第34話 『思い出語り万華鏡 ~それぞれのあした~』
私は思う。特別な日には、特別な装いが必要なのだと。
昨夜のことは思い出したくなかった。突如として降り始めた雨。昨日でなければどれほど良いと感じたことだろう。大地を潤し、このコルランの地に恵みをもたらす慈雨。時に待ち望むことはあれど、1度として降ったことを悔やんだりはしなかった。昨夜という、特別な夜でさえなければ。
懸念は、目覚めとともに払拭された。金色の朝。分厚いカーテンに隔てられてすら太陽の光は私の瞼へと手を伸ばし、肉体を健全な覚醒へと導く。胡乱な思考は即座に背筋を伸ばして立ち上がり、私は私のすべきことに早速着手した。
本日の着替えに従者の手は借りない。あらかじめ取り決めておいたことだ。私は待ち受ける場に相応しい一張羅を自らの手で纏い、鏡台の前で加減を整える。
襟元の角度、左右のバランスを調整して、コルラン辺境伯として恥ずべきところのない身なりを整えたところで、扉の外側からノックの音が響く。
「旦那様。朝食の準備が整ってございます」
「すぐに行く。今朝の紅茶は熱めで頼む」
執事は引き下がり、扉の外側に誰もいなくなったのが気配で伝わる。自分の手で履物を替えると、私もまた彼の後を追って食堂へ赴く。
朝食の時間はずらすよう、こちらも先んじて伝えてある。果たして食堂には誰の姿もない。私は用意された食事を終えると、熱い紅茶の味をじっくりと嗜んだ。そして廊下へ出た。
コルラン別邸。朝の回廊。いつものように賑わしくはない。行き交う人々の数は減らしてある。そして私が視線を向けた先にはとある人物がいる。
あれは誰だろう? この特別な1日の始まりに、一礼して私を出迎えてくれるあの人物は?
「おはようございます。昨夜はよく眠れましたか?」
「てっきり嵐になると思ったが、取り越し苦労だったようだな」
「ですから申し上げたでしょう。明日は抜けるような晴天になりますと」
ほ、ほ、と特徴的な笑い声の持ち主を、私は知っている。
コルラン辺境伯領が誇る、コルラン魂の現身。名物老執事長アーノルドだ。
いつものように私の隣へと収まると、短い目的地への同行人となる。
「昨晩は、出迎えご苦労だった。先方と話はしたのか?」
「土砂降りの中を帰り着かれましたからな。お話は、お着替えを済ませてからになりましたが」
王都からの土産話。私もまた期待していた。彼女と別れて、はや1年近くの月日が経つ。面と向かって語り合いたいことなら山ほどある。
約束の時間までにはかなり猶予を持たせていた。それもまた予定のうちだ。私たちは屋内散策もかくやの歩速で、ゆっくりと廊下を歩む。
やや歩いたところで、前方に新たな人影が見えてきた。メイド姿の女性だ。こちらに気づくと、両手に抱えた山盛りの洗濯籠ごと振り返ってきた。
「あ、おはようございます。サー……じゃなかった、旦那様!!」
「洗濯メイドか。お前も抜けないな、その言葉遣い」
私は呆れて言った。この1年、何度この言い直しを聞いたものか……。
そんな主人の内心の気疲れなど露知らず、洗濯メイドは山盛りの洗濯籠越しに、にへらと笑った。
「そこはそれ、随分と長い間、マリーヌ様の身代わりを務めさせていただいたもので……おや、今日はアーノルドさんも一緒に執務室へ赴かれるんですか?」
「そうなのですよ。実は些か大事な用向きが」
などとアーノルドが乗っかりにいったが、無論のことその内容はトップシークレットだ。慌てて空咳を入れる。
「こほん……アーノルド」
「ほ、ほ、口が滑りかけましたかな」
「あ、今の密談ですか? 水臭いなあ。私も一枚噛ませてくださいよぉ」
前々から思っていたがこの女、どうにもすぐに調子に乗るきらいがある。仮に秘密ごとなど話してしまえば、翌日には邸内全域のみならず、近場の村落にまでバレていると見て間違いなかろう。
登場して早々悪い気もするが、手っ取り早く退場してもらうのが身のためか。
「洗濯メイド、ひとつ訊きたいことがあるのだが」
「はいはいなんでしょう」
先の発言の後だけに興味津々でずいずい近寄ってくる洗濯メイドに、私は言ってやることにする。
「お前、何故今日も働いている?」
「そ、それはあたしの働きぶりがアレで、クビ的なアレの話でしょうか……?」
「断じて違う……おいアーノルド、ちゃんと話は通したんだろうな」
「おかしいですな? 昨日の朝のミーティングで話題に出したはずですが」
アーノルドが小首を傾げ、それを見る洗濯メイドも釣られて小首を傾げる。
まさか同じ仕草で思考が伝染したわけでもあるまいが、徐々に表情を変化させると、怪訝そうに話し始めた。
「あれ? そういえば、なにか重要なことをおっしゃっていたような……?」
「さして重大事でもありませんよ。ヒラの執事とメイドは、今日は一律休養日というだけの話です」
「それ……超大事じゃないですかぁっ!?」
などと先程までの好奇心全開が一転、一瞬で半泣きになる洗濯メイド。
「あ、あたしもう今日の分のお洗濯済ませちゃいましたよ!? これって溜めてて良かったやつだったんですかっ!?」
「今日がお休みなんですから、まあそうでしょうな」
「そ、そんなあ!? 洗っちゃったからには干さなきゃダメじゃないですかっ!?」
そう叫んで、抗議でもするかの如く、洗濯籠を上下させる洗濯メイド。休日が吹っ飛んだショックもさることながら、これから追加の仕事もせねばならないとなると、心理的ストレスが決壊寸前ということらしい。
しかしまあ、なんともわかりやすい反応を示してくれた。お蔭でこちらとしても至極やりやすい。
早速に、こいつの眼の前へ蜘蛛の糸を垂らしてやることにするか。
「洗濯メイド」
「ふぇ? ……だ、ダメですよ!! 失われた休日はもう帰ってきません!! 旦那様はちゃんと1日分の給与を支払ってくださらないと!!」
勝手に勘違いしておきながら、なんとまあ図々しい要求なのか……。
しかし私は敢えて咎めることをせず、さらに好条件を示してやることにした。
「帰っていいぞ」
「帰ってって……まさか、タダ働き!?」
くわっと眼を見開く洗濯メイドに、私は鷹揚に首を振った。
「給与はちゃんと1日分出す。洗濯物の後始末も他の者にやらせる。その上で、今から休暇をくれてやると言っている」
「給与が1日分? 仕事もやりかけで、まだ朝なのに帰っていい……?」
自分なりの言葉で復唱すると、眼の縁がキラっと光った。
「最高じゃないですかっ!! ……あ、でもなにか裏とかあるんじゃ?」
「裏などない。強いて言うなら、1年前の働きに報いようと思ってな」
流し眼でアイコンタクトを飛ばすと、過たず老執事が意図を汲み取る。
「王太子妃殿下の御命を救ったあなたに是非とも恩返しをしたいと、そうレオン坊ちゃまはおっしゃっているのですよ」
「まあそんなところだ」
適当な感じで相槌を打ったが、洗濯メイドは気づいていない様子。
それどころか、キラキラと瞳を輝かせて盛大に感動しているらしい。
「だ、旦那様ぁ、あたしのこと、そんな風に思っていてくださっていたんですかぁ……!!」
「ああ、まあな」
心にもない肯定は抑揚にも表れていたはずだが、洗濯メイドはひとしきり瞳を潤ませてから、ビシッと言った。
「そういうことでしたら、あたし今から全力で休日を満喫しちゃいますっ!!」
「是非にそうしてくれ」
「帰ったら爆睡ちゃんかましちゃいますね!! それではさようなら~!!」
ルンルン、と両手を翼のように伸ばして去っていく洗濯メイドだが、仮にもうら若き乙女が、降って湧いた休日に爆睡というのもいかがなものか……。
「やれやれ、もっと有意義な時間の使い方もあろうに」
「そうおっしゃらず……ところで、本当に報償のつもりでしたので?」
「そんなわけなかろう。そもそもあいつ、怪我人の手当てもせずに失神しかけていたそうじゃないか」
詳しいところは伝聞でしか知らない。ただ、あの日アウロアの救助へと赴いた洗濯メイドは鼻血の量に肝を潰してしまい、あわや失神寸前のところを、別の家臣へ助けを求めに走ったそうなのだ。
「些か情けのうございますが、結果的に仕事は果たしたものと言えるのではないでしょうか」
「だからうるさくは言っとらん……この件はこれで仕舞いでいいか」
上機嫌に走り去る洗濯メイドの背を見ながらこぼすと、アーノルドはにっこりと微笑み返してくる。
そして再び、どちらともなく歩き始めた。
「お邪魔虫もいなくなったところで、お客様のご様子の方を」
「ふむ……彼女は息災であったか?」
「無論のことお元気で。それに王都での土産話などもございます」
それは私も楽しみにしていたところで、胸の奥の好奇心も疼く。
「先方の申されますところによると、小さなレオン様もすくすくとお育ちになっているそうです」
「義理堅いな、ロイのやつも……まさか本当に息子に私の名を付けるとは」
しみじみと呟く。それはいつかの約束事だった。我が無二の親友であるロイは、もしも自分に男児が産まれたとすれば、必ずや私の名を冠ぜると誓いを立てたのだ。
「いずれは王となられる御方が、我が主君と同じ名を持つ。臣下として、これ以上の喜びはありません」
「あまりに気の早い話だ。ロイですら、未だ王位を継いでおらぬというのに」
「そうでしたな。現王の御回復。あれもまた吉報でございました」
半年前、現王は死の淵から御生還なされた。
御意識を回復されたのみならず、明晰なる頭脳も昏睡される以前と変わることなく、今では王としての執務にもご復帰されたと聞く。
私をして、我がごとのように嬉しい。それを見て取ったアーノルドもまた、柔和な笑みを浮かべた。
「アウロアが王妃教育を修めるまでの猶予にもなるだろう」
「アウロア様といえば、ひとつ興味深いお話が」
「……なんだ?」
眼を向けると、老執事はなにやら含みのある笑みを湛えて。
「これはつい先日のことなのですが、どうも王妃教育の辛さに耐えかねて、王宮から脱走されたそうなのです」
「だ、脱走だと!?」
「しかも小さなレオン様まで一緒にお連れになったとか」
「なにをやっとるんだあいつは……!?」
思わず閉口してしまうが、納得の行く顛末でもある。貴族学院時代、あいつは己が恋愛にのみ血道を上げ、それ以外はなにひとつとして顧みることがなかった。
いわんや学業をやというか、そのもの優先順位ならば最後尾にすら入っていなかったことだろう……。
「学生時代のツケが祟ったな。真面目に勉学に励む習慣を怠るからこうなる……で、どうなった?」
「少々、お相手が悪うございました」
「やはり秒速で見つかったか。さすがは万能の令嬢……」
脳裏に、記憶にある彼女の相貌が浮かぶ。
1年前にコルランを出奔した彼女は、王太子妃の家庭教師の座に就いていた。かつて自らが修めた王妃教育を、今度は王太子妃となったアウロアへと施すために。
「連れ戻されて、手ずからお説教もされたそうですよ。ご自身の立場も含めて懇切丁寧に説明され、泣いてもやめなかったとか」
「身から出た錆過ぎる。しかし、彼女が説教か……」
再び記憶を手繰るが、手持ちのイメージに近しいものはない。私の思い描く彼女は基本的にいつも穏やかで、慈愛に満ちた笑顔を浮かべている。
胸の奥に、懐かしい気持ちが広がる。彼女のいない日々。
私にとってのそれは、いかばかりの時間であったことだろう……。
「レオン坊ちゃま?」
「少し考えごとだ……他にはなにかなかったか?」
内心を見透かされるのを厭って水を向けると、老執事も語りたくてうずうずしていたのだろう、早速に別の話を始めた。
「愚息トーマスから便りが届きました。レオン坊ちゃまは、オルタンス様をご存知でしょうか?」
「ああ……懐かしい名前だな。たしかアウロアとは違う意味で、彼女を眼の敵にしていた令嬢だった」
アウロアと彼女との和解。その場には私も居合わせていた。
己がスカートを両手で掴み、涙ながらに自らの行状を述べるアウロアと、黙してそれを見届ける彼女の姿。罪の告白を果たしたアウロアへとそっと歩み寄り、その身を抱きしめて許しを与える、まるで聖女のようなその姿を……。
「ごめんなさい、マリーヌ。私……あなたに許されないことを……」
「いいんです。ここに来なければ、得られないものだってありましたから」
「う、うわああああああああぁ……!!」
見る者ならば誰の胸をも打つ、感動的な光景だった。
オルタンス嬢の記憶はその先にこそあった。一方的ではあるが、この令嬢は彼女に一歩も歩み寄ることのないまま、貴族学院を卒業していったはずだ。
「異名があった。たしか『苛烈なるオルタンス』」
「よく覚えておいでで。実はその名に違わぬことをなさったそうなのです」
アーノルドの語るところによると、オルタンス嬢には学生のみぎりから定められた婚約者がいた。それは彼女よりも二回りも年嵩の人物で、成金趣味を隠そうともしない新興伯爵だったという。
爵位を金で買ったという自らの来歴とは対照的な、由緒正しいが資金繰りに困っている旧家の娘を妻に招くことで、社交界に重要なポストを得ようと画策していたらしい。
「直に拝見したことはありませんが、大変見目麗しい御方だったようですな。そして婚約者の方も、彼女のその美貌を利用しようとしたらしく」
「なにか問題が起きたのか?」
「ええ、とても大きな爆発が」
その社交パーティーは学院卒業後、間を置かずに催された。なにやら小難しいお題目があったらしいが、実際のところ新妻の初披露の場であった。
成金伯爵はオルタンス嬢を連れ、会場の方々を練り歩く。若く美しい婚約者の姿は人々の関心を惹いた。来場者である下級貴族たちは本音半分おべんちゃら半分で、オルタンス嬢の美貌を盛大に誉めそやしたそうだ。
「それがいけのうございました」
「何故だ? 周囲の評判は上々ではないか」
「オルタンス様ではございません……お相手の、婚約者様の方です」
周囲から注がれる羨望の眼差しに、この成金伯爵は気を大きくした。一代で身を立てた者特有の、慢心的気質がこの男にはあった。妻は夫の所有物であるという不遜な価値観を持つこの男にとって、オルタンス嬢は自身の権勢を象徴するものでしかない。
調子に乗った男は、これは私の物だと見せつけるように、相手の許可も得ず唐突にその腰を奪ったのだ。そして――。
「……オルタンス様の反撃は、それは苛烈なものでした」
反射的に放ったのは、刺すような視線。敵意どころか殺意の込められたそれに気づくものは未だいなかった。
続く行動がそれを知らしめた。オルタンス嬢は腰を奪われた姿勢からバランスを崩さず後方に片足を上げると、脱ぎ去ったピンヒールの底を成金伯爵の禿げ上がった頭に突き刺したのだ。
場に悲鳴と、怒号が湧き起こった。一際大声で騒ぎ立てたのは被害者である成金伯爵だ。「ぬ、抜いてくれ~」という情けない泣き声で周囲に人だかりができると、数人がかりでようやっとピンヒールを頭から引き抜いたらしい。
阿鼻叫喚のパーティー会場の様子が脳裏に思い浮かび、私は思わず唸っていた。
「それ、本当か? 修道院送りすら生温い所業だぞ!?」
「起こり得た事実をそのままに語っております」
「それで、婚約はどうなったのだ」
「その場で破談。元婚約者の方はオルタンス様を絶対に許さぬと」
自身の婚約者のお披露目会など催す輩だ。高慢を絵に描いたような性格の男に違いあるまい。
衆目の面前で恥を掻かされた、それだけで万死に値する恨みをオルタンス嬢は買ったはずだ。
「当然ですが、オルタンス様のご実家も慌てふためきました。レオン坊ちゃまのおっしゃる通り、一時は愛娘を修道院送りとし、身の安全を確保するとともに、元婚約者の方の面目を保とうとされたのですが、そうはならなかったのです」
――そうはならない?
この問題行動の落としどころが見えず、私は視線でアーノルドに先を促した。
「決め手はオルタンス様の一声でした。由緒正しき家業を継ぐと」
「待て……家業を継ぐことが、何故落とし前を付けたことになる?」
一般に家業の継承は、出世と呼べるものだ。現に私も辺境伯を名乗ることで、周囲からより一層の敬意を集めるようになった。
それはもっともな疑問であるはずなのだが、アーノルドときたら明確な答え合わせをせず、あえてヒントだけを送って寄越す。
「オルタンス様の姓はご存知ない?」
「ちょっと待て、思い出す……たしか、ボナパルト……ボナパルトだと!?」
ハッと眼を剥いた私に、アーノルドが深い頷きを返す。
今しがたあなた様の抱いた心象こそが正しいと言っているのだ。
「元は他国の貴族です。それが遠い昔に武勲を上げ、ブリアリンの地に招かれた。恩賞は王領地の一部を切り崩し分け与えることでなされました。そこには、この国になくてはならぬとある施設があったのです」
今、私の心に浮かぶのはオルタンス嬢の生真面目な面貌ではない。
国家転覆の謀略を企てた例の主犯、アントニー・ルーティス。
たった1年前のことだ。忘れるはずもない。
あいつの身柄は今、その施設へと収監されているはずだ。
「ボナパルト監獄の監獄長は、ボナパルト家の者のみ務めることの許される名誉職とされていました。しかし一生を囚人の更生に尽くすという職掌は、大事ではあれど生半なものではございません。ボナパルト家の子孫たちはこの名誉の継承を嫌がり、婚姻によって他家へと逃げ出していたのです」
聞いたことがある。ボナパルト家の嫡子のうち、監獄長に任じられた者はその重責をまっとうするため、一生をボナパルト監獄の中で過ごすと。
「……脱獄不能の絡繰りは、極力中から人を出さぬことか」
「どの道、表舞台にはもう上がれませんからな。オルタンス様にとっても、願ったり叶ったりのお役目だったようです」
後継者がいない中で名乗りを上げたのなら、歓迎されて然るべきだ。
しかしボナパルト監獄にはやつがいる。それにオルタンス嬢は淑女だ。そう易々と務めが果たせるようには到底思えんのだが……。
顎に指をやって考えを巡らしていると、懸念を読み取ったらしき老執事が先に口を開いた。
「ご心配されておられる?」
「当然だ。政治犯や凶悪犯のみならず、あの監獄にはアントニーだっている」
拘束され、無力化されていたとしても危険な男だ。見世物小屋でゴリラの飼育をするにも等しい……いや、まだしもその方が安全ではあるまいか。
次いでもたらされた言葉は、私の想像のやや斜め上を行った。
「そうおっしゃられると思いましたので、様子を見にやらせました」
「は? ……あの監獄要塞に、人をやったのか?」
無論のこと、出入り自由な場ではない。無関係な者であっても、不法侵入を果たせば2度と出してもらえないとも聞く。
「間者の役どころならば、愚息にとってお手のものですからな……それでは、トーマスが持ち帰った報告をお聞き願いますかな」
――男は、拘束されていた。
鉄格子を正面に、椅子に座らされている。両手は後ろに回されて木の手錠を嵌められ、両足首に付けられた鉄輪からはそれぞれ鎖が伸び、先端に人の重量ほどもある鉄球がくっ付けられている。
牢屋というにはあまりに広い部屋の真ん中で、男はただ黙していた。看守の眼は24時間体制で光っている。わずかなりとも不審な動きを見せれば、即座に入室して暴力を振るう許可もある。
最初の頃は必死に足掻いた。だが今はそれも諦めた。痛いのは嫌だし、そもそもこの男は無駄なことをなにひとつとしてやりたくない気性の持ち主なのだ。
開錠の音がする寸前、男は顔を上げた。
今日も今日とて定刻通り、尋問の時間の始まりだ。
監獄に収監されてからこちら、1日たりと休みなく続く退屈なルーティーンに、男は片方の眼を眇めて溜息を吐く。
「先に言っとく……自白はしねえ。殺した方が早いってな」
減らず口も堂に入っている。実際、この1年余りの期間に渡って、男は黙秘を貫いてきた。外に出られる見込みはなく、他に頼るよすがもない。なのにそうしてきたのは、ひとえに男の高い自尊心から出る意地というものだった。
「…………」
暗闇に放たれた言葉の解答は沈黙。
少し奇妙だと男は思う。いつもなら看守の野郎が姿を現し、反抗的態度を見せたかどで警棒での一撃を身体のどこかに見舞うはずだ。だのに今日に限ってなんの反応もないとは。
黙したまま、男はただ待った。そうすることしかできなかったというのが正しい表現だろうか。ともかく時間は流れ、やがていつものように高らかに靴音を響かせるでもなく、幽霊かなにかのようにぬっと看守が姿を現した。
「いるんならいるって言えよ……それとも、お前の新しい手管か?」
「囚人番号624、今日はお前に別れを告げにきた」
男は眉根を寄せる。この看守とは決して友好的な間柄にはない。生意気な口を利いたこともあるし、反撃として暴力を食らったこともある。まかり間違っても、殊勝な別れの挨拶を交わすような関係ではない。
だから、男の次の発言も他意なくそのものの意味だった。
「短え付き合いだったが達者でな。んで、後任がいるんだろ? 誰だよ」
「……私だ」
カツーン、カツーン、と今度は牢獄内に高らかな靴音が響く。
看守が手に持つランタンの光に照らされ、その姿が暗闇から浮かび上がった。現れた人物を見て、椅子に拘束された男が思わず舌なめずりをする。
「へえ……女。一生会えねえとばかし思ってたが、こりゃなんのご褒美だ?」
官帽、制服、そして胸章。主たる出で立ちは前任者の服装と変わりない。肩に肩章が付き、身体の片側を豪奢なマントで覆っているのが違いらしい違いだろうか。ただしそれとて、性別の違いほどに眼を引くことはない。
女看守が歩み出ると、連動するかのように前任者が引き下がる。
恭しくその場に片膝を突き、目上の者に言上するよう眼線を伏せて告げた。
「……こいつが、先程申し上げたアントニー・ルーティスです」
「案内大儀であった。もう下がっていいぞ」
「は」
闇に溶けるかの如く、前任者はその場を後にする。ランタンはしゃがんだ際に足元に置いたきりだ。蠟燭の光が、新たなる看守と囚人とを照らし出す。
先手必勝は囚人のポリシーだった。この場には既に彼ら2人しか残っておらず、静かなる闘争の火蓋は切って落とされている。
眼を細めて審美するに、自分とさほど年齢も変わらない若い女だ。どんな経緯でこんな閑職に回されてきたかは知らないが、最初に盛大にやっつけてしまえば、後は言いなりにできるだろう。そのためのカードならば取ってある。
「あー、さっき言ってたことは忘れてくれ。友好的にいこう。前のやつとはそういう相談ができなかったもんでな。あんたが話のわかるやつなら、欲しがってる情報をくれてやってもいい。ただしタダじゃねえ。まずはこっちの要求を飲んでもらってから……」
言葉の途中に、バシイィッ、という鋭い音が響いた。
囚人は気づく。右の太腿に、焼けるような痛みが走っていることに。
「な……て、てめえ!! 今俺になにしやがった!?」
じわりと広がる痛みの質に、囚人は自らの肉体に起こった異変を知る。新しい看守を射竦めると、マントの隙間から紐のようなものが垂れているのが見えた。そして――。
「ま……待て待て待て!! 穏当に、穏当にいこう!!」
「言ってみるがいい。それはどういった状態を指す」
身長はさほど高くない。声音だって若い。可愛くすらある。だが囚人は女看守の挑発的な物言いに、底知れぬ恐怖のようなものを感じた。慌てて付け足す。
「お、俺たちには言葉がある。な、なあ、さっきのはただのジョークだよ。まずはお前さんの要求を聞いてから、俺がそれに答えられるか考えさせてくれ」
最大限の譲歩だったはずだ。少なくとも囚人はそう思った。
反抗的態度に対する処罰なら看守にも認められている。ただし理不尽な暴力は別だ。囚人に対し横暴な振る舞いをすれば、上に立つ監獄長が黙ってはいないはずだった。
だが――。
バシイィッ!! という鋭い音がまたしても牢屋内に響く。
「ひぎいぃッ!! ……ま、またやりやがったな!?」
「さっきのは邪な眼で私を見た分、今のは立場も弁えず私に意見しようとした分だ」
カツッ、カツッ、と足音を響かせて、女看守が囚人の前へと歩み出た。
美貌の持ち主は眼鏡をかけている。中指で弦を押し上げて、さらに言う。
「アントニー・ルーティス……いや、囚人番号624。貴様はなにか勘違いをしているようだな」
「か、勘違いだと……?」
おずおずと鸚鵡返しすると、女看守は足を肩幅に開いて睥睨した。
「仕事の目的ならば推移した。貴様の自白など必要ない」
「な、なに言ってんだ? 俺の口を割らせるために、前任の野郎がどんだけ粘ってきたと思ってやがんだよ?」
囚人は正しい理解を持っていた。自分の握っている秘密。それはこいつらが咽喉から手が出るほど欲しいものだ。なんとなれば、1日に1度、必ず尋問の時間を設けるという現状こそが、それをなによりも証明している。だが――。
「それも勘違いだ。いいか囚人番号624。私の仕事は貴様の更生だ」
「こ、更生……?」
頷き、ゆるりと首を傾がせて内容の続きを説明する。
「貴様の罪を知っている。ブリアリン王国への国家反逆罪、貴族学院生に対する大量毒殺未遂、そして王太子妃に対する殺人未遂……まったくもって、腐れ外道としか言いようのない鬼畜の所業だな。だが、私は貴様にチャンスを与えようと思っている。己の人生と対峙し、腐った人間性を革命する機会を与えてやろうというんだ」
囚人の背筋に冷や汗が流れる。今しがた女看守の口走った内容が、常軌を逸していたからだけではない。話の最中にあってもヒュンヒュンと音を立てて空を切る、とある得物の唸りを耳元に聴いていたからだ。
やがてそれが彼女の手元に戻る。本体の中ほどを持って頭上に構えると、ビシイッっという音を立ててたわみを張った。
女看守の手にあったのは、猛獣を使役するための大型の鞭。
大上段に構え、囚人にじっくりと見せつけてからさらに口を開いた。
「……慈悲深いだろ?」
「な、なに言ってんだてめえ、狂ってやがんのか!?」
「狂っているのは貴様だ」
ヒュンヒュンと、再び風切り音がした。
高速度で飛来する物体を視認することはできない。まるで弄ぶようにもったいぶった後、眼にも留まらぬ速さの鞭の雨が、ガガガガガッという音とともに囚人の肉体を容赦なく打ち付けた。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
堪らず叫ぶと、頭上から降り落ちる鞭の雨が風切り音に戻る。
さながら、いつでもその身を傷つけることができるとでも言いたげに……。
奥歯を噛み締め、脂汗を流して痛みに耐えている囚人へと、鞭を手元に戻した女看守が冷徹な口調で話し始める。
「貴様の野望は北方遊牧民とともに他国へ侵攻し、王のみ一夫多妻を許された新たな国を興すことだったな」
「ぐ、ぐぅ……それがどうしたってんだよ……!?」
煙に巻くことなら難しくなかった。相手がいつもの看守で、こんな痛みが走っていなければ……相手がこんなイカレ野郎でさえなければ。
だけど今は頭が回らない。囚人服とともに皮膚が裂け、場所によっては熱を持ったミミズ腫れになっている。しかも鞭打ちはこれで終わりじゃない。こいつの機嫌を損ねたら、またしても鞭の連撃が降ってくるに違いない。
さながら面従腹背といった態度で、渋々ながら正直なところを話すより他に手段はなかった。
「実に気に食わんと思ってな」
「ひ、人様の夢にケチ付けようってのか!?」
「いいや……ただの感想さ」
驚いたことに、女看守はその口元に薄笑みを湛えていた。
「報告によると、貴様はこうも思っていたそうじゃないか。多くの女性に精を振り撒くこと、それこそが己の信ずる真実の愛であると……いや、これもまた実に気に食わん。あまりに嫌悪が過ぎて、私自身の方でもつい分析などしてしまったよ。これほどまでに強い嫌悪感を抱くのは、いったいなにが原因なのかとね」
ククク、と実に愉快げに笑って、女看守は手元で鞭を張った。
「答えは単純だったさ。貴様は似ているのだよ。私の元婚約者、あの女を自分の所有物としか思わぬ、思い上がったハゲ男にな!!」
「さ、さっきからなに口走ってやがる……なあ誰か!! 誰か来てくれよ!!」
恐怖に駆られて助けを呼んだ。この囚人をして初めてのことだ。
ただし一定以上の効果ならばある。24時間体制での厳重な警備は、人ひとりでは到底成し得ない。この場の近くに、他の看守が控えているのは間違いないのだ。
囚人に対する横暴が過ぎたなら、それを歯止めする義務が彼らにはある。だが――。
「ふざけんな!! なんで誰も来ねえんだよ!?」
「管轄が変わってな。この場は私に一任されている」
絶望に青褪める囚人の顔色を、女看守の眼が舐めるように堪能した。
「囚人番号624、貴様には秘密がある。北方遊牧民が精製した毒を貴様に流し、一連の犯行の原因ともなった行商人の素性を隠している。現行のブリアリンの制度に準ずれば、やつもまた決して逃すことのできない国敵だ。私たちにはそいつを逮捕し、収監する義務がある。だが……」
とここで、一呼吸置いてから嗜虐的な笑みを浮かべる。
「尋問ならばやってきた。その効果は、貴様の非協力的態度こそが証明している。効果のない方法にいつまでも拘泥するなど、税金の無駄遣いも甚だしい。よって私は手段を選ばず、貴様の更生のみに注力することにした。心を清らかに入れ替えれば、自ら真実を口にするのが道理だからな」
言い終えると、女看守は再び鞭を振り回し始めた。
囚人の味わった恐怖!! それは未だかつて彼の生きてきた人生に兆したことのないものだった。眼に見えた暴力をまざまざと見せつけられながら、その接近を感知しながら、回避する手段がない。お得意の腕力を拘束具で封じられ、眼の前の人間の成すがままに蹂躙されるしかないという、己の運命のどん詰まりの終着点がそこにある。
それでも、囚人の自尊心は、彼に折れる以外の選択肢を与えた。
血の気が引いて青褪めた唇が、震えながらも言葉をかたちにする。
「い、今は好きにしやがればいいさ……だがよぉ、てめえのことは、ぜってえ監獄長に言いつけてやるからな!!」
「監獄長は私だ」
その瞬間、べきりという音を立てて囚人の心が折れた。そして――。
「それでは、躾の時間といこうか」
女看守の鞭が唸りを上げた。一方的に行使される暴力。理不尽かつ無慈悲なそれを気の済むまで振るった後、残ったのは全身傷だらけとなった憐れな男の姿であった。
俯き、きつく唇を噛みしめて耐える男に、何故か頬を赤く上気させた女看守が向き直る。そして――。
「囚人番号624、精々粘って見せるがいい。その強情はまったくの無意味だとこの私が証明してやろう。貴様が更生を果たせば、秘匿情報は明るみとなる。そしてこの地上からブリアリン王国の国敵がまたひとり消滅するのだ。実に喜ばしいことだと思わないか? だがな――」
とここで、女看守は含みのある空白を置いてから。
「私個人としては、貴様には醜く足掻いてもらいたいと考える。私も、貴様も、どうせここからは出られぬ身空。であるならば、今この瞬間を最大限楽しむのが最善なのではないか? 貴様の性根を叩き直す正義の鞭と、貴様自身の安いプライド。果たしてどちらが先に音を上げるか実に見物だと思わないか?」
囚人は問いに答えない。じっと俯き耐えて、この女という暴風が去ろうとするのを待ちわびている。
女看守もまたそれを悟っていた。だが彼女は上機嫌でもあった。今、彼女の手の中には玩具がある。どんなに傷つけようと誰にも文句を言われることのない、新しく丈夫な玩具が。
さて、明日はどうやってこいつで遊んでくれよう――その楽しみを思うだけで、彼女の口元が笑みのかたちへと歪んでゆく。
「ククク……フハハハハ……アーッハッハ!! アーッハッハッハ!!」
高笑いを棚引かせて、女看守は牢屋を去っていった。
重厚な鉄の扉が閉じ、牢屋内に施錠の音が響き渡る。
暗闇の中、囚人は俯いていた。鞭打たれた身体の痛みを緩和する脳内物質が尽き、火照った脳も冷えてくる。屈辱だった。自分は誰よりも高みにいるべき存在。それがあのようなか弱い女に好き放題嬲られて、まったく手も足も出すことができないとは。
それだけではない。この責め苦は続くのだ。明日も、明後日も、囚人が白旗を上げて女の足元に屈し、懺悔とともにすべての情報を洗いざらいぶちまけるまでずっと――。
「……うっ、うぅっ……ちくしょう、ちくしょう……」
囚人の眼から、子どもの頃以来流したことのない涙がぽろぽろとこぼれる。
太腿の傷口に落ち、涙の塩気がじわりと深くまで沁み入ってきた。
決して許されることではない。こんな屈辱。尊厳破壊。囚人にとって女は所有物だった。物には持ち主に奉仕し、喜ばせる義務がある。だが今の自分はどうだ。それとは逆に、物である女を楽しませるだけの玩具ではないか。
だが折れるわけにはいかない。諦めるわけにもいかない。認めてしまえば壊れてしまう。アントニー・ルーティスは王なのだ。王であるはずなのだ――。
だが――。
囚人の胸の内に、仄かに灯るものがある。
それは俄かに認めがたい感覚。その兆し。囚人は天に向かって声を上げた。
「何故だ!? 俺は今生まれてこの方味わったことのないほどの屈辱を味わったはずだ!! 全身を鞭打たれ、プライドをズタズタに引き裂かれて、今もあの女のことを殺したいほど憎んでいるはずだ……だのに、なんだ!! この胸に疼く甘美な感覚は!! 身体を苛む痛みすらも愛おしく思う感情は……!!」
目まぐるしい勢いで、囚人の心に疑問が湧き起こる。
あの女は、そもそもがおかしかった。身なりは他の看守に近かったが、鞭打ちの最中に囚人は気づいていた。どうしてあの女は下に黒のショートパンツなど履いていたのか? そして足を網タイツなどで覆っていたのか? そのような必要がこの場に存在したのか……いや、それらの疑問すらも今は些事に過ぎない。
もっとも問題とされるべきは、今もって我が身を包むこの快感。
そして、明日もまた同じ仕打ちを受けられることに対する期待感。
鼻息荒く、全身を打ち振るわせて、ようやく囚人は思い悟った。
「まさか!? ……そうだったのか……これこそが俺の、真実の――!!」
明日もまた同じ目に遭える。その事実のみを希望に、囚人番号624ことアントニー・ルーティスは、この身の保つ限り黙秘を貫こうと固く決心したのであった。
……長話を終えたアーノルドが、小首を振ってしみじみと呟く。
「皮肉なものですな。あれほど欲していたものの正体を、アントニー様は監獄の中で見つけられたのです。必要なのは王座でも、多くの女性でもありませんでした。それはひとりの女性との、濃密で邪魔の入らぬ閉じた関係性だったのです」
やれやれ、とさらに首を振って思いを馳せるアーノルドとは対照的に、私はその場で足を止めてしまっていた。
やや先を行ってから、同行人がいないことに気づいたアーノルドが後方を振り返る。そこで私と眼が合った。
「おや? どうなされたので?」
「色々と言いたいことは多いのだが……ひとつ良いか?」
平静を装って水を向けると、顎を上げることで老執事が許可を出す。
「その話、どのくらいトーマスの方で盛った?」
「はて、盛るとは?」
「事実をありのまま述べ立てたわけではなかろう。その、つまりだな……大部分を創作したんじゃないかと問いたいのだが」
私は極めて真剣なつもりだったが、老執事はピンときていない様子だ。すっとぼけたように付け足した。
「トーマスには、事実のみを報告するよう厳命しましたが?」
「趣味を反映したわけではないと?」
「愚息は社交的な性格ですからな。詩才などとは縁遠い男で」
いや、詩才とかそういう次元の話ではなくて……。
「そうだ。たしか主観が入っていた。アントニーの心の声だ。あれは観察者側で創作しなければ出てこないものだろう」
「想像ですが、アントニー様の独白を纏めたものではないでしょうか」
「それはそれで、どれだけ独り言の多い男なのだ……」
考えるだに頭がくらくらしてくるが、アーノルドときたら平然としている。おそらくこの老執事は、あの牢屋で行われたことの意味を正しく理解していない……。
「己が眼で確認したことには特に嘘を吐かぬよう、事前に言って聞かせましたからな。アントニー様とオルタンス様の身に起こったことは、ほぼ真実であるかと」
後方から頭を殴られたような心地だが、取りすがるようにして口を開く。
「つ、つまり本当にあったことだというのか、オルタンス嬢の鞭打ちも」
「はい」
「わざとらしい軍人口調も、黒のショートパンツを穿いてきたのも、網タイツを身に着けていたのも」
「その通りでございましょう」
「…………」
私は歩きながらも絶句した。ドン引きとかいうレベルではなかった。これでも本気で心配していたのだ。たとえ自ら志願したにせよ、オルタンス嬢がアントニーのやつに乱暴されはしないかと。
しかし事実は懸念の逆を行った。
いや、逆というより、これでは……。
唖然とする私へと、今気づいた風にアーノルドは語りかけてくる。
「しかし熱心な御方ですな。罪人の更生のため、己が手を汚すことも厭わない。心を入れ替え、自ら秘密を打ち明ける日をじっと待つ。噂で耳にしたお人柄より、随分と寛大な御心の持ち主です。アントニー様もいつかきっと、己の罪を深く反省し、ご立派なお人柄となる日がくるのではないでしょうか」
私は眼を細めてじっと観察に回った。これはアーノルド一流の冗談などではなく、どうやら本気で言っているものらしい。
深く溜息を吐くと、今後のためにと最終確認を行うことにした。
「ときにアーノルド……お前、アントニーのやつは牢屋でなにを手に入れたと思う?」
「そのようなこと、訊かれるまでも及びますまい。あれこそが、あの御方流の『真実の愛』だったのでありましょう」
やはりボケではなかったので、私は深く息を吸い込むと、一気呵成の勢いでこう言ってやることにした。
「そんなわけがあるかっ!! あのようなもの、倒錯以外のナニモノでもないわっ!!」
ぽけっとした老執事の鳩が豆鉄砲を食ったような驚き顔が、なんともはや印象的なのであった……。




