第8話 『ですから、申し上げましたのに』
「マリーヌ様に関しては、もう心配はございませんでしょう。私はしばらくお暇をいただきとうございます。旅に出たいので」
数日前のことだ。アーノルドの太鼓判を得た私は、その場で老執事の休暇願いに許可を出した。
あの年で働きづめというのも不憫であるし、なによりリフレッシュのための時間をかねてから与えたいと思っていたのだ。
日々は滞りなく巡る。あれから、私の執務もまた順調だった。隣には依然として女執事姿のマリーヌ嬢こそいるものの、以前のように頻繁に進言してくることもなくなった。
「おはようございます。サー。今日も1日がんばりましょうね」
朝一番、執務室を訪れたマリーヌ嬢は笑顔で、そんなことを私に言う。
ほどほど、という按配が好きだ。
何事もほどほどであれば、一時的に無理をするより長く続けられる。
そういった意味で、今のマリーヌ嬢の働きぶりは好ましいと言える。かつて私より早く執務室に訪れ、脇目も振らず仕事をこなしていた彼女が、今は力の抜きどころを覚えたように見える。
「疲れちゃいましたね。明日もよろしくお願いします。サー」
夕刻、窓の外が赤み始めたタイミングで、声を掛けてくる。
私が返答する前に帰り支度を始めるのも悪くない傾向だ。
根を詰める必要などない。私に気を使う必要もだ。王国内で屈指の権勢を誇るヴィクスドール家に足場を持つマリーヌ嬢は、我がコルランにとっては外様の人間だ。どれだけ中枢近くにいようと、いずれは去ることになる。
「ああ、明日もよろしく頼む」
上っ面ではそう応えて、心の中で逆を望む。牛歩ではある。しかし悪くはない。このままいけば、マリーヌ嬢の興味は確実に――。
いや。
頭のどこかで、警鐘のようなものが鳴った。
俄かに生じた胸のざわめきは、悪しき予兆を示す胸騒ぎというものだ。
順調? とても結構なことだ。
だが順調過ぎはしないか?
あのマリーヌ嬢だぞ? 与えられた仕事に手を抜くなどということが、果たしてあり得るのだろうか――?
それは一抹の不安。ほんの些細な日常の狂い。
下手な勘繰りの結果であり、妄想の産物であったのかもしれない。
しかし一度生まれた疑念は消えてくれない。私の眼は自動的に探すようになる。その正体を。日常生活においてまったく関係のない箇所にすら、疑いの視線を向けるようになる。
ある日、私の瞳はそれを見た。
快晴の早朝、青空の下で風にはためく、数多のシーツの群れ。
『他に見落としはございませんか?』
いつか聞いた老執事の言葉が、頭のどこかで再生される。
踵を返し、行き先を変えた。早足は半ば駆け足となり、私はその場へ赴く。上履きのまま芝生へ繰り出し叫んだ。
「アーノルド!! どこだ!!」
失策に気づいたのは、大声を放った後だ。今この別邸の敷地内に、アーノルドはいない。私が手ずから、休暇願いを受理したのではないか。
唇を噛んで、元来た道を戻る。急いで執務室へと歩むと、扉を開けた瞬間に彼女の姿を探していた。
「あ、どうもおはようございます。サー」
いた。いつものように執務机の前にいて、今日の仕事を始めている。
私は後ろ手で静かに扉を閉めた。自分の机に直進するルートを迂回し、マリーヌ嬢から見て扉のある方向から近寄る。
「今日は遅めのご出勤ですね? 昨晩は遅くまで起きておられたのですか?」
マリーヌ嬢が訊ねてきた。好感の持てる笑顔だ。悪意を見出すのは難しい。しかし違和感ならばと考えを変える。細部に散りばめられた引っかかり。マリーヌ嬢の笑顔はこんなに柔和なものだったろうか? もっと凛然としてはいなかっただろうか?
「……サー?」
私は椅子に腰かけるマリーヌ嬢のすぐ傍に立つ。
見上げる視線に、どこか怯えのような色が滲む。
「あの、どうかされたのでしょうか?」
「……手を」
「はい?」
「手を、見せてもらえないだろうか」
一瞬だが、口を噤む。
直線を引いた唇の奥で、生唾を飲み込んだのがわかる。
迷いを見せたものの、マリーヌ嬢は素直にこちらに手を伸べた。
「あの、手なんか見ても面白くないんじゃないかと……」
「手の甲はもういい。裏側を見せてくれ」
「裏ですか」
「早く」
眼を皿のようにして検分する。水気を失った掌、ひび割れた指、深いあかぎれの治癒した痕……そしてなにより、指先付近に白くこびりついた残存物が、最悪の想像を裏打ちする。
「あの、私いつまでこの状態で?」
「もう構わない。そのしゃべり方も止めていい」
「……へ?」
素っ頓狂なその声を聞くまでもなく、私は動き始めていた。ついさっきまでマリーヌ嬢が書きつけていた書類を掠め取ると、その内容を読み上げる。
「牛肉、じゃがいも、たまねぎ、人参、クミン、ターメリック、コリアンダー……料理のレシピか。どうやらお前にとって、マリーヌ嬢の仕事は退屈極まるものだったようだな?」
顔の前から紙をどかすと、一切の容赦なく睨みつける。マリーヌ嬢のフリをしていた女は一瞬で顔面蒼白となり、盛大に口元をわななかせた。
「あ、あわあわあわ……」
「正直に答えろ。いつからだ」
「い、いつから?」
「洗濯メイド、お前がマリーヌ嬢の身代わりになったのはいつなのか問うている」
怯えの走った上目遣いとぶつかった。
不安のあまり私の顔色を読もうとしている。
問答をする時間すら惜しいというのに……これだから女ときたら!!
「あ、あのぅ……こんなことして、あたしやっぱり、クビになっちゃうんですかぁ?」
マリーヌ嬢の顔で、眼からぽろぽろと涙をこぼし始める洗濯メイド。
このまま泣き通せばいずれ地顔が見えるのだろうが、現状では私がマリーヌ嬢を泣かせているようにしか思えない。罪悪感で胸が痛いったらない。
「あ、あたしマリーヌ様に頼まれて、だから代わりにこうしてただけなんですっ!! 悪いことなんて全然なにも企んでませんっ!!」
「承知している。だから仔細を聞きたいというのだ」
「う、うわぁああああああ……!!」
保身に走った言い訳に、仕舞いには大声で泣き出す。
見たところ成人して久しいようだが、この娘いったいいくつなんだ?
「落ち着け!! 危害を加えるなどとは言っていない!!」
「びぇええええええええええ……!!」
くっ、この……!!
苛立つ心を押さえつけて考える。マリーヌ嬢が洗濯メイドを身代わりに立てたのは、おそらく例の件の翌日からだ。彼女の指先に残った物体にも既視感がある。マカロンを摘まみ上げるアーノルドの指。その汚れの中に似た色が混じっていた記憶がうっすらとある。
マリーヌ嬢に似せた化粧は、アーノルドが施したものだろう。物干しにシーツを干す役柄は、長身のメイドにしか務まらない。マリーヌ嬢も背が高く、この娘と背格好が似通っている。顔つきだって近いものがある。彼女がこれまで提出してきた書類も、恐るべきことだが私の注文を先読みしたマリーヌ嬢が事前に準備していたものだろう。
直に依頼したのはたしかにマリーヌ嬢かもしれない。だが、この抜け目ない人選はアーノルドの手によるものだ。マリーヌ嬢を北東の村落へ行かせるため、共謀を図ったものと見てまず間違いはない。
問題は、今ここにアーノルドがいないことだ。現行の手法で露見の恐れがないなら、マリーヌ嬢が帰ってくるまで維持すればいい。しかしアーノルドは消えた。旅に出るためと、自ら変化を気取られる真似をした。今、この娘はアーノルドから教えを受けた化粧法を手ずから施し、自らをマリーヌ嬢に見せかけている。私に露見しかねない愚をわざわざ犯している。
考えられる可能性はひとつ。なにかが、あった。
「マリーヌ嬢はいつこの邸を離れた!! 今どこにいる!!」
「そ……そんなことあたしに聞かれたって知りませんよぉっ!!」
頭を抱えてパニックに陥る洗濯メイドに当てられて、私の脳裏にも最悪の想像が吹き荒れる。
最悪は、既に北方遊牧民の囚われとなっている場合だ。買収、説得、交渉。こちらが持ち出すありとあらゆる駆け引きを、あいつらは躊躇なく無下にするだろう。何故ならそれは、つまらないことだからだ。せっかく手に入れた女を遊びもせずに、むざむざ返してやるなど正気の沙汰ではないと思っている。
拉致の事実をアーノルドが嗅ぎつけたとすれば?
私に連絡せず単身で助けに出向くような愚をあの老執事が犯すだろうか?
残念ながら、やるだろう。
私のためではなく、マリーヌ嬢の立場のために。
どちらにせよ、一刻一秒を惜しむ局面だ。身バレのショックで一時的にパニックに陥ったのなら、無理にでも正気に立ち返ってもらわねばならない。
……それが、多少乱暴な方法であったとしても。
重い溜息を吐き、洗濯メイドを睥睨する。正直言って、甚だ不本意なやり方だ。相手は女で、ましてや涙を流している。通常なら慰めこそすれ、手ひどい仕打ちを与えるようなことは決してしない。人道にだって反している。
しかし人の生き死にが懸かるとなれば、手段を選んではいられない。
「…………」
私は屈み、頭の位置を彼女に合わせた。
自身への嫌悪感が顔を顰ませる。本当ならこんなこと、脅されたってやったりはしない。しかし今は他に取る手段がない。私は洗濯メイドの肩に向けて手を伸べようとし――。
その手が途中で、止まった。視線がが彼方に釘付けとなる。
執務室の出入り口、本来いるはずのない人物の顔がそこにある。
「……どうやら、わずかばかり遅かったようで」
声の主は、コルラン家が誇る有能執事長のもの。
私は灯りに惹かれて羽ばたく蛾のように、ゆらりとそちらへ足を向ける。
複雑な表情をしたアーノルドの正面に立った。
「わかっているだろう。話は後だ」
「釈明の機会を。でなければレオン坊ちゃまはきっと後悔なさります」
「レオン坊ちゃま、か。その甘ったるい呼び名が許される状況だと思うのか」
主君を諫めることは許されても、道行きを阻むことはできない。執事としての最後の一線だ。アーノルドともあろう者が心得ていないはずがない。
寂しそうな微笑を無理に浮かべ、素直にその場を退く。こんな表情を見たかったわけではない。だが、しでかしたことの大きさを鑑みれば私に進言などできるはずもない。その機は既に逃してしまった。
言ってやるべきことがある。アーノルドが盾となっていた人物に。
自らの立場を省みず、危険に飛び込んだ。一時的なものとはいえ、私との間に築いた信頼関係を無視し、過ぎた権利を行使した。今度は私だって知っていた。だから2度目はない。奇妙な成り行きで手に入れた役割も、これで本当に最後だ。
辺境伯という重責を背負った立場から、彼女に全部言って聞かせてやるつもりだった。
その矢先、私の身体が理性に背く。気まずげに佇む執事姿のマリーヌ嬢の両腕を掴むと、意表を突かれて開いた瞳を凝視するよう覗き込んだ。
「――心配したのだぞッ!!!!!!」
自分のものと思えぬ大声が、咽喉から迸り出ていた。
この場にいる誰もが驚き、立ち尽くすほどの。
変化は、私の前で起こった。見開いていた眼を細め、マリーヌ嬢が苦悶の表情を浮かべる。我を忘れていた。だから私は、自分がどのような手段をもって感情を発露したのか、気づいていなかった。
私の両手は、マリーヌ嬢の腕を固く握り込んでいた……。
「ですから、申し上げましたのに」
思わず離した両の掌を見つめる私のすぐ傍で、至極残念そうなアーノルドの、そんな呟き声を聞いたのだった。




