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売れ残り万能令嬢と怒れる銀髪伯爵 ~『氷の伯爵』、不当な婚約破棄にブチギレて公爵令嬢を攫う~  作者: ソーカンノ


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最終話 『運命に選ばれた令嬢』

 日の光の満ちる廊下を、2人で行く。


 執務室へと続く道を、私たちは迂回した。用向きは仕事ではないが、見方によっては仕事より重要と言える。これから人の幸福に密接に関わる事象を扱うのだ。それもひとりではなく、それ以上の人間の。


「真実の愛でないとすれば、いったいなんなのでしょう」

「……その話はもう終わりだ、アーノルド」


 こちらの緊張を解きほぐす意図での世間話なのだろうが、私としてはうんざりした心地だ。オルタンス嬢とアントニーに関しては、心配するだけ骨折り損だった。あいつらの関係はいわば割れ鍋に綴じ蓋。監獄要塞の中で精々よろしくやるに違いない。


「少々気になりますな。倒錯というのも、寡聞にして存じ上げておりませんし」

「後々説明してやるさ。男女の関係には色々あるらしいということをな」


 私とて伝聞であるし、詳しくは知らない。そもそも、いつも仏頂面で美人を台無しにしていたオルタンス嬢が、胸中にあのようなドス黒い欲望を抱えていたなど、可能ならば一生知りたくはなかったぞ……。


 げんなりした心を抱えていても、歩を進めるからには周囲の光景は流れてゆく。見慣れたコルラン別邸の景色が、頭上から降り注ぐ爽やかな朝日に照らされて、少しばかり彩度を上げたように感じられる。


 目的の場所にも近い。私の心臓も高鳴り始めた。

 落ち着かない気持ちが、私の口を早回しの速度で開かせた。


「新鮮な気持ちだな。いつもの道を歩いているだけだというのに」

「特別な1日の特別な朝です。私にも経験がございます」


 言われてみればその通りだった。アーノルドは人生の先達として、私の数十年先を歩いているのだ。


「聞かせてくれないか。お前の場合はどうだったのかを」

「今朝のレオン坊ちゃまよりもずっと緊張しておりました。到着するまでの間に、両手に抱えた花束が枯れないか気が気でなかったのです」


 花の生理反応など、そう激甚なものではない。聡明なこの老執事をして、そのような可愛らしいことを気にした時分があったのだ。


「今となっては良い思い出です」

「想いが成就したならばそうだろうな……」


 廊下が尽きて、外に出た。私たちはそのまま、中庭へと続く舗装された石畳の道へと足を踏み出してゆく。


「ふむ、怖気づいたりはなさいませんでしたな」

「これでも辺境伯の身の上なのでな」

「私は足を止めてしまったことがあります。なにせ、何度も挑戦したものですから」


 ほ、ほ、という例の笑い声が、今日は一段とやさしく聞こえる。

 が、今のは強がりだ。私はしっかりと緊張しているし、結果を恐れてもいた。


 その証拠と言わんばかりに、こほんと咳をして話題を転換する。


「アーノルド、少しいいか? ……こんなときになんだが、例の出来事を顧みたくなったのだが」

「またでございますか? その話なら、これまでも耳にタコができるほど繰り返されたでしょうに」


 さすがに不満げな顔をする。ことここに至って私がその話を蒸し返したことを、やはり快くは思ってくれないらしい。


「語り草というものは、何度だってしたくなるものだ」

「お話はどこから?」

「彼女の心に転機が訪れた瞬間からでいいだろう」


 私は、ほんのわずかだけ歩速を緩めた。アーノルドの身体が一瞬だけ前に出て、すぐに私と足並みを揃えてくれる。真に優れた臣下というものは、気遣いすらも主に悟らせないものだ。今のも私でなければ気づいていない。


 私はアーノルドの顔を見て、話し手を譲った。今日の私は、聞き手として彼女の逸話を耳にしたい気分なのだ。


「始まりは、秘密ごとの露見からでしたな。私どもが密かに動いていたことが、明るみになった。そのせいでレオン坊ちゃまは激しくお怒りになり、その矛先が不運にもひとりのご令嬢の身を傷つけてしまったのです」

「ああ、そうだったな」


 今さら申し開くつもりはない。あれは未熟だった私の過ちで、この老執事は先読みして止めてすらくれていたのだから。


「傷ついたご令嬢を見て、あなた様はショックを受けられた。しかし心の痛手は、なにもあなた様だけものではなかったのです。そのご令嬢もまた、あなた様の傷ついたお顔を見て、深く心を痛められていた。そしてこう思われたのです。すべては自分の未熟が招いてしまった事態であると」


 慈愛の心にも増して、彼女の責任感は強い。

 ここでも抱え込む必要のない責任を抱え込んでしまっている。


「未熟とはどういった状態を指す?」

「レオン坊ちゃまにきつく握られた程度で、簡単に傷ついてしまうご自身のか弱さをお嘆きだったのです」

「して、どうした?」

「密かに、鍛錬の計画を練られました」


 密かに、という文言はまさしくそのものであった。すべてが終わり、彼女の口から直々にその内容を聞くまで、私は疑うことすらしていなかったのだから。


「お相手は、トーマスが務めておりました。私にすら内密に」

「アーノルドまで出し抜くとは、いったいどんな手を使ったやら」

「私の気づきを通じて、あなた様に露見することを恐れられたのでしょう。もしそうなれば、今度はあなた様の方で気を遣うことになりますから」


 武人を見抜く眼なら持っているつもりだった。私やアントニーといった人種は、他の武を修めていない者たちとは一線を画す。


 本人がいくら隠そうとしても、立ち居振る舞いや普段の表情、言葉遣いにすらそれは現れる。


 彼女はすべてを隠し通した。私という眼がすぐ隣にあるこの状況で。


「組手でトーマスが後塵を拝するまで、さして時間はかからなかったと」

「あの細腕で信じられん戦果だな」

「どうも鍛錬に独自のテーマをお持ちだったようですな。いかにして外見を変えず、筋肉の密度のみを鍛えるかという」


 その目標は自然に反している。筋力を付ければ、その分だけ膨れるのが人体の仕組みというものだ。だが、やってのけたのだろう。私の知る万能の令嬢は、そのくらいの不可能は可能にしてみせる。


「彼女の行動についてはもういいだろう。本題に入ってくれ」


 この遣り取りは幾度となく繰り返してきた。老執事も心得たもので、即座にこちらを意図を汲み取る。


 時間は下り、私がロイたちを招いた場面に着陸する。


「囚われの王太子妃を前にした、ご令嬢の行動ですな」

「うむ、彼女は何故そのようなことをした?」

「純粋な自己犠牲精神のみで、あのようなことをなさったわけではありません」


 アーノルドの言葉に、私も深く感じ入る。あの場には血が流れていた。自分の身を差し出す人質交換は、なるほど怪我を負った王太子妃の身を案じた、美しき自己犠牲のように見えたかもしれない。


 ただし事実はそれだけではない。王太子妃の命に別条がないことを、あの時点で万能の令嬢が見抜いていないはずがないのだ。


「加えて、ご令嬢はご自身のことも考えておられました。王太子妃の代わりが王国随一の公女では、さして人質としての価値に変わりはありませんからな」


 むしろ実家が富裕であるだけ、彼女の方が人質としての価値は上だとも判断できる。少しひどい言い方になるが、王太子妃など所詮は他家から招いた余所者。いざという局面では王家の捨て駒にされる可能性も十分にあった。


「アントニーは気づいていなかったようだがな」

「ですが隙は見せませんでした。人質を交換する前も後も」

「……昔から、憎らしいほど小癪なやつなんだ」


 過去形が少し寂しい気がするのは、きっと気の迷いだろう。


 アントニーは彼女を肩に担ぐと、私を挑発して城の屋上へと誘い込んだ。待機していたアーノルドの一撃も間一髪のところで躱し、万事はやつの目論見通り進むかに見えた。


「ここで私に、ひとつ重大な落ち度がございましたな」

「吹き矢の射撃だろう。彼女の動きをアントニーが悟ったと言っていたが」

「後で御本人から指摘を受けました。身じろぎせねば自分に当たっていたと」


 肩に担いだ人質が気絶したところで、アントニーにとっては大した問題ではない。だが、彼女の狙いからすれば由々しき事態だった。


「あの節は誠に面目のうございました。老馬が己を顧みず、出過ぎた真似をしてしまいまして」

「それを言うなら老馬道を忘れずだろう。射手がお前でなければ、そもそも狙いすら付けられていない」


 たしかに皮肉を言いはした。だが実際のところ、あの俊足のアントニーに至近距離から飛び道具を当てるのは人間技ではない。私なら百発中百発外している。


 初撃を外したアーノルドは吹き矢を諦め、私とともに屋上へ駆け上がる。

 そこには降ろした人質を盾に取ったアントニーが待ち構えていた。


 厄介なことに、アントニーは私の弱みをも心得ていた。口車に乗ってしまった私も私だが、結局はやつの狙い通りの行動を取ってしまった。剣無くしてあいつに勝つことはできないというのに、それを捨ててしまったのだ。


「あの決断の是非に関しては、散々語ったな。お前ももうなにも言うまい」

「ええ、飛ばしてしまって良い箇所かと」


 ただ事実として、私は行動の責任を果たそうとした。苦境を打破すべく、我が身を犠牲にすることを考えた。それを制止したのもこの男だ。アーノルドは私の足を打って動きを封じ、代わりに自らがその役目を負おうとした。


「しばし時間を戻し、ことの直前に立ち返ろうか。アーノルド、私たちは今アントニーの目論見について語った。だが彼女の考えはどうだったのだろうか」


 王太子妃たるアウロアの身代わりに人質となり、アントニーの手で屋上へと拉致された令嬢。その心にあったものとは?


「打倒の機会です」

「つまり彼女は、アントニーとことを構えようと?」

「ええ、ですがそれは不可能です。正面切って戦えば、相手になりません」


 万能の令嬢は努力した。己が身を鍛えることに尽力し、結果も出した。


 だがそれとて付け焼刃のようなものだ。私やアントニーといった生まれながらの武人を相手取るには、彼女もまた人生の大半を武に費やす必要があっただろう。


「これは差別でなく区別として言いたいが、男女の別もある」

「アドバンテージは明確というわけですな。自分より力の強い者と闘う。レオン坊ちゃまならばどうされますかな」


 質問の態だが、確認だ。私は最初から持っている正解を言う。


「相手の隙を突くしかあるまいな。しかしアントニーの場合、その隙自体を見せていなかった」

「隙を作り出す方法ならばいくつかございます」

「それらの候補の中から、彼女は選んだわけだ……もっとも確実性の高い、虚を突くという行為を」


 あの大人しそうな令嬢の脳裏には到底兆しそうにない、大胆な発想だった。

 それにも増して、身を削り過ぎる選択でもある。



『レオン様……私ならば平気です!! どうか打ってください!!』



 あのとき彼女は危険を顧みず、私にそう懇願した。

 私はそれを文字通りの意味に取ったが、そこには含みがあったのだ。


 彼女は自分が傷つくことを恐れていなかったわけではない。傷つくことこそがすべての前提だった。


 つまり、こうだ。私が剣を打った瞬間、アントニーは彼女の頬をナイフで切りつける。しかしそれよりも先に、彼女自身が頬をナイフにぶつけて傷を負うのだ。意表を突かれたアントニーの身には隙が生じ、彼女はそのわずかな隙を逃すことはなかっただろう。


「……私が剣を打っていれば、一生ものの傷が残っただろうな」


 皮肉げに呟くと、老執事もまた相槌を打つ。


「ご令嬢にとっては小さなことです。ご自分の美貌を損なうだけで、王国を揺るがす国敵を捕えることができる。そのためならば顔の傷のひとつくらい、安いものだったのでしょう」

「しかし……だからこそ、私は彼女に面差しを失ってもらいたくはなかった」


 彼女の面差しは、真に心の美しい者にこそ相応しい。そう、他心なく思う。


「私の取った選択で、彼女の計画も頓挫してしまった。後はアントニーが私たちを力で捻じ伏せる様を、ただ見届けることしかできないはずだった」


 首を捻ってアーノルドを見る。アーノルドもまた私を見た。


「どうも余計なことをしてしまったようで」


 私と彼女は、アーノルドの正体を知っている。この老執事が他に類を見ない傑物であることを知っている。だがアントニーはどうだ。私に仕える老いた執事が、まるで自滅でもするかのように自ら突っ込んできた。


 叩き潰そうとしたはずだ。後に控える私の前座として。そして勝利を確信した。その、ほんの一瞬に生じたわずかな箍の緩みを、彼女は見逃さなかった。


「……あそこしかなかった」


 私の述懐は、いつものように感動に打ち震えている。


「アントニーが油断したのは、後にも先にもあそこだけだ。すべてが自分の思う通りに転んだ、その歓喜がそうさせた。突っ込んでくるお前を叩き潰すべく高々と振り上げた拳。そこにはやつの全体重が乗っていた。だからこそ、それ以外のことはなおざりになっていた」


 私もまた、その偉業の目撃者のひとりだ。

 彼女の一挙手一投足を、今でも脳裏に思い描くことができる。


 器用に身を捻り腕の拘束を外したこと、素早くアントニーの間合いの内側に潜り込んだこと、そして人を殴りつけるために振り上げた腕に両手を巻き付け、自重でもってその制御を横取りしたことまで、まばたきもせずに見届けた。


 その後のことはきっと、当のアントニーとて記憶が定かではなかろう。


 それは神速でなされた神業に等しかった。私の瞳はすべてが終わった後で、その残像を追ったに過ぎない。


 万能の令嬢の一本背負いは、それほどまでに凄まじかったのだ。


「……狙い過たず、といった感じであったな」


 一連の動作を脳裏で再生し終えると、私の舌にも熱がこもる。


「己の膂力をほぼ用いず、相手の力の流れのみを完璧にコントロールした。アントニーは思ったはずだ。どうして自分が地に臥せっているのか。何故ならやつは人を殴りつけようとしていたし、実際に殴りつける寸前だった。そのために込められた力のみが、まったく別のことに使われてしまったのだ」


 口にすることで、さらにその凄味が鮮明となる。この私をして、あのような技の決まり方は生まれてこの方見たことがなかった。


「レオン坊ちゃまのおっしゃる通りで。まさしく美技という表現が相応しいかと」


 老執事らしい控え目な褒め言葉だが、正しい認識とは程遠い。

 となればここはひとつ、私の方で訂正してやるしかあるまい。


「美技だと? それしきの賞賛などで足るものか!! あれは私が見た中で最高の投げ技だった!! 恐らくこの先2度とお眼にかかれんレベルの、人の身に起こった奇跡のような一本背負いだった!! あれを正しく形容するならば、美技などではなく武の神髄と呼称すべきだろう!!」


 と思わず熱弁を振るってしまったが、老執事からは冷ややかな視線が返ってきた。私もまた自分がしでかしたことに気づく。羞恥の念がじわじわ身体の内側から湧いてくるが、今はなにも言い訳することができない状況だ。


「あ、いや……今のは……!?」


 言い澱むと、老執事らしからぬ深い溜息を聞いた。

 寂しげに首を振り、そして――。


「レオン坊ちゃま、それはいけのうございます」

「わ、わかっている……」

「失礼ながら、わかっておられないから失言が飛び出したのでは?」

「うぐ……しかしだな……」

「ご令嬢は、暴力を振るいたくて振るったわけではございません」


 正論で、頭をガンと殴りつけられる。老執事はきかん坊に言って聞かすように、さらに言ってのける。


「レオン坊ちゃまは武の申し子。優れたる技に感銘を受けてしまうのは致し方ないことです。ですが本質を見られねば。あの気立てのおやさしいご令嬢が、本意であのようなことをなさったとお思いですか? 眼の前の敵をやっつけんがために痛みを味わわせたと? まったく違います。ご令嬢にとって暴力の存在は、この世の悲しみそのものなのです」


 彼女がどんなつもりであのようなことをしたのか、その真意ならばこの男から耳じょっぱく聞かされてきた。


 彼女は敵を打倒しようとしたのではない。ただ私を、アーノルドを、そしてこの国に住まう人々を救いたかっただけなのだ……。


「口が滑ったことは反省するが、本当に理解している……彼女と離れたこの1年の間、ずっと考えてきたことだ」


 直訴こそあちらからだったが、了承を与えたのは私だ。彼女がコルランを離れていた期間、私の双肩にもまたコルラン辺境伯としての重責があった。


「私が知らぬばかりに不幸になった者たちに、報いるための時間でもあった」

「左様でございます。彼らのためにいくさを構えられましたから」


 アーノルドもまたしみじみと言う。この男にはすべて見届けてもらった。


「やつらの手管を踏襲されて、北方遊牧民の連中は泡を吹いていたな。まさかオスティールの領土から我が軍が奇襲するなど思いもよらなかっただろう」

「自称、北方遊牧民の王の不在も効きました」

「うむ、私たちはあいつらをコテンパンにやっつけたのだ」


 ……いくさというには、あまりに一方的な展開だった。


 元々、アントニーという頭を失ったことで、再び内紛の気配が兆していたのだ。そこに横合いから私たち征伐軍の奇襲を受けた。やつらはまさしく、蜘蛛の子を散らすような勢いで、散り散りとなって敗走した。


「レオン坊ちゃまのご活躍は、ご令嬢の耳にも入っておりました。良いところを見せられたのではないでしょうか」

「期待を持たせるような言い方をするな。だが……彼女に喜んでもらえたならば、私としても本望だ」


 悲しみの芽は隠れ埋もれていた。見つけ出してくれたのは彼女の手腕だ。拉致され、洗脳を受け、少年兵として使い潰されてきた我が領の子どもだちの身を、彼女は誰より案じていた。


 己のなすべき仕事を終えた、このタイミングでこそ考えるべきことがあった。それは自分と彼女との関係だ。男女の修羅場に乱入し、強引に連れ去ってしまった令嬢と、我を忘れて暴挙に及んだこの私。


 始まりは実に乱暴なものであったが、そうであるからこそ、いつまでもこのままというわけにもいくまい。


 アーノルドに言わなかったことがある。

 私が見届けたあの場の、彼女のことだ。


 アントニーの巨体は背中から地面に叩きつけられ、その衝撃で周囲に雪煙が舞った。アーノルドは突然の出来事に尻餅を突いていた。やがて雪煙が晴れると、地べたに横たわったアントニーと、傍らでそれを睥睨する彼女の姿が露わとなる。


 このときの彼女の口上もまた、私は一生忘れたりしないだろう。

 女執事の出で立ちで、彼女は一切臆することなくこう言ってのけたのだ。


『かつてあなたは私に、真実の愛を捧げたと言いました。もしそれが本当であれば、どうして私の素性を見抜けなかったのでしょうか』


 口振りは、相手を咎め立てるものではない。淡々として無機質。いつもの彼女のように、その内側にやさしさを秘めたものではなかった。


『おそらくそれは、きっと違ったからなのでしょう。あなたにとっての私は、興味の対象であれど、そこに愛などはなかったのです。もし本当に愛したことがあるのなら、きっとこの状況だって変化していたはず。あなたは私の正体を看破し、倒れているのもきっとあなたなどではなかった……』


 アントニーの身体が、一際大きく震えたのが見えた。


 その美貌を見初め、自らの手で拉致した女執事――その正体に、このときやっと気がついたのだ。


「て、てめえまさか……マリーヌ、だったのか!?」


 こっくりと無言で頷き、彼女は自身の胸にそっと手を当てた。


『あなたは自分の心に向き合うことをしてきませんでした。ただ暴力的に、すべてを求めようとしただけ。ですが他者を虐げ、その懐から奪って、いったいなにが手に入るのでしょうか。それは虚しさです。より大きな渇望が、より大きな富を求めさせ、それをただ繰り返すだけ。与えようとしなければ、奪われ続けるのと同じこと。あなたはどうして、それを知ろうとなさらなかったのでしょう』


 ふっと雰囲気が代わり、彼女はアントニーと視線を合わせた。

 初めて彼女の瞳に感情の光が灯る。それは深い同情の現れだった。


「そ……そんな眼で、俺のことを見やがるんじゃねえっ!!」


 仰向けに倒れ伏した状態から大声を放ち、肘を使って身を起こそうとする。だが背筋に走った痛みのせいで、途中で力尽きて元の姿勢に戻される。


『あなたは、ゲームと言った。人の命すらもその駒にした。それは無論、人の身に許された行為ではありません。その咎は、罪は、巡り巡って今のあなたをも雁字搦めにしている。あなたがゲームを弄ぶように、ゲームもまたあなたを弄んだ。だから学んでください。いつか、あなたの取った選択が大きな誤りであったことを』


 彼女は眼を伏せ、頭上高くに右手を上げた。その人差し指は天を指差し、裁きを与える女神の代理でもあるかのように、その先をアントニーの顔に向けて振り下ろす。



『アントニー・ルーティス……このゲーム、あなたの負けです!!』



 凛然とした声が響き渡った。まるで天の使いの一声のように。

 この場に集った誰もが硬直し、名画のようなその光景に息を呑む。


 一瞬呆けたものの、言われた側であるアントニーが唇をわななかせ、口角を飛ばして反論する。


「ざ、ざけんなっ!! この俺こそが王だ!! この世界の覇者になる男なんだっ!! たかが女にそんなこと決める資格なんざ――うおっ!?」


 腐り切ったやつの能弁もそこまでだった。この間に距離を詰めた私とアーノルドが、上からのしかかるように一斉にアントニーへと踊りかかったのだ。


 2人がかりでタコ殴りにし、3発に2発は殴り返された。しかし姿勢の悪さがアドバンテージとなったのか、最終的に拘束することに成功した。


「やれやれ、齢80まですべての歯を残すのが目標だったのに」

「1本くらい欠けてたって、レイラの手料理なら味わえるさ……それより、マリーヌ嬢は?」


 私はアントニーに殴られてぐらつく歯を心配するアーノルドから視線を切ると、立ち上がって周囲の状況を確認した。


 彼女はいた。私たちのすぐ傍に。胸の前で手を合わせ、こちらのことを心配してか眼元に涙を溜めている。


 私は服を叩いて汚れを落とすと、彼女の真正面に立ち、辺境伯として告げるべき言葉を口にした。


「マリーヌ嬢、先程のあなたの技は素晴らしかった。こうして無事に国敵アントニーを捕えることができたのは、間違いなくあなたのはたらきによるものだ。私はブリアリン王国の守護者、この広大なコルラン領を預かる辺境伯として、あなたに心からの敬意と感謝を――!?」


 口上を最後まで言えなかったのは、感極まったマリーヌ嬢が私の胸へと飛び込んできたからだった。


「ま、マリーヌ嬢!? 嫁入り前の淑女が、このようなことをしては……!?」

「良かった!! レオン様も、先生も無事で良かった!!」


 両手を半端に上げたままの私の胸に、マリーヌ嬢が泣きながら頬をすり寄せてくる。私はあまりに気恥ずかしいやら困り果てたやらで、指先で頬を掻きながら視線で老執事に助けを求めた。だが……。


「ずっと気を張っていらっしゃったのです。どうか気の済むまで、そうさせてあげて」

「そ、そうは言ってもこのような姿を誰かに見られでもしたら……」

「実を申しますと私はひどい老眼でしてな。近くのものがまったく見えておらぬのです」


 くそっ、いつもこんなときに限ってアーノルドは私の敵に回る……。

 困り果てて明後日の方向を見ていると、足元から怨嗟の声がした。


「れ、レオン……お前ばっかずりーぞ……マリーヌは、俺の妻になる女……」

「ややこしいからお前は黙っていろ」

「ぐえっ!?」


 腕と足を縛られて芋虫状態になったアントニーの頬を、私は足でぞんざいに蹴り上げた。君主として行儀が悪いにも程があるが、行儀の悪さなら今のこいつの方が圧倒的に上手だ。この一撃は不問にしてもらおう。


 私たちはしばらくそのままの状態でいた。やがて落ち着きを取り戻したマリーヌ嬢が私の胸から離れ、顔を真っ赤にしてペコペコと頭を下げてきた。私たちは駆けつけてきた家臣団と合流を果たし、ふんじばったアントニーの身体を全員で担ぎ上げると、屋上からロイたちの待つ階下へと階段を下りていった。


 様々な事後処理を行わねばならなかった。王太子の臣下から国敵が出たという大事件の決着。殴り合いの治療を終えた私たちは、再び話し合いの場を持つ必要があった。ロイ一行のコルラン城への滞在は伸びに伸び、今後の指針が定まるまで、実に1週間以上に渡って続くことになった。


 会議の場にはマリーヌ嬢も同席した。もはや女執事の扮装で身元を隠し立てする必要もない。彼女は本来の出自に相応しい服装で、真剣に今後のことについて意見を述べ立てていた。


 正直に話さなければならない。私は……こんなときだというのに、そんな彼女の横顔から眼が離せなかった。胸の内から消えぬのは、天を指差す彼女の姿。陳腐な表現を許してもらえるなら、地上に舞い降りた天使のように見えた。


 自覚は、きっと以前からあった。だが、あれほどの胸の高鳴りを覚えたのは、あの瞬間が初めてだったように思う。


 私は、彼女の語った一言一句を覚えている。それは国敵となったアントニーへの断罪などではなかった。罪を犯した者ですら、彼女は正しき場所へ導こうとしていたのだ。


 浮ついた心が恍惚に浸ろうとする一方、どこか冷静な自分が考える。これは幻に過ぎないと。すべきことならばわかっていた。王国随一の公女として、恥ずべきところなく会議に臨む彼女の姿を見て思う。私は、これほどの才女に対して、ずっと曖昧な態度を取ってきた。それは、もう許されぬ。


 ひょっとしたら、心のままに行動すれば良かったのかもしれない。勢いに任せて、想いの丈を彼女に伝えたら良かったのかもしれない。だが一方で、私はこうも考えていた。もし私の心が求めるものが彼女の幻想だとするなら、これほどまでに礼を失したこともまた他にないと。


 懊悩の時間が過ぎた。話し合いはかたちとなり、季節も春へと近づく。中庭に、彼女と快復したアウロアの姿を見るようになった。私よりも一足早く本音を打ち明け合って、雨上がりの後の虹のような笑顔を見せていた。


「レオン様、どうか私に王都へ赴くご許可をいただけませんでしょうか」


 唐突に道は別たれる。彼女の直訴は晴天の霹靂だった。この申し出には、アウロアからの要請が先にあった。いずれブリアリン王国の国母となる自分には、あまりにも足りない部分が多過ぎる。遅まきながらそれを学び修めるために、優れたる淑女の教えが必要なのだと。


 私は二つ返事で了承した。断る理由がなかったからだ。そしてこうも思った。彼女のいない日々を過ごすうちに、きっと私自身の答えも導き出せるはずだと――。


 1年の月日が経ち、私は今、マリーヌ嬢の元へと足を進めている。


「……不思議なものだ」


 ぽつりと呟き、その心象の理由を語りながら考える。


「彼女を連れ去ったとき、きっと周囲は私にこのような役どころを想像したのだろう。窮地に陥った令嬢を連れ帰り、己の妻として迎え入れる。もっとも、当の私ときたら、そんなことは露にも思っていなかった。精々が、厄介な居候を自ら連れ帰ってしまったくらいにしか考えていなかった」


 様子を窺うために眼をやると、アーノルドはなんとも言えない表情だ。こういうこともたまにはある。こいつが本気で感情を隠したら、私如きに読めるはずもない。


「思った通りの厄介者でしたか?」

「いいや? ……お前だって知っているだろう。彼女は万能だと」


 その答えなら既に知っているし、アーノルドも今さら口にはしない。

 静かに独白の続きを待っていた。だから私も率直に話す。


「万能。優れたる者。彼らには持って生まれた宿命がある。真に優れたる者に、人は思い思いの貌を見る。彼女もまたその運命にあった。ある者は彼女に恋慕し、ある者は彼女の存在の影に恐怖し、そしてまたある者は、彼女の不手際を極めて大きなものと誤認することになった」


 語りながら、歩を進める。約束の場所は近い。


 私とアーノルドがもう少し行けば、彼女からも私たちの姿を見て取ることができるはずだ。


「……いずれも実像からは程遠い。だから私も慎重を期さざるを得なかった」

「この1年のことですかな」

「そうだ。私の中にあるこの感情が、彼女の幻へ向けられたものであるなら、私は彼女に想いを伝える資格を持っていないことになる」


 色恋沙汰には精通していない。外で、剣を振っている方が性に合っていた。これはそんな私が、私なりに悩み抜いて至った結論だ。


「少々、考え過ぎのきらいがあるかと」

「まあそう言うな……初めてのことなんだ」


 このような気持ちを抱いたことも、誰かを本気で愛おしいと思ったことも。


「人は誰しも幻想を抱くもの。私とて、若い頃はレイラを女神のように崇め奉っておりました。レオン坊ちゃまもご同様では?」

「それだって、一緒に過ごすうちに幻想が氷解していったのではないか?」

「それはまあ、そうですが」


 ピンときていない様子だが、老執事は人心の機微に疎いわけではない。むしろ誰より知り抜いていると言える。


 理解が及んでいないとするなら、私の悩みがあまりに初歩的なところにあって、躓きの理由がわからないからなのだろう。


「ともに時間を過ごすうち、私は段々と彼女のことがわからなくなった。いや、この言い方にも不備があるな。私は、私の思う彼女が真実のものか確証が持てなくなったのだ。私の願望や不安を投射し、ありもしない虚像を作り上げているのではないかと、そう疑い始めたのだ」


 ――天を指差す彼女の姿。


 あの日から、瞼を閉じれば1度だって思い浮かばなかったことはない。


 あれからずっと、心の奥底で願っていた。導いて欲しいと。一生を私の隣で過ごし、その正しき教えで、人としてより高みへと連れ立って欲しいと。


 だが、こうも思う。それは身勝手な欲求だと。私の願いは彼女の願いではないし、彼女もまた私の思う彼女ではないのかもしれない。であるなら、今胸の内に燃えるこの想いを伝えることの、なんと自分本位で愚かなことか……。


「人は思い悩むもの。誰かにとっての些末な悩みが、他の誰かにとって生死の懸かる一大問題かもしれません。ですがレオン坊ちゃまは苦境にお強い。こうして足を運んでいるということは、きっともう答えを見つけ出されたのでしょう」


 こちら心配する口振りではなかった。その理解は正しい。

 私は忠臣の期待に応えるべく「ああ」と返事をする。


「頭を冷やす時間が解決してくれたさ」

「して、どのような結論に? ……まあ、ここに来られた時点で、だいたいの想像はつきますが」


 言わずにいても、答えなら伝わっているだろう。

 だが私は、私自身の口から言ってみたいと思った。


「マリーヌ嬢のことが、好きなのだ。武の神髄を見たからでも、母上と同じ面差しを持っているからでも、導き手になって欲しいからでもない。いつだってやさしく、弱き者たちへの慈愛に満ちた、ありのままの彼女に傍にいてもらいたいのだ。この特別な1日は、彼女にそれを知ってもらうために準備したものだ」


 ……ずっと有耶無耶にしてきたものに、今やっとかたちを与えた。


 もっと気恥ずかしい心地がするものと思っていた。だが私の心は、この晴天のように清々しく晴れ渡っている。


「ようやく観念されましたな」

「強がって見えていたか?」

「そりゃあもう、昔の旦那様に瓜二つなので」


 私が足を止めると、アーノルドもまた足を止める。互いに向き合って、ほぼ同時に噴き出して笑い合った。


「実を言うと、私としても心配していたのです。以前から、レオン坊ちゃまの御心がマリーヌ様にあることはわかっておりました。ですがご自分に正直になられなかれば、きっとこのようにはなさらないでしょうからな」


 ほ、ほ、といつものように笑う老執事からは、長年の胸の支えが取れた爽やかさすら見て取れる。


 ゆえに心苦しいのだが、言わずにはいられまい……。

 私は口元に笑みを拵えつつも、首を振って告げた。


「ああ、それなんだがな、アーノルド」

「ほ?」

「どうやら、ここに来て怖気づいてしまったらしい。さっきから足が動かんのだ」

「…………」


 あのアーノルドをして、絶句が返ってきた。しばし停まった時間の住人となると、その間に兆したらしい考えを口からぼした。


「らしくありませんなレオン坊ちゃま。この期に及んでそのようなご冗談は」

「冗談であれば良かったのだがな……」

「本当に足が動かないので?」


 ハッとして老執事が視線を下げると、私の太腿が微細に震えているのを見たらしい。再び視線を上げて私の顔を見た。


「北方遊牧民とはあれほど勇敢に戦われたのに」

「思うに、いくさの場での勇気とこの場の勇気は種類が違うんじゃないか?」

「そんな他人事みたいに……本当に足が動かないので?」


 2度、念を押された。私はまたしても深く頷く。


「根が生えたようにまったく動かん」

「困りましたな……よもやマリーヌ様を呼んでくるわけにもいかないでしょうし」

「そ、それだけは絶対にやめろ。恥ずかしさで私が憤死する」


 なだらかな起伏を越えた向こう側には、マリーヌ嬢が待っている。ここからなら目と鼻の先の距離だ。だが受け手である女性の側から訪ねてくるなど前代未聞の話だ。コルラン家始まって以来にして末代までの恥……というか、おそらく私自身が末代になってしまう。


 進退窮まった状況をどうにかせんと、頭を捻った。


「ひょっとしたら勝算がないからかもしれん」

「勝算ですか? その……つまり先方が受け入れてくれる保証ということで」

「ああ、なにぶん初めてのことで、私自身どう転ぶかわからんのだ」


 あの老執事をして、大きく眼を見開いた。なにゆえのリアクションなのか知らぬが、ともかくアーノルドに訊いておくべきことがある。


「その、お前の見立てはどうなのだ?」

「どうとは?」

「私がその……マリーヌ嬢にとって脈があるのかということだが」


 冷ややかな風が吹いたような気がした。アーノルドと私の間に。


「ご自分でたしかめられるべきかと」

「そのための足が動かんというに」

「やれやれ……レオン坊ちゃまの手紙友だちはどう思われているので?」


 指摘を受けてようやく思い出す私も薄情な男だが、たしかに彼には幾度となく書簡で相談に乗ってもらっていた。


「明確な答えはもらえていない。それよりせっつかれてばかりいた。僕はまた君とマリーヌに水入らずで会いたいと、その一点張りなのだ」

「大変聡明な御方だと伺っておりますが、断定を避けられたのですか?」


 あのアーノルドをして驚きの表情を見せている。人物評ならば耳に入っているだろう。名だたる領邦貴族たちを向こうに回しながら、決して怯むことなく立ち向かう、聡明な王であるというという噂が。


「あの御方は、ご自分を過小評価し過ぎなのだ。王になるために生まれてきたような器をなさっているのに、他人以上にご自分のことを信頼していない。まあその疑念が、彼の御方をより立派な王にしている向きもあるのだが……」


 説明していると、より複雑な気分になってくる。


 私が書面でマリーヌ嬢とのことを相談すると、あの御方はいつも「僕は恋愛音痴なので」と逃げ口上のように表明なさる。なまじ過去の出来事を知っているだけに、私としてもそれ以上踏み込めなくなるのだ。


「ともかく、我が王からは助言を期待できんわけだ」

「でしたら考え方を変えてみるのはいかがでしょう」

「考え方……どういう意味だ?」


 興味津々に問うと、アーノルドはシュッと一本指を立てた。


「レオン坊ちゃまは、こたびの行動を勝負ごとのように考えておられる。ですが実像とは随分とズレてございます。あなた様が求め、マリーヌ様が応える。それが成ったとき、同じ場に敗者はいません。あえて言うなら、2人ともが勝てるのです」


 そのような捉え方をしたことはなかった。私の眼からぽろりと鱗が落ちる。


「なるほど。たしかに勝ち負けのあるものとして見ていた節がある」

「マリーヌ様をコルランへ連れ出したときのことを考えてみてください。レオン坊ちゃまはあの御方を抱きかかえ、馬車に乗せてここまで運んできた。これは一般的には奪う行為であると言えるでしょう。しかし今回は違うのです。あなた様はご自分のすべてをあの御方にお与えになる。つまり捧げる行為なのです。プレゼントを渡すとき、勝ち負けのことを考える者がおりますでしょうか」


 言い得て妙とはこのことだ。己の心が定まっているのなら、これ以上恐れることなどなにもないということか。


 しかしこのような変節があったところで、果たして足が動くようになるものだろうか……。


 私は半信半疑の心持ちで自分の足を見た。そしてゆっくりと力を込めてみる。地に根を張っていたはずの右足が、普段通りに持ち上がった。


「治るのか、これで。私の身体はどうなっているのだ……?」


 自分ごとながら頭を痛めていると、静観していたアーノルドが声を出した。


「では、ここからはおひとりで大丈夫ですな」

「そうだと言いたいが……恥掻きついでに少しいいか?」


 水を向けると、老執事が首を傾ける。


「死地に赴く心地の主に、優れたる忠臣から一言もらいたいのだがな」

「思いの丈なら、墓場に持っていく分まで話してしまいましたが……」


 アーノルドが言っているのは、きっと1年前のことだろう。

 私を庇ってこいつはアントニーと差し違えようとした。


 私はずっと、アーノルドのことを完璧だと思っていた。主君に尽くし、その命を守る、完璧な執事だと。しかしそんな男にも心残りがあったのだ。


 領民と私の命、どちらを守るか。それを決めたのはこの男ではない。私の父上だ。アーノルドはただ、執事として主君の命を遵守しただけなのだ。


 罪悪感など感じる必要はない。今ならば私にもわかる。父上もアーノルドも、決して私を軽んじたわけではないことが。彼らは自分の心より、自らに課せられた義務を優先した。そしてそれは、正しい行動だった。


「アーノルド、それはあの場までの思いだ。あれから1年、お前は新たに私に仕えてくれただろう」

「たしかに。あれが最後のお勤めと思っておりましたが、違ってしまいましたからな」

「その通りだ。これからも尽くしてもらわなければ困る」


 私が相好を崩すと、少し強張っていたアーノルドの顔も綻んだ。


「では、どのようなご用命をなさりますか、旦那様」

「お前の口から答えを聞こうとはもう思わん。だが、発破をかけてくれ」

「なるほど、そういうことでしたら……」


 浅く息を吸い、吐く。口の前に手をやって、こほんと空咳を挟む。そうして佇まいを整えた老執事はきっと、私へ向けてとっておきの言葉をくれるに違いない。


 私の期待はいやが上にも高まる。そしてアーノルドは口を開いた。


「もし断られてしまっても、悲観される必要はございません。先方がお首を縦に振られるまで、何度だってアタックすればいいのです。さすれば、今はその気でなくとも、いつかきっと承諾してくださいます。私の場合はそうでしたので、これは実体験に基づくお墨付きです」


 真心がこもっているというのはわかる。経験から勝ち得た教訓というのも間違いではなかろう。


 だがこれは少しばかり、いやかなり、後ろ向きに過ぎるアドバイスではなかろうか……。


「……あのなアーノルド、戦う前から負けることを考えてどうする」

「僭越ながら、勝負ではないと申したばかりで」

「た、たしかにそうだが……ともかく、それはあまりにカッコ悪いだろう!! なにか他に候補はないのか?」


 そうせっつかれずに、みたいな視線をこちらに寄越してくるが、さすがに今のはアーノルドの方が悪い。私とて心中はいっぱいいっぱいであるからして、なにかこう希望というか、望みを持たせるような言葉が欲しいのだ。


「はあ……では再考いたすとしましょう。とっておきの勇気の素を」

「頼む」


 私は老執事の顔を見つめた。本当に頼む。

 しばらく熱視線を注ぐと、準備が整った老執事が口を開いた。


「少し、昔語りをいたしましょうか。4年前、あなた様がパーティー会場からマリーヌ様を連れ出された後のことです。私は一足早くコルランの地に戻っておりました。そしてお帰りを待っていた。邸の窓から、あなた様のお姿を一目拝見しようと、じっと外を眺めていたのです」


 コルラン城でなく別邸に帰り着くことを、私はこの老執事に言っていない。淑女を連れた私がどこへ帰ろうとするか、この男は先読みしたのだ。別邸に人員が揃っていたのも、すべてアーノルドの手配だった。


 もはや驚きにも値しない。私は深く頷きを返すのみだ。


「……それで、どうした」

「数日待って、あなた様がお帰りに」

「心象は?」

「遠目に、亡くなられた旦那様を見るようでした。ご立派に成長なされていた」


 しみじみと語るアーノルドの物言いに、感じ入るところはある。


 私もまた、アーノルドの再会は久方ぶりだった。王都での生活に馴染むにつれ、徐々に故郷へ帰る頻度は減っていった。実のところ、コルランの地を踏むのも数年ぶりのことだったのだ。


 それは特に懐かしい郷愁だったが、老執事の瞳は別のものも見た。


「馬車から降りたあなた様は、逆に回ってもう一方のドアを開かれました。そして礼に則り、恭しく中へ向けて手を差し伸べられた。車内からは美しいご令嬢が姿を現し、そっとあなた様の掌の上にご自分の手を重ねられると、爪先からゆっくりとこのコルランの大地を踏みしめられたのです……そのときでした。私はこう思ったのです。あなた様はただご立派に成長して帰ってこられただけではない。ご自分の運命をも、連れ帰ってきたのだと」


 優れたる臣下は、ただ傍にいるだけで主君の心を安堵させる。

 その言葉は不思議な魔力を持ち、千々に乱れた心すら静めてくれる。


 アーノルドはまたしても、完璧に仕事をこなした。私はもう揺らがない。己の意思も、取るべき行動も、すべてがはっきりと見えている。


 顔を上げる。アーノルドと見つめ合う。ほぼ同時に頷きを交わすと、私は彼女が待つ方向へと顔を向けた。


「……どうかお忘れにならないでいただきたいのです」


 老執事の言葉は続いている。が、私はもうそちらを見ていない。


「あの御方はとてもおやさしく、慈しみ深い。ですがそんな御方が、あなた様のお傍からは頑として離れようとしなかった。その意味を、どうか深くお考えになってください」


 ……ああ、わかっているさアーノルド。


 彼女の気持ち、それはきっと、今の私の気持ちと同じなのだと。


「がんばって」


 その一声は、私の背に掛かった。


 何故ならば私はもう歩き出していた。この先に彼女が待つ。マリーヌ・ヴィクスドール。私の最愛の女性が、私のことを待ってくれているのだ。


 けれどその前に、最後に、この老執事にだけは言っておかねばならないことがある。私はその場に足を揃え、振り返ってアーノルドを見た。


 そしてこう告げたのだ。


「……行ってくる」



★★★



 ときとして、場には力が満ちる。


 特別な場には独自の引力のようなものを発し、特別な人物を呼び寄せる。コルラン別邸において、それは小高い丘の先の中庭にある。


 2人用の円テーブルに、小さな椅子。いつもそこにある静物に、彼女は腰かけていなかった。公女という自らの立場に相応しいドレスを纏ってそこに立ち、静かな朝に浮かび上がる緑豊かな光景で、眼を楽しませている。


 彼女はまだ気づいていない。彼女の元へ青年が歩んでいることも、丘の頂に足を止めて、それを見送る老人がいることにも。


 4年前、運命は彼女を裏切った。幼少のみぎりに結んだ婚約。それが一方的に破棄され、彼女の前途には暗闇が広がった。ややもすると、彼女は独力でもその中を泳いでゆけたのかもしれない。だが運命の波濤は銀髪の青年の姿を取って、彼女をこのコルランの地へと連れ立った。



『あなたに相応しい仕事を準備すると約束する』



 青年の提案は甘美だった。表には出さなかったが、彼女も内心では乗り気だった。程なくして、彼女には役割が与えられた。そのどれもが、彼女の持って生まれた資質に到底届かないものだ。現場の家臣たちは音を上げた。困り果てた新任辺境伯は、彼女をとある老人の元に預けることにした。


 執事服に着替え、彼女は老人の隣に立つ。老人の考えは、主君たる新任辺境伯の意に沿ったものではない。何故なら老人は見抜いていた。この淑女が一角ならぬ人物であり、この広大なる領地をより良くするための能力を、十二分に有していることを。


 試練があった。彼女の瞳は悲しみを見る。コルランの地に隠され埋もれていた真実。拉致された被災遺児たちが辿った悲劇を。彼女の涙は、ただ流れるのみではなかった。彼女は子どもたちを救うべく奔走した。例えそれが、彼女を連れ立った青年の望みでなかったとしても。


 老人は静かに退く。彼女の隣には青年が立った。2人の眼の前には、過去の因縁が立ちはだかる。かつて学友だった王太子、王太子妃、腹心たる近衛騎士が、青年の行動を咎めにこのコルランの地へとやってくる。


 3人は話し合った。そして取り決めを作っていた。過去の因縁には、黒い陰謀の糸が絡みついている。彼らは自らの領民のためだけではなく、すべての王国民のためにそれを除かねばならぬ定めにあった。


 陰謀は暴かれ、叶うことなく潰えた。裏切りの騎士の身柄は今や監獄にある。彼らは王国を守り抜いたのだ。


 彼女は一礼し、そっと青年の隣から離れる。待ち人は、彼女の無二の親友となった王太子妃だ。自らの至らなさを自覚した彼女に教えを与えるため、彼女はしばらくの間、このコルランの地から離れる決意をした。


 そして、今――。


 彼女の身は再びコルランにある。かつて自らが作った孤児院へ慰問に訪れようと考えた際、青年からの手紙を受け取った。書面に眼を通した彼女は、旅の途中にコルランへ立ち寄ろうと決心した。青年の、どうしても伝えたい、大切な話というものを耳にするために。


 彼女の視線の先で、白い羽を持つ鳥が飛び去った。それで、待ち人である彼女もまた気がついた。彼女は首から、そして全身を反対の側に向け、とうとう丘を降りてくる青年の姿を眼に入れる。正装し、自分を迎えにきた青年の姿は、記憶の中のそれよりも少しばかり大人びて見える。胸の内で震える、心臓の音。その意味を、彼女はまだ、この時点では知らなかった――。





 老人は、丘の上から見守っていた。


 老人は青年を待っていた。いつだって、待つことが仕事だった。青年が王都で学業を修め、この広大なるコルランの君主となるその瞬間を。


 4年前、学びを修めて帰郷してきた青年は、まだあどけない少年の面影を引きずっていた。ひとりの令嬢を攫うようにして連れ立って、その顔色がひどく青褪めていたことを覚えている。


 青年は苦悩していたが、老人は喜んだ。彼の眼には、青年の連れ帰った令嬢が素晴らしい女性であることが、なによりもはっきりと映っていたからだ。


 老人は令嬢を育て、3人でともに苦難を乗り越えた。令嬢は自らに相応しい責務を果たすべく、コルランの地を離れた。老人は残された青年の苦悩を知っている。心も知っている。大切なものに触れぬよう、そっとしておくことがなによりも一番であることもまた、知っていた。


 そして今、令嬢は再びこの地に舞い戻った。青年の心も定まった。老人は思う。こうなることは最初からわかっていたと。これこそが、自分の夢見た理想像なのだと。


 老人の視線の先で、青年と令嬢が再び出会う。彼の瞳はそれを映し、決してまばたきなどしない。4年前のあの日から、ずっと待ちわびていたこの瞬間を、決して逃したりなどしない。


 今、老人は丘の上で見届ける。老人は賢者ではない。けれどそれに近い。彼は人のしあわせを知っている。かつての主に足りなかったものも知っている。この広大なコルランの地を、たったひとりの力では治めることができないことすらも。


 永遠に失われてしまったものがある。かつての主の愛妻は、この地に夫を残したまま天に召された。彼女はコルランを回す大事な車輪の片側だった。主君は彼女の分まで死力を尽くしたが、志半ばで倒れた。主なき土地を、彼の血の分けた一人息子に残して――。


 老人の視線の先で、青年が令嬢の足元に跪く。たおやかなその手を取り、下方からじっと瞳を見つめて。そして令嬢のいなかった1年間、彼の胸の内で育った愛情を打ち明けるのだ。


 令嬢の背が震える。まるで予想だにしていなかったように。一拍置いて、自由になる方の手で口元を覆った。青年は驚き、思わず取った手を離してしまうと、令嬢は両方の手で顔を覆ってしまう。


 青年は気まずげに見えたが、老人にはわかっていた。今、彼女の瞳からこぼれ落ちる涙が、決して悲しみのためのものではないということを。


 やがて青年が立ち上がる。泣いている令嬢が再び差し出した手を、力強く握り込む。想いは遂げられた。ならばもう涙はいらない。青年が笑顔を向けると、令嬢は溢れる涙を指で拭いながら、青年に泣き笑いを返す。


 真っ先に伝えたい人がいる。今この瞬間、愛し合う2人の男女が夫婦になったことを。青年が振り返る。探し人を探して。老人は隠れてなどいない。その場でじっと待っていた。何故ならそれが、彼の生涯の仕事だからだ。




「アーノルド!!」



 

 青年が声を上げ、大きく手を振ってくる。まるで無邪気な、少年のような面差しで。けれどたったひとつだけ、昔とは違うことがある。その隣で、彼の妻もまた同じように、こちらへと手を振っていたからだ。


 老人は深く頷く。そして涙で滲む視界をハンカチで拭き取ると、最高に幸福なこの瞬間を眼に焼きつけようと、じっと彼らの姿を見つめた。



 ――何故なら彼女が、青年のしあわせだと知っていたからだ。

最後までお読みくださりどうもありがとうございました。

近く感想欄を解放いたしますので、全体としての評価・感想等頂ければ作者の励みとさせていただきます。


明日番外編を投稿いたしまして、この物語の締めとさせていただきます。

読者の皆様、良いお年をお過ごしくださいませ。

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