第6話 『領主と執事と密約と』
マリーヌ嬢の手によって、コルラン領は日々その姿を変えてゆく。
善的な変化は人々に活気をもたらす。領民の生活圏から離れ、コルラン別邸にて時を過ごす私ですら、それを感じている。別邸と近隣の街とを足繁く行き来する使用人たちの表情に、それを見て取ることができるからだ。
「新しい旦那様、おはようございます!! 今日も良い天気ですね!!」
ほら、今日もまた洗濯係のメイドが元気に挨拶をしてきた。
物干しに掛かるシーツを広げる彼女に、私は頷きで応える。
笑顔の意味ならわかる。マリーヌ嬢がコルラン別邸を訪れて以降、領民の生活は豊かになった。扱う麦種を変えて借金を返し終えたこともあるし、施策によって生活における細々とした部分が改善されたこともあるだろう。
生きるということは本来楽しいことなのだと、彼らの姿を見て思う次第だ。
だがこのときの私はまだ、最終的な結論を下してはいなかった。この誰の眼にも明らかな幸福が、一過性のものではないと信じていなかったからだ。
そしてそれは――なによりも、私の心に凝っていたとある懸念がそう思わせていたのだと、今になってわかる。
今回も前置きが長くなってしまった。話を進めよう。
マリーヌ嬢がコルラン領に来て2年目の春のことだ。
「……由々しき事態です。サー」
その日、マリーヌ嬢の眼には真剣な色があった。いや、この言い方には語弊がある。彼女はいつだって真剣だった。そこに深刻さが加味されていた。
「どうなさったのだ、マリーヌ嬢」
執務机から顔を上げ、座っている椅子ごと彼女に向き直った。いつも姿勢正しく、背筋を伸ばして立つ彼女が、気のせいか俯き加減に見える。
「北東にある領境の村落に、遊牧民の侵入があったようなのです」
「またか……珍しいことではない。対処は私に任せてくれ」
ここで話が終わってくれれば、私としては御の字だったのだが……。
「報告によれば、組織だっての犯行ではないかと」
「追って調査を手配しよう」
「あの……私が」
そうくると思っていた。
すべて言わせるまでもなく、私は先んじて首を振った。
「ならない。それだけは絶対に許可しない」
「しかし……」
「あなたの身にもしものことがあれば、私は今度こそヴィクスドール公に顔向けできなくなる」
ずっと以前から危惧していたことだ。この好奇心旺盛なご令嬢は、知れば直に眼にしようと現地へ視察に赴くだろう。だからこその先制攻撃だ。この件に関してだけは、私は一歩たりと譲歩するつもりはない。
「折り入ってご相談したいことがあるのです。あの、少しだけでも……」
「ならぬと言った。本件にあなたの関わりは無用だ。レシュヌの地の治水工事について、引き続き内容を詰めてくれ」
椅子ごと身体を返し、ピシャリと話題を打ち切った。
「……あ」
背後にかかる未練の声には、聞かぬ振りを通して。
夕刻、その日の執務が一段落すると、マリーヌ嬢が紅茶はどうかと問うてきた。私は丁寧に固辞し、所用があるからとひとり執務室を後にする。
自室に帰る途中に出会った執事に、後で茶菓子を持ってくるよう言づける。10分ほど待って目当ての品を手にした私は、その足で中庭に赴いた。
「……お話くらい聞いてあげたらいいのに」
アーノルドよ、お前もか。
咽喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ私は、指定席で相も変わらず美味そうに紅茶を飲む老執事の隣へと歩んだ。
「こんな日が、いつか来るものと思っていた」
「そのようですな。ここへも、いつもよりお早いご参上です」
日はまだ傾いておらず、陽光に朱の色も混じっていない。
私の内に芽生えた不安感が、いつもより早くアーノルドの元へと足を向けさせたのだ。
「この地の領地経営に関わりを持てば、いずれは知ることになる。マリーヌ嬢の手腕を鑑みれば、遅過ぎるとすら言っていい」
「とはいえ、時間の問題だったでしょうな……茶菓子の類は今日もお持ちで?」
執事から渡されたバスケットを円テーブルの中央に置き、椅子を持ってきて対面に座った。その隙に、手癖悪く老執事が中身を物色している。
「今日はマカロンですか。私の好物です」
「がっつくな。菓子は逃げたりなどせん……その指はどうした?」
バスケットの蓋を開くアーノルドの指が、様々な色に汚れている。庭いじりの際に肥料が付いたものだろうか。いや、であればあれほどカラフルに汚れるはずがない。
「これですか? 人体に害のあるものではございませんので」
「その指で菓子を食うつもりか?」
「マカロンに足は生えませんが、美味しく食べられるタイミングは逃げてしまいます……では、失礼して」
親指と人差し指の先でマカロンを摘まみ上げると、一口で平らげてしまう。咀嚼する頬が綻んでゆく。舌鼓を打つほど美味かったらしい。
「随分と食い意地が張っているな」
「長生きの秘訣です。ところで……今日はどのような頼みごとを持ってこられたのですかな」
老執事の読心術になど、今さら驚きはすまい。
しかし内面を見透かされることと、ばつの悪い思いをすることとは別だ。
私は思わず紅茶で口を湿し、叱られた子どものようにアーノルドから視線を逸らした。
「どうやら、相談役という新たな職掌も板についてきましたな」
「そのようだな……頼みというのは当然、マリーヌ嬢のことだ」
アーノルドにとって私は永遠の子どもだろうが、私自身は大人であろうと努めなければならない。自らの内に湧き起こる羞恥の念を鎮めて、私は真剣にアーノルドの顔を見た。
「話の流れで理解していると思うが、お前には監視役を頼みたい」
「無辜のご令嬢の行動を、逐一見張れと?」
「空いた時間の有効利用だ、アーノルド」
今回は珍しく私が一本取った。アーノルドは薄笑みを浮かべて満足そうに紅茶を口に運ぶ。
「他の者に任せては出し抜かれる危険性がある」
「レオン坊ちゃま、そのような申し方は感心いたしません。それだとまるで、マリーヌ様がとんだお転婆娘のようではありませんか」
お転婆娘、か。本当にそうであればどれだけ楽だったことか……。
「目的地は『コルラン最大の敵』の居所のすぐ近くだ。行けば恐らく、いや確実に彼女の身まで塁が及ぶ」
脅しつけるような言い方だが、れっきとした事実だ。
北方遊牧民は俗称に過ぎない。かつて羊を飼い、広々とした草原を転々と渡って暮らしていたかもしれないが、今の連中は山岳地帯にアジトを持つならず者集団だ。山を下り、我がコルラン領を間欠的に襲撃して、本能の赴くままに略奪行為を繰り返している。
「悔しいが征伐はできない。ならば、決して近づかぬことだ」
理想を言えば、知りもしないことがベストだった。
所在のわからない問題など、対策のしようがないからな。
「彼女の身になにかあれば、ただでさえ薄氷上のヴィクスドール公との関係に亀裂が入る。ここはコルラン辺境伯として強硬な姿勢で……どうした?」
胡乱な眼つき。また私の物言いに不服があるのか。
「文句があるなら先に言え。決定事項で覆りはしないがな」
「……それだけ?」
ぽつりと漏れた一声を、怪訝に思う。
それだけ? それ以外になにかあるのか?
「浅黒の肌のならず者集団に囚われれば、どのような目に遭うかお前にもわかるだろう。あいつらは私たちとは違う異教の神々を崇拝している。よって立つ心の土台ごと違うのだ。人を殺めたところで良心が痛みなどしない」
狡猾で残忍な者どもの手に落ちれば、人体など容易く破壊される。
身代金交渉も通じない。虜囚となった時点で一貫の終わりなのだ。
ふむ、と納得したようなそうでないような様子をアーノルドが見せる。
「実に賢明なご判断です。しかし……ときに私たちは、それらしい理屈を弄することで、自らの心に蓋をしてしまうきらいがあります。今のレオン坊ちゃまがそうでないと断言できますかな」
「私がか?」
「左様です」
老執事も紅茶を口に運ぶ。考える時間を設けたつもりだろうが、私の胸にはとんと心当たりがない。
「アーノルド、これはどういった言葉遊びだ?」
「そのようなお顔をなさらないで。今一度よくお考えになってください。レオン坊ちゃまはどうしてマリーヌ様を行かせたくないのですか?」
ときに軽薄な冗談をものすことはある。
しかしこの老執事は、意味のない問答を繰り返す愚は犯さない。
私はしばし沈思黙考して、それらしき答えを導き出した。
「恐れるべきは、外交問題への発展だ。もし賓客であるマリーヌ嬢の身に大事があれば、私は今度こそヴィクスドール公の信頼を失う。信頼に値する隣人と、半永久的に袂を別つことになる。これはコルラン領にとって大きな損害だ」
真剣に考えた。その上で結論付けた。
今の日常にほだされても、決して見失ってはならぬことがある。
マリーヌ嬢は、優秀な女執事などではない。かつては王太子妃の座が内々定していた、王国でも指折りの貴族令嬢なのだ。
今もなお、その身には計り知れない政治的価値が宿っている。
金よりも財宝よりも、丁重に扱わねばならない……。
話している間、老執事はじっと私の顔を検分していた。その表情になにを見たのやら、少し脱力した風にぽつりと漏らした。
「その物言いですと、まるでカード遊びの手札のようですな」
「そう聞こえるだけだ。私はマリーヌ嬢の身を案じている」
「では、私はどのようにマリーヌ様を見張ればよろしいので?」
少し棘のある言い回しだが、言質は取りつけられるだろう。警戒は解かず、続けて口を開く。
「ともかく、危険からは遠ざけて、近づくようなら止めてくれ。多少ならば強引な手段を取って構わん。これはコルラン領の未来にも関わる問題なのだ」
「コルラン領の未来ですか……やれやれ、痛いところを突いてきますな」
よっこらしょ、と声に出して立ち上がったアーノルドは、椅子に座り続ける私を少し見下ろすようにした。
「本日のマカロンは絶品でした。是非に明日も同じものを味わいとうございます」
「準備させよう。明後日は?」
「苺のタルトなどあれば嬉しゅうございます」
「わかった」
ややもすると暗礁に乗り上げる可能性もあったかもしれない。しかしこれで交渉ごとは纏まった。
私は全幅の信頼とともに、アーノルドにマリーヌ嬢の身柄を任せることにしたのだった。




