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逃亡人生  作者: クク
第一章 “呪われた姫君と愚かな賢者”
15/18

駆け出した白昼

 高く澄み渡る空。どこまでも広がる草原。吹き抜ける心地のよい風。

 

『今日もにげてきたの? えへへへ、わたしにあいにきてくれたんだよねっ!』

 

『こいって言った。あんたが。いけないって言ったのに、はなし、きかないから……』

 

『ありがとうね、ヒタキ! それでねそれでね、今日はお昼寝しようよ! ほら、風がこんなにきもちいいんだよ!』

 

 若草色の髪を風にゆらし、にこにこと笑う彼女。小さなその手は、今まで作っていた花の冠をヒタキの頭にのせる。

 

『おひるね?』


『こうやってね、二人でならんでねることだよ! 今日みたいきもちのいい日は、お話しならがらゴロゴロしてすごすんだっ。すっごく楽しいよ』


『ふーん』


 その小さな体をいっぱいに広げ、草原に寝転ぶ彼女。そんな彼女に倣って、ヒタキも横に寝転がった。

 

『えへへへー。じゃあ今日も、たびのお話しようっ! ……えっと、えっと、前はどこまで話したんだっけ?』


『船。船に乗って、海をこえるとこまで』


『あ、そうそう! ふねだよ。それでねそれでね、そのあとは――――――――』


 目を瞑ればまるで昨日のことのようにだって思い出せる、彼女と過ごした日の何でもない一幕。

 

 あの忘れ得ぬ日々の、大切な一幕。

 

 まるであの瞬間に帰ってきたかのような錯覚に、ヒタキは遥か先まで広がる草原に無気力に倒れこんだ。


 迷宮の六十八階層。ヒタキにとって今この場所で無造作に寝転がるなど、自殺にも等しい行為だった。


「でも……別にもう、死んだっていいのか」


 楽園都市レイファリスに行って、幸せになる。


 彼女の最後の願いを叶えるためだけに、あの日から七年間生きてきた。しかしヒタキが未だに生き長らえているその唯一の理由は、すでに無い。


「今更だよな、ほんと……」


 ぽつりと呟いて、ヒタキは寝返りを打った。


 レイファリスは、すでに滅んだ。そんなことはすでに予想していたし、一生見つからないかもしれないと思っていた。


 でもそれは、絶対ではなかった。ほんの少しでも今でもレイファリスが存在している可能性を否定できなかったから、今まで世界を歩いて来れた。


 だけどそう思い込むのは、そう現実逃避するのはもう、いくらヒタキにだって無理だった。


 だってヴェルマはあの夜、泣いていたのだから。















*                       *                          *
















 ヴェルマは語った。


 窓から差し込む月明かりに照らされた、何もない彼女の部屋で。まるで主などいないような、空っぽの部屋で。


 遠い昔に終わってしまった彼女の故郷の、終わりきった昔話を。


 ただただ淡々と、彼女はヒタキに語った。


「楽園都市レイファリスは、十七年前まで確かに存在していたよ。巷で語られる噂話の通り、豊かで、平和で、優しくて、美しくて……ああ、そうだな。今思えば、確かにあそこは楽園だった。私はあの都市で生まれてから八年、何一つ不幸を感じることもなく、ただただ幸せに、本当に泣きたくなるほど幸せに生きていた。毎朝は小鳥の囀りから始まり、家族と穏やかな朝食を取り、大変ではあったが祖母による様々な教育を受け、魔術と剣術の訓練が終われば、友と日が暮れるまで遊び語らう。夜にはまた家族の団欒、そして温かい寝床で眠りにつく。まるでお伽話だろう? 私は家柄が少し特殊ではあったが、本当にあの都市に住む者は皆が皆、そんな冗談のような幸福な毎日を送っていたんだ。魔物に怯えることもなく、貧困に喘ぐ者などいるはずもなく、豊かで満ち足りたそんな生活を退屈な生活とまで考えるような人間がいるくらいに、外の世界とはかけ離れていた」


 幸せだったと、彼女は泣く。涙は流していなかったけど、それでも彼女は確かに泣いていた。謝りながら、泣いていた。


 その謝罪はヒタキに向けられているようでもあったし、遠い過去に向けられているようでもあったし、この呪われたろくでもない世界と現実に向けられているようでもあった。


「そんなお伽話のような都市を襲った初めての不幸は、都市の完全な滅亡だった。全ては一瞬だったよ。守護されていたはずの都市を初めて襲撃した相手は――――竜だった。黒く、凶悪で、強大で、ただただ絶望的にどうしようもなく強かった。都市はすぐに瓦礫と化し、大地は焼け野原と化し、命はついでのように全て狩られた。父も母も死んだ。友も、その家族も。そして祖母も死んだ。私の八年間は、全て死んだ。何一つ残さず、死んだ」


 終わりきった、昔話だった。


 竜。どうしようもない理不尽。どうすることもできない無条理。どうにもならない、一つの真理の形。


 一つの都市が終わりを迎えるには十分すぎるその災厄は、しかし世界にはいくらでもありふれていた。


 だから楽園都市の滅亡だって、珍しくもないありふれた一つのどうしようもなく終わりきった終焉だったというだけのこと。


「だがな……私は、私だけが死ねなかった。私の世界は全て死んで、この先も死に続けるのに、その中で私だけが死ねなかった。いや、死ぬことを許してもらえなかった。老いることも許されず、どうやったって死ぬことすらできない呪いと引き換えに、生かされた。だから私は死に場所を求めて世界を彷徨った。あの時、故郷と一緒に死ぬはずだった私を殺してくれる存在を、私を終わらせることができる唯一の存在を…………邪竜グリアヴァーズを探して」


 だからレイファリスには行けないし、死に場所を探すことをやめることはできない。


 だから――――すまない。夢を奪ってしまって、ごめんなさい。


 彼女は謝っていた。あの彼女が、許しを求めて謝っていた。


 この呪われたろくでもない世界と現実に、遠い過去に――――そして、ヒタキに。


 そして苦しんでいる彼女に何もできない自分は――――やっぱりどこまでも愚かだった。

















*                       *                          *














「なんて面してやがる。そんなに死にたいんなら、部屋引き払ってさっさと死んでこい。家賃の差額くらいは返してやる」


「…………」


 迷宮を抜けて、いつものように朝日に照らされる憩い停にたどり着いたヒタキを迎えたのは、そんな相変わらず似合わないコック帽を被った人相の悪い店主の第一声だった。


 いつも家賃の滞納分を支払え支払えと言われ続けているため、一瞬差額って何だと本気で驚愕したが、ヒタキはふと思い出して頷く。


「あ、そっか。来月まで家賃っていいのか」


「いらないなら返さんぞ」


「え? 別にいいよ。俺、たぶんそのうち死ぬから、使い道ないし」


 ダンッ、と厨房で野菜を千切りにしていた包丁が止まる。店主は顔をあげ、ヒタキを睨みつける。


「お前……異端審問のことか?」


「それもあるけど、多分その前に迷宮で死ぬと思う」


「……自殺でもするつもりか?」


 一瞬の沈黙の後、店主は二階へと続く階段に目をやる。


 ヒタキも気づいていた。二階の階段近くにヴェルマがいるのだ。隠れるつもりはなさそうだが、出るに出られないのだろう。


 ヒタキも今は何となく、ヴェルマには会いたくなかった。


「自分で死のうとは、思ってないけどさ。ただ、目的がなくなって、何て言ったらいいのかちょっとよく分かんないけど、今まであった生き残るための執念みたいなのが、なくなったんだよな。そうだな、だから、別にもう死んでもいいとは思ってる」


 自分で命を絶とうとは、今更思わない。絶望は、七年前にもう味わった。


 ただ、今までは確かにあった意志が、楽園都市を目指すという生存意義が、なくなった。たった一人の友達だって、どうすることもできない。


 だから今ヒタキは、ただ何となく生きているだけだ。夢も希望もなく、かといって絶望も苦痛もなく、ただ生きているだけ。


 そして世界は、そんなヒタキが生きられるほど優しくも温くもない。


「この世界はさ、もともと俺が生きて行くにはちょっと厳しいんだよな。今まで通り迷宮に潜っても普通に死ぬし、かといって迷宮に潜ることをやめても異端審問っていうのからは多分逃げられないし。だから俺は、そのうち死ぬよ」


「…………」


 果たして店主は、何も言わなかった。ヒタキを一瞥しただけで、朝の仕込みに戻った。


 朝の静けさの中に、包丁がまな板を叩く音が響く。


 ギシリ、と階段が軋む。


「ヴェルさん……おはよう」


「ああ……おはよう、ヒタキ」


 のろりと顔を階段の方に向ければ、階段を降りてくるヴェルマの姿があった。


 一昨日の夜、静かに涙を流していた彼女。


 ヒタキはこんな時、どんな顔をしていればいいのか分からなかった。ヴェルマと会うのは、だから少しだけ避けたかった。


「疲れているところ悪いが、少し話さないか?」


 でもおそらく、それはヴェルマも同じなのだろう。どこか歯切れ悪くそう言う彼女に、ヒタキは静かに頷いていた。


 カウンターの一番端と、その隣の席。いつもの自分たちの席に座って、ヒタキとヴェルマはミルクと紅茶を頼む。


「…………」


「…………」


 話は、すぐには始まらなかった。始めることが、できなかった。


 たぶん今ヴェルマと話せば、大事な何かが終わってしまう。その予感は、確かにあった。


 でもこれから先、たぶんヴェルマとこうして隣同士に座って、ともに時間を過ごす機会は永遠に訪れない。


 その前に自分はきっと、自分は死んでしまうから。


 だからヒタキは、きっとヴェルマも、この最後の時間をどう過ごしていいのか分からず、ただただ黙って隣に座っていた。


 店主がミルクと紅茶を無言でカウンターに出して、再び朝の仕込みに戻る。


 目を覚ました客が降りてきて、朝食を注文する。


 装備を整えた数人の探索者が訪れ、少しだけ賑やかになる。


 そして一人、また一人と迷宮へと向かうために店を出て、また静寂が訪れる。


 出された飲み物にも手をつけず、二人の間でただただ時が過ぎ去っていく。


 何分なのか。何時間なのか。どれだけ時間がたったか分からない頃、どちらともなく、ようやく二人は目を合わせた。


「最後、だな」


「ん、そうだな」


「恐くは、ないのか?」


「変なこと聞くんだな」


「そうだな。なら、私を怨んでいるか?」


「いや。むしろ、何もできなくてごめん」


「私も、お前に何もしてやることができなかった」


「ヴェルさんは、色々してくれたよ。異端審問のことだって、もういいって言ったのは俺だろ」


 言葉数少なく、二人はぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。


 そしてたった数言だけのやり取りの後、ヴェルマは席を立った。


 ヒタキも、それを止めなかった。


 紅茶と、そしてミルクの代金を置いて、彼女は階段へと向かう。


「ヒタキ、今までありがとう。楽しかったよ、本当に」


 そしてヴェルマは、二階に消えていった。


 ヒタキは、最後に見えた彼女の赤い綺麗な髪を、ただただぼんやり見つめていた。

 

 彼女の言った通り、やっぱりこれで最後なのだろう。


 交わした言葉は少なかったけど、言いたいことはきっと全部言えた。言って貰えた。


 だから、この何かよくわからないもやもやとした思いは、きっと気のせいだ。何か大切なことがあったと、心のどこかでそう思うのも、気のせいだ。


 ヒタキには、死にたがってる彼女をどうすることもできない。


 ヴェルマも、生きることを諦めた自分をどうすることもできない。


 だから、これでお別れ。もう自分の命は、長くても明日までだろうから。












*           *           *












 異端審問。


 それは、教会が下す実質的な死刑宣告だ。


 迷宮の神々が定めた七法。教会はそれに反する者を裁く権利を、迷宮都市の全住人から得ている。


 しかし七法を順守するだけでは、神々と、そして神々への信仰を司る教会の権威を守ることはできない。


 何事にも、例外が存在する。


 例えばこの世界の誰もが、何もが持つ魔力を持たない人間。


 そして博愛の神々からの加護を授からず、それでもなお迷宮を踏破することができる異端。


 そのような例外、即ち異端を放置しておけば、神々への信仰を脅かしかねないことは目に見えている。


 それ故の異端審問。


 ヴェルマと別れ、幾ばくもしないうちだった。彼が、彼らが現れたのは。


「貴様が、ヒタキだな?」


 だから、異端審問が開かれるという決定がなされて、今の今まで審問官が来なかったことは、むしろ遅すぎたくらいだったのだのだろう。


 全ては手遅れ。それは、昨日の昼間にヴェルマと共に店主に話を聞いた時に、分かりきっていたことだった。


 迷宮で死ぬのが先か、異端審問とやらで殺されるのが先か。


 教会騎士団に属する者が着用する白地のマントを纏った、まだ二十代半ばくらいの男を見て、ヒタキは後者だったかとぼんやりと考えていた。


「まだ、あと一日くらいあると思ってたんだけどな」


「聞こえなかったか? 私は貴様がヒタキという男で間違いないかと聞いているのだが」


 灰色の髪を後ろに撫で付けた生真面目そうな男は、目を鋭くしてヒタキを睨みつける。


 まあ、最後にヴェルマにお別れも言えたからいいかと、ヒタキはその男に向き直った。


「うん、そうだけど」


「そうか。私は教会騎士団第九番隊所属、ロディック・グレイスだ。異端審問官としてここに来た」


「…………」


 ロディックと名乗った男の背後には、他にも四人の騎士が立っている。店の入り口を塞ぐように二人、ロディックのすぐ後ろに二人。抵抗されたときの備えは万全ということらしい。


 そもそもこのロディックと名乗った男は、かなりの強者だろう。少なくともあのリョウ・アカツキよりも魂の格は上、つまりクラスチェンジを三度は行っている。


「なんか、随分と物々しいな」


「先ほど言った通り、私は今ここに異端審問官として立っている。つまり神々の敵の可能性がある貴様相手には、備えが万全になることはない」


「異端か。あんたらの神様って、加護を受けられないだけで人を殺すのか?」


 勝手に加護とやらを与えてきて、それを拒否されたら殺す。いくら何でも自分勝手で心が狭すぎる神様だよな。


 そう思ったままに呟いた瞬間だった。


 目の前の男の目が見開き、殺意が膨れ上がる。そして腰に佩いた剣が抜き放たれ、ヒタキの背後のカウンターに剣が叩きつけられた。


「神々の加護を受けることができていないことが、何よりも罪人の証だ! それ以上に罪深いことがあると思っているのか!?」


「え、あるだろ。いっぱい」


「貴様っ……! く……まあ、そうだろうな。神をも恐れぬその言葉、異端者というのは間違いないようだ」


 怒り収まらぬといった様子で、男は長く息を吐き出す。


 正直に言って、驚いた。敬虔な神の信者を、ヒタキは初めて見た。ロディックという男は、本当に神様に文句を言っただけのヒタキに激怒していたのだ。


 そして、神の加護を受けていない自分を、心の底から憎悪している。


 何となく、彼が異端審問官としてここに来た意味がわかった気がする。


「貴様は今から私達に拘束され、明日の異端審問にかけられる。これは教会の決定だ。抵抗は無駄だと知れ」


「ちなみに、逃げたらどうなるんだ?」


「神に誓って、騎士団が貴様を捉える」


 元より、もう逃げるつもりはない。逃げる理由は、もうない。


「…………」


 なのに、何故か、あの赤い色を思い出してしまう。


 あの遠い日、赤色に染まった、あの人の笑顔。


 そして、彼女の――――


「別に……」


 ヒタキは、声を絞りだす。もう、別れは済ませた。もう、これ以上思い残すことはないはずなのだ。


 だから、全部気のせいのはずだ。


 ヒタキはカウンターの席から立った。


「もう、逃げる理由なんてないんだから、俺は逃げないよ」


「そうか。ならば、一緒に来てもらお――――」


 その時だった。店の扉が勢い良く開け放たれ、


「た、助けてください! ヴェルマさん、ヒタキさん……リョウさんを、私の仲間を、助けてください!!」


 息も絶え絶えに、涙で顔をぐちゃぐちゃにして叫ぶメリル・カナートが飛び込んできたのは。


「な、何だ貴様は!?」


 ヒタキの姿を見つけた彼女は、ロディックを押しのけてヒタキに縋りつく。


「ヒタキさん、助けて! お願いします! このままじゃ、このままじゃあみんなが、みんなが死んでしまうんです!」


「おい、貴様、やめろ。何があったか知らないが、その男は異端の疑いをかけられている。そのような者に助けを求め――――」


「黙っててください! 今そんなことは関係ないでしょう!!」


 涙で溢れた瞳で、メリルは男を睨みつける。


「危険だからって動いてもくれない教会騎士団なんて……せめて邪魔しないでください!!」


「な、何の話をしている……」


 向けられた純粋な怒りに呆然とするロディックに一瞥もくれず、メリルは縋り付いたままヒタキを見上げる。


「迷宮の、迷宮の四十三階層です! みんな、みんなまだそこで戦っています! お願いします、助けてください!!」


「えっと、何のことか分からないんだけど……」


「りゅ、竜です!! 竜が出たんです! それでみんなは、私だけを逃して、騎士団の人に言ったけど、仮に本当でも大遠征で戦力がないって、だからすぐには行けないって、だから!!」


「ふん、馬鹿な。四十三階層で竜だと? 例え亜種の竜もどきだとしても出てくるのは百五十階層以上だぞ」


 何を言っていると言わんばかりのロディックに、彼の部下達も苦笑気味に頷いている。


 だがしかし、そんな苦笑も、続けて飛び込んできた騎士団員の言葉に凍りついた。


「じ、事実です、ロディック殿! この娘の他にも多数の目撃証言が!! 今教会は、未曾有の事態だと、竜が下層に現れたと、大騒ぎになっております! その娘から事情聴取をする必要がありますので、捕獲にご協力を!!」


「な、本当、なのか……?」


「大遠征のときに限って……戦力が足りない……」


 最悪の事態だと慌てふためく騎士達。胸の中で助けてと叫ぶメリル。


「竜……、って」


 わけもわからないまま、目まぐるしく展開していく事態の中、ヒタキはそれら全てがどうでもよくなるほどの、あの言葉を思い出す。


『だがな……私は、私だけが死ねなかった』


 あの夜、泣いていた彼女。


『私の世界は全て死んで、この先も死に続けるのに、その中で私だけが死ねなかった。いや、死ぬことを許してもらえなかった』


 苦しんでいた、彼女。


『老いることも許されず、どうやったって死ぬことすらできない呪いと引き換えに、生かされた』


『だから私は死に場所を求めて世界を彷徨った。』


 死なせてくれと、全てに謝っていた彼女。


『あの時、故郷と一緒に死ぬはずだった私を殺してくれる存在を、私を終わらせることができる唯一の存在を――――』


 二階から、扉が吹き飛び壊れる音。そして階段から飛び降りてきた赤い影が、入り口間際にいた騎士たちを押しのけ、外に飛び出していく。


「見つけた、見つけたぞ!! グリアヴァーズ!!!」


 そんな、悲痛な叫び声を残して。


「ヒ、ヒタキさん、今のって、ヴェルマさん……!?」


「…………」


「ヒタキさん!?」


 メリルが目の前で声を荒げているが、そんなことはどうでもよかった。どうでもよくなるくらい、何かよくわからない、このもやもやした思いが大切だった。


 七年前のあの日から、あの人との約束以外全てどうでもよくて、今ではもうその約束さえ果たせないから、死んでもいいと思えるくらい本当に全てどうでもよかったはずなのに、それでも何か、大切なことがあった。


 思考がまとまらない。頭の中がぐちゃぐちゃで、どうすればいいのか分からない。何が自分をここまで混乱させているのか、分からない。


「ヒタキッ!!」


 鋭い声と共に、頭に衝撃が走る。


 見れば、足元に硬貨が落ちていた。


「一口も客に口をつけられないもん出して金を取るほど、俺はこの仕事を適当にやってねえ」


 それは、ヴェルマが別れを告げる前に、支払っていったミルクと紅茶の代金だった。


 ヒタキは呆然と、それまで沈黙を保っていた店主の顔を見つめる。


 店主は、笑っていなかった。当然のような凶悪な顔を、当然のようにしかめたまま、何時ものように言った。


「ミルクと紅茶、この店でそんなもの頼むのはお前ら二人だけだ。来なくなったら在庫の処分に困る。その金持って、改めて二人揃って飲み直しに来い」


 ――――それでも何か、大切なことがあった。何かよくわからない。でも、それは間違いなく大切なことだった。


 よくわからないけどきっとそれには、この憩い停の、このいつもの席で、いつものように無愛想な店主の前で、彼女と――――ヴェルマと並んで座っていることも含まれているのだ。


「店長、俺……行ってくる!」


 だからヒタキは、床に落ちた硬貨を拾って握りしめる。


「ヒタキ、さん?」


「別に、俺はリョウ・アカツキを助けに行くわけじゃない。ただ、ヴェルさんに会いに行くだけだ」


「え、え……、ちょ、ちょっと待ってください、私も行きます!」


 腰に巻いていたローブを解き、身にまとう。


 準備はできた。あとはいつものように――――


「待て! どこに行くと言うのだ! 確かに緊急事態ではあるが、異端者を逃がすわけにはいかない!」


 この騎士たちから逃げるだけだ。


 前に倒れこむようにして、加速。


 抜身の剣を振りかぶるロディック。だが、動き出しが遅い。


 床を蹴り、跳躍。足元の空間を剣が切り裂くのを感じながら、ロディックの後頭部を蹴り再度加速。彼の後ろにいた二人と、後から店に飛び込んで来た騎士を置き去り、店の入口に飛ぶ。


「捕らえろ!!」


 入り口を閉鎖するように剣を構える騎士二人に、カウンターから取った皿を投げ牽制。


 二人が剣で皿を受けた隙に、今度は這うように姿勢を低くして駆け抜け、外に飛び出す。


 しかし、まだ店を抜けただけ。すぐに騎士たちが、そしてメリルと、彼女を追う騎士が一人追ってくるのを感じた瞬間、しかし店主の凶悪な声が響いた。


「待て、お前ら。うちのカウンターをダメにした上、皿まで割りやがって、そのまま帰れるとでも思ってるのか? 掃除して、弁償していけ」


「な、今はそんなこと……」


「そんなことじゃねえ!! それとも何か? 刻んでスープの出汁にされてえのか?」


「く、すまない! お前たち、後は頼んだぞ!」


 追手の気配が、二人分消えた。騎士が六人から、四人。


 それは今のヒタキに取って、とてつもなく大きな助力だった。


 ありがとうと手の中の硬貨を握りしめ、ヒタキは路地を走る。


 単純なトップスピードでは、先ず間違いなく追いつかれる。基本スペックが違いすぎるのだから。


 何時もみたいに隠れてやり過ごすことも、今は得策ではない。そんなことをしていれば、ヴェルマに会えなくなるかもしれない。


「だったら……!」


 壁を蹴り、窓枠を蹴り、突起を蹴り、一気に建物の屋根に駆け上がる。


 トップスピードを保てない複雑な経路を走り相手を撹乱しながら、かつなるべく最短で教会を目指す。


 彼女に会って、どうするのかなんて分からない。どうにかできるなんて、思っていない。


 でも、それでも、今ならしっかりと言える。


 未練はまだあった。思い残すことは、まだあったのだ。


 もう一度だけ会わないと、だめだった。


 理由は、わからない。大切なことが何なのかも、わからない。


 それでもヒタキはやっぱり、ヴェルマに死んでほしくなかった。









 


 






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