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第3話:提督の愛弟子と、黄金の揚げ物

王都の朝は、規則正しい音から始まる。

庭でアルフォンスが木刀を振る、鋭い風切り音だ。引退してなお、彼は「心身の練武に終わりなし」と、夜明けとともに身を清めることを欠かさない。


カイルは、その音を心地よい目覚まし代わりに聞きながら、寝癖を直して台所へ向かった。

今日は役所の休日だ。たまにはゆっくりと朝食を……と考えていたカイルの耳に、玄関の呼び鈴が、遠慮がちだがはっきりとした音で響いた。


「……こんな朝早くに、誰だろう」


扉を開けると、そこには銀色に輝く騎士装束に身を包んだ、一人の青年が立っていた。

年の頃はカイルと同じ二十代後半。だが、その胸元には王立魔導艦隊の現役士官であることを示す、青い双剣の紋章が刻まれている。


「――グレンツ閣下のご令息、カイル殿とお見受けする。突然の訪問、失礼致す」


青年はカイルの返事も待たずに、軍人らしい非の打ち所のない敬礼を繰り出した。


「私は魔導艦隊第三分艦隊所属、ゼノス・アーベント大尉。かつて提督の元で、士官候補生として教えを請うた者です。本日は……どうしても閣下に、ご相談したき儀があり参上しました」


カイルは小さく溜息をついた。父が引退しても、その「影」を追ってくる者は絶えない。

「……どうぞ、中へ。父は今、庭で体を動かしています」


ゼノスを居間に通すと、ちょうど身支度を整えたアルフォンスが、厳しい表情で戻ってきた。


「朝から騒々しい。カイル、客か」

「父さん、かつての教え子のゼノス大尉だそうです。ご相談があるとか」


ゼノスは、アルフォンスの姿を見るや否や、弾かれたように立ち上がって直立不動の姿勢を取った。

「閣下! 長らくご無沙汰しております!」


「……ゼノスか。声が大きい。ここは艦橋ブリッジではないぞ」

父は冷淡に言い放ち、カイルが差し出した茶を受け取った。だが、その視線は鋭く弟子の全身を走った。

「靴が汚れている。王都の舗装された道を歩いてきたにしては。……さては、何か失態を犯し、ここまで走ってきたな?」


ゼノスは顔を赤くし、声を震わせた。

「お、お見通しであります。実は……来週挙行される『建国記念観艦式』の予行演習にて、最新鋭の魔導戦艦が座標計算を誤り、座礁しかけるという不祥事を起こしました。幸い損害は軽微でしたが、若手士官たちは最新の計測魔法に頼り切り、基本の『海流読み』を軽視しております。このままでは、わが国の艦隊は……」


ゼノスは、今の艦隊が「効率」ばかりを求め、父が教えてきた「海と対話する精神」を忘れていることを、切々と訴えた。


アルフォンスは黙って聞いていたが、やがて茶を飲み干すと、静かに立ち上がった。

「ゼノス大尉。貴様は私に何を求めている? 現役に復帰して喝を入れろとでも言うのか」


「それは……いえ、せめて、若手たちにご講話を頂ければと……」


「断る」

父の声は氷のように冷たかった。

「私は既に老兵だ。今の時代の計算式も、新しい魔法具も知らん。それに、カイルに『隠居の邪魔をするな』と釘を刺されている」


カイルは、いきなり自分に矛先を向けられ、少しだけ苦笑いした。

「父さん。僕は『トラブルを起こすな』とは言いましたが、『頼りにされるな』とは言っていませんよ」


「黙れ。……ゼノス、話は終わりだ。帰りたまえ」


ゼノスの肩が、目に見えて落胆に震えた。

カイルは、必死に誇りを保とうとしているこの若き士官を、そのまま帰すのが忍びなくなった。


「大尉。よろしければ、一緒に昼食でもいかがですか? 父も、古い仲間の近況を聞けば、少しは機嫌も良くなるでしょう」


「えっ……よろしいのですか?」

「カイル! 勝手なことを……」


「父さん。エルナさんからもらった魚が、まだ新鮮なうちに食べないといけませんから」


カイルは有無を言わせぬ笑顔で、台所へ逃げ込んだ。


今日の献立は、父の好物の一つである。

異世界の近海で獲れる「銀鱗魚」――前世のタラに似た白身魚だ。カイルはこれを、薄く衣をつけて、魔導コンロで熱した油の中に静かに落とした。


シュワシュワという軽やかな音が響く。

小麦粉に少しのスパイスと、隠し味に酸味のある果実酒を混ぜた衣は、油の中で黄金色に膨らんでいく。


「ほう……これは、揚げ物か」

居間まで漂ってきた香ばしい匂いに、ゼノスが思わず鼻を動かした。


食卓に並んだのは、山盛りの「銀鱗魚のフライ」と、刻んだ野菜の甘酢和え。

父とゼノス、そしてカイルの三人が食卓を囲む。


父は無言でフライを一つ手に取ると、ナイフで半分に割った。

立ち上る湯気と共に、ふっくらとした白身が顔を出す。


「ゼノス。食べろ。腹が減っていては、冷静な判断もできん」


「はっ! いただきます!」


ゼノスが勢いよくフライに食らいついた。

サクッ、という快い音が、静かなダイニングに響く。


「……美味い。なんという軽さだ。外はこれほど脆く、中はこれほど瑞々しいとは」


「……この衣が重要なんだ。カイルは、火力を常に一定に保ちながら、中までじっくり熱を通す。計算だけでは、この『黄金色』は作れん」


父は教え子に説くように言った。その声には、先ほどまでの冷たさは消えていた。


「ゼノスよ。最新の計測魔法も結構だが、最後は『勘』……いや、『経験』が物を言う。この魚の揚げ時を見極めるのと同じだ。魔力の波を肌で感じろ。機械の数字に己の命を預けるな。……それが、私の教えられるすべてだ」


ゼノスは、咀嚼するのも忘れて父の言葉を聞き入っていた。

そして、一粒の涙が彼の頬を伝い、フライの上に落ちた。


「閣下……私は、数値ばかりを見て、海の機嫌を見ておりませんでした。ありがとうございます。もう一度、部下たちと一からやり直します」


「……塩が、僅かに足りん」

父はボソリと呟き、カイルを睨んだ。

「お前もだ、カイル。この若造を味方につけて、私を丸め込もうとするな。味付けが甘くなっているぞ」


「バレましたか。でも、父さんも二つ目、手を伸ばしてますよね?」


「……これは、残すと勿体ないからだ」


父はそう言って、三つ目のフライを皿から奪い取った。


食後、ゼノスは晴れやかな顔で家を後にした。

彼が立ち去った後の静かな家で、カイルは食器を洗いながら父に尋ねた。


「父さん。来週の観艦式、内緒で見に行きましょうか。遠くの岸壁からなら、バレませんよ」


父は窓の外、庭に咲く「冬の星」の白い花を見つめたまま、しばらく答えなかった。

やがて、短く、しかし確かな声で言った。


「……三十分前には到着するようにしろ。遅れたら、置いていくぞ」


カイルは、泡だらけの手で小さくガッツポーズをした。

不器用な父と、意固地な愛弟子。その間を繋ぐのは、一皿の料理と、少しばかりの塩味、そして変わらない信頼の形だった。


異世界の空は、観艦式を祝うように、どこまでも高く晴れ渡っていた。

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