名前を呼ぶだけ
僕は君の名前を、声に出す前にいつも一度飲み込む。喉の奥で引っかかったままの二音は、出そうとするたびに形を変えて、結局、飲み込む理由だけが増えていく。
呼んでしまえば、それだけで今日が特別になる気がして。でも、特別にしてしまう勇気はなくて。いつも通りの一日に君を紛れさせるほうが、僕には簡単だった。
「陽菜」
放課後の廊下で呼ぶと、陽菜は当たり前みたいに振り返る。そして、少しだけ首を傾けて「なに?」って僕に問いかける。
その声の軽さに、僕は毎回救われて、同時に突き放される。
その「なに?」が、僕にだけ向けられたものじゃないってことも、ちゃんと分かってる。誰に向ける言葉も多分同じだ。
一緒に歩く帰り道。夕方の空はオレンジ色で、影だけがやけに長い。
影を見ながら思う。距離は近いのに、触れたら壊れそうで、歩幅を合わせることしかできない。肩が触れそうになるたびに、無意識に少しだけ離れる自分が嫌になる。
陽菜は楽しそうに話す。友達のことや少し先の未来のことを。
「ね、聞いてる?」
そう言われて、慌てて頷く。聞いていないわけじゃない。
ただ、話の中に出てくる未来に、自分の居場所があるかどうかを無意識に探してしまうだけだ。
僕は笑いながら、その未来に自分の影がないかを探してる。見つけたら見つけたで、きっと怖くなるくせに。
駅前で信号を待つ間、沈黙が落ちる。イヤホンから漏れる音楽と車の音だけが間を埋める。
本当はここで何か言えたらいいのにと思う。「楽しいね」とか、「また明日」とか、それ以上の言葉とか。
でも、僕が選ぶのは無難な沈黙だ。
家に着いてから、ベッドに寝転んでスマホを取り出す。トーク画面は、いつもと変わらない並び。
「無事帰れた?」
打って、消して、また打って、結局送らない。ずっとこの繰り返しだ。
そうして、送らない理由ばかりが増えていく。
「じゃあね」
さっき別れたときのその一言が、頭の中で何度も再生される。
その一言で、今日も僕は選ばれなかったと悔やむ。
好きだって言葉は、名前のすぐ後ろで止まったまま。
言えば何かが変わるって分かってる。
でも、変わるのが良い方向かどうか分からないまま今日も一日が終わる。
悪い方向に向かう気がして、心の奥で何かに声を掴まれたまま離れない。僕にとって陽菜は、呼べるけど近づけない名前だった。
この距離を保っている限り、勇気を出せない限り……
ずっと、言葉の前に立ち止まったままなんだ―――




