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死体と二人きり

作者: 金帽子
掲載日:2026/09/11

人が死ぬ瞬間を、俺は二度見た。

一度目は、何もしなかった。

二度目は、何をすればいいのか分からなかった。

だから俺は、非常通話のボタンを押した。


「人が死んで……」


そこで一度、言葉を止めた。

そして、こう言い直した。


「……俺が、殺しました」




――夏の暑さが尾を引き、今日も蒸し暑い一日だった。


俺は仕事の外回りで、とある都内のマンションを訪問していた。

今日も何気ない一日。

スーツのジャケットを腕にかけ、マンションの中へ入る。

訪問するには管理人への確認が必要だったため、面倒臭いがインターホンを押した。


「すみません、株式会社〇〇〇〇の者ですが。今日も訪問営業をさせていただきたく」

『あぁ、はい。どうぞ』


相変わらず無愛想な老人だ。

そう思いながら、俺はエレベーターへ向かった。

今日は上から順番に、適当に回っていくか。

そう考えていると、先ほどの管理人がやってきた。


『すみません、私も乗ります。七階の〇〇さんのところに用事があるので』

「えぇ、どうぞ」


俺は営業だ。

そう自分に言い聞かせ、自慢の笑顔を向けながらエレベーターに乗り込んだ。


「今日も暑いですね」

『えぇ。ゴホッ……ゴホッ……』


老人は苦しそうに咳をした。

チッ。

咳くらい手で隠せよ。


そう思いながら、階数ボタンを眺めていると――


バツンッ。


突然、エレベーターの照明が消えた。

同時に、身体がわずかに揺れる。

エレベーターが止まった。


「最悪だ……」


管理人と二人きり。

密室。

おまけに、唯一の涼しい空間まで台無しだ。

あぁ、そういえば今日の占い、最下位だったな。

そんなくだらないことを考えていた、その時だった。


バタンッ。


人が倒れる音がした。


「……え?」


暗闇の中、俺は息を呑んだ。

多分、管理人が倒れた。


「管理人さん! 大丈夫ですか?」


返事がない。

俺は暗い床に手をつきながら、老人が倒れた場所を探した。


「何も見えねえや……」


手を伸ばす。

すると、ベチャッ……

何か、ぬるりとしたものに触れた。


「……なんだ、これ」


その瞬間――

ブゥン。

エレベーターの照明が復旧した。


「やっとかよ……」


俺は老人の方を見る。

老人は床に倒れ、口元から血を流していた。


「うわぁぁぁぁ!」


俺の手にも、べったりと血が付いている。

まずい。

何で倒れてるんだ。

俺は何もしていない。

確かにこの老人は不器用で無愛想だ。

でも、死ねばいいなんて思っていたわけじゃない。

そもそも、俺は老人に触れてすらいない。

なのに、老人は動かない。

焦りが判断を鈍らせる。

間違いなく、通報するべきだ。


でも――


エレベーターという密室で、二人きり。

もし、本当に俺が殺したのだとしたら?


「いや……そんなわけない」


俺は殺してない。

そう思っているのに、血を見ると身体が動かなかった。

老人から目を離せない。

その時だった。


『何で殺した?』

「……え?」


老人が、こちらを見ていた。

さっきまで倒れていたはずなのに。

口元から血を流したまま、俺を睨んでいる。


『何で殺した?』

「やめろ……」


俺は後ずさる。


『お前が殺したんだ』

「違う……!」

『お前が、俺を殺した』

「違う!」


頭が痛い。

息が苦しい。

心臓が激しく脈打つ。

老人の声が、頭の中で何度も繰り返される。

目の前に倒れている老人を見る。

血を吐いて、動かない。

その光景を見ているうちに、別の記憶が蘇ってきた。


――半年前。


俺は渋谷で飲んでいた。

かなり酔っ払っていた。

帰りも無事に帰れるか心配なくらいだったが、その日のことだけは鮮明に覚えている。

人気の少ない路上を歩いていると、後ろから、


バタンッ。


人が倒れる音が聞こえた。


「うぁ?」


振り返る。

そこには、老人が倒れていた。


「……死んだのか?」


俺は近づかなかった。

酔っ払いだろう。

誰かがそのうち助ける。

そう思った。

いや本当は、面倒だっただけなのかもしれない。

俺はその場を離れた。


そして後日――


渋谷の路上で倒れていた男性が、心不全により死亡したというニュースを見た。

間違いない、あの時の老人、本当に死んだんだ。

誰も通らなかったのか?

あの時、後ろから声が聞こえた気がするし、助けを求めていたような気もする。

でも、酔っていて、はっきりとは覚えていない。

ただ一つだけ覚えている。

俺は、何もしなかった。


「あの時……俺が通報してれば、助かったのか?」


自分に問いかけても、答えは出ない。

どうせ助からない、心不全だったんだから。

そう言い聞かせても、胸の奥に残ったしこりは消えなかった。


そして――今。


目の前には、血を吐いて、動かない老人がいる。

俺は震える手を伸ばした。

今度こそ、何もしないわけにはいかない。

だが、指が止まる。

もし、この老人が死んでいたら?

もし、俺が殺したのだとしたら?

監視カメラもある。

言い逃れはできない。


「……俺は、殺してない」


自分に言い聞かせる。

そして、震える指で非常通話ボタンを押した。


『緊急でしょうか?』


コールセンターの女性が出る。

俺は唾を飲み込んだ。


「老人が……倒れています」

『すぐに救急隊を呼びます! 容態を教えてください!』


改めて老人を見ると、血を吐いている。

口が震える。


「俺が、殺しました」

『えっ……?』

「俺が殺しました」

『警察も呼びます! そこを動かないでください!』

「……はい」


やっと自白できた。

これで俺は、あの苦しみから解放される。

そう思った。

頭の中にあったしこりが、ようやく取れていくような気がした。


――それから二十分ほど経った頃。


エレベーターが動き始めた。

俺の心も、ようやく動き始めたような気がした。

そして七階に到着すると、警察と救急隊が待っていた。


『大丈夫ですか!?』


救急隊員が俺を押し退け、倒れている老人のもとへ駆け寄る。

俺は何もできず、その場に立ち尽くした。


『署で詳しくお話を聞かせてください』

「……はい」


俺は警察に連れて行かれた。

エレベーターの前に集まった人たちの視線を、俺は一生忘れない。

恐怖と、嫌悪が混じった目。

自分は人を殺したのだ。

そう思うと、不思議と冷静だった。

やっと苦しみから解放される、そんな気がしていた。


――翌日。


俺は警察署の取調室にいた。


『もう一度聞く。なぜ、殺したなんて言った?』

「……わかりません」

『わからない?』

「……はい」


警察官は机の上に一枚の資料を置いた。


『エレベーター内の監視カメラを確認した』

「……監視カメラ?」

『あれは停電時でも録画できるものだった。映像も残っている』


警察官は淡々と続けた。


『停電した後、老人は一人で倒れている。お前は何もしていない』

「……」

『老人に触れたのも、倒れた後に手を伸ばした時だけだ』


頭の中が真っ白になる。


「……じゃあ」


声が震えた。


「俺は……殺してない?」

『そういうことだ』

「……でも、俺は……」

『だから聞いている。なぜ、あんなことを言った?』

「……わかりません」


涙が溢れた。


「ただ……苦しかったんです」

『苦しかった?』

「あの時……俺が通報しなかったから……」


言葉が詰まる。


「あの人も、死んだと思って……、あの時の俺が通報してれば、助かったのかもしれないって……ずっと……」


俺は顔を伏せた。


「だから……俺が殺したのと同じじゃないですか……」


警察官はしばらく黙っていた。


そして、静かに言った。


『今回の老人は助かった』

「……え?」

『食道静脈瘤からの大量出血だった。かなり危険な状態だったが、お前の通報が早かったから助かったそうだ』


俺は顔を上げる。


「……助かった」

『ああ』


その言葉を聞いて、胸の奥から力が抜けた。

俺は人を殺していなかった。

そして今回は、ちゃんと通報した。


けれど――


『一つだけ聞いていいか』


警察官が言った。


「……はい」

『半年前の件だ』


心臓が跳ねた。


『お前が通報していたら、その人は助かったと思うか?』


俺は答えられなかった。


『医療記録を見ても、それは分からない。すぐに救急車を呼んでいても助からなかった可能性はある』


警察官はそう言って、資料を閉じた。


『だから、お前が殺したとは言えない』

「……」

『今回と同じだ。お前は老人を殺していない』


頭では分かっている。


でも――


半年前の路上で倒れていた老人に、俺は何もしなかった。

けれど、今度通報した老人は助かった。

だからこそ、余計に思ってしまう。


あの時も、今のように電話をしていれば。


それだけが、いつまでも頭から離れなかった。

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