表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
29/76

武将 蒲生氏郷 第29話 大軍の影

元亀元年六月。

近江の中央を流れる姉川の周辺では、

浅井・朝倉と織田・徳川の両軍が、

ついに大規模な衝突へ向けて動き始めていた。

六角家の滅びから数年、

近江の勢力図は大きく揺れ、

その余波がこの地に集まりつつあった。

織田信長は浅井長政を討つため、

美濃・尾張から兵を集め、

徳川家康も三河より援軍として駆けつけていた。

一方、浅井方には越前の朝倉義景が加わり、

北と西からの圧力を受けた信長は、

姉川を挟んで両軍が向かい合う形となった。

鶴千代は、

その大軍の一角に加わっていた。

これまで小規模な戦をいくつか見てきたが、

今回の戦は規模も緊張もまったく違っていた。

行軍の列は果てしなく続き、

槍の林が風に揺れ、

馬の嘶きが谷間に響く。

戦が始まる前から、

大軍が動くだけで空気が変わっていくのが分かった。

左馬允は、

その変化を静かに読み取っていた。

兵の歩幅、列の揃い、

地形の傾き、風の向き──

それらが戦の“流れ”を形づくることを知っていた。

そして、

この姉川の戦いが、

少年にとって初めて“本物の大戦”となることも理解していた。

鶴千代は、

胸の奥に広がる緊張と期待を抑えながら、

前方に続く槍の列を見つめた。

戦の空気が、

これまでとは違う質を帯びている。

美では測れぬ“質量”が、

軍勢全体から立ち上っていた。


鶴千代は、馬を進め姉川へ向かう行軍の列に加わった。

そこに広がっていたのは、

これまでの人生で一度も見たことのない“質量”を持つ軍勢だった。

槍の穂先が朝の光を受けて揃い、

その揺らぎが波のように続いていく。

馬の嘶きが谷間に反響し、

鉄砲の火薬の匂いが風に混じる。

兵が歩を進めるだけで、

地面がわずかに震え、

空気が重く変わっていくのが分かった。

(……これが、大軍)

胸の奥に広がったのは恐怖ではなく、

圧倒的な“規模”に触れたときの静かな緊張だった。

これまで見てきた“線の美”──

槍の揃い、退き際の流れ、風の向き──

それらとはまったく異なる、

“質量の線”とも呼ぶべきものが、

軍勢全体から立ち上っていた。

左馬允は、

鶴千代の少し後ろで無言のまま周囲を観察していた。

その眼差しは、

兵の歩幅、列の乱れ、馬の疲れ、

地形の傾きに至るまで、

すべてを静かに読み取っているようだった。

「……大軍は、動くだけで戦になる」

ようやく口を開いた左馬允の声は、

谷を渡る風よりも低く、

しかし確かな重みを帯びていた。

「戦う前から、勝ち負けの影が生まれる。

 兵の数、列の揃い、地形との相性……

 そのすべてが“流れ”を作るのです」

鶴千代はその言葉を胸に収め、

前方に続く槍の林を見つめた。

兵の一人ひとりは小さくとも、

集まれば巨大な“線”となり、

その線が大地を押し、

空気を変え、

戦の前触れを形づくっていく。

(……美では測れぬ世界がある)

その理解が、

ゆっくりと胸の奥に沈んでいった。

美しい線ではなく、

重さを持つ線。

揃いの美ではなく、

数が生む圧力。

それは、これまでの自分が見てきた戦とは

まったく別の相貌をしていた。

行軍の列は、

やがて姉川へと続く平地へ出た。

遠くには、

浅井・朝倉の旗が風に揺れ、

その向こうに広がる戦場の気配が、

まだ形を持たぬまま漂っていた。

鶴千代は、

その気配を胸の奥で静かに受け止めた。

美の線では捉えきれない、

戦の“質量”がそこにあった。

そしてその質量こそが、

これから始まる戦の意味を決めるのだと、

まだ言葉にならぬまま理解し始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ