた三階に上るという時間のかかる行為を少なくとも十一時から十一時二十分前後にやったことになる。無茶だろ。だったら普通にいったん教室にかばんを置いてから行動するはずだ。ちなみに十一時二十分っていうのはうちの部室の抜き打ち検査があった時間だが、先生たちはもっと早くからその辺りにいたはずだからそんな不審行為、見とがめられるリスクはもっと高い。よって橘でもありえない」
僕はそこで深く息を吸う。
「真っ先に考えなきゃいけなかったのは、誰が犯人か、じゃなく、いつ答案は盗まれたのか、だったんだ」
それにさえ気づいていればあとは一発だったのに。
「で、こっからが本題。この七人に共通してる『不可能』なポイントは、犯行時刻だ。条件から照らし合わせると、この三時間目っていう時間は不都合だらけなんだよ。そこで、発想の転換が必要になるんだ。僕たちは、答案が盗まれたのは三時間目の授業中だっていう前提で話を進めてたよな?でも、それが事実だって確証はどこにもないじゃないか」
「…………だ、な」
「たしかに」
二人は真剣な顔でうなずく。
「僕らはそこで既に間違っていたんだ。じゃあ、本当の犯行時刻はいつか?水城、なんで犯行時刻は三時間目だと思ったんだっけ?」
「先生が最後に答案の入った封筒を見たのが二時間目の休み時間で、三時間目の休み時間には封筒はなくなってたから」
「安吾、答案を入れる封筒ってどんなやつか覚えてるか?」
「どんなって、そこらへんに売ってる薄茶の角二封筒だろ?模試とか他のテストとか全部同じ種類のやつを使ってたはずだ。小テストの問題も一緒に積んであったはずだし、ぱっと見で違いはわからねーと思う。それがなんだよ?」
僕は二人の答えにうなずき、こう言った。
「じゃあさ、先生が二時間目の休み時間に見たっていう封筒が、偽物だったとしたら?」
「結論から言うと、封筒は三時間目より前に盗まれてたんだ。たぶん、二時間目の休み時間がはじまってすぐくらいに。だけど、たぶんこれは突発的な犯行だった。犯人はまず先生が見ていないすきに棚にあった封筒三つを盗む。この時、ごっそりなくなってるのを気づかれないために近くにあった似たような封筒の位置をずらしてカモフラージュする。そして厚さも似てる適当な封筒と、机の上の封筒を入れ替える。そして、疑われないためにその口から元の封筒の一番上にあった解答用紙、つまり採点中のやつを何枚か少しだけ飛びださせておいたんだ。授業開始前のごたごたで先生は封筒の中身全部をいちいち確認したりできない。これで一応犯行は完了だ。あとは盗んだ答案を持ちだし、最後に残った数枚を回収すればいい」
「ちょっと待ってくれ。おまえ、これは一人にしか当てはまらないやり方だって言ったよな?でもそれだけだったら誰にでもできるんじゃないのか?それこそその時間が空いてる奴なら誰でも」
「うん。ここまでならね。だけど、残った一枚を回収し、誰にも気づかれる心配なく答案を手元に隠せた人間となると一人しかいない」
視界の端で藤宮が微笑んだ気がした。
「犯人は、日吉彩歌だよ」
公園で遊んでいた小学生も少なくなり、厳しく照りつけていた日射しがだんだんオレンジに染まっていく。その西日の中で、ぬるい風に包まれながら僕は語る。
「知っての通り、日吉のクラスの次の授業は体育だった。日吉は体育の準備をして理科室に行ったことになる。ところで、女子ってなんで着替えを入れるだけなのにあんなに大きなバックを使うのかな?最近運動部でもないのにサッカー部とか野球部みたいな四角いスポーツバック流行ってるだろ?まあいいや。とにかく、日吉は盗んだ封筒をそのバックに入れて授業を受ける。理科準備室に行った理由は、たぶん質問とかそんなところだろう。授業前に先生のところに列ができるのはそれなりに普通の光景だからな。友達に質問させて先生の気がそれている間に盗んだのかもしれない。そして、日吉は仮病を使って保健室に行く。残りの答案はその途中で回収したんだろう。封筒にまとめるほどの量の答案は隠せなくたって、数枚程度なら折りたたんでポケットにでもしまえばいい。封筒を隠したバックは授業が終わり次第親切な友達が保健室に運んでくれる。多少膨らんでたって教科書とかを保健室に行く前に詰めておけば怪しまれない。これですべて完了、ってわけだ」
そこまで言い終わると、僕はふうっと息を吐いた。
パチパチパチ、と藤宮が軽やかに拍手をし、水城が「やるじゃん」と笑う。
「なんだよー。安吾って実は頭いいんじゃん」
「頭はよくない。藤宮の考えてることをまねてみただけだよ。つか痛い。爪ささってっし。いいかげん切れよ。ネイルアートでもすんのか、おまえは」
ぎゅうぎゅうと爪で腕を突いてくる安吾の指先を交わしながら、僕は妙な達成感がなんだか嬉しくて少し笑った。
◆◆◆
「でも、日吉はなんで答案を盗んだんだ?」
結局塾をサボることにした藤宮と駅まで歩きながら、僕は最後の疑問を口にした。方向の違う水城と安吾とはとっくに別れ、オレンジから赤く染まりつつある歩道には僕と藤宮の影だけが伸びている。
「気になる?」
僕とほとんど身長の変わらない藤宮が首を傾けると、肩に長い三つ編みが、ぱしり、と当たった。毛先が刺さって地味に痛い。
「あ、ごめん。それはともかく、気になる?」
「それなりには」
いつかこの身長差がもっと開くことを願いながら、僕はうなずく。
「そうねえ」
藤宮はロープのような三つ編みを振りながら考え込む。
「ねえ、九条君。答案って、何でしょう?」
「は?」
「だから、答案って、つまり何よ」
「答案、じゃないのか?」
はぁー、と藤宮は大きなため息を吐いた。
「あなたのその頭は何のためにあるの?少しは回転がマシになったかと思ったら、ぜんぜん使えない」
「悪かったな」
藤宮は足を限界まで広げて重力に背中を押されるように歩く。
「答案は、答案である以前に紙でしょう。そして、答案を見るのは先生と本人だけじゃない」
「まったく意味がわからないんだが。答案を見る可能性のある第三者なんて…………あ」
僕は歩道の真ん中で凍りついたように立ち止った。
「そういうことか?」
「そういうこと」
その瞬間、僕は自分が致命的に間違っていたことを痛感した。
藤宮は、誰に言うでもない声で、ばっかみたい、と笑った。
「僕は、失敗したんだな」
「間違ってはいない。点数をつけるなら九十点ってとこかな」
「でも満点ではないんだろ?」
「そうね。満点ではない。それで満足できないなら、もう一度考えてみればいいんじゃない。何回同じ思考回路をたどることになっても」
「もう一度」の繰り返しを。
僕はじっと足元の影を見下ろした。